15.怖い世界
その夜、拾蔵はいつに無く疲労困憊だった。
原因は分かっている。クラスで一番の美少女に神経をすり減らされたからだ。
いつもの拾蔵なら速攻で追い払うところだったが、琴音に頼まれた大事な仕事だから、無下に扱う訳にはいかなかったのである。
(ちょっと次からは、もうちょい考えて引き受けた方がエエな……)
おでんをつついていた席で、然程の考えも無しにこの問題に首を突っ込んでしまったのがケチの付き始めだった。
もう二度と、こんな失態は繰り返さぬと心に誓った拾蔵。
するとその時、玄関のチャイムが鳴った。応対に出てみると、少し興奮気味の琴音が廊下に佇んでいた。
整った化粧と秋物のコートでばっちりキメているのは、たった今帰宅したところなのだろう。
「こんばんは、拾蔵君! 早速、聞いたわよ!」
「あ……そこ寒いんで、中どうぞ」
拾蔵は琴音を室内に招き入れて、温かいお茶で歓待した。
「例の件、友達から聞いたわよ。妹ちゃん、すっごく喜んでたって!」
心底嬉しそうな笑顔を浮かべる琴音に対し、拾蔵はあぁそうですねと疲れた様な笑みを返した。
その拾蔵に、琴音は不思議そうな面持ちで小首を傾げる。
「拾蔵君、何か、疲れてない?」
「あー……まだ飯食うてないからかもですね」
拾蔵は、玖瑠美の相手をするのに恐ろしくパワーを消耗した、などとは口が裂けてもいえなかった。そんなことを口走れば、琴音に余計な気を遣わせてしまうだろう。
そんな拾蔵に、琴音は苦笑を浮かべながら自らの腹をさすった。
「あー、拾蔵君もまだだったんだ。私も今からどこかに食べに行こうかなって思ってたんだけど、一緒にどうかしら?」
琴音からの誘いを、断る理由は無い。
拾蔵は是非ご一緒させて下さいと応じつつ、作業用PCをシャットダウンし、上着を引っ掛けて財布やら何やらを突っ込んだベルトポーチを腰に吊るした。
その後、ふたりは近所の居酒屋に足を運んだ。
琴音は開口一番で中ジョッキをオーダー。拾蔵は今夜も酔っ払いの介抱は確定やろなと内心で苦笑しながらウーロン茶を注文した。
「ところで拾蔵君、あの妹ちゃん……玖瑠美ちゃんとはもう話したの?」
「はい、そうですね。めっちゃ話しましたね」
この時の拾蔵は虚無の表情。声にも抑揚が無かった。
「あぁ……写真見たけど、今どきのギャルって感じだったわね」
琴音は微妙に気の毒そうな笑みを向けてきた。彼女は拾蔵が幼馴染みによる酷い裏切り以降、大の女性不信に陥っていることを知っている。
そして今回、拾蔵が派手なギャル美少女を相手にしたことについて、彼の心情をそれとなく察してくれたのだろう。
「えっと……それで、大丈夫だった?」
この質問はSNS問題が無事に解決出来そうか、ということではなく、拾蔵が玖瑠美に苦しめられなかったかを訊いているものと思われる。
拾蔵はいやいや大丈夫ですと乾いた笑みを浮かべながら、ウーロン茶をごくごくと喉の奥に流し込んだ。
そんな拾蔵に、琴音は依然として気の毒そうな笑みを向けつつ、小さな吐息を漏らした。
「まぁ、そうだね……妹ちゃんが私みたいに、強敵になれれば万事解決なんだろうけどね」
「ともになるかどうかは分かりませんけど、強敵っちゅうのは間違い無いっすね……」
ついポロリと本音が漏れてしまった拾蔵。
琴音は、やっぱりそうだったんだと苦笑を漏らしながら、拾蔵を元気づける様に分厚い筋肉で盛り上がった肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「それにしても、ネットって確かに便利なんだけど、でもこういう話を聞いたら怖いなぁって思うよね」
つき出しの枝豆を頬張りながら呟く琴音。
その怖い世界にどっぷり漬かっているのが隣に居るハッカーなのだが、そんなことを彼女は知る由も無いだろう。
「他にまだ、何かあったんですか?」
「う~ん……こんなこと、拾蔵君に話して良いかどうかってちょっと迷ってたんだけど……」
琴音は店員が運んできたシーザーサラダと唐揚げに手を付けながら、若干大き目な溜息。
これはまた何かに巻き込まれているな、と拾蔵はピンと来た。他の女性からの頼み事であればにべも無く断れば良いだけなのだが、相手が琴音となれば話は別だ。
彼女は拾蔵にとって人生初といって良い年上女性の友人だ。その関係性はこれからも大切にしていきたいし、彼女が少しでも困っているのであれば助けてあげたいとも思う。
拾蔵は、軽い調子で何があったのかと訊いた。こういう時は、相手に気を遣わせてはならない。気軽に相談して貰える空気感を作るのが何より重要だろう。
琴音は暫し迷っている様子を見せていたが、やがて意を決したのか、ひとつ大きな吐息を漏らしてから漸く口を開いた。
「拾蔵君、マッチングアプリって知ってるかな」
「あぁ……結婚やら何やらを前提にして相手を探すアレですか」
拾蔵は一応高校生らしい知識で応じたつもりだが、実際のところ、マッチングアプリの何たるかは琴音よりも遥かによく知っているといって良い。
実際、これまで幾つものマッチングアプリのサーバーに侵入してきた拾蔵。そこに隠されている深い闇も、嫌という程に見てきた。
そんな訳だから、琴音の口からどんな台詞が飛び出してきても、少々のことでは動じない自信があった。
「実は、それ関係でちょっとねぇ……色々面倒臭いことになっちゃってて」
次なるミッションか――まだ玖瑠美の問題に着手したばかりだが、早くも新たな事件が舞い込んできたなと、拾蔵は気分が引き締まる思いだった。