触れられた右手
「わたしも行くわっ」
話の流れを聞いていたフィリーネはワクワクしたように声を弾ませた。フィリーネが色恋の話にここまで食いつくとは思っていなかった。リエナは自分の恋愛を悟られてしまうかもしれないという羞恥心からこういう類の話題は出さないようにしていた。フィリーネからもそういった話題が持ち出されたことはなかったが、この様子だとリエナに遠慮をしていたのかもしれない。いつもクラスメイトが楽しそうに話していたことを、今、自分たちが話していると実感が湧いてきて、なんだか嬉しくなってきた。それに、テオの恋愛を応援することで、自分の心に構う気持ちが少なくなって、救われたような気がした。
「フィリーネはいい」
「なんでよぉ」
「身内に手伝ってもらうなんて恥ずかしいでしょ」
テオの最もな言い分にフィリーネは唇を尖らせる。姉弟で同じ癖があることを知っているのはリエナだけだ。もしかしたら本人たちも気付いていないかもしれない。
「じゃあ、何か進展があったら教えてね。絶対よ?」
「分かったよ、フィリーネ」
フィリーネは渋々といった感じで引き下がった。
リエナは、食べ終わった食器を返却するべく立ち上がろうとする。が、テオに手で止められた。
「リエナ、具合悪かったんでしょ? 俺が片付けるからもう帰りなよ」
ここは学校で身分は関係ないと分かりつつも、テオにそんなことはさせられないと首を振る。そもそも具合など最初から悪くないのだ。自分で出来ることは自分でやらないと気が済まない。
「大丈夫」
ただ一言そう言うと、立ち上がって片付けを始める。こういうところが可愛くないのだと、分かっている。分かってはいるけど、口が、身体が勝手に動く。融通の利かない性格がこんなところでも発揮されてしまう。
「相変わらずだね」
テオは何の気なしに呟いたようだったが、その一言はリエナに深く突き刺さった。呆れられたかもしれないと思うと声も出ず、固まることしかできない。
「俺、リエナの真っ直ぐな性格、好きだな」
思わぬ言葉にリエナはテオの顔を見た。目が合うと笑顔を向けられた。そんな風に言われたのは初めてだった。いつもなら、リエナの強気な態度に周りは引いて、孤立する場面なのに。
「褒めても何も出ないわよ」
嬉しいはずなのに、いつものように口が勝手に素っ気無い言葉を紡いでしまう。ほとんど条件反射だ。頭を抱えたくなる衝動を抑えて眉間に皺を寄せると、テオの手が伸びてきて細い指が眉間を撫ぜた。
「そんな顔してたら可愛い顔が勿体無いよ」
歯の浮くようなセリフに思わず身を引く。眉間の皺は解消されたが、今度は違うところに支障をきたしそうだ。リエナは熱が集まりそうになる顔に手を当てて息を吐いた。
「テオ、変わったわね……」
「え、そう?」
なんでもないような顔をするテオになんだか面白くなって少しの笑みがこぼれる。それを見たテオも笑った。
一連のやりとりを眺めていたフィリーネはここぞとばかりに声をかけた。
「じゃあわたしの分をお願いね」
ちゃっかりとフィリーネはテオの食器と自身の食器を重ねる。答えが返ってくる前に、ありがとう、と満面の笑みでお礼を言う。
頼ってもらいたい気持ちが強い男の人からすれば、フィリーネの行動はこれ以上ないくらい可愛く映るのだろうな、と思う。フィリーネは普段は決してこのような事はせず、自分のことは自分できっちりやる。弟のテオだから甘えているのだ。特定の人にだけ、甘えるというのも、男の人から見れば可愛く写るのだろう。現に、リエナもフィリーネのこういった行動に悪い気はしたことが無かった。
「はいはい」
テオは諦めたように食器を片付けると、二人の側に戻ってきた。
「もうこんな時間なのね」
フィリーネは大きな柱時計に目をやり、残念そうに呟いた。もうあと少しで寮の門限だ。いつの間にか夕食をとりに来ていた大勢の生徒の姿はまばらになり、リエナたちが食堂を出たのは最後の方だった。
寮は校舎を挟んで東棟が女子寮、西棟が男子寮に分けられている。食堂を出たら左右に道が分かれており、それぞれの寮への道と繋がっている。
三人は食堂の出口で寮に向かうためそれぞれの道へ別れようとした。
「じゃあ、おやすみ」
テオは何気なくリエナの手をすくい上げると、指先に軽く唇を触れさせた。それは別れを惜しむ貴族同士の挨拶だが、知識として知っていただけだったリエナは一瞬にして固まった。触れられた右手がまるで自分のものではないかのように感覚が無くなっていくのを感じる。
今までテオと過ごしてきて、こんなことをされたことは無い。なのに。なんで。
「リエナ? どうしたの?」
固まったリエナにフィリーネは首を傾げる。フィリーネにとってはごく当たり前の行為で、この行為に特に深い意味が無いことが分かる。しかし、リエナは全身の神経が指先に集中してどうにかなりそうだった。
惜しむように指を滑らされ、やっと解放された指先は今までにないくらい熱を帯びていた。
「お、おやすみ!」
指先の熱が顔に伝わってくる前に、リエナは踵を返して寮への道を早歩きで歩いた。
後ろから、リエナ~どうしたの~とフィリーネの間延びした声が聞こえてくるが、歩みを止めることが出来ない。今この顔を見られるわけにはいかないからだ。
不意に触れた熱は感じたことの無い暖かさだった。
自分自身の行動も、熱を持った指先の意味も分からず、リエナはただ混乱したままスカートを翻し、廊下を突き進んでいった。