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麗夜の逃走

紫色の肉塊は決して早くはない速度で右腕を振り上げる。


「うっ…あ、ぁぁぁあああ!!!!!!」


絶叫と共に駆け出す。

見た途端わかった、あれだ、あの腕が私の前通ったんだ。

後ろで聞いたこともないベシャリという音と、コンクリートが砕ける音がした。


「uuuuーーーー?」


気持ちの悪い音が聞こえる。

あれの声だと確信した。


「uuuuuuaaaa!!!!!」


どたん、べちゃん、ざーっ、ざーっ、皮で見えなかった足の音と垂れ下がっている表皮、そして肥大した袋のような腕が地面に引かれて擦れる音がひっきりなしに聞こえ、それは明らかに近づいてきている。


「はっ、はっ、はっ、はっ、」


逃げなきゃ、逃げなきゃ、じゃなきゃ死ぬ。

肺が痛い、息を吸い込む音が高くなっていく。

少し振り向くと、肉塊は想像より近くて、もう腕を振り上げていた。


「あ?」


自分の口から抜けたような声が出る。

肉塊の近さに驚いたのではなかった。

自分の体の軽さだ。


ぐぉん。


瞬間、肉塊の腕は空を切り、麗夜の体が飛び上がる。

麗夜の体はなんの予備動作もなく屋根の高さを超えた。


「え、え、あ?へ?あ、あぁぁぁああ!!!」


それは数秒もせず上昇力を失い、数メートル先へと落下していく。

もちろん体制なんてものは整えられない、麗夜はつまづいた瞬間のような体制のまま地面へと衝突するだろう。


(着地、着地!着地!着地!)


頭の中で唱えてもどうにもならない、何もかも不可解なまま地面に激突しようとした時だ。


「バウッッ!!!」


どこかで聞いた鳴き声がした。


「ぐぇっっ」


同時に重力が横になる、それも上下にぐわんぐわんと

喉の奥が再びぐるぐるとなる。

……………………

30秒ほどだろうか、それとも3分ほどだろうか、それくらいした頃に体が地面に投げ出された。

それからしばらく、これは多分10分か20分かそれくらい、地面に倒れ込んでいた。

今のは一体?なんで私は空を飛んだんだ?……ローズは?ローズは?ローズは?


「………………」


時折思考を手にしては、現実逃避に投げ捨てる。


「………ぅぷ………ぉ」


いつしか、どこかもわからない場所で、地面に向かって嘔吐した。

びちゃびちゃと音を立て、自分の疑問や感情、恐怖が吐き出されていく。


「…ふぅっ…ふぅっ…はぁー…はは。」


こんな事ならばローズからペットボトルごと貰っておけば良かった、なんて能天気な事を考える。

口元に違和感は残っているが喉の奥のつかえはさっぱりととれた。

麗夜の目にほんの少しの生気が宿る。


「……さて、まずは貴方だよね。」


私の側でずっと、吐き散らしてた間もずっと、どろりと佇むそれが居た。


「バウ。」


それは言うなれば真っ黒の狼だった。

体毛はよく見ると泥のような影のようなものがゾワゾワとうごめいており、歯から腹まで真っ黒、座った時の大きさは麗夜と同じくらいだ。

何見すれど化け物だが、この化け物の正体に麗夜は確信に近い仮説があった。


「…イチマル?」

「バウ。」


肯定するかのように小さく吠える。

麗夜の肩の力がどっと抜ける。

何せ昨日黒い犬にはトラウマを植え付けられたばかりだ。


「………そっかぁ………そっかぁ……」


死後、なんてものが存在するなら、異界なんて言うものがあるなら、死んだイチマルがいてもおかしくはない。

イチマルは私の首根っこを咥えて運んだのだ。

麗夜にその大きい頭を擦り付ける。


「ありがとねぇ…イチマル…」


イチマルの面影などシベリアンハスキーのシルエットくらいで、他の要素はまるで無い。

だがここに自分以外がいるということはひどく安心を覚えさせた。

イチマルを腕から離して、思考を再び手に取る。


(私はこれから何をすべきか)


答えは簡単だ、異界から抜け出す。

ここでじっとしていようとどうにもならない。


(その為には?)


恐らくあの場所に、ローズの死体に、帰るための札がある。


(つまり目標は?)


腕の化け物を避けて、あの公園に戻る。

…腹は決まった。


「イチマル、さっきの公園まで案内して。」

「…バウ。」


イチマルは小さく首肯して、体をぺたりとくっつける。


「…乗れと?」


イチマルは何も言わずにこちらを向いて歯を見せる。

『乗らないならまたコレで運ぶぞ』という声が聞こえた気がした。


「……ちょっと待って」


袖で口を拭う。

座り込んで、靴の紐を先の方からギュッと締める。

最後に一息ついて、イチマルの体にゆっくりと跨る。


「……………酔わないといいなぁ…」


麗夜はざわざわとする体毛を抱えて、強がるように呟いた。

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