65) 5メートルの距離
必滅の一撃でマルヒトをダウンさせた暗殺者、プレイヤーネーム『シュザンヌ』がヒナに襲い掛かった瞬間、彼女もまた闇より現れし影に射抜かれてダウンした。心臓部を長剣でひと突きされた彼女はヒナの目の前で崩れ落ちて完全死を待つだけになっている。――ソロプレイでなくパーティーでプレイを行なっていれば、ダウンしても仲間が蘇生してくれる可能性も残されていたのだが、どうやらシュザンヌはソロで活動していたようだ。それに、いくら彼女がパーティー編成でこの場へ現れたとしても、複数の敵がいる目の前で倒れた彼女を蘇生してくれる仲間はいないであろう。つまりはいきなり現れた襲撃者は、その理由も定かにならないまま大した成果を得る事もままならず、途中退場せざるを得なくなったのだ。
正体不明の暗殺者が地面は横たわり、剣は突き刺さったまま。ヒナはそれを呆然と見詰めながら瞳の焦点は剣に集中する。どこの武器屋に行っても安価で売っていそうな鉄製の長剣だが、その剣の柄には見覚えがある。ナフェスの海岸で自分の足元に突き刺さった剣、ナフェスの街で何本も見たそれだ。それに加えて聞き覚えのある声が聞こえて来たのだ、それらの事象がイコールとして一つの答えに結びつくのは、それほど難しい事ではなかった。
“ヒロト、ヒロトがいる!”
ナフェス荒野で出会った時の彼は、このゲームのスタート時に無料配布される「初期スキン」を装備していた。だが今日、この作戦が始まる前に得た新たな情報でヒロトの面影は上書きされている。……ロズリーヌに見せて貰ったのだ、オフ会に参加したリアルなヒロトの姿を。
長くもなく短くもない、多少のクセっ毛が柔らかに波打つちょうど良い黒髪。平均よりもちょっと高いと思われる身長、そしてその割にはと感じてしまう線の細さ。切れ長の目とスッと通る鼻筋など、細面のクールな雰囲気を伺わせながらも、大勢の人の輪に慣れないのか照れてはにかむシャイな姿。……孤高を楽しみながら、ナフェスの地を独りで護り続けて来た、芯の強い少年とは思えないほどの『普通さ』を醸し出す本当のヒロトがそこにはあった。ロズリーヌの話だと、望んだのかトラブルか王都エミーレ・アルドワンにおいてパーソナルスキャンを発動。現実世界における自分のリアルな姿をスキンとしてゲーム内に反映させてしまったのだと言う。
(そのヒロトが、現実世界と何ら変わりの無いヒロトが、今この闇の奥にいる)
心臓の高鳴りは止む事が無く、彼を見つけようと目を凝らせば凝らすほどに更に高鳴りは早まる一方だ。
「……ヒロト……。ヒロト、いるんでしょ?どこにいるの?」
闇夜の曇天は益々雲の厚みを増して行き、とうとう天から降って来た小さな水滴が石畳を濡らし始めた。
「ヒロト、ヒロトどこ?私の事覚えてるでしょ?ヒナよ!今ロズリーヌさんたちと一緒にいるの!」
雨音にかき消されぬようにと、精一杯声を張り上げて彼の名を呼ぶ。総督府の中も騒ぎが治まって来ている。ロズリーヌたちの欺瞞戦闘……戦闘に見せかける行為も佳境を越えたのかも知れない。あっという間に本格的な雨模様となり、雨音に負けじと叫び続けるヒナだったが、彼女の真剣な呼び掛けがようやく通じたのか彼が姿を現した。
「ヒナ、マルヒトさんの蘇生を。間に合わなくなっちゃうよ」
「ああ!そう言えば!」
慌てて倒れたままのマルヒトに駆け寄り、蘇生措置を施すヒナ。ゲームシステムとしては「ダウン状態」になった仲間のカウントダウンが始まり、その制限時間内に蘇生措置を行う事で、仲間の復帰が可能となるのだが、ヒナはヒロトの存在に意識を回してしまっていた事でマルヒトのカウントダウンを失念。赤面しながらマルヒトの背中に手を当てる。
「ねえヒロト。ずっと君の事を探してた、ずっと探してたの」
「いきなり消えちゃったからね。元気だったかい?」
「私は大丈夫、でもヒロトは大変そうだね。ずっと頑張ってるの?」
土砂降りの中で現れたヒロトは、何故かまだヒナとは距離を詰めてはいない。二人の距離は約五メートル。その互いの距離五メートルが何を意味しているのかは、やはり互いが言い出せない“何か”が腹の内に押し込められている証拠でもある。
「魔族の人たちがとんでもない弾圧を受けててね、それを助けようとしてた」暗がりの中でそう答えたヒロトは、苦笑いを無理矢理作るのが精一杯だ。たとえヒナが全てを知っていたとしても、そこに正義があったから人間を殺して殺して殺し回っていたのだとは言い出せる訳がない。
――だがヒロトの精一杯の苦笑いは、次に来たヒナの質問で粉々に粉砕されてしまう――
「ねえヒロト、大丈夫?何か……泣きそうな顔してるよ」
ロズリーヌに見せて貰った通りの少年だった。優しげな雰囲気をまといながらも、意志を貫こうとする強い光を瞳から放つ、好感を軽々と通り越して胸の奥に“何か”が芽生える少年だった。だからこそヒナは彼が現在置かれた状況と、その瞳に映る寂寥感に酷く心配し、そう質問を投げかけたのだが、どうやらこのヒナの優しさが、ヒロトを思わぬ方向へと背中を押す結果になってしまう。
「えっ?えっ?……オレ、泣きそうな顔に……なって……る?」
平静を装ったり苦笑いしてみたりと、無理して表情を作っていた彼にとって、ヒナの優しさはパニックの起爆剤になってしまったのだ。
「いや……オレは……泣くなんて……」
震える声をそのままに、慌てて取り繕うとするヒロトの表情が目まぐるしく変わる。それはまるで電気治療でも受けているかのように表情筋をピクピクさせ、もはや笑っているのか怒っているのか、見ている側が泣き出しそうになる痛々しさだ。
「ヒロト!ヒロト、余計な事言ってゴメンね!失礼だったね!私はつい……」
マルヒトに蘇生措置を続けている手前、措置を中断してヒロトの元に駆け寄る事も出来ない。それが起因してついつい大声になってしまうのだが、それすら彼の心にナイフを突き立てているかのような状況だ。
――互いに今は、どう言う内容の会話を積み上げれば、あのナフェスの荒野で交流していた時のような自然体で接する事が出来るのか?―― ヒロトとヒナがその結論に至る前に、終わりは唐突にやって来る。総督府の敷地内で大暴れしていたロズリーヌとペエタアが予定を終わらせて帰って来たのだ。
「ヒナちゃん、マルヒト、お待たせ!終わったから帰ろう!」
ロズリーヌの大声に反応したヒナがハッとして振り返ると、そこにはもうヒロトの姿は無かったのだ。そう、パニックを起こしたヒロトはこの場から消えるように逃げ出したのである。
「ヒロト、ヒロト!どこに行ったの!もうちょっと話がしたい、君の話が聞きたい!」
マルヒトの蘇生が完了して立ち上がったヒナは、またお礼が言えなかったと、土砂降りの曇天に向かい悲痛な叫びをぶつける。頭から足の先までずぶ濡れになっている彼女が、泣いているのかどうかまでは分からなかった。