51) 闇に堕ちる者
アルドワン王国の南部地方は東西に二分割され、それぞれ統治機構が違う。西はアルドワン国王の直轄領となっており、東は辺境伯が自治を許され独立自治領として運営されている。――その二つの領地の内の一つ、西側の国王直轄領は今、宵闇に包まれ静かに時間が流れていた。
月も星も雲に隠れ、漆黒の闇に支配された中央政都ラトゥカ。人口四千人ばかりの小さな都市ではあるが、国王直轄領でその全てが荘園である事から、独立した商人や小作農などはほとんど皆無で、人口のほとんどは農奴で占められている。だからなのか、夜は始まったばかりだと言うのに家々の灯りは既に消えており、昼間は繁華街として賑わうはずのメインストリートでさえも、その役目を終えて眠りについていた。
だが、当然ながら世の中には大多数に入らない者たちもいる。汗水垂らして田畑を耕し続け、夜は泥のように眠る農奴たちとは違う生き方をする者……夜になって己の人生を謳歌する者もいる。――例えばこのブラーム・デルクスと言う名前の男、アルドワン王国で子爵の爵位を持つ男の話をしよう。国王直轄領の領主の任を受けたデルクスは妻や家族を王都に残し、数年前にこの辺境へ単身赴いた。華やかな王都での生活に比べて、質素で娯楽に乏しい片田舎での生活はさぞや苦痛だと思われるのだがそうでも無かった。政敵もおらず、妻の監視もなく、高貴な貴族像を当てはめて来る庶民すらいないこの小さな街ラトゥカは、デルクスの内面でくすぶっていた欲求を昇華させるのに、抜群の威力を示したのだ。
コツン、コツンと硬い革靴の底が石畳を叩き、湿り気のある空間に乾いた音を立てている。その足音はゆっくりとだがしっかりと、徐々に徐々に地下室に向かっていた。壁にかかった蝋燭の灯りが石階段をおぼろげに照らす、薄暗くさびれた地下室への通路は、天井や壁からも地下水の水滴がポタリポタリと滴を飛ばし、訪れる者を警戒させるような構えを見せている。そう、その地下室へ向かう階段の終点に待つ部屋は、地下倉庫ではなかったのだ。
蝋燭の火が灯る燭台を手にし、石階段を降りて来たのはブラーム・デルクス子爵。だいぶ酒をあおったのか、その小太りの身体は階段を降りるたびに左右に揺れ、半開きのニヤけた口と大きな鼻から放たれる息はアルコールをたっぷりと含み、常人ならばとてもじゃないが近づけない臭さだ。
「ぐふ、げえっぷ!……おとなしくしてたかい?」
口角から垂れた涎を服の袖で拭いとりながら、降り立った階段の先を見る。そこは何と地下牢であり、誰もが眠りにつくこの時間を狙ってデルクスは降り立ったのだ。
「げへへ、今日はどっちにしようかな?」
おおよそ貴族らしくない下卑た笑みを浮かべながら、手にした燭台を掲げて鉄格子の奥を照らす。すると淡い光りに照らされたのは二人の少女。それも人間ではなく、頭から角の生えた魔族の少女が二人、手足を鎖に繋がれているではないか。
「ふむ、今日は妹の方で……ひひひ、楽しませて貰うか」
腰のベルトに下げていた鍵でガチャリと鉄格子の扉を開けて中へと進む。どうやら姉妹らしき魔族の少女二人だが、灯りに照らされたその姿はあまりにも惨たらしい姿。ちゃんとした服も与えられずボロ雑巾のような布一枚で身体を隠し、拷問までされたのか、剥き出しになった肌には無数の傷跡が浮いていたのだ。
「……お願い、やめ……やめて……」
「お姉ちゃん、怖いよ!怖いよ!」
少女たちは涙をボロボロ溢しながら、歯をガタガタと鳴らし震える。片方だけ連れて行かれないようにと、互いに抱き合って『恐怖』に抵抗している。これから、この醜い大人が自分たちにどんな酷い事をしようとしているのかが分かっているのだ。
「お願い、妹はもうやめて!お願い、お願いしますから!」
「きゃああ!お姉ちゃん、痛い!痛いよ!」
手っ取り早く二人を引き離そうと、デルクスは妹の髪の毛を無造作に掴んで乱暴に引っ張る。仰け反る妹は悲鳴を上げながらも姉の腕を離さない。
「魔族のクセに上品ぶってんじゃねえ!お前は人間様を楽しませるオモチャなんだよ!」
「私が……私が相手しますから!だから妹はやめてください、お願いします!」
「ゴチャゴチャ言ってんじゃねえよ、このバケモノが!」
自分の思い通りに行かない事に腹を立てたのか、デルクスは渾身の力を込めて姉を蹴り上げる。革靴のつま先が腹に入ったのか、姉は「ぐふう!」と声を漏らして苦悶するも、それでも妹を離そうとしない。
「お前ら奴隷のゴミどもは、言われた通りにしてれば良いんだよ!」
灯りが消えないようにと燭台を床に置き、髪の毛を掴んでいた手も離し、デルクスは左右の拳で姉を打ちつけ始めた。しがみつく妹を守ろうと抱き締め続ける姉は両手が塞がっており、まるっき無防備な姿を晒している。その姉の顔面に向かって何度も何度も容赦なく拳を叩き付けたのだ。
「ヒヒヒヒ、思い知ったか!奴隷の分際で人間に盾突くとどうなるか」
「や……やめ……て……ゴボゴボ……」
少女を殴る音……その残酷な鈍い破裂音は、地下牢だけに留まらず地上に続く階段にまで響いている。最初はバチンバチンと派手な音を立てていたのだが、それもグシャ!とかベチ!と言う水っぽい音へと変化した。唇も鼻も目も赤黒く腫れたり裂けたりし、傷からおびただしい血が滴り落ち始めたのである。
「ハアハア!このまま殺しても面白いかも知れないな!所詮は魔族の奴隷、キサマ一人死んだところでどうと言う事は無い!」
当初は欲望に背中を押されて地下牢に赴いたが、途中で加虐心にスイッチが入ってしまったデルクス。あまりの恐怖に失禁する妹を尻目に、ひたすら姉の顔面を殴り続けようとしたのだが、彼の動きがピタリと止む。
(……人の革を被ったバケモノ、死ぬのはお前だ……)
耳元で微かにそう言われたような気がした瞬間、デルクスの背中から胸の奥に激しい痛みが通り抜けた。すると電気ショックを受けたかのように身体をビクンと一度二度震わせ、そのまま前のめりに倒れてしまったのだ。
「ひいいっ!」とか細い声で悲鳴を上げる妹。見れば足元に沈む領主の背中には、深々とナイフが刺さっており、彼の足の先には全身黒ずくめの謎の少年が立っているではないか。
「……君たちを助けに来た」
「えっ?えっ?」
パニックを起こしてガクガクと震えながら立ち尽くす妹の代わりに、血まみれの姉の身体を大事に横たわらせる少年。治癒魔法の準備に入りながらも、そのまま妹に向かって語り続ける。
「君のお姉さんは気絶してるだけだ。これから治癒魔法で傷を癒す」
「は……は……い……ありが……と」
「君たちはチルシャ村の人たちかい?」
「……そう……で……す……」
「そうか。オレはリュックの知り合いだ、リュックに頼まれてここに来た」
「……リュックが?」
「ああそうだ、だから安心してくれ。国境の向こうで村の人たちが待ってるから、早くここから脱出しよう」
治癒魔法が効いたのか、傷だらけでパンパンに腫れ上がっていた姉の顔面からスウと血が引いて行く。傷口も閉じられ呼吸もしっかりしている。
少年は羽織っていたマントを脱いで横たわる姉に掛けてやり、その下に着ていた上着も脱いで今度は妹に着せる。
「……ううっ!……ふぐっ!……」
自分が助かる事、そしてメチャクチャにされた姉が無事である事を確認した途端、妹の横隔膜は激しく痙攣し、滝のように涙が溢れ出す。
「安心するのはまだ早い。君の名前は?」
「ベ……ベルタ……」
「そうか。ベルタ、お姉さんを連れて脱出だ。館の外に馬を待たせているから、そこまで頑張れ」
少年はベルタの頭を軽く撫で、そして気を失ったままの姉を抱え上げる。
「ベルタ、静かにね。さあ行こう」
謎の少年は魔族の姉妹を助け出し、その後無事に姉妹を国境線まで送ったのだが、もちろんその謎の少年とは職業暗殺者ではなく、ヒロトである。
この直轄領領主ブラーム・デルクス子爵が魔族の奴隷を購入したと言う情報を元に単身で館に潜入したのだが、この段階に及ぶまでに彼は様々な過程を経ていた。ラトゥカの街に潜入し、領民から情報を入手し、商人……それも奴隷の売買を商う者をピックアップして強引且つ凄惨な手段で情報を聞き出した後に、今日、この夜の出来事があるのだ。
――それが原因なのか、だからヒロトの瞳から少年らしい輝きが薄れ、人斬りのように鋭くも澱んだ眼へと変質してしまったのだ――
一夜明けた朝、ラトゥカは大騒ぎになる事だろう。アルドワン国王から任命を受けた代理統治者が殺害されたのだ。もし証拠を残していれば、それを元にお尋ね者として賞金首をかけられるかも知れないし、国や軍隊を上げての犯人探しが始まるかも知れない。
だがヒロトがそれを恐れて立ち止まる事はない。何故ならば、まだ“中佐”にたどり着いていないからだ。




