36) 蘇る罪悪感
お盆休みの初日、八月十三日も昼に差し掛かろうとする頃、ヒロトは都内のとある駅から特急に乗った。
真夏の直射日光と近寄るだけで火傷しそうな暑さのビル群、そして南から吹く湿気を多分に含んだ風に煽られ、まるでスチームグリルで焼かれているかのような首都の夏。吹き出す汗と不快感から逃げ出すには、エアコンがギンギンにフル回転する屋内に逃げ込むしか方法は無いのだが、ヒロトは別の方法を使って酷暑から逃げ出した。――特急券と乗車券を手にして、標高四百メートルの涼しげな地へと
駅のホームから車両に乗り込めば、エアコンの効いた別世界が待っていると思ったのだが、そうは上手くいかない。盆休みの民族移動は前日に終わっておらず、特急列車の車両内は帰省客でパンパン。全車両は満席な上、通路やデッキまでもが人で寿司詰め状態となっており、ヒロトもデッキに立ったまま数時間の電車旅を過ごさざるを得ず、過酷な帰省旅となってしまっていた。
――良かった。駅弁なんか買っていたら、蓋も開けられずに終点まで行くとこだった―― そう安堵しているのだが、実は大好物の駅そばを既にたいらげており、電車に乗る時点で空腹は満たされていたのだ。……予算の都合上、かき揚げソバにイカ天のトッピングは叶わなかったが。
「すみません、子供をトイレに行かせてください!」
客室の扉が開き、デッキに向かって若い母親の声が響く。その場にいる誰もが互いに肩を押し合わなければ道も開けられない、酷く窮屈な数時間なのだが、ヒロトはそれを不快とは思っていない。むしろこれだけ騒々しいのなら、“ゆっくり思い出す暇が無い”のだ。もしゆったりとシートに座り、流れる風景に故郷を感じてしまえば、目的地の終点が近付けば近付くほどに感傷に心が侵蝕され、思い出したくない記憶に潰れそうになるのだ。
――ダメだな。そう意識していても、故郷の街並みや山々が見えて来ると、こうも容易く記憶は蘇って来るのか――
他の客に背中を押され、乗降扉に磔にされながら……いや、顔の向きも動かせられないまま強引に車窓の景色を見せられた事で、否応無くフラッシュバックは始まってしまったのだ。
〜〜最初は自分じゃなかった〜〜
学校で地獄を味わった第一号ではないのだが、歯車が噛み合っていないのを実感したのは、入学した中学校が望んだ学校ではなかった事が基点となっているのは間違いない。自分の住む団地が郊外に造成された新興住宅地であり、ちょうど区域の境目をまたいでいた事が、小学校から中学校へのエスカレーターを拗らせてしまった。ヒロトが進んだ中学校に親しい友人はおらず、同じ団地から通学している者も数人いたが、彼らですら同じクラスになる事は無かったのだ。
小学校時代からの親しい友人で揃ったクラスの中で、小学校時代からの親しい友人が一人もいないヒロトは、他の生徒に対して過度な己のアピールを行う事も無く静かに過ごしていた。そのまま穏やかに時間は過ぎていくはずだった。その内友人も出来るだろうと楽観していたからなのだが、やがて彼のクラスに異変が訪れる。――身勝手な認定で選ばれた不協和音、その排除が始まったのだ。
『他のクラスの奴から聞いたんだけどさ、笹森には父親いないらしいぞ』
ヒロトはクラスの中で『笹森』をキーワードとする異様な会話が飛び交い始めるのに気付く。その笹森と言う人物はヒロトとは別の小学校出身であり、言うなれば大多数側の少年であるはずなのだが、どうやら小学校時代から彼は【ターゲット】であったらしいのだ。
「シングルマザーで◯◯町のボロアパートに住んでる」「母親は水商売らしい」など、どんどんと下卑た話題だけが肥大化し、やがては陽の当たらない場所で繰り広げられていたコソコソ話が、根拠も確証も無いままに堂々とクラスの中で語られるようになる――本人に向かって、残酷な言葉を投げ付けながら
「笹森ってさ、小学校の頃給食費払えなくて逃げ回ってたんだってな!」
ギャハハとえげつない笑いが教室から溢れる頃、希望に満ちた中学生活を送ろうとしていた「ごく普通」の子供たちは悪魔に変わった。生徒の中にいわゆる「ヤンチャ者」や「ヤンキー」「不良」がいた訳ではない。たとえ表向きでも昨日まで「良い子」だった者たちが、突然笹森に牙を剥いたのである。
笹森に対す暴言、意図的に拡散する悪口、無視などいわゆる“イジメ”が始まり、入学式から夏休みを迎えるまでもなく、クラスの雰囲気は早々に裏と表の二面性を形作ってしまう。そう……明るく活発な仲良しを装いながら、裏では共通の仮想敵を陰湿にイジメ抜いていたのである。
「笹森、お前臭えなあ!近寄るんじゃねえよ!」
「病原菌かよ、笹森菌てか」
「うわあ!技術の時間、笹森と同じ班とかあり得ねえよ」
「勉強もダメ、運動もダメ、アンタ生きてて意味ありますぅ?」
悪意ある嘲笑が充満する教室。もちろん笹森本人が他の生徒と比べて特段不潔だったり勉強や運動が出来ない訳でもなく、容姿に劣るところも無いごく普通の少年だ。しかしそのごく普通の少年を、ごく普通の少年少女が寄ってたかって地獄に叩き落としているこの光景ーー(なんだこの地獄は?)ーーと、ヒロトが衝撃を受けるのも無理が無いのだ。
やがて一学期が終わり、夏休みを挟んで二学期が始まったが、笹森へのイジメは加速して行く。暴言や無視に留まらずに、彼の私物を隠したり壊したり、とうとう彼に手を上げて暴力を振るう者すら出て来た始末。それを目の当たりにするヒロトは、決してその流れに乗る事をしなかったのだが、日々の学校生活が苦悩と共に始まり、苦悩と共に終わるようになってしまう。……つまりは罪悪感に苛まれ始めてしまったのだ。
――イジメには絶対に加担しない。あれをやって気分が良い事など一つも無い。だからと言って笹森を助ける勇気も無い。オレはなんて臆病で卑怯者なんだ――
勉強も上の中でこのままなら県有数の進学校へ行ける。父も母も自分に優しく、妹にも慕われている。そんな優等生の自分が実は、イジメを目撃しながら見て見ぬフリをする卑怯者などとは誰にも言えず、ヒロトはヒロトなりにどんどんと追い詰められやがて事件は起きる。それは二学期が始まって間もない頃の昼休みに突如起きたのだ。
「ギャハハ!笹森、お前の弁当って、なんだよそれ!」
一人の生徒が笹森の弁当を覗き込み、待ってましたとばかりにはしゃぎ出す。おどけた表情をしながらも、そこには間違い無く悪意が存在するような、いわゆる下衆な嘲笑だ。
「ごはんに目玉焼き一個乗せただけって、なんだそりゃあ!」
「手抜きもいいところだろ、お前の親ってどんな親なんだよ!」
「オイオイ見ろよ!その弁当……ご飯黄色くね?」
「ギャハハハ!まさかお前、ゴミ食って生きてんのかよ!」
やめろ、やめてくれと叫びながら、笹森は必死に弁当を隠して嵐が過ぎ去るのを待つのだが、クラスの男子や女子の嘲笑が止む事は無い。
ヒロトだって前々から気付いていた、昼食時に笹森が弁当を隠しながら食べていたのは。――だがそれでも笹森は満足そうな表情で食べていた事から、ヒロトは感じていたのである。笹森の母が家計をやり繰りしたり、少ない時間で作ったりと苦心しながらも笹森を送り出していた事に。つまり苦しい生活であってもそこに母の愛情と、母に対する尊敬があるのだと感じていたのだ。
【だからこそムカムカする。この心無いヤツらの嘲笑に腹が立つ】ーー下品な表現をすれば、ヒロトはこの普通の子を装う悪魔たちを見て、心底胸糞悪いと怒りの極限に達したのである。
バァン!と机を叩く音、その音に驚きクラスは一瞬静まり返る。そしてそれまで悪魔的な表情を浮かべていた者たちは、音のした方向へと視線を向ける。するとそこには、ヒロトが立っているではないか。
「……もう、そこら辺にしといてやれよ!」
我慢の限界に達していたのか、ついつい口から出てしまった言葉だ。そして静まり返った教室の中、生徒たちの視線を一身に受けた事でヒロトは察してしまう。“ああ、ターゲットが交代したな”と。もう後戻りは出来ないのだと。