課外授業 その3
「どうだった、この一年は。楽しめたか」
大胆に足を組んで座る先生は缶ビールのふちを指でなぞってから天井を見上げつぶやくように聞いてきた。
「別になんとも。・・・てか今冬休みだからまだ数か月は残ってるんで答えられないっすよ」
「はは、そうだな。でも数か月なんかぼーっと過ごすには短すぎる」
「年を取ると体感時間がはやくなるらしいですね」
いつものじゃれあいのつもりでふざけて返したが、成美先生は静かに横目で俺を一瞥すると、視線は天井のさらに奥を見透かしたように、感慨深そうに漏らした。
「あぁ、見落としてきたものはあるだろうなぁ」
そうして成美先生は、のどまで出かかった感情を飲み込むためにかビールを一気に飲み干す。 物静かな二人の間には、涼しげな喉の音だけが聞こえる。
感傷に浸ったその態度は、何故か俺までも物悲しさを感じさせる。俺と先生の言葉の間隔の沈黙がずっしりと重くのしかかってくるように感じられた。
気まずさが占領する空気で俺が何も言えずにいると、猫背気味だった俺の背にパンッと軽い衝撃が走る。
「痛っ!?」
「なにしけてるんだ若者。きっと今じゃなきゃ見えないものもあるだろうさ。」
急な暴力とあまりにもぼんやりとした発言に困惑している俺を見て成美先生は楽しげに鼻を鳴らしてから言った。
「言い方を変えようか。今じゃないとできないものだってあるってことだ。それは振り返ればみえる、なんて優しいもんじゃないぞ。一回そこをすぎるとな、それっきりお前の前に現れることはなくて、ただ後悔だけが残る。そんな“何か”がきっとやってくる。もし、そんな岐路にたったと自覚したんなら躊躇はするんじゃないぞ。悩んじゃダメだ。賢くあろうとするほど失敗を恐れるほど、失敗は減るが成功はできないからな」
成美先生は今度はそこで少しだけビールを飲んだ。
そこでようやく出来た間に、俺はいつもの小言を言った。・・・できるだけ感情的にならないように
「・・・でも、後悔先に立たずってあるじゃないですか。要は、後悔したところで結果は変わらないわけで」
「だから、踏み出すことにも意味はない。君はそう言いたいんだな」
「・・はい」
先生は俺の腹の底を見透かしたような顔で、じっと俺の顔を見てくる。
俺は気恥ずかしさに耐え兼ね、視線を外してしまった。
別に年上の女性の熱視線にたえられなかったのではない。ただ、怖かったのだ。本当に心の中を読まれ、俺の底の浅さに落胆されるのではないか呆れられてしまうのではないかと。
事実であっても、それだけからは目を背けたかったから。
「色見、その考えは君自体が間違いであると一番わかっているはずじゃないか」
「はい?」
「確かに君は裏生徒会に入ってから特別社交性が磨かれたり、頭がよくなったり、友達百人できたわけでもない。前と同じ愚図だ」
「ひでぇ言われよう・・」
「でもだ」
先生は、さっきまでの見透かした表情からやわらかい表情に変わると
「周りは大きく変わった」
そう言って笑った。
そして俺は、気づくはずもなかった指摘に、つい息が詰まった。
「お前と似たように問題を一人で抱え込んで、お前と同じようなめんどくさい気持ちを共有できるような奴がいたか?お前とは正反対にも見えるけれど、同じように臆病で願うように優しく振る舞う奴がいたか?ずっと近くでお前を見守ってくれるやつがいたか?」
「まぁ、そりゃいなかっ――」
「だろうな。よく意識だけは高いやつや、自己啓発の詐欺やろうは言うよな『周囲を変えるな自分が変われ』って。けどなそれは強者の理論だ。そんな自己改革できるような奴は私たちのような愚図とは違うんだ。私たちは私たちが変わるような環境に踏み出せばいいんだ、たったの一歩だけでもな。それは別に変化なんて呼べるような大した行動じゃないさ。でも君は悩むようになっただろ、誰でもない、他人のために。だから踏み出すことに意味はあるさ。まあ、後悔もするだろうがな」
おもむろに先生は立ち上がると、気持ちよさそうに伸びをし、それから乱雑に掛けていた上着に袖を通しながら気分良さげに、赤く染まった頬を吊り上げて言った。
「さ、後悔ついでに酔い覚ましにも手伝ってくれよ?」
そんな先生にせかされるように俺は鞄と上着を取って成美先生の後を追う様にして玄関に向かう。
いつも生徒に対して雑で、自己中な態度で仕事しているように見えて、案外この先生は根っからの教師体質なのかもしれない。
実はこの先生なりに俺を気にかけて――――
「ヒック、ッ。ぃてーな!?んだ壁のくせに人様にぶつかってくるとかいい度胸だな、おい!色見。肩貸せや!」
・・・・・
うん。俺は幻想を見てた。こいつはただの酒カス独身教師だったわ




