chapter 4: THE WICKER MAN
ある日の昼下がり、施療院の中庭で、ヨハンネス少年が足さばきを練習していた。
基本的には右か左、どちらかの半身で、前足から踏み出して後足を引き付けるのを“ステップ”、後ろ足から動き始め、前足を踏み越えて着地、半身の左右が入れ替わるのを“パス”と呼ぶ。
前ステップ、後ろステップ、右ステップ、左ステップ、前パス、後ろパス、前ステップ……。
向かい合って立つホアキムがランダムに指示する方向に進む。
ホアキムも、それに合わせて動き、常に一定距離を維持していた。
そして指示の度に、デュサックを一振りする。
丁度届かない位置を保っているので、デュサックはヨハンネス少年の眼前五寸の空を切るだけだ。
その練習が終わると、青年は少年に尋ねた。
「左手を腰の後ろに回しているのは、何の為だ?」
「ビビって、届かない攻撃をつかんじまうからッス」
少年が答えた。青年はうなずく。
「メッサ―で殺された遺体は、大抵の場合、手が傷だらけになっている。恐怖心というのは、生き残ろうとする本能だ。こうやって練習はしているが、実際に恐怖心を抑え、正しい間合いを取れる者は少ない」
そう言って、ホアキムはヨハンネスを見つめた。
その目に浮かぶ見慣れない色に、少年は動揺した。
いつもの親し気な表情でなく、のっぺりとした無表情な顔だった。
「今晩、恐怖心を克服する為の訓練をする。部屋を借りてあるから、就寝時間になったら来い」
少年は、その指示に無言でうなずいた。
その晩、ヨハンネスは指示された部屋に向かった。
古い建屋のあまり使われてない階に、その部屋はある。
部屋にはろうそく立てが五本あり、待っていたホアキムを照らしていた。
青年は、部屋の中央の柱に、綱で少年を縛り付けた。
メッサ―を抜き、刃を少年に突き付ける。
少年は、その輝きを見た後、緊張した様子ながらも、口の端を持ち上げてみせた。
青年は、まだ一言も口を利いていない。
ヨハンネスには、ホアキムの動き出しが見えなかった。
気付いたら、顔の横にメッサ―が突き込まれていた。
頬に熱を感じた。
「ヒッ……!」
少年の口から、悲鳴が漏れた。
それを斬り咲くようにメッサ―が一閃。
額の薄皮が斬られる。
血が眉間を通って小鼻の横に垂れたのを感じた瞬間、少年は身体をよじって暴れた。
ホアキムに懇願する。
「か、勘弁してくれ! アニキ!」
だが、ホアキムは返答を返さず、更にメッサ―を振るった。
下手に身動きするのも危険に感じ、ヨハンネスは身を固くした。
ホアキムの剣閃が加速する。
こんなホアキムを見た事がない、おかしい! ヨハンネスは冷や汗を流した。
見た事のない握り方でメッサ―が知らない軌道で振るわれる。
舞うような連続攻撃。
少年は、いつものようにホアキムの動きを見て覚えようとする余裕もない。
悲鳴を上げ続ける。
鬼気迫る様に、どこかでホアキムを怒らせていたのかと必死に考える。
今のところ、皮一枚を斬るに抑えているようだが、この斬り方の勢いは、どこかで失敗してもおかしくない。
一撃の度に、ホアキムの顔は紅潮し、息が荒くなり、攻撃の勢いが増した。
イエルクリングが取り巻きを蹴っている情景が脳裏に浮かぶ。
少年は小便を漏らし、気を失った。
少年が気付くと朝だった。
いつもの寝床の中だ。
肌着は綺麗なものに交換されていた。
顔や手足にたくさんの傷があるが、日の光の下で見ればいずれもひっかき傷程度だ。
獣脂の軟膏が塗られているが、すぐにふさがってしまうだろう。
朝食後にホアキムが現れて、昨晩の事を詫びた。
「済まなかったな。本当に斬られるかもしれない、と思ってもらう為に、厳しい態度をとった」
青年が申し訳なさそうに柔和な顔を見せると、少年は青年の腹に頭突きをした。
お、やったなコイツ、とホアキムは笑顔を見せたが、額を青年の腹に押し付けたまま、少年が肩を震わせている事に気付いた。
ホアキムは、左腕で少年の頭を抱え、右手で背中を軽く叩いた。
五月祭は春を迎える祭日で、街中で盛大に祝われる。
施療院も、毎年中庭に五月柱を飾り付け、祝宴を設けた。
宴には、音楽や軽業といった大道芸、輪舞も付き物だ。
入院者も可能ならば中庭に出て祭りを味わい、そうでなければ窓からそれを楽しむ。
だが、毎年依頼している馴染みの芸人が、今年は捉まらなかった。
どうも南の方の街で待遇が良く、定住してしまったらしい。
そこで、ホアキムが大道芸人を探す事になった。
彼は、ヨハンネス少年を同道して、“バグパイプ吹き”小路に向かった。
路地に椅子を出している老人に、ホアキムが話しかけた。
演奏家を探している旨と、日取りを伝える。
「“ブホンレ”と、“スキアラツラ・マラズラ”は必ずやって欲しい」
青年の要望に、老人はうなずいた。
老人が付き人らしき若者に何やら指示をだした。
それを受けて、若者が走り去っていく。
別の若者が、折り畳みの椅子を持ってきて、勧めてくれた。
ホアキムは、礼を言って腰掛ける。
その後ろに立ったヨハンネスに、老人が目を向けた。
「そっちの声の大きい坊主は、あんたの連れかい?」
老人が、ホアキムに尋ねた。
特に覚えの無いヨハンネスは戸惑ったが、“バイオリン弾き”小路での一件を聞き及んでいるのだと気付いた。
「そうだ。うちで預かってる。僕の使い走りをさせる事もあるので、覚えておいてくれ」
ホアキムの返事に、ヨハンネスは背筋を伸ばした。老人が微笑む。
やがて、五人の芸人がやって来た。
五人も要らない、とホアキムが主張した。
「“ハーディ・ガーディ”(※)と太鼓と縦笛だけでいい」
「旦那。“シトール”の響きがなきゃ、輪舞の楽しみが台無しですよ」
おそらくシトールと呼ばれるのであろう楽器を持った芸人が反論した。
「こいつは、トンボ返りや軽業が得意だ。あっしは司会もできる。歌や踊りを、事前に皆さんに教える事もできる。雇うなら、この一座で雇わねぇ手はありませんぜ」
「だが、手元不如意だ。五人分の予算は無い」
「銀貨でなくたって構いやせん。この街に立ち寄る度に泊めて頂くとか。何だったら、院長様から、袖なしの羽織りを御下賜頂けたりすると、助かるんですがね」
食い下がる芸人を、老人がたしなめた。
「市民様に押し売りするんじゃねぇ。周りの事も、考えろ」
老人は、ホアキムを振り返って提案した。
「どうでしょう。銀貨は三人分、その代わり祝宴まで宿泊させて頂くって事で、この一座で手を打ちませんか」
ホアキムは、しばし考えた後、同意した。
ホアキムとヨハンネスが、芸人を引き連れて施療院に戻った。
ルールマンのパン屋の窓台で売り子をしていたアポロニアは、それを見ていた。
ヨハンネスが気付くと、アポロニアが彼を見ていた。
彼女の大きな瞳に陽射しがきらめいていると、少年は思った。
施療院に戻ると、しばし少年は解放されて自由時間となった。
少年は、中庭に出て、腰高の柵に腰掛けた。
やがて、少女が休み時間になって、やはり中庭にやって来た。
少女は、肩と肩が触れそうな距離に座る。
ヨハンネスは、その距離を意識した。
少女が笑顔を見せた。
アポロニアは、旅芸人の事を尋ねた。
少年は“バグパイプ吹き”小路での事を、少し誇張して話した。
夢中になって話す少年。
楽し気に笑う少女。
「なぁ、祭りの日だけどよ。俺と踊らねぇか?」
「うん、いいよ」
旅芸人たちは、契約通り祭日まで滞在した。
そして、歌や踊りを施療院の奉公人や滞在者たちに教える。
ヨハンネスも、自ら望んで、教えを乞う輪に加わった。
祭日が来るのを、指折り数える。
同床の孤児のアルノーが、ヨハンネスを捕まえてぼやいた。
「でも俺ら、一緒に踊る子がいる訳でもないしな」
「わりぃ。俺、アポロニアと約束してんだ」
ヨハンネスの答えに、アルノーは呆けた顔をして、次に拳を振り上げた。
ヨハンネスは笑って逃げる。
やがて中庭に、しらかばの柱が立てられた。
天辺以外は枝が払われ、色とりどりの布や細工で飾り立てられる。
常緑の枝で作られた輪飾りが、施療院の扉や羊皮紙を貼った窓に飾られた。
中には風鈴と一緒に天井から吊られた輪飾りもある。
また、花が添えられた小さな輪飾りが、入院患者や奉公人に配られた。
思い思いに髪や服に飾り付けられる。
中庭に据え付けられた組み立て式の食卓には、せりの緑の葉が混ぜられたパンが並んだ。
汁物は、これも目に鮮やかな緑色の水芥子と黒麦粉の煮込みだ。
牛乳と肉荳蔲の実のかけ汁を和えた鮃にも、旱芹菜が添えられる。
皆は料理に舌鼓を打ち、麦酒に酔いしれた。
歌を歌い、軽業の見世物に沸いた。
ハーディ・ガーディの独特の長い音が中庭に響く。
「踊りだ!」
誰かが叫んで、音楽が変わった。
最初は、“ブホンレ”という踊りが始まった。
皆で輪になって立ち、隣の人と手をつなぐ。
演奏に合わせて、
左に四歩、右に四歩
左に二歩、右に一歩、小刻みに蹴り蹴り蹴り、左に二歩、右に二歩
手を離して手拍子二拍、ぐるっと左回転、一拍置いて手拍子二拍、今度は右回転
これを繰り返す、比較的穏やかで、老若男女楽しめる踊りだ。
ヨハンネスは初めての輪舞より、アポロニアの手の、小さくてしっとりとした感触ばかり気になっていた。
踊る面子も曲も何度も変わり、皆の息が荒くなった頃、最後の“スキアラツラ・マラズラ”が始まった。
これも輪になって手をつないだ所から始まる。
右に三歩、蹴り一回、左に三歩、蹴り一回
右に三歩、蹴り一回、左に三歩、蹴り一回
一歩内に入って右を向いて隣の人と向い合せ、一歩内に入って反転して左側の人と向い合せ
一歩内に入って反転して右側の人と向い合せ、輪の外側を向いて手拍子三拍
一歩外に出て右を向いて隣の人と向い合せ、一歩外に出て反転して左側の人と向い合せ
一歩外に出て反転して右側の人と向い合せ、輪の内側を向いて手拍子三拍
また手をつないで繰り返す。
ただし、演奏の早さが徐々に早くなっていった。
そうすると、輪の中心に飛び跳ねながら向かっていって、背中とお尻でぶつかるようになる。
ヨハンネスは、アポロニアの弾む身体に目を奪われ、柔らかい感触に鼓動が早くなった。
気付けば音楽はかなり早く、演奏が崩れ始めていた。
踊っている人たちも大分脱落して、残っているのはヨハンネスとアポロニアと、あと二組の男女だけだ。
踊りは激しくなり、呼吸が辛い。
もう息が続かないと思った瞬間、音楽がついに破れ、でたらめに楽器がかき鳴らされた。
「万歳!」
見守っていた皆が歓声を上げ、口笛や拍手が起こった。
倒れ込むように抱き着いてきたアポロニアの笑顔。
ヨハンネス少年の心が躍った。
旅芸人たちは、施療院に滞在している間に、余所の街の噂話を沢山残した。
その中に、遥か南方、ウディーネという街の防衛隊指揮官の話があった。
“フィオーレ・デイ・リベーリ”という名で、やっとうの術に優れ、数多くの騎士が彼の武術指南を求めて日参しているという。
その話に食いついたのが、ホアキム青年だった。
旅芸人たちを根掘り葉掘り問い質し、五月祭が終わる頃には、彼らを案内人に、その武人を訪れると言い出した。
施療院の奉公人たちは、世故に長けて腕っぷしが立つ青年がいなくなると困る、と説き伏せようとした。
「ちょっと見てくるだけさ。秋の収穫前には戻ってくる」
ホアキム青年は、和やかに言った。
付き合いの長い古株の奉公人ほど、疑わし気な顔をした。
ヨハンネス少年は、彼も同行させてもらえるのか尋ねた。答えは否だった。
少年は黙ってそれを受け入れたが、その日以来、稽古の時の打ち込みが、いちいち荒々しい。
翌日に旅立つ、という日になって、ホアキムはヨハンネスにメッサ―を一振り与えた。
刃渡り一尺五寸ほどの小振りな小刀で、十字つばの先が伸びてL字に曲がり、拳を守っている。
ホアキム自らが鍛えた物だそうだ。
「お前は市民権を持ってないから、持ち歩くな。いざという時の為に渡しておく」
そう言い残して、ホアキムは旅立った。
季節はめぐり、冬小麦の収穫の時期となった。
干し草を山積みにした荷車が施療院にやって来て、高床式の小屋に干し草が詰め込まれた。
ヨハンネスとアルノーの寝床も、新しい干し草と入れ替えされ、その真新しい匂いに、二人はこみあげてくるような喜びを感じた。
それからしばらくして、ヨハンネス少年は、ワケニッツ河畔の共同洗濯場に行った。
施療院は、かなりの頻度で亜麻の肌着を洗濯していた。
羊毛衣類は基本的に洗濯ができないし、入浴も、それほど頻繁にはできなかったが、肌着を小まめに変える事で体臭をかなり抑える事ができる。
その為、洗濯には、かなりの人手を要した。
アルノーたち孤児や、孤児舎監のベティーナも駆り出される。
作業しないが、お目付け役として老フオイヤも同行した。
共同洗濯場は、石造りの浅い水路で、洗濯物を叩き洗いする為の石板が備え付けられていた。
亜麻の肌着を冷たい水に浸し、石板に叩きつけ、ねじって絞り、日当たりの良い石畳に干した。
真夏の強い日差しが、濡れた身体と洗濯物を見る見る乾かして行く、そんな日だった。
そうしてヨハンネスが休憩していると、市が雇った掃除人たちが四人、街路をやって来るのが見えた。
人畜の糞便や、あらゆる生活ごみを清掃回収する彼らだが、市民からは“獣屍の処理人”と蔑まれている。
その中の一人、背中が極端に丸まった男が、つと少年に歩み寄ると、旧友に会ったように肩を組んできた。
「ひさしぶりだなぁ、ゲジゲジ」
恐ろしい重みが少年の肩に圧し掛かった。
痩せこけているが、長身の男だった。
右腕の肘から先が無い。
歯は大部分が失われ、強張った唇からよだれが垂れている。
白目に血走った血管が何本も走る眼が、ヨハンネスをのぞき込んだ。
「覚えてるか? 俺だよ、イエルクリングだ」
老人のように擦れた声が言った。
少年は、うなずいた。視線が、失われた腕に吸い寄せられる。
気付いた男が、右腕を掲げて見せた。
「ひでぇもんだろ? あの後、うみが零れて止まんなくてよぉ。肘まで腫れあがって、床屋に切られちまった」
(※)……ハンドルを回して弦を鳴らす楽器。
※ハーディガーディ参考
https://youtu.be/sM0xOHkKEkk
ブホンレ参考イメージ
https://youtu.be/xoaQwoot2C4
スキアラツラ・マラズラはこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=86LgZFyueak