chapter 1: NO PRAYER FOR THE DYING
煮固めた革の臭い。錆臭い鉄の刃。師の教えに従い、斬れ、突け、受け流せ!
当時、リューベック市の東口には、焼いた赤煉瓦を積み上げた市門があった。
真ん中に通路が開いている切妻屋根の建物があり、その左右から伸びた市壁が、街を囲んでいる。
市門のすぐ前には、隣り合うワケニッツ河を渡る橋が掛けられていた。
石造りの橋は、三つの迫持(※)が連なっており、その下に各々に水車小屋を備えている。
その橋の上で、大柄な男が怒声をあげた。
男は、あかね色に染めた羊毛織の貫頭衣を被り、頭巾を洒落た形に頭に巻いている。
男が、広刃の短剣を抜いた。
市門に向かっていた周囲の人々が、悲鳴をあげて散った。
男が睨む先には、まだ若い青年がいた。
金髪で細身、白と緑で左右に染め分けられた短衣と頭巾を着ている。
青年も、刃渡り二尺ほどの短剣を抜いていた。
右足を前に半身になり、左手を腰の後ろに回している。
短剣を持った右手はぶらりと下に伸ばされ、切っ先をやや左斜め後方に向けていた。
「あんたが、“メッサ―”を遣うって話は聞いた事がない」
気負った様子もなく、青年が話しかける。
男は決死の形相で、一歩踏み込んで短剣を突き出した。
しかし切っ先は青年に届かず、三尺ほど手前の空間をうがっただけだ。
尚も男は、小刻みに突きを繰り出す。
しかし、間合いが遠すぎて青年は避けるそぶりも見せなかった。
「素人が刃物を振り回しても、転んで自分を刺すだけだ」
青年が、嘲笑った。
男が、歯を剥き出して、うなり声を上げた。
突っ掛けるように飛び出し、短剣を振るう。
青年は一歩踏み込みながら、短剣を下から上に斬り上げた。
かちあった刃と刃が、一瞬かみ合って動きを止める。
青年が素早く左腕を伸ばし、内側から男の右腕を絡めとった。
がっちりと肘関節を極め、男の喉元に短剣を突き付ける。
「どうする? ヤーコブ? お金を返せば、許してもいい」
青年は強い眼光を向け、男に言った。
ヤーコブと呼ばれた男は、顔を青ざめさせ、詫びを入れた。
「わかった、ホアキム。許してくれ。もうお前と、お前の兄弟団の前には面を出さねぇ」
青年が喉から刃先を離して、腕を離した。
男は貫頭衣の裾をめくった。
下着の腰紐に結び付けていた巾着を外し、放る。
巾着は石畳に落ちると硬貨の詰まった音がし、口から数枚の銀貨が零れ落ちた。
そしてヤーコブは、ホアキムと呼んだ青年を見ながら後退り、一目散に逃げ出した。
青年は、それを見届けると、自分の短剣の刃を検めた。
片刃の短剣の刃は、斬り結んだ部分が欠けている。
青年は、ため息をついた。
ゆっくり銀貨を拾い始めたホアキムに、遠巻きに見ていた門衛の一人が声をかけた。
「おいホアキム、おめぇ、甘ぇんじゃねぇか? 奴は質が悪い。ひと思いにやっちまった方が、あと腐れねぇぞ。出る所に出るなら証言してやってもいいぜ」
言われて、青年は苦笑した。
そうして表情を和らげると、まだ少年の面影が残っている。
「今日は、聖ヘアーツ様の祝日だ。殺生はしたくない」
知り合いらしい門衛にそう答えると、ホアキムは市門をくぐり、街中に向かった。
それを追いかけるようにして、小さい人影が市門の中に入った。
リューベックの市庁舎前の広場は、人出が多く、賑わっていた。
今日は、市が立つ日だった。
最も多いのは、晴れ着を着た職人や、その家族。
街の正式な市民たち。
彼らは基本的に、自らの作業場兼店舗でしか、商売ができない。
しかし市の日だけは、広場で商いをする事ができた。
琥珀の十字架、真鍮の金物、蹄鉄や包丁、革細工等々、様々な商品がやり取りされていた。
次に目に付くのは、その市民たちに売る物を運んできた商人たちだ。
直接、食料品を持ち込んでいる農民もいる。
大方は自家製のパンだが、それ以外にも、野菜、鶏、卵、売れる物は何でも、ご・ざ・に並べられている。
数は少ないが、街の大店の旦那衆も目立っていた。
布地の多い、きらびやかな装いで、家族や家来を連れて練り歩いている。
彼らは、毛織物・材木・ニシン・塩といった品物を扱う貿易商だ。
これらは市の日とは関係なく、船便で東方諸都市と、陸路でハンブルクとやり取りされる。
その為、今日の市に繰り出している旦那衆は完全に物見遊山だ。
一方で、物乞い、香具師、吟遊詩人、大道芸人、といった、市民からは、うろんに思われている流れ者も多い。
三年前に起きた伝染病の流行と、その後の戦乱以降、その数は増える一方だった。
彼らは運が良ければ、荷役人夫や荷車引きといった日雇い仕事にありつける。
そうでなかった者たちは、昼間から路地裏に屯していた。
当時の路地裏は、実際に薄暗かった。
建物が上階になるほど道に張り出していて、幅の狭い路地では空が狭いからだ。
そんな路地である“ごろつき小路”から強面の声が上がった。
声は、こそこそと表通りの影を歩く少年を呼び止めた。
「ゲジゲジ! おう、てめぇ、何してんだ?」
そう呼ばれた少年は、もつれるように足を止め、振り返った。
みすぼらしい身なりの少年だった。
胴着や帽子は、破け、解れ、色々な汁が染みこんで、暗く変色している。
ぼろ着にも、もつれた黒い長髪にも、枯れ草や枯れ枝が絡まっていた。
手足は真っ黒で、ただれた皮膚が剥け、赤い傷口がのぞいている。
「イエルクリングさん、チーっす」
少年は、彼を呼び止めた男に軽く頭を下げた。
男は、舌打ちして立ち上がった。身の丈六尺を超える大男で、身体も分厚い。
彼の周囲にいた男たちが、少年の様子を嘲笑った。
「テメェ話聞いてねぇな……。な、に、し、て、ん、だ!」
イエルクリングと呼ばれた男は、かんの強そうな顔をゆがめた。
「な、なんでもないです。ちょっと急いでただけなんで」
「……ああ? 何がちょっとだ。なめてんのかテメェ!」
少年が何を言っても、イエルリングの声が大きくなっていく。
自分が発した罵声に興奮するかのように声を荒げていく大男に、少年は怯えた。
大男が、また怒りを募らせる前にと、思いついたままを口走る。
「ホアキムの後をつけてるんス。あいつヤーコブから、しこたま巻き上げたんすよ」
「はぁ? 信じられねぇ。あんな若僧になめられてんじゃねぇよ!」
イエルクリングが突然、周囲の取り巻きを蹴った。
腹を蹴られた男がうずくまる。
ヤーコブに対して感じたはずの怒りが、蹴った事でそちらに移ってしまったかのように、イエルクリングは尚もしつようにに蹴り続けた。
少年は、逃げるなら、ここしかないと思った。
「ち、ちょっと俺、ホアキムの奴からギってきます!」
「……おお。行け」
ゲジゲジとあだ名を付けられている少年は、急いで路地裏を離れた。
あの大男は怒りはじめると止まらないし、口には出来ないような酷い事を平気でやる。
少年は、眉を八の字にしかめ、足を速めた。
市庁舎前の広場の一角。
地面にござを広げて商品を並べた売り手や、買い物客でにぎわっている。
ホアキムと呼ばれた青年は、ろうそくを売っている農婦と話し込んでいた。
色の薄い金髪は、日の下では半ば白髪にも見える。
整った面立ちと穏やかな表情も相まって、自然と人目を引く容姿だった。
「毎週、修道院に灯明を奉納してるんだ。これは、定期的に作ってもらえるか?」
「いんやぁ、そういうのは、ろうそく職人組合に、にらまれるんで勘弁してくんろ。家で作って余った分だけ、って取り決めなんでさぁ」
頬をやや赤らめた農婦が、嬉しそうにホアキムの質問に答えた。
そんな話をしている後ろから、ゲジゲジの少年が忍び寄った。
手には、刃物というには貧相な金物を握っている。
五寸釘を、河原の石で叩いたり磨いたりして作った物だ。
左手で胴着の裾をまくり、腰紐から下がっている巾着袋を確認した。
親指を立てて隠すように握り込んだ金物で、薄い革袋を吊るしている革紐を切った。
そのまま革袋を自分の懐に入れる。
傍から見る限り、少年の肩や腕はほとんど動いてない。手元も、隠されている。
少年は、背を向けて、その場を離れた。
ホアキムが気付いた様子はない。
周囲の買い物客も、誰も何も言ってこない。
少年は、ゆっくりと歩き、広場を後にした。
そのまま、東市門を抜け、橋を渡った。
街道を外れて、ぶな林の中に足を踏み入れた。
枯れ枝や、小さな雑木を手折って集め始める。
しかし、四半時もしないうちに、少年はぶなの根本に座り込んでしまった。
こけ生した樹皮に背を預ける。
顔色は青白く、目の下のくまが濃い。
それでも少年は目を閉じず、神経質に周囲をうかがっていた。
やがて日が暮れ始めると、少年は東市門の方に戻っていった。
少年は橋を渡らず、土手を降りて川面に近付く。
橋脚の間の流れには、連結された二艇の舟が固定されている。
船の間には水車が据え付けてあり、片側の舟上には水車の回転で石臼を回す水車小屋が建てられている。
迫持が三つなので、同様の舟水車小屋も三つある。
舟水車小屋で働く粉屋たちが、その日の仕事を終え、街の住まいに戻っていった。
やがて晩鐘と共に市門が閉じられた。
それを見届けた少年は、川岸から渡された板の上を歩き、中央の舟水車小屋に向かった。
左右の小屋と違って、中央の小屋には水車そのものが無かった。
水車小屋の壁は、すすで黒く汚れている。
扉は無いし、屋根板も一部無くなって骨組みの垂木が剥き出しになっている。
一昨年、所有権を巡る争いがあり、焼け落ちたままなのだ。
少年は四つん這いになって、河の流れに口をつけた。
腹が膨れるまで、水で満たす。
それから廃墟となった水車小屋に入り、床板を一つ外して持ち上げると、その下に銀貨を隠した。
日が落ちると、騒々しい河の表面から、冷たく湿った空気が流れ込んできた。
少年は、手製の弓引き式の火起こし器で、火種を作った。
薪に火を移そうとするが、上手くいかない。
呼吸が荒くなり、怒りの声をあげる。
最後には涙を流して、貴重な服から糸くずをむしった。
それに火種を入れて、ようやく火を付ける事ができた。
そして石を並べた手作りのかまどにたき火を起こす。
少年は、ささやかなたき火のかたわらに横になった。
身体を丸めて眠ろうとする。
両隣の生きている水車のきしむ音には慣れたが、冷え込みが問題だった。
集めた薪の量からして、たき火は長くは持たない事が少年には判っていた。
おそらく夜半前に寒さで目が覚め、朝まで震えて過ごす事になるだろう。
それまでに少しでも睡眠を取るため、少年は目を閉じた。
少年は、夢を見た。
故郷の農村の風景だ。
自分が、流行り病で死んだ父親を引きずって歩いている。
亡くなって日が経ち、蛙のような姿勢で固まった大人は、数えで十歳の自分には重すぎる。
でも、誰も手伝ってくれない。病気がうつるから。
そも、この冬は人が死に過ぎて、誰が、まだ生き残っているのかすら判らない。
それでも、埋葬しない訳にはいかない。
しかるべき所に弔われなかった魂は、天国に行けないからだ。少年はそう信じている。
父親の剥き出しの手足には、黒い斑点が浮き出ている。その皮膚が、固い地面に擦られて、めくれ上がる。
もうそんなに血は流れない。
それでも、少年が父親を引きずった跡には、赤い物が混じった。
地に伏せられた顔は、もう目鼻立ちが判らなくなっているかもしれない。
少年は父親の亡骸をまともに見る事ができない。
村はずれにたどり着くと、そこに大きな穴が掘られ、大勢の遺体が投げ込まれていた。
腐臭が少年の鼻を打つ。立ちすくむ。
これはしかるべき所なのか? だが、墓地はとっくの昔にあふれている。
少年は悩んだ末に、大穴に父を落とす。
固まった身体は、ばたん、ばたんとゆっくりと転がりながら落ちる。
途中で下着が外れて、くそで汚れた尻が剥き出しになる。
穴の底に落ちた父は、少年を見上げて口を開いた。
鼻や唇が削げているので、聞き取り辛い。
「俺は、母さんとちび助たちを、きちんと葬ったぞ。なのにお前は、俺をこんな所に落とすのか? お前なんか、もう家族じゃない」
父に責められ、少年は泣く。
文字通り胸が痛くなり、耐えられない。
突然、背中に衝撃を感じて、少年は目を覚ました。
息ができない。苦しい。
それでも少年は、ここでうずくまれば死ぬ、という危機感から身を起こした。
たき火は消えている。
灯りは金属製のろうそく行灯。
持っているのはイエルクリング。
今にも怒鳴り始めそうな笑みを浮かべている。
鮮やかに染めたあかね色の貫頭衣と、頭に巻く洒落た頭巾は、ヤーコブの物だ。
そこまで見てとって、殺して、奪ったのだと少年は確信した。
面子を潰されたとか、そんなささいな理由で。
少年は、緊張で身を固くした。
その様子を見て、大男は笑みを深めた。
彼は、対面する人間が萎縮しているかどうか、敏感に感じる事ができた。
ゆっくりと、少年に見せつけるように短剣を抜く。
大男が一歩踏み出した時、屋根板が剥がれた所から、ホアキムが飛び降りてきた。
膝を使って巧みに衝撃を殺し、少年をかばうようにイエルクリングに立ちはだかる。
ホアキムが短剣を抜いて下段に構えた。
少年は、それが今朝見た構えと同じである事に気付く。
イエルクリングは、意図を問い質す事も、威嚇する事もしなかった。
ただ笑みを引っ込め、突然、けさがけに斬り付けた。
弾かれるように左前方に右足を踏み込みながら、ホアキムが斬り上げた。
交錯した瞬間、鈍い音がした。
イエルクリングが短剣を取り落とす。
彼は、右の掌の小指側、手首との境目辺りを左手で抑える。
その抑えた指の間から、鮮やかな血が滴った。
ホアキムが短剣を頭上に掲げて、一歩近寄った。
イエルクリングは、驚くような大音声で悲鳴を上げ、ためらう事なく逃げ出した。
大声で命乞いを喚きながら走り去る大男に気をのまれて、ホアキムは追撃する機会を失う。
仕方なく、ホアキムは短剣を鞘に納めて、少年を振り返った。
見つめられて尚、少年は固まっていた。
ホアキムがどうやって、ここを突き止めたのか、何故ここでイエルクリングと闘ったのか判らない。
何かうかつな事を言って、この腕が立つ若者を怒らせないか怖かった。
その様子に、ホアキムは眉をしかめた。
「僕は、ホアキム・メイヤー。小刀職人だ。君は?」
尋ねられて、少年は答えるべきか迷った。
悩んだ末に、揺揺と定まらぬ心のまま、少年が答えた。
「……ヨハンネス。ヨハンネス・レックヒナー」
(※)……両側の柱や壁の上から,石や煉瓦のブロックを少しずつせり出して,円弧を描く弓形に作った天井。アーチ。
※ホアキム青年の行った動きのイメージ(動画)
https://youtu.be/bWISsk0cy74?t=169
※舟水車イメージです
https://en.wikipedia.org/wiki/Ship_mill#/media/File:Moulins_sous_pont_Paris.jpg