【1-8】
ちょうどそのタイミングで、米がふつふつと煮立ってくる。沸騰していると確認した僕は、カミュの袖を引いた。
「カミュ、火を弱めて」
「……」
「カミュ? 火を弱くしてほしいんだけど」
「えっ、あ、ああ、すみません。どのくらい弱めますか?」
「鍋の底にちょっと火が当たるかなぁくらい、うんと弱くしてもらって大丈夫だよ」
「かしこまりました」
わずかに動揺した指先で、それでもカミュは指示通り的確に火を弱めてくれる。前々代の食事係から叩きこまれた火加減は、ちょっとくらい上の空でもきちんと実行できるようだ。
「ミルクを少し味見してみてもいい?」
「ええ、勿論です」
カミュは、ちょっとぎこちない手つきでミルクをカップに注いでくれる。魔法を使わなかったのは、ぼんやりしているからなのかもしれない。
カップを受け取り、一口飲んでみる。ほどよく冷えたミルクは、ほんのり甘くて、とても濃厚だった。日本のスーパーで「特濃」とか書いてあるような、ちょっと高級な牛乳に近い風味だ。甘みはそこまで強くないし、普通にコクがある牛乳という感じで、料理にも十分に活用できると思う。
「うん、美味しいミルクだね。じゃあ、これをたっぷりと鍋に入れて、じっくりと煮込んでいこう」
「はい。火加減はいかがしますか?」
「このまま、弱いままで大丈夫だよ。このまま、時間を掛けてとろとろに煮込むからね」
「承知しました」
お粥は、炊いたごはんから仕上げることも出来るけれど、生米から時間を掛けて作ったほうが美味しいと、僕は感じている。ミルク粥も、きっとそうなんじゃないかな。──あの人も、結構な時間を掛けて作ってくれていたはずだ。
「……僕がミルク粥を食べたとき」
「……えっ?」
「僕がミルク粥を食べたのは、僕を引き取ってくれた人の家に引っ越した日だった。そのとき僕は五歳で、大人たちのごちゃごちゃと揉めているのに巻き込まれたり、知らない人の家に行かなくちゃいけない緊張感があったりで、高熱を出しちゃったんだ」
「全く見ず知らずの方に引き取られたんですか?」
「うん。母の遠縁にあたる独身のおじさんで、引き取られる日に初めて顔を合わせたよ」
「……なぜ、そのような状況になったのかお聞きしても?」
僕の生い立ちを知ると、聞き手はみんなどこか遠巻きになったり遠慮がちになったりする。悪魔も同じなんだなって思うと、なんだかおかしい。
「うん、話せるよ。僕の生い立ちは普通の人とは違うかもしれないけど、僕にとっては当たり前というか……、実際にそうだったという、ただの事実なんだ。だから、そんなに気負わずに聞いてもらえると嬉しいな」
カミュはハッとした顔になり、バツが悪そうに俯いた。
「申し訳ありません。ミカさんに偏見の目を向けているつもりはなかったのですが……」
「ううん。僕のほうこそ、嫌味な言い方に聞こえちゃってたら、ごめんね。そんなに気を遣わなくて大丈夫だよって、そう伝えたかっただけなんだ。……僕は途中まで母親に育てられたんだけど、母が刑務所に入っちゃったから、他の人に引き取られたんだよ」
「ケームショ……?」
「えーと……、警察って言っても伝わらないかな……、悪いことをした人が伝わる牢屋って言えば分かる?」
「牢屋……、お母様は牢獄に囚われた罪人だったということでしょうか」
「うん、そんな感じ。母は、父を殺したんだ。だから、罪人として捕まった」
再び、カミュが絶句した。
まぁ、反応に困る内容だよね。それは僕も理解できる。それでも、そのまま聞き続けてくれようとしているのが、ありがたい。
「父といっても、僕はたぶん一度も会ったことがないんだけどね。もしかしたら、赤ちゃんのときに一度くらいは顔を合わせたことはあるのかもしれないけど、記憶には残ってない。……僕は、両親が結婚する前に出来た子なんだ。そして、僕の存在がきっかけで、母は父に捨てられた。……でも、思わぬ妊娠が原因で母を見捨てたはずの父は、他の女性との間に子どもが出来たのをきっかけに、その人と結婚したらしくてね、……父のことを酷く憎んでいた。だから、父を殺した」
「……」
「母は僕を産んでくれたけど、可愛がってはくれなかった。たくさん怒鳴られたし、たくさん殴られたり蹴られたりしたし、ごはんは何日かに一回、少ししかもらえなかった。でもね、殺されなかっただけマシなんだと思う。母は、僕のことも憎んでいたはずだから。……僕がいなければ、母は父に捨てられなかったんだからね」
「そんな……」
優しい悪魔は、力なく首を振る。けれど、それ以上の否定の言葉は繰り出されなかった。客観的に見ても、僕の話はその通りだと思えるものなんだろう。
「そんな育ち方をしていた僕を引き取りたがる人はなかなかいなかったんだけど、母方の遠縁のおじさんが一人、僕を不憫に思って引き取ってくれたんだ。そして、一緒に暮らし始めた初日から熱を出しちゃった僕に、ミルク粥を作ってくれたんだよ」
「その方は、優しい人だったのですね」
「うん、すごく。十日後に交通事故に巻き込まれて死んじゃったんだけど、その十日間は、僕の人生の中で唯一あったかくて幸せな時期だったよ」
僕に「中水上」の苗字を与えてくれたおじさんは、大人の顔色を窺ってばかりでニコリともしない可愛げのない子どもだった僕の心を解してくれた、それこそ魔法使いのような人だった。
たった十日しか一緒にいられなかったけれど、この十日があったからこそ、僕は二十年間を生き抜くことが出来た。
「ミルク粥を初めて口にしたとき、本当に『美味しい』って思ったんだ。それまで僕は、ごはんを口に出来た瞬間が『美味しい』だと思ってたけど、そうじゃないんだって初めて理解できたんだ」
「『美味しい』を初めて理解した瞬間……、感慨深いものですよね。私にも覚えがあります。ただ空腹を満たすだけではなくて、心を満たしてくれる温かな味覚。美味しいって幸せなことですよね、ミカさん」
そう言って、カミュは柔らかく微笑む。その笑顔には、かつての中水上のおじさんを思い起こさせる雰囲気があって、嬉しくなった僕は思わず何度も頷いた。