その娘、お風呂に入る2
出勤の準備を終えたルディリアはまだフラフラとした足取りで研究室へと向っていた。
研究室の手前の廊下、その曲がり角で不意に出てきた人物と衝突仕掛けるも、その人物との接触によって転がるはずだったルディリアの身体は支えられた。
頭がくらくらとしているから、上手く気配を感知することが出来なかったルディリアはぶつかってしまった人物に礼を言おうと顔を上げる。
するとそこには、心配そうにこちらの様子を伺うクラウストの顔があった。
その瞬間、ルディリアは昨夜の事を思い出し、ぎょっとした。まさか、昨日の今日で会うなんて。しかも、ぶつかりそうになって支えられるとは、不覚にも程がある。
すぐさまクラウストから身を離そうとするも、彼の腕はがっちりとルディリアの腰を支えていた。
「あの…アルンベルン騎士団長。助けて頂きありがとうございます。…ですが、その…離して頂けませんか?」
ルディリアの戸惑う表情を読み取ったクラウストは、微笑みを向けルディリアの髪に顔を近づけた。
また昨夜のようなことをされるのかと身構えたルディリアの耳に届いたのは予期していたことと同等に恥ずかしい言葉だった。
「…良い香りがするな。甘い…花の香りだ。」
酷く甘い声色で囁かれ、ルディリアは顔を真っ赤に染め上げる。
この人は本当に心臓に悪い…。
クラウストから離れようとすると、ルディリアは目の前が真っ白になり、驚いて目の前の服をぎゅっと握る。
どうやら立ちくらみを起こしてしまったらしいと、思いつつ身体は動かなかった。いや、動かすことが出来なかったのだ。ふらりと揺れたルディリアの身体を咄嗟に抱えたクラウストは明らかにいつものルディリアと違う事に気がつき、ルディリアの身体を支え、額に手を乗せた。
「熱いな。外はそんなに陽光がでていたか?」
「いえ、すみません。これは、研究員の実験に付き合っていたからです。」
ルディリアは何も間違ったことは言っていない。湯に浸かる気満々でマリアナの手伝いを行ったが、実験に付き合ったのも事実だ。ただし、こんな状態になったのは自身の気の緩みからだろう事も理解していたから誤魔化した。
「こんなになるまでか?」
眉を少し寄せ、呆れた様な声色に、ルディリアは何とも言いがたかった。しかし、それよりも早く彼から離れなければ、誰に目撃されるとも分からない。
ルディリアはクラウストから離れようと、彼の胸を押してみるが、びくともしない。顔を上げればそこにはクラウストの不満げな顔。
さて、どうすべきかと考えるルディリアは一応言葉にしてみる。
「あの…。ありがとうございます。もう問題無いので、離してくださいませんか?」
じとりとクラウストを見るも、クラウストの表情は変わらない。
しかし、クラウストにルディリアの気持ちが伝わったのか、ルディリアとクラウストの身体が離れた。が、ほっと、したのもつかの間だった。
いつの間にかルディリアの身体は以前の――戦場の帰り道と同じように横抱きにされ、足は宙に揺れる。
「あの、アルンベルン騎士団長!」
思わず非難の声を上げるも、それは羞恥によるものか、どこかうわずった声となり廊下に響く。そんなルディリアの反応を楽しげにみるクラウストは甘い顔色を向けていた。
何をする気なのかと冷や冷やしているルディリアを余所に、クラウストは魔法研究室の戸を開けると、応接室のソファにルディリアをゆっくりと下ろした。
中にいた研究員達は何事かとルディリアとクラウストを見るも、誰も何も発することは出来なかった。初めて見るクラウスト・アルンベルンのその表情と、その彼に運ばれてきた自分たちもよく知る少女が顔を真っ赤に染めていた為だ。
無表情である彼女がクラウスト・アルンベルンへと向ける表情と、クラウスト・アルンベルンが彼女に向けるその甘い表情。誰もが見ない振りをした。
「…ありがとうございます。」
不本意ながらも、心配してここまで運んでくれた彼に礼を述べない理由はない。しかし、その顔はとても不満げである。それは、クラウストだけでなく周りの研究員達も僅かに察すことができる程にルディリアは顔を歪めていた。
「今日は休んだらどうだ?」
ルディリアの横に座りながら、心配そうな表情を向けてくる。
この人は自分の顔が良いことを自覚しているのだろうか?
端正な顔立ちの御仁にこんなことをされれば誰だって無ではいられない。
いや、そもそもこの人は女性嫌いではなかったか?
いやいや、それよりここには数人の研究員達がいるのだから少しは距離を開けてくれないだろうか?恥じらいなどというものはないのだろうか?
色々な思考が頭の中を駆け回る。多分考えたところでこの人の思考を読み取ることも、この人の言動を予測することも出来ないだろうと半分諦めつつ、目の前で未だ瞳を伏せるクラウストへと視線を戻す。
「そういうわけにも参りません。私がいなければ、室長が心配ですから。」
正しくは、室長がきちんと仕事を行うか、そして研究員達に被害がいくのではないかが心配なためルディリアはそう易々と休暇を取ることができない。どうせ翌日にルディリアの頭が痛くなるような事が起きているに違いがないのだ。
「だが、そんな状態では満足に働けないだろう?それに…」
「それに?」
歯切れ悪いクラウストにルディリアは小首を傾げる。するとクラウストは何かを決意したかのような、少し硬い表情をすると、そのまま室長室へと足早に向っていく。
暫く呆然としつつも、ルディリアは彼を放置して良いはずもないとソファから立ち上がる。が、急に立ち上がった為か、また立ちくらみが起こり、ルディリアの身体は蹌踉めく。
しかし、またも誰かに支えられ顔を覗き込まれた。今度はクラウストではなく、そこにいたのはグレイルだった。ルディリアはほっと息をつくと、「ありがとう」と礼をする。
「ルディリア様、大丈夫ですか?」
「ええ、マリアナの研究の実験に私も付き合っていたら、逆上せてしまって…。」
グレイルは「成る程」と苦笑すると、ルディリアから身を離そうと一歩下がる。そこで何やら突き刺さる視線に顔を向けるとクラウストが無表情でこちらを見ていた。その隣には、「おやおや」と興味深げにこちらを見ているサウスライドも一緒だ。いつの間にか戻ってきていたらしい。
グレイルの「ははは」と乾いた笑い声と、強張った表情をルディリアは不思議に思い見つめた。
急にグレイルの様子がおかしくなった事を心配し、声を掛けようとするも、それはクラウストの声によって遮られた。
「ルディリア嬢、兄上の監視は私が引き受ける。」
何をいっているのか?と怪訝な目を向けるも、ルディリアには無表情であるクラウストの心は読めなかった。代わりに隣にいるサウスライドはやけに楽しげな目を向けていることから、何やらサウスライドとしては悪くない交渉が行われた事が窺える。
「それでは、アルンベルン騎士団長のお仕事はどうされるおつもりですか?」
「私の部下は優秀だ、問題無い。」
それは、他部署の…いや、兼務先の部署である騎士団に迷惑がかかるということ。
それを容認するわけにもいかない。これは彼らからの命令ではなく、温情なのだから。
「なりません。私のことはどうかお気遣いなく。問題無く仕事が行えます。」
ルディリアが即答すると、それが気に入らなかったのか、クラウストの眉が寄る。じっとこちらを見下ろすその相貌は冷たいように見えるが、そうではない事をルディリアは知っている。
「では、君はどうやって休暇期間を過ごすつもりだ?君は既に私の部下でもある。部下の管理は上司である私の役目だ。」
正論である。
だが、兼務先にまで無駄に気遣いを起こすほどに私は疲れているように見えるのだろうか?
そんなにも頼りないのだろうか…。
そう思うとルディリアは寂しさを感じつつも、視線は上司である2人に向けた。
するとサウスライドが「やれやれ」と肩を竦めながらルディリアへと歩み寄る。そして頭をポンポンと叩くと、ルディリアの目線に合わせる様に少しだけ屈んだ。
「全く、ルディリア。君という子は…少し頑張りすぎだよ?少しは私にも寄りかかりなさい。」
クラウストよりも深い青色の瞳の中には、優しさが込められている。暖かさが感じられる。声色にしても随分と優しい。
「それでも、本日の仕事はさせて下さい…。きちんと他の人に引き継げるようにしますから。」
少しだけいじけた声でサウスライドを見る。
顔には出ずとも声には感情が乗ってしまうのが厄介なとこだ。
「全く…仕方無い子だな。」
サウスライドが折れ、クラウストは不満げながらも何も言わない。それは、ルディリアの意志が認められたからだろう。
ほっとしたルディリアがなんとなく辺りを見回すと、あちらこちらから微笑ましげな顔が向けられている事に気がついた。そういえば応接室だったと気がつくと顔に熱が集まる。
「みなさん、し、仕事して下さい!!」
赤面したルディリアが珍しいのか研究員たちだけでなく、サウスライドもまたルディリアをぽかんと見つめていた。