ヒロインに会えたなら
花びら舞う中、私は感慨深く校舎を見上げました。
(異世界なのに桜が咲いてんのおかしくね? 中世ヨーロッパ風なのに、一体どこの国なんだよ)
あぁ、まただ。
どうも前世の意識に引きずられてしまうと、この世界に対し批判的な思考に流されがちです。
思考が粗暴になれば態度にまで滲んでしまいます。
私は成長するにつれ、己を律することに努めました。
私はこの国の王子なのです。
民を統べる定めにある者なのです。
軽佻浮薄な振る舞いをすべきではありません。
……ですが、こうしてこの場に立つと躍る心を抑えきることはできませんでした。
ようやく、彼女に会える。
前回私の妻となったヒロインに出会ったのは、今日この学園でのことでした。
この校舎をまぶしそうに見上げる彼女に目を奪われ……そして私たちは親睦を深めて、やがて結ばれることになったのです。
当時は公爵令嬢を婚約者としていましたから、そんなつもりはなかったのですが、きっとここで一目見た時から、私は彼女を愛してしまっていたのでしょう。
紆余曲折の後、私たちは正式に結ばれました。
結ばれたのちも数え切れないほどの苦難はありましたが、ふたりで立ち向かい乗り越え、生涯を幸せに閉じることができました。
自由に育った彼女でしたが、私と出会ってからは淑女教育に励み、いつしか淑女の鏡とすら呼ばれるまでに成長して私を支えてくれたのです。
前回の彼女は、私と親しくなってから、私の婚約者であった公爵令嬢に苛められることになりました。
しかし、今回は違います。
公爵令嬢にもおそらく、前世と前回の記憶があり、今回は私との婚約を避けています。
前回の彼女は、私との婚約を解消した直後に修道院へ向かう際、賊に襲われて命を落としています。
その記憶が私との婚約を避けさせたのでしょう。
公爵令嬢の活躍によって、我が国は辿るべき歴史をわずかに変えていますが、もたらされた発展は世界をより豊かにしました。
この国はかつてよりも、もっと幸福に満ちたものとなるに違いありません。
しかし、公爵令嬢を死なせてしまったことは、私にとってもヒロインにとっても、最も大きく後々にまで残る傷となりました。
かつて起きてしまった事件を覚えている私は、おそらく前回と同じようにヒロインを愛することはできないでしょう。
それでも、今もなおヒロインを愛していることに変わりはありません。
また公爵令嬢と婚約を結ぶことのなかった今回は、誰をはばかることなく彼女を愛することができます。
彼女が抱えている問題もあらかじめわかっているのですから、何ら障害となりえないでしょう。
もう一度彼女に逢える。
純粋で可愛らしかったあの日の彼女がもう一度見られる。
そう思うと胸が弾んで仕方がありませんでした。
(……あれー?)
彼女が初めて学園に足を踏み入れる入学式の日、私が彼女を見つけることは叶いませんでした。
それどころか、彼女はこの学園に入学してすらいなかったのです。
(まさか公爵令嬢が前回の復讐として手を回して……)
今回の顔合わせの日、あれほど私を恐れていた彼女です。
私の婚約者となるはずだった公爵令嬢は異世界の知識を元に様々なものを生み出し、この世界に変革を起こしています。
そして私との婚約を避けていることもわかっています。
私が卒業パーティで彼女を断罪したがゆえに修道院へと送られ、その時に非業の死を遂げた公爵令嬢。
今回、婚約が今だに成立していないとはいえ、私に対してもヒロインに対しても彼女が復讐心を持っていないと、誰が言えるでしょうか。
私は慌ててかつてヒロインが育てられた男爵家、そしてヒロインを追いやった侯爵家を調査させました。
その結果、公爵令嬢が手を回している証拠は見つからなかったのですが、私が愛したヒロインは早い段階で男爵家を出て、市井で暮らしていることが発覚しました。
道理で学園に入学していなかったわけです。
私が通う学園には、貴族籍か、少なくとも貴族の後ろ盾がなくては入学することは叶いません。男爵家を出奔していたヒロインに入学できるわけがなかったのです。
ヒロインは男爵領の隣領に位置する町にあるパン屋で働いているとのことでした。
どうやら公爵令嬢の意図するところではなかったようですが、公爵令嬢がもたらした異世界の知識によってバタフライエフェクトが起き、このような事態となっているのでしょう。
低位とはいえ貴族の端くれである男爵家の令嬢であるならいざ知らず、平民とあっては、どうあっても私の妻とすることは叶いません。
公爵令嬢にそのつもりはなくとも、私は見事に復讐されるところでした。
ですが、ヒロインには本来持つべきだった地位があります。
ヒロインに再会し、復権が適えば学園に入学することも、私の妻とすることも問題はありません。
私は逸る気持ちのままに、かつての愛しい人が勤めるパン屋の扉を開けました。
「いらっしゃいませー」
あぁ、彼女の声です。
ちらりと見れば、接客をしている彼女の姿が見えます。
くるくると表情を変える明るい眼差しにふっくらと健康的な頬、器用な指先がてきぱきと会計をしています。
まずはどうやって話しかけようか。
懐かしさに胸を熱くしながら、私は店内を見渡しました。
鼻をくすぐるのは温かなバターや、スパイスの入り混じった香りでした。
あまり大きくもない店内に並ぶのは……ん? 焼きそばパンに、メロンパンに、コロッケサンド?
市井のパン屋にしてはやたらにメニューが豊富なのはいいが、やけに前世の記憶を擽るラインナップです。
クイニーアマンと値札のついた平たくてキャメル掛けしてあるっぽい感じのパンとか、でっかい源氏●イみたいなパルミエなんて、前世でも洒落たパン屋でしか見たことがありません。
かの公爵領では十年ほど前から惣菜を挟み込んだ状態でパンが売られ始めましたが、パンとは食事のために作られるもので、甘いパンなど考えられません。そして、それ一品で食事になる焼きそばをパンにはさむなんて、この世界の人間には思いもつかないことでしょう。
こんなパン屋、王都にもない……。
強い視線を感じて振り向くと、かつての妻が目を見開いて私を見ていました。
……あれ、これって彼女も記憶があるヤツ?
そして焦り気味に目を逸らされたー!
「人気のクリームパン焼きたてだよ! おや、兄さん見ない顔だね。うちの店は初めてかい?」
店の中で立ち尽くしていた私に、パンを運んできた大柄な男が話しかけてきました。
トレーの上に載っているパンは、前世でもよく見かけた子どもの握りこぶしみたいにふくふくツヤツヤとしたパンです。
「悩むことはねえよ。うちのヤツが作ったパンはどれもこれも美味いからな! 評判のどこぞのご令嬢が考案したっていうプリンにだって負けてないし、ほらこのカレーパンなんてあのカレーをパンの中に詰めて油で揚げちまおうなんて、カレーを生み出した御仁にだって思いつくまいよ」
「うちの……やつ……」
「あぁ。ほらそこにいる美人が俺の奥さん。美人な上に料理上手の自慢の嫁なんだ」
「嫁……」
あぁ……政治的バランスを考えて政略を結ぶ貴族より、庶民の方が結婚は早いものです。
貴族は婚約こそ幼いうちに決めてしまいがちですが、結婚にまで至るのはどちらかが学園を卒業するのを機に、という例が多いのです。
ですが、貴族では学園に入る歳で結婚をしている庶民は少なくありません。
より条件のよい相手は、早いうちに相手が決まってしまいますから。
パワーバランスよりも早い者勝ちなのです。
「お、おすすめはどれですか……」
「やっぱり焼きたてのこいつと、兄さんみたいな若いのには焼きそばパンとカレーパンが人気だな。豆を甘く煮たのが平気ならあんドーナッツって奴も風変わりでうまいぞ。まぁどれを食っても外れはないけどな」
私は目についたものを片っ端からトレーの上に積み上げました。
会計する間、かつての私の妻を見つめてみましたが、彼女は心なしか青い顔をして会計をし、一度も目は合いませんでした。
「たくさん買ってくれたからおまけにラスクをやるよ。また来いよ!」
袋の一番てっぺんにひょいとおまけを載せ、両手がふさがった私のために男は店の扉を開けてくれました。
「……どうも」
「お持ちします!」
しこたま買いこんだパンの袋を抱え、おぼつかない足取りで外に出ると、店の外で待たせていた侍従が慌てて袋を持ってくれました。
「ひぇっ、紋章付きの馬車!? やべ、あの兄さんお貴族様か!?」
背後で馴れ馴れしく接客をした男が焦る声が聞こえました。
当たり前の話ですが、お忍びで来ているのに不敬を咎め立てるようなことはしません。
ただただ頭の中が真っ白です……。
「殿下、何かありましたか?」
ここまで付いてきてくれた側近が心配そうに聞いてきます。
「おいしそうなぱんが、たくさん……」
「殿下っ!?」
私は袋に手を突っ込むと、手に触れたパンを取り出して齧りつきました。
普段ならこんな食べ方はしませんが、きっとこれらのパンはこう食べるのが正しいのです。
だって前世ではいつだってそうしていましたから。
「殿下、お毒見が……」
「美味しいですよ。ほら、君も、侍従の君も、好きなものをお食べなさい。あぁ、あとで御者の彼にも食べさせてあげなくてはね……ふふふ……」
ふふ……そっかぁ、結婚してたのかぁ……すでに人妻かぁ……。
そして、万能チート様な公爵令嬢と違って、君はパン特化型のチートだったんだね。
公爵領でも作られていない、前世でよく見たパンが作られているってことは、君も前世の記憶持ちなんだよね。でもって、私の顔を見て驚いて蒼褪めて目を逸らした、ってことは私の顔を見られないような何か……すなわち前回の記憶、私の妻だった記憶があるってことですね。
……は、はは……何が前回と同じようには愛せないかもしれないだ。
私が愛する愛さない以前に、始まる前に終わってた……。
わかる、わかるよ。
あの男爵家でも、学園でも、そして王宮でも、君はとても苦労を重ねてきた。
私との愛がなくてはきっと乗り越えることなんてできなかったと、いつだったか話してくれたね。
きっと私には語ってくれなかった苦労もあったことだろう。
君はいつだってあの明るい笑顔で困難に立ち向かい、まっすぐに為すべきことを成し遂げた……。
そりゃ、前世の記憶が蘇っちまったら無理だよなぁー!
俺は王族だし、次期国王だし、前回は正直死ぬほど苦労した。あまりの重責に逃げ出したいと思ったことなんて数えきれない。暗殺を目論まれて危うく死にかけたことだって一度や二度じゃないし、大事な人を失ったこともある。
そんな俺をいつだって支えてくれたのがヒロインだったわけなんだけど……前回だけならともかく、前世の記憶が蘇って冷静になったら、そんな世界に飛び込みたいわけがないよな。
前回は、当然未来の事なんてわかるわけがないし、愛情っていうか、その場の勢いがあったから突き進めたけど、前世の記憶も蘇ってふと我に返った時に『あ、無理……』ってなっちゃったんだろうなぁ。
ましてや彼女はもともとそんなに家格の高くない家に生まれたわけで、周囲からの悪意で死にかけたこともあったらしいし……その時に前回は運よく助かったとしても今回も同じように助かるのか、って考えたら、なるべく厄災は避ける方向で動くだろ、常識で考えて。
勢いって大事。
生まれ変わっても一緒に居ようね、なんてのは、自分たちに酔ってなきゃ言えないし、実現できねえわ!
前回の記憶で周回チートかますにしたって、ヒロインの場合はまず身分差っていう、自分の問題だけじゃなく周囲の意識を変えるってハードルの高さがあるしな。
しかも今回公爵令嬢が悪役じゃないってことは、同情票が初めから集まらないってのが見えてるんだよなぁ!
公爵令嬢が今回いろいろ改革しまくってるから、わかる奴には前世の記憶持ちだってすぐにわかるだろうしな。
あ、そりゃ無理だわ。俺がヒロインでも諦めるわ。
彼女からしてみれば俺に記憶があるなんて思わなかっただろうし、あるかどうかも分からない玉の輿苦難付きより、無難に平穏な道を選びますわな……。
せめて俺も何かチートかまして、記憶持ちアピールできてりゃ何か違ったのかもしれんけど……はぁああああああ……せめて周回特典として、前回明らかになった不正の摘発とか、問題の改善とかを前倒しで進めるくらいしか俺にはできない……。
……ふふ、ヒロインに逢うからって止めておいた婚約者探し、頭を下げて進めてもらうか……もうめぼしい令嬢たちは軒並み売約済みなんだろうな……。
前回の相手を知っている令嬢は、気まずいから避けられるといいんだけどな……。
ふふ……なんでだろう、あんぱんがしょっぱいや……。
お貴族様を見送ったパン屋の店主は、最愛の妻が蒼褪めているのに気が付いた。
「お前、今日具合悪いか? 顔色悪いぞ」
「お、王子様がまさかうちの店にくるとは思わなくて」
妻は何かをごまかすように笑って見せる。
あの方が現れたのは、偶然? それとも運命の強制力?
どういった理由なのかはわからないが、自らの手でつかんだこの幸せを手放したくはない。
「王子様、って……さっきの客、王子殿下か? な、なんでわかった……? 知り合い……? なんで教えてくれなかったんだよ。俺、無礼打ちにならないかな……」
夫はまた蒼褪めて、おろおろと狼狽えだす。
「い、いいえ。お立ち振る舞いとお顔立ちから王子様みたいなお貴族様だと思って緊張しただけよ」
きっと、きっと、王子様は自分のような庶民が、ご自分の運命の相手だなどとは知らないはず。
パン屋の妻として幸せを得た今、到底あの時のように、あの方のために努力を重ねられる自信はない。
あの時の自分と、今の自分は、こんなにも違う存在なのだから。
「なんだ、そうか。そりゃ、王子殿下みたいな雲の上のお方が、ウチの店に来るわけないよな! はぁ、びびって損した……」
妻のごまかしを信じて、夫がほっと胸を撫でおろす。
王子殿下のように美しくはないけれど、彼の方のように賢くもないけれど、彼と同じくらいに優しくて、彼とは違うけれど頼りがいのある最愛の夫。
違う世界の記憶を有したことで、つい奇矯な行動をする妻を、それでも受け止めて愛し、支えてくれた人。
パン屋の妻は、この夫と添い遂げたいのだ。
……後日、パン屋夫妻は王城へと呼び出された。
妻は背筋が冷たくなるのを感じながらも、うっかりかつて学び馴染んだ仕草にならぬように、自分に言い聞かせた。
今の自分は、平民のパン屋のおかみで、けして貴族令嬢ではないのだ。
「お、王宮にお呼び出しって俺たち何したっけ……」
夫が不安そうに囁きかけてくる。
妻は夫を安心させようと微笑んで見せた。
「面をあげよ」
声を掛けてきたのは、店に来た人は異なり、彼本来のきらびやかな衣装をまとったかつての夫。
「ぎゃあ! あの時の……本当に王子様だったのか……やっぱり無礼打ち?」
パン屋の店主は飛び上がりガタガタと震える。
王子はかつての自分たちの関係を知っているのだろうか。
だからそんなにも切なそうな目で、目の前の庶民の女を見るのだろうか。
「も、申し訳ございません! この人は何も知らなくて……」
きっとこの方はご存じだ。
内臓を引き絞られるような不安を感じながら、いつか男爵令嬢だった女は言い募る。
もしも罰せられるのならば、自分だけを。
娶ってくれた夫は何も知らず、自分を愛してくれただけなのだから。
王子は諦めたような顔で微笑むと、目の前の平民に柔らかな声音で言葉を賜った。
「……ラスクありがとう。パンも美味であった。それで相談があって呼んだだけなのだが……」
「へ? そ、相談?」
思いがけない言葉に、夫は素っ頓狂な声を上げる。
「王都に出店しないか?」
王子殿下は焼きそばパンが気に入ったのだという。
そして愛する臣下にもこのパンを食してほしいし、愛する民に広めてほしいのだと。
王都に店があれば、気軽に食べられるし。
呟かれた言葉は聞かなかったことにした。
今ある店のこともあるので、すぐには難しいこと、支援を受けるのは願ってもないことなどをお伝えし、パン屋夫妻は王子殿下の前から下がった。
その後、女傑と名高い公爵令嬢もパン屋を訪れ、彼女主導の元チェーン展開を余儀なくされたのは全くの余談だ。
 




