虚忘 VS 六道
「破っ!」
問い掛けだけで、一向に動こうとしない虚忘に痺れを切らした私は、当初の予定とは違うが、まだ一歩も本堂に足を踏み入れていない虚忘に五鈷杵を投げつけた。
五鈷杵の五又に分かれた先端が、まっすぐ虚忘へと飛んでいく。
怯んだ隙に殴りつけようと、右手に錫杖を持ち替え、飛んでいく五鈷杵を追う形で、虚忘との距離を詰めるために駆け出す。
まっすぐ飛んだ五鈷杵は、虚忘に当た……らなかった。
「は?」
まるで、何もない空間に投げつけたかのように、五鈷杵が虚忘の身体をすり抜ける。 私は、慌てて急ブレーキをかけ、錫杖での攻撃を断念した。
ガン
どこかに五鈷杵が当たった音が響く。
シシシシシシ
再び、錫杖を持ち替え、今度は懐で起爆札を丸めながら、バックステップで虚忘から距離を取る。
五鈷杵で隙を作り、錫杖で殴打。 弱ったところで距離を取り、お経を唱えれば、大抵の妖は消えていった。 五鈷杵が弾かれた時など、起爆札や尿霧吹きに切り替えて隙を作る時もあるし、結界札を使った結界におびき寄せてから、錫杖で殴打するパターンもあるが、大まかな流れは変わらない。 それが私の必勝パターンだった。
五鈷杵がすり抜けるパターンは初めてだった。
だが、問題ない。 五鈷杵が弾かれた時と同じ対処をすればいいのだ。
私は、頭を切り替えて、起爆札を投げつけた。 起爆札は、綺麗な軌道で虚忘に飛んでいき、そのまま……すり抜けた。
五鈷杵と同様、虚忘の身体をすり抜けた札が、虚忘のすぐ後ろに落ちた。 テン、と間抜けな音を立てて。 まるで、ゴミ箱に丸めた紙くずを投げ入れようとして、的を外した時のように……
「はぁ?」
シシシシシシ
虚忘は、私が一連の動きをしている間も微動だにせず、ただ突っ立っていた。
額に嫌な汗が流れた。
五鈷杵がすり抜けたのは、もしかすると磨く際に念が足りなかった可能性があった。 だが、札はどうだ? 起爆札は、瘴気に反応して爆発するものだ。 これではまるで、ヤツには瘴気がない、という事になってしまう。
いや、たまたま粗悪品が紛れ込んでいただけだ。
私は、再び、懐で札を丸め、腕を出すと同時に投げつけた。
テン
「な……」
言葉を失った。 投げつけた札は、再び、虚忘の身体をすり抜けて、地面に落ちた。 一度ならず二度までも……。 私は購入した起爆札がすべて粗悪品なのだと理解した。 この調子では、結界札も怪しいものだ。
まぁ、いい。 見れば、わざわざ隙を作らなくても、目の前の虚忘は隙だらけではないか? 私は、錫杖を右手に持ち替え、静かに杖術の構えを取った。
大きく静かに息を吐き、虚忘を見据える。 続いて、鼻から息を細く吸い込み、一気に虚忘に向かって、足を踏み出した。
「破っ!」
虚忘の無防備な身体に錫杖の先端が、突き刺さる。 錫杖はどんどんめり込み、私の手先も虚忘に飲み込まれる。 ……いや、正確には、飲み込まれた訳ではなく、すり抜けたのだ。 なんの手応えもないまま、勢いの付いた身体ごと虚忘の身体をすり抜けて、私は本堂の外へと躍り出た。
「はぁぁ!?」
思わず、間抜けな声が出る。
そこで、ようやく私は気付いた。 私の持ち得る攻撃手段の悉くが、虚忘の身体をすり抜けてしまう事に……
シシシシシシ
「た……たか……しま……たける……生まれは……どこ……です……か?」
しまった。 私が本堂の外に出てしまったため、虚忘とタケルの間に障害物が一切なくなってしまったのだ。 虚忘が、ゆっくりと本堂の中へと足を踏み出した。
「う、うわぁぁぁぁあ!」
タケルが恐怖で、叫び声を上げる。
「タケルっ!」
私は、タケルの名を叫んだ。 虚忘は、何も聞こえないかのように少しずつタケルへと近付いてゆく。 私は、慌てて印を結び、経を唱えた。
「~~~」
お経が効いたのか、虚忘の歩みが止まった。 初めて、虚忘が私の攻撃に反応を示したのだ。 私は額から、脂汗が吹き出るのを感じながら、より思いを込めて、経を唱えた。
ぐりん。
次の瞬間、虚忘が首を回して、私を睨みつけてきた。 悪鬼のごとき表情で……
「ぎゅうぅぅぅぅうぅううぅ」
低く、まるで動物が威嚇するような唸り声が響く。
怒っているのか? ……そうだ、もっと怒れ!
「~~~~~」
私は、なおも経を唱える。
「ぎゅ、ぎゅうぅぅぅ」
虚忘の威嚇が強くなり、遂に虚忘は、踵を返し、私の方へと歩みを始めた。 いや、それまでのゆっくりとした歩みではなく、苛立ちを隠さない、大きく乱暴な歩き方だった。
さて、こちらに注意を向ける事には成功したが、これからどうしよう。 お経は、お気に召さないようではあるが、ダメージになっているようには見えない。
私は、印を解き、懐から尿の霧吹きを取り出す。 札や五鈷杵が効かないで、お経が効くのなら、こちらの原始的な攻撃も効くかもしれない。
虚忘が手の届く距離まで、近付いてきたところで、虚忘の顔に向かって、尿を吹き掛ける。 そのまま横に飛び、着地と同時に本堂へと飛び込んだ。 どうにか、またタケルと虚忘の間に入ることができた。
慌てて振り返り、尿の効果を確認するが、虚忘は、何事もなかったかのように、こちらを見て佇んでいた。
ダメか……
私は、再び、印を結び、経を唱える。
「~~~~~」
「ぎゅう、ぎゅう、ぎゅうぅぅぅぅ」
再び、虚忘が私に向かって歩みを始める。 私は、気休めに起爆札を本堂の床にばら蒔いた。 おそらく、なんの効果もないだろうが、もし一枚でも反応したら、儲けものだ。
不意に、虚忘の足が止まる。
ガタン
後方で音がした。 建付けの悪い扉が開く音だった。 虚忘の視線が私を通り越して、背後を見ているのがわかった。 私は、お経を唱えながら、後方を確認した。
健一だった。
健一が、仏像の脇の扉から本堂に入ったところで、驚いた顔をして、こちらを見ていた。 虚忘が見ていたのは健一だったのだ。
「健一?」
私は、思わずお経を止めて呼び掛けた。
……呼び掛けてしまったのだ。
「お父さん!」
今まで、泣きそうだったタケルが、父親の顔を見て安心したのか、安堵の声を上げた。
シシシシシシ
「た……たける……ちち」
シシシシシシ
「け……けん……いち」
シシシシシシ
「き、きぬ……よと……同じ……まち……」
「は?」
虚忘の放つ言葉に思わず、間抜けな声が漏らしながら、振り返る。 ヤツは、私とタケルの言葉、そして絹代さんの件から、健一のフルネームと出身地に当たりをつけたのだ。
「た……たかし……ま……けん……いち」
シシシシシシ
ボッ
不意に、何かが空を切り裂くような音が聞こえた。
「 あ 」
次の瞬間、気の抜けたような健一の声が聞こえた。
慌てて振り返るが、状況がまったくわからなかった。
……健一のお腹部分が左の脇腹だけ残して、……なくなっていた。
脇腹だけで支えきれなくなった胸から上が、横に傾き始める。 すべてがスローモーションに見える中、このままでは床で頭を打ってしまう、などと的外れな事を考えていた。 健一の頭が床にぶつかる、その瞬間、今度は下顎だけ残して、健一の頭が消えた。 下顎からダラリと舌が垂れているのを見て、思わず目を背けたくなるが、脳の司令が追いつかないのか、……目を逸らせない。
続いて、ブラリと床に垂れていた左腕が消えた。
そこで、ようやく思い出したかのように、健一の身体から血が噴き出し始める。 健一の足元に血溜まりが出来る。
血溜まりの中、右の腕から胸、左の大腿部と次々と健一の身体が消えていくのを見て、齧られているのだと……喰われているのだと……ようやく理解できた。
仏像の脇の扉の前には、次々と欠損していく下半身が佇んでいた。
そして、残った下半身も……何一つ残すことなく……消えた。
げふ。
背後から、虚忘のゲップが聞こえた。 すぐ近くで発せられたはずの、その音は、かなり遠くから聞こえた気がした。 私は何も考えられなくなり、虚忘の方にゆっくりと顔を向けた。
虚忘は……来た時と同じように……ゆっくりと歩き、本堂から出ていった。
私と、タケルと、健一だった血溜まりを残して……
…………
その後、泣きじゃくる奥さんと呆然としているタケルを無理矢理連れ出して町を出た。 私もどこか夢心地というか、現実を受け入れられないまま、機械的に動いていた気がする。
虚忘の妨害は特になかった。 健一を喰らったことで満足したのかもしれない。 すべての後処理を住職に押し付ける形になってしまったが、本人は気にしなくていいと言ってくれた。
結局、健一は欠片も残らず、血痕しか確認出来なかったため失踪扱いになったと、後に住職から聞かされた。 虚忘に喰われたものは、だいたいそうなるのだと……。 絹代さんだけが、喰い散らかされた形になっていたのは、タケルに嘘の出身地を聞かされ、怒っていたのだろうという事だった。
しばらくして、私は高島家を訪れた。 謝罪のためと、二人の今後が気になったからだ。 高島家には、奥さんだけで、タケルは不在だった。
奥さんの話では、健一があの場に現れたのは、タケルの叫び声と私の叫んだタケルの名前が原因という事だった。 車で待機中に、窓を開けて、様子を窺っていた健一は、その声を聞いて、心配で居てもたってもいられなくなり飛び出した。 奥さんの制止を振り切って。
私は、その場で奥さんに土下座をした。 許されるとは思わなかったが、奥さんは静かに謝罪を受け入れてくれた。 いっそ、もっと罵倒してくれたなら、気が楽になっていたのかもしれない……
その後どうするかを奥さんに訊ねると、タケルと二人で沖縄の実家に戻るという話だった。 タケルは一足先に沖縄に行っており、自分は引越しのために戻ってきたのだと。 タケルは実家へ養子に出し、姓を変えるつもりだとも言っていた。 「気休めかもしれませんが……」 奥さんは、そう、力なく呟いた。
私はというと、霊能者としての活動を引退し、念の為、名前も本名である六道 真念ではなく、六道 仁真の僧名を名乗るようになった。 健一の、あの姿を見たら、とてもじゃないが、本名を名乗って生活する気にはなれなかった。
◇ ◇ ◇
そこまで思い出して、瞳を開ける。
今、冷静に思い出してみても、ヤツの倒し方が、まったくわからなかった。 唯一、効いたのはお経だったが、それもヤツを怒らせただけで、ダメージを与えたとは到底言えない。 まったく攻撃の出来ない相手にどうやって勝つと言うのか……
私は、深い溜息を吐いて、半眼でこちらを見ている仏像を見つめた。 願わくは、何事も起きなければいい、と。




