戦闘準備
夏の日差しは強く、境内からはうるさい程に蝉の声が響いていた。
本来なら、タケルもプールや川遊びなどに興じたいところだろうに……。 そんな事を考えながら、逃走の際の動線を考えていた。
本堂の戸は開けっ放しにするつもりなので、虚忘が現れるとしたら、そこからだろう。 いざと言う時は、仏像の脇の扉から寺の裏口に回り、そこから外に逃げ出して、車に向かえるよう、住職に相談して、近くに車を停めさせてもらった。 夜になったら、健一と奥さんには車の中で、エンジンを掛けた状態で待機してもらう事にした。
動線を確保したら、車から錫杖と五鈷杵などの法具を用意し、本堂を借りて、札造りを始める。 念を込めながら、特殊な墨を磨る。 自分では、少しの時間だけ動きを封じるような簡単な札しか造れないので、それを大量に造った。 あとは、たまに寺に出入りしている怪しい業者……名前は忘れたが、そこの営業が売ってくれる起爆札と結界札を数枚ずつ鞄から取り出して、いつでも使えるように持っておいた。 結構、値が張るので、できれば使いたくはないのだが……
起爆札は、妖や霊に当てると、瘴気に反応して、文字通り爆発を起こす札だ。 よくアニメや特撮ドラマなどでは、札をそのまま飛ばしているが、現実では、あんなカッコイイものではない。 ヒラヒラ舞い落ちるのが関の山だ。 実際は、丸めて投げつけたり、地面にばら蒔いて地雷のように使うのが一般的だ。
結界札は、地面に3枚以上置く事で、札を結んだ面に結界が張れる札だ。 こちらは、動きを止めると言うより、その中から出られないようにする、という効果がある。
あとは、霧吹きに尿を入れておく。
未だに納得のいかない話ではあるが、妖や霊は、自分達が穢れた存在の癖に、穢れを嫌がる習性がある。 尿を霧吹きで掛ける事で牽制ができる。 まぁ、妖や霊じゃなくても、尿なんて、一部のマニアでもなければ、絶対掛けられたくはない代物ではあるのだが……
本堂から出ないよう言いつけられていたタケルは、退屈なのか、物珍しいからなのかわからないが、私の準備を興味深そうに見ていた。 時折、コレはなに? アレはなに? と聞いてきたので、その度に詳しく説明をしてやった。 尿の件では、心底嫌そうに「うへぇ」と、呻いていた。
一通りの準備を終えたところで、錫杖と五鈷杵を磨き始めた。
「今までの準備は、基本的には保険だ。 俺の武器は、錫杖と念仏……要はお経だからな」
「うん、知ってる。 TVでいつもやってるから」
タケルに説明した後、錫杖と五鈷杵に念を込めながら磨いた。 念を込めるとカッコ良くは言っているが、要は『妖に攻撃が当たりますように』と、思いを込めて磨くだけだ。
妖や霊の一番の脅威とはなんなのか? それは、攻撃が当たらない事だ。 攻撃が当たらなければ、倒す事も出来ないし、追い払う事もできない。 こちらの攻撃は当たらないのに、向こうの攻撃はしっかりと当たる。 些か、不平等さを感じてしまうが、そもそも理が違うのだから、仕方ないのかもしれない。
しかし、私の声には、昔から不思議な力があり、その声でお経や喝で、妖や霊にダメージを与える事が出来た。 一体、何が理由でダメージになるのかはわからないが、効果があるのなら、原理など知らなくても問題はない。
夕飯は、奥さんが買い出しに行ったものを、本堂で4人で食べた。 少し、早めの夕飯だった。
「帰ったら、あんた、宿題やりなさいよ? 夏休みの友、だいぶ、溜まってんでしょ?」
「うへぇ」
「あなたも、絵とか自由研究と読書感想文とか、ちゃんと手伝ってあげてね?」
「はぁ、今年もやんなきゃだめなのか……。 タケル! もう小学四年生なんだから、一人で全部やったらどうだ?」
「ム~リ~」
そんな親子の日常的な会話が、随分、微笑ましく感じたのを覚えている。
夜7時を回ったところで、健一と奥さんには、車に移動してもらった。 まだ外は明るく、境内の空を複数の蝙蝠が飛んでいた。
「怖いか?」
タケルと二人きりになった私は、タケルにそう訊ねた。
「……うん」
「大丈夫だ! こう見えても、六道のおっちゃんは、妖や霊には強いんだ!」
そう言って、笑って見せた。 ヤツらを相手にする時、必要以上に恐れてはいけない。 恐れは、畏れに繋がり、畏れはヤツらの力になる。
!
不意に空気が変わるのを感じた。
シシシシシシ
歯を抜けるような笑い声によく似た奇妙な音が聞こえた。 タケルを見ると、細かく震えているのがわかった。
……虚忘だ。
私は、タケルを落ち着けるために、肩に手を掛けた。
「大丈夫。 ……少し下がってなさい」
そう言って、タケルを庇うようにしし、戸の方を見ると、本堂へ続く石畳に、子供のような影が見えた。
シシシシシシ
ペタリ
ペタリ
裸足で石畳を歩くような音が聞こえた。
少しずつ、影が近付いてくる。
「ここは、お前が来るべきところではない! 大人しく出ていけっ!」
念を声に乗せるイメージで、強く、低く、できるだけ大きく響くように言葉を投げ掛ける。 いわゆる喝だ。 ただの霊なら、これで霧散するのだが……
「た……たな……たなか……さん……ですか?」
影は、まったく動じずに歩きながら、話し掛けてくる。 影は、そのまま歩みを止めることなく、こちらに近付いてくる。 そして、本堂の明かりで姿が見えるくらいまで近付いてきたところで、私は虚忘を観察した。
その姿は、傷だらけの子供に……、黒く、薄汚れたボロ布を纏った、散切り頭の少年に見えた。 その青白い顔には、肉が抉れているように見える傷が、無数に付いており、右目も潰れているように見えた。 辛うじて開いている左目には光がなく、墨で塗り潰して描いたような黒目が覗いていた。 唇も鼻も欠損しており、歯が剥き出しになっていた。 まるで、B級ホラー映画に出てくるゾンビのような姿だった。 ただ、不思議な事に、欠損部分が目立つのは、首から上だけのように見えた。
「ひっ!」
後ろで、虚忘の姿を見たタケルが、声を上げる。
シシシシシシ
「た……たか……しま……たけ……る……」
タケルに気付いた虚忘が、タケルの名を口にしながら、なおも歩いてくる。
虚忘は、本堂の入口まで着くと、ようやく歩みを止めた。
「う……生まれ……は……どこ……ですか?」
歩みを止めた虚忘が、出身地を聞いてくる。 おそらく、タケルの出身地を聞き出したいのだろう。
「あ……あ……」
シシシシシシ
タケルが、怯えた声を漏らす。
「タケル! 大丈夫だ! 無視しろ」
なんだろう? なんとなくだが、違和感がある。 色? 確かタケルの話では、磨りガラスに映ったのは白い影だったはずだ。 今のこいつは、どう見ても……黒のイメージだ。 顔は確かに青白いが……身に纏う衣が黒いため、磨りガラスに映るのは、黒い影になるのではないか?
いや、違う。 この違和感は、そういう事じゃない気がする。 もっと、こう……根本的な……他の……今まで見てきた妖と……何か違うような……そんな……違和感だった。
「あ……あなたは……だれ……で……すか?」
「……ここは、お前が来るべき場所ではないっ! さっさと出てゆけっ!」
違和感の正体がわからぬまま、私は、虚忘に再び、喝を入れた。
シシシシシシ
「や……やま…….だ……さん……ですか?」
虚忘は、なおも問い掛けを続ける。 私は、虚忘が一歩でも本堂に足を踏み入れたら、攻撃出来るよう、懐の五鈷杵を握り、左腕で錫杖を打ち鳴らした。
シャラン
「立ち去れっ! 悪霊っ!」
私は、かなり強めに三度目の喝を入れるも、虚忘はそれ以上本堂に入ってこようとも、もちろん立ち去る素振りもないまま、そこから、さらに問い掛けを続けていた。
「……い……いとう……さん……です……か?」
今まで、喝を入れて退散させられなかった事は多々あったが、ここまで無反応なのは初めてだった。
その時、私の背筋にツツツと、冷たい汗が流れていくのがわかった。
五鈷杵:密教法具の金剛杵のうちの一つ
魔をうち砕く力を秘め、困難や煩悩を振り払うとされる




