箱が開いた、その後で……
……動けない。
玲香は、目の前の黒く干からびた物体を見つめたまま、身動きが取れなくなっていた。 物体から漏れ出る瘴気は、次第に強くなっていく。
ゴクリ。
玲香は、自分が唾を飲む音がやけに大きく響いた気がした。
……怖い。
玲香は、目の前の物体が怖くて堪らなかった。 自分は、パンドラの箱を開けてしまった。 そう思いながら、目を逸らす事も出来ずに、瘴気が強くなっていくのをただただ見詰める事しかできなかった。
……そして、目の前の黒く干からびた物体が胎児の頭だと、玲香が思い出したのは、その物体の両眼が大きく開かれた時だった。 その時、初めて玲香は、その物体に顔がある事を知ったのだ。 両眼が開かれた後、その物体から出た瘴気は、そこに留まり小さな身体を形成していった。
玲香を見つめながら、モゾモゾと動きながら身体が形成されていくそれは、赤子のように見えた。 少しずつ身体が形成され、完成した瞬間、瘴気が周りへと拡散され、一瞬で辺り一帯が夥しい瘴気に満たされた。
おぎゃぁあ、おぎゃあ!
その赤子は強く泣き始めた。
お腹が空いているのだろうか? 玲香は、そんな事を考えながら、その赤子を見ていた。 今までの気持ちとは打って変わって、その赤子がひどく愛おしいものに思えていた。
玲香は、そっと手を伸ばし、赤子を優しく抱き寄せた。
この子の糧となるご飯を用意しなくては……。 そうだ……、この子のご飯には、箱に呪われた4人の人間がいいのではないだろうか? きっと陰は、この子のために、あの4人を用意したのだ。 この子がしっかりとお腹を満たすために……。 この子はまだ小さいから、お肉は細かく切り刻んで上げないと……。 ちょうど、私の持っている霊刀『照世』が、その作業にうってつけのように思える。 うん、きっとそうだ。 そうと決まれば、早く行かなくては……。
……待っててね。 今、お姉さんがおいしいご飯を用意してあげるから……。
玲香は、4人がいる部屋へ向かうため、赤子を抱いたまま、部屋の出入り口へと振り返った。
◇ ◇ ◇
足下から冷気が登ってくる気がした。 ドクンドクンと自分の心臓の音がやけに響いて聞こえた。 あの箱は開けてはいけないと言われていたものだったはずだ。 ここに来るまでに聞いた與座の話では、童子と呼ばれる鬼が出てくるはずだ。
どうする?
今から柊を呼びにいくべきだろうか?
ほんの一瞬、逡巡したその時、黒いモヤが箱のあった場所から爆散した。 次の瞬間、とてつもない奇声が鼓膜を破る程の勢いで、鳴り響いた。
おぎゃぁあ、おぎゃあ!
それは、赤子の泣き声に似ていたが……、もっと禍々しいものに感じられた。
僕は思わず耳を押さえながら蹲った。 耳を押さえても、はっきりと聞こえてくる赤子の泣き声のような声を聞きながら、與座のツレの様子を見た。彼女は大丈夫だろうか?
彼女は、ゆらりとこちらを振り向いた。
その手には、黒いモヤが抱き抱えられていた。 まるで赤子を抱くように優しく、……抱いていた。 泣き声は、その黒いモヤの塊から発生しているように思えた。黒いモヤを抱き抱える彼女の目は虚で、なんの表情もないように見えた。
……ゆらり。
與座のツレは、力なく一歩を踏み出した。 そして、フラフラとした足取りで、僕の横を通り部屋を出て行く。 情けないことに僕は、蹲ったままそれを見送る事しか出来なかった……。
與座のツレが部屋を出て、僕は我に帰った。
アレは危険なものだ。
止めなければ!
いや、僕なんかに止める事なんて出来ない。 柊に伝えなければ!
いや、もう遅い。
せめて、後を追わなければ……。
そう思った所で、背中に悪寒が走る。
恐る恐る後ろを振り返ると、両目のない女性の陰が、クツクツと笑っているのが見えた。 その顔は、禍々しく、ポッカリと空いた眼窩から血が滴ったまま、醜く歪んだ笑みを見せている。
「……長かった」
ポツリと陰が声を出した。
「……四百年、あの子に憑いて……。 でも、もうそれも終わり……。 あたいは……自由さっ!」
思っていた以上に、しっかりと喋る陰。 なんとなく、陰は喋らないイメージだったが、それも崩れ去った。 思えば、完全体になった時のキキも、しっかり喋っていたではないか? しかも、お札で制限されていても、念話みたいなのはできていたし……。 なんだ、それじゃあ、陰が喋らないってのは僕の思い込みだったんだ……。
僕は、そんな事を考えながら、ボンヤリと陰を見ていた。
「まずは……あたいも腹拵えしないとねぇ……」
陰が、こちらを見て呟く。 その瞬間、陰が消えた。 いや、跳んだのだ。 こちらに飛び掛かってきたのだ。 ってか、何? そのジャンプ力……。
あっと思った時には、キキが僕の前に立っていた。
不意にジャッと変な音が聞こえた。 その音と同時に目の前のキキが消えた。 陰が、横に手を薙ぎ、キキを吹き飛ばしていたのだ。 陰の、その爪は長く、鋭く尖っていた。
「……なんだい? 人間なんかに飼われてるのかい? 大したことのない陰だね……。 情けない……」
「キキっ!」
僕は、思わずキキの方へ駆け出そうとした。 その瞬間、背中に衝撃が走った。
何が起きたのか、わからなかった。 特に痛みもなかった。 ただ、衝撃で前のめりに倒れてしまった。 その程度に思えた。 床に倒れて、背中に手を当てる。 暖かい液体で濡れているように思えた。 背中を触った手を見ると、真っ赤に染まっていた。
……血?
恐る恐る首を捻り、陰を見ると、恍惚の表情で真っ赤に染まった自分の爪を舐めている。
アレか?
アレにやられたのか?
え? 僕が?
つまり、あの赤いのは僕の血か?
そこまで考えた所で、ようやく痛みが追いついたのか、背中に激痛が走った。 背中が心臓になったのではないか? と思えるくらい、ドクンドクンと脈打っている。
あの陰は、僕を殺そうとしている。
そう思えた。 いや、あの血の舐め方からすると、僕を食べようとしているのかもしれない……。
激痛の中、そう考えると、途端に恐怖が頭を支配する。 思い出されるのは、與座とキキの闘いだった。 あんな人間離れした動きの奴から逃げるなんて、とても出来るとは思えない。
嫌だ! 死にたくない!
柊を呼ばなきゃ!
大声を出して呼ぼう。
だが、声を出そうにも、どうやって声を出せばいいのか、分からなくなっていた。 僕は、これ以上、陰を見ていたくなくて、目を瞑り顔を前に戻した。
不意に何かの気配を感じ、目を開けると、目の前にキキの顔があった。 キキが僕のところまで這って来ていたのだ。
あぁ、なんて綺麗な顔なんだろう……。
思わず見惚れてしまう。 お札越しに見えるキキの顔は、とても不安そうな表情に見えた。
そして、キキは自分に付いているお札を指差した。
「……取れってこと?」
さっきまで、声が出せなかったのが嘘のように、すんなりと声が出た。
その言葉に強く頷くキキ。
なるほど。
お札のないキキは強かったはずだ。 キキなら、あの陰を追い払えるかもしれない。
……でも。
そこで僕は悩んでしまった。 もし、キキが敵に回ったらどうなる? 僕なんて、あっと言う間に殺されてしまうに違いない。 與座とキキの攻防を思い出し、震えていると、キキの目が僕の後ろを見ている事に気付いた。
後ろを見てみると、陰が笑いながら、こちらに歩み始めていた。 ……なんて、醜悪な顔だ。
……こんな奴に殺されるくらいなら、キキに殺された方が全然マシだ。
「ごめんな? 君に殺される訳にはいかないんだ。 なんせ、先約があるんでね」
僕は、近付いてくる陰にそう声を掛けると、前に手を伸ばし、キキのお札を掴んだ。
そして……、一気に……そのお札を剥がした。




