慟哭
とぅるるるる とぅるるるる。
鳴り響く発信音をしばらく聞いた後、角田は電話を切って、溜息を漏らした。 電話を掛けた先は、ディレクターの長屋であった。
バサリ。
角田は、資料を半ば投げ捨てる形で机の上に置いた。 資料の表紙には『幻の鬼鳴村を追って』という企画名が書かれていた。
鬼鳴村伝説。
それは、数年前に流行った杉沢村伝説とよく似た話だった。 内容はチープなもので、その村へ迷い込むと二度と帰ってこられないといった話だ。
本当に二度と帰ってこられないというのなら、一体、誰がその噂を広めるというのか……。 まぁ、それこそが都市伝説と言ってしまえば、それまでなのだが……。
長屋は、そのロケ後に会社に来なくなった。 何度か電話でやり取りをしたが、まったく要領を得ない。 ただ、「心臓が氷になっちまった」という意味不明な呟きと、「誰かに常に見られている」といった言葉は印象に残っている。
プロデューサーの角田とディレクターの長屋は同期だった。 同じ製作会社に入社し、競い合うように番組の制作に携わってきた。 立場は変わってしまったが、今でも仲の良い戦友だ。 時折、意見の違いから衝突する事もあるが、いい番組を作りたいという気持ちは同じだった。 若い頃は、よく朝まで飲みながら、夢を語り合ったものだった。 そんな長屋が病んだというのなら、どうにかしたい、というのが角田の思いだった。
「今晩にでも、様子を見てくるか……」
角田は誰に言うでもなく、そう呟いた。
◇ ◇ ◇
夜、角田が長屋のアパートに着くと、呼び鈴を押した。 部屋の主は、その呼び鈴に反応を示さなかった。 角田は、留守かと思い、それでも念のためにとドアノブに手を掛ける。 鍵は掛かっていなかった。 恐る恐る扉を開けると、ムッとするような熱気が部屋から溢れ出した。 何事かと部屋の中を覗き見ると、暗闇の中で石油ストーブを焚いて、その前に毛布を被った男が座っていた。
「……長屋、入るぞ」
返事はなかったが、角田はそのまま部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋は、1Kの小さな部屋だった。 ディレクターとして、多忙な毎日を送っている長屋は、夜寝るだけのために部屋を借りているようなものだった。 女っ気も飾りっ気もない質素な部屋に、大量の雑誌や本が積み上げられていた。
角田は、その部屋に既視感を覚える。 思えば、角田も結婚するまでは、こういった部屋に住み、暇さえあれば、雑誌や本、インターネットでネタを探し、企画を考えていた。 公私の境がなくなり、常に番組と視聴率の事だけを考えていた。
「おい! 大丈夫か?」
長屋が虚ろな目を角田に向ける。 それにしても熱い、と角田は額の汗を拭った。 まだ9月の頭で、夏といっても十分な程の気温の中、石油ストーブをつけているのだ。 それは明らかに異常だと思った。
「角田か……」
「長屋! 一体どうしちまったんだ? こんなところでリタイヤしちまうのか? 一緒に最高の番組を作るんじゃなかったのか?」
「……腹を空かせて、今にも死にそうな状態の男がいたとするだろ?」
角田の眉が寄る。 長屋が何を言いたいのか、その意図がまったく読めないのだ。
「その男の前に豚が現れたら、男はヨダレを垂らすと思うか?」
「……さあな」
じゅる。
「俺は、ヨダレは垂らさないと思うんだ。 うん、そりゃ、解体された肉を見たら、ヨダレを垂らすだろう。 でもなぁ、豚を見て、それが食べられる事は知識でわかっていたとしても、目の前の豚=食べ物という認識が弱いんじゃないかと思うんだ。 なんせ食卓に出てくるのは豚の姿ではなく、肉の姿なんだから……」
「……かもな」
じゅる。
「じゃあ、魚を見たらどうだ? 魚はそのまんまの姿で食卓に現れるよな? そうなると、魚=食べ物ってのは、認識できるよな?」
「……だったら?」
じゅる。
さっきから、変な音がする。 角田は、音の正体を探ろうと、長屋と会話をしながら、キョロキョロと周りを見回す。
「魚を見たら、その男はヨダレを垂らす。 うん、きっとそうだ」
じゅる。
まただ。 角田は、ますます注意深く周りを見る。 少しも食べられていない弁当の残骸がいくつも長屋の周りに置いてある。
「おい! 一体、どうしちまったんだ?」
焦燥感をグッと堪えて質問をぶつけるが、返事はない。
じゅる。
「……じゃあさ。 教えてくれないか?」
ふらりと、長屋が立ち上がる。 被っていた毛布がバサリと落ち、舞い上がった風でストーブが、ごぉと音を立てる。 ふらふらと角田に近寄っていく長屋。
じゅる。
その音が、長屋のヨダレを啜る音だと気付くと同時に、長屋が口を開いた。
「なんで俺は……、お前を見てヨダレを垂らさなきゃいけないんだ!?」
立ち上がった長屋が、大口を開けて迫ってくる。 まるで吸血鬼のように首筋を狙って……。
角田は慌てて後退り、咄嗟に腕でガードする。 ……が、長屋は御構い無しに腕に噛み付く。
「うがぁああぁ!」
角田は、思わず叫び声を上げて、噛まれた腕を振り回そうとするが、長屋が腕にしがみついた状態で抵抗するせいで、振り回す事が出来ない。 角田は迷った挙句、長屋の足に自分の足を引っ掛けて、思いっきり前のめりに倒れた。 柔道の足払いだ。
角田の腕が長屋の口を強打する。 ゴンという鈍い音が長屋の頭から聞こえた。 そこで、ようやく長屋の口が腕から離れた。 離れた長屋を腕で抑え、立ち上がり様に腹を足で踏ん付ける。 何度か踏ん付けた所で、長屋が抵抗をやめて身体を丸めた。
「う……ぅ……」
長屋の呻き声が響く中、角田は少し距離を取り、玄関までの動線を確保する。
「おい! 悪かった……。 でもお前が突然襲ってくるから……。 ……大丈夫か?」
「ひぐっ……ぅ……、帰ってくれ……」
「……わかった。 帰る。 ……帰るから……何があったかだけ教えてくれ」
「……ロケの途中から……誰かにずっと見られてるんだ」
「気のせいだ! 大丈夫だ!」
じゅる。
「気休めは止めてくれ……。 それに、……食べたいんだ」
「腹が減ってるのか? じゃあ、何か買ってきてやる。 何が食べたい?」
「……とだよ」
じゅる。
「何? よく聞き取れなかった。 もう一度言ってくれ」
「人だよっ! 俺は、人が食べたくてしょうがないんだっ! どうかしちまったんだっ! どうにかなっちまったんだっ! お前の事だって、食べたくて仕方ないんだっ! お前を見てるとヨダレが止まらないんだよぉぉ。 お前、なんでそんなに……美味そうなんだよぉぉおお……ぐっ……ひっく……うぅ……ぅ……」
途中から嗚咽に変わった、その慟哭を聞き、角田は言葉を失った。 どう声を掛けていいかわからなかったのだ。
「……頼む。 ……帰ってくれ」
その声は震えていた。
「……わかった。 ……また来るからな」
角田はそう言い残し、長屋の部屋を後にした。
アパートから離れたところで、シャツの袖を捲った。 腕には長屋の歯型がくっきりと残っていた。 明らかに異常だ。 ……異常ではあるが、まだ狂人とは思えなかった。 あの慟哭には、まだ理性が見えた気がしたのだ。
「一度……、彼女に相談してみるか……」
角田は独り言を呟き、残していた仕事を片付けるために、会社へと足を向けた。




