クリスティーヌ滝本 前編
クリスティーヌ滝本こと、滝本 美穂が家を出たのは15歳の事だった。
母子家庭で育った美穂は、母親から虐待を受けていた。
もともと、ことある事に「お前なんか産まなきゃよかった」と、アタリ散らしてくる母親ではあったが、次の日には涙ながらに謝ってくることから、まだ愛されていると感じていた。
決定的になったのは、母親に恋人が出来たことがキッカケだった。
「やぁ、初めまして。 中学2年生なんだってね。 どんなのがいいのか悩んだけど……喜んでくれたら、嬉しいな」
そう言いながら、紹介された男は、コトリ、コトリと美穂の憧れのコスメをテーブルに置いていった。 一つずつ、並べられていくコスメに美穂の心が踊る。
その彼のおかげで母親の精神も安定し、このまま幸せになれると実感していた。
ある日、学校から帰ると母親は不在で、その男だけがいた。
「お母さんは、ちょっと出掛けててね」
そう言いながら男は、カバンから出したものをコトリ、コトリとテーブルに並べ始めた。
それは、少女の目に触れるにはあまりにも場違いな物ばかりだった。 知識はあったが実物を見たのは初めてで ── 美穂の心がザワついていく。
一つずつテーブルに並べられていく"おもちゃ"に美穂の嫌悪感が積み重なっていく。 最後にスクール水着をテーブルに置いたところで、男は笑顔でこう言った。
「お母さんには……内緒だよ?」
美穂は逃げた。 狭い部屋の中を必死に。
「忘れ物しちゃった……って、あんた達……何やってんの……」
あわや、というタイミングで母親が帰ってきたのは、美穂にとって救いだったのか、それとも……
結局、母親とその男は別れる事になったが、それ以降、母親は美穂に辛くあたった。
「どうせ、あんたが色目使ったんでしょ! このメス豚がっ!」
強くなる罵倒とエスカレートしていく暴力。
「……全部台無し。ほんと、あんたっていつもそう。いいことが起きそうになると、決まってぶち壊すんだよね。なんで生まれてきたの?」
母親は、……世界は、美穂を必要としていなかった。
高校に進学したのを機に、美穂は家を出た。 そういった家出少年、少女達が集まるとSNSで実しやかに言われている、とある界隈を目指して。
ナドゥ桐山……桐山 貴志と出会ったのは、そんな時だった。
「俺、イケメンだから、なんとでもなるし。 美穂も美人なんだから、どうとでもなるっしょ? 俺らみたいなのは、強かに生きていかないとな」
父親により、背中に不動明王の刺青を背負わされた青年は、父親からの虐待により左足が不自由になっているにも関わらず、明るく、ポジティブだった。
日雇いのバイトは力仕事が多く、桐山の左足は大きなハンデとなっていた。 それでも、桐山はポジティブに嘆きながらも、懸命に生きていた。 彼なりに強かに。
美穂は、そんな桐山に惹かれていき、彼も自分のことのように美穂を大事にした。 世界の中で、桐山だけが美穂を必要としているのだと感じた。
美穂は、自分の"初めて"を桐山と共有した。 そうして、いつしか二人はお互い支え合いながら、生きて行く道を選んでいた。
二人は、堅実なバイトから、人には言えないようなバイトまで、その日その日を懸命に生きていた。
そんな日々に変化が訪れたのは、突然だった。
それは、桐山が美樹本 宗玄と名乗る人物と出会ったことから始まった。 なんでも彼は、新しくスピリチュアル系の団体を立ち上げようとしている、との事だった。
イベントの立ち上げのスタッフとして、桐山が小銭稼ぎに行ったのが始まりだった。
「君、大変だったね。 ……親からの虐待かな? でも、私と出会ったんだから、もう安心だ」
そんな胡散臭いことを言われたらしい。
「最初は信じてなかったぜ。 俺らみたいなの集めて、石投げりゃ、大抵、虐待されてた奴に当たるってもんだろ?」
でもさ、あの人は違うんだ、背中の刺青まで言い当てやがった、と笑いながら話す桐山に美穂は不安を覚えていた。
「いや、美樹本さん、今はラ・ムー美樹本になったけど、まじパネェのよ。 今度、美穂にも紹介するよ。 あの人も今は信頼できるスタッフが欲しいって行ってたし」
日に日に増えていく、美樹本の話題。 いつの間にか、美穂もその人物と会う事が決まっていた。
「ねぇ、本当に大丈夫なの? その人……」
「大丈夫だって。 心配いらないよ。 なんせ、今後どう生きたらいいかとか、人が生きるのはなんのためかとか、人生ってなんだ?みたいな、誰も答えてくれないような事をズバズバ答えてくれるんだぜ?」
その言葉に、美穂は余計に不安を覚えた。
誰も答えられないような大きな問題に、簡単に答えを出す者は、愚か者か詐欺師だけ。 美穂は、そう思っていたから。
◇ ◇ ◇
「あぁ、君が滝川君だね」
「滝本です」
「そうそう、滝本君だ。 やはり、縁が強い」
かつて、フートという国があった。 今は海の底に沈んだ国。 気に喰わない表現だが、と前置きして言われたのは、いわゆるムー大陸やレムリア大陸などの与太話の本物版……との事だった。
美樹本は、自分達三人はそのフート人の生まれ変わりなのだと主張した。
「生きにくさ、感じてるだろ? 性的被害に虐待……か。 すべて、劣等民族によるフート人への嫌がらせだよ。 ま、君達だから、ここまで言うんだがね」
美樹本が言葉を重ねるたび、桐山が心酔していくのが目に見えてわかった。 だが、美穂は違った。 彼が言葉を紡げば紡ぐほど、胡散臭さだけが肥大していった。
ただ、それと同時に迷いも生じ始めていた。 "この心を読まれる感じ、もしかすると……" と。
「……なるほど。 そういう疑う感覚というのはとても大事だよ。 騙されないようにするためには……ね。 "大きな問題に、簡単に答えを出す者は、愚か者か詐欺師だけ"。 いい言葉だ。 ……なにかの本で読んだのかな?」
心の中を覗かない限り、出てこない言葉。 すべて見透かされているような感覚に目眩を感じつつも、本物かもしれないという思いが強くなっていく。
「でも、偽物を炙り出す技法など、本物の前では無意味だよ。 誰かの借り物の言葉なんかじゃなく、自分の中に産まれた感覚が大事なんだ。 それに、騙されまいとする者ほど、簡単に騙される。 皮肉な事だけどね」
そう言って、桐山に近付く美樹本。 美穂は、その真意を測りかねる。
「例えば……」
そう言って、桐山の左足を手で押さえる美樹本。
「どうかな? 桐山君」
「…………え? ちょ! まじ!?」
嬉しそうに飛び跳ねる桐山。 その左足には、美穂の知る不自由さは、一切感じられなかった。 感極まり、涙を流しながら足を動かす桐山。 美穂もつられて涙ぐむ。
「やべぇ! ラ・ムー美樹本、まじパネェ!」
彼は……、ラ・ムー美樹本は、本物だったのだ。 化けの皮を剥がそうなど、烏滸がまし過ぎた。
ラ・ムー美樹本だけは、本物だったのだ。
騙そうとしているかどうかは、ともかく、彼は本物なのだ。
美穂の心が大きく揺らいだ。
「いいね。 いいよ、その猜疑心。 それも君の大事な一部だ。 その感覚は、大事なものだよ。 その上で、私のことを手伝ってくれたら、嬉しいのだけどね」
器が違う。
「……私のできることなら」
「ありがとう!」
饒舌な男の短い一言。
その蕩けるような笑顔に美穂は、桐山以外に自分を必要としてくれる人間がいるのだと、感じる事ができた。
そして、美樹本のイベントが行われた。
美穂も桐山とともにイベントを手伝った。 決して大きな規模ではなかったが、そこそこの数の若者達が集まった。
美樹本の演説に、悩み多き若者達が希望を見出し、生き生きとした表情を浮かべていく様を、スタッフとして間近で見ていた美穂は、大きな達成感とカタルシスを感じた。
その日、美穂は初めて世界に歓迎された気がした。
観衆とともに美樹本へ拍手を送る美穂は、知らないうちに涙を流していた事に気付く。
ラ・ムー美樹本について行こう。
美穂は涙を拭いながら、そう決意した。




