鹿山 臨太郎 前編
「ねぇ、お母さん……。 三階に誰かいるよ……」
最初に、その家の異常に気付いたのは、小学二年生になったばかりの一人息子、臨太郎だった。 二階の寝室から寝ぼけ眼を擦りながら、一階のリビングに降りてきた臨太郎は、開口一番、そう言い放った。
「何言ってるの……。 そんな訳ないでしょ?」
母の景子はそう言いながらも、泥棒かも……と思いながら、武器になりそうな柄の長い掃除用具を手にし、音を立てないように、階段を登った。
閑静な住宅街に建てられた、少し幅の狭い土地に建てられた三階建てのマイホーム。 土地の幅の狭さをカバーするために三階建てにした自慢のマイホーム。 それが鹿山家だった。 父親は、商社に勤め、高給取りではあったが、数年に一度異動を強いられ、その時も別の地域に単身赴任中だった。
その住宅街は、周りにも裕福な家庭が連なっており、年に何回かは、窃盗騒ぎが話題になる……そんな区画だった。
防犯システムは起動していない。 だが、以前、隣人宅で窃盗未遂があった時にやってきた警察と話をした際、『この辺はプロしか入らない』、『プロからしたら防犯システムの隙間を狙うのは簡単』などのネガティブ情報をインプットされていた景子は、息子を一階のリビングに待機させ、慎重に階段を登っていった。
結果としては、臨太郎の言う『誰か』は、いくら探しても見つからなかった。 取り越し苦労……。 景子の脳裏に、そんな言葉が浮かんだが、なにもないのが一番なのだ、と前向きに考えるようにし、その場は終わった。
しかし、その一件以来、鹿山家で不思議な現象が起こるようになった。
ミシ……ミシ……
二階の寝室で、親子二人で寝ようとする度に、三階を誰かが歩く音が聞こえた。
トン……トン……トン……トン
臨太郎が学校に行っている時間、景子が寝室を掃除していると、誰かが階段を昇り降りするような音が響いた。
クスクスクス
二人で夕食を食べている時、どこからともなく女性の笑い声が響いた。
ふわっ
ふとした時に、景子の使っているものとは違う女性物の香水の香りが漂った。
その度に、景子は勇気を振り絞り、柄の長い掃除用具を手に三階を確認するが、何も進展はなかった。
景子が、臨太郎を身篭った時に建てた、新築のマイホームで、それまで怪現象など起きた事などなかった。 ここに来て何故急に? それが景子の正直な気持ちだった。 霊に憑かれるような出来事にも、誰かに恨まれるような出来事も、全くと言って心当たりがなかった。
単身赴任中の旦那の慎也に相談しても、気のせいだろうと一笑され、ママ友にも相談出来ず、どうしていいかわからないまま、数日が過ぎていった。
そして、ある日、とうとう息子の臨太郎が三階へ向かう階段の上から覗き込む、長い髪の女性の姿を確認するに至った。
死ね。
女は、階段の上から、覗き込むように顔だけ出し、無表情のまま、呪いの声を発した。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……死ねばいいのに……
……限界だった。
景子は、息子の臨太郎を連れて、同じ県内の自分の実家へと逃げた。
逃げたはいいが、臨太郎の学業を考えると、そのままでいい訳もない。 景子は毎晩のように慎也に電話をして、何とかして欲しいと懇願を続けた。
最初は、気のせいだろう、と笑っていた慎也も、取り乱す景子との会話を続ける内に、ようやく重い腰を上げた。 慎也は、客先や上司、同僚などから仕入れた情報を元に、評判の良い霊能者に当たりをつけた。
ようやく、次の日に霊能者が来てくれる、となった晩、慎也との電話を終えて、先に臨太郎が寝ている実家の寝室に入った景子は、信じられないものを目撃する。
ねぇ、死んで? ねぇ……死んでよ。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……
……死ねばいいのに……
呪いの言葉をブツブツと呟く、長い髪の女性が、眠っている臨太郎の寝顔を覗き込んでいる姿だった。
ひっ!
思わず、声を漏らした景子に気付いた女性は、ゆっくりと景子の方に顔を向けると、ニタリと笑みを浮かべ、そのまま消えていった。
実家にまで……
その晩、景子は、臨太郎と一緒に、自分の両親の寝室に逃げ込み、恐怖と何故実家にまで?という疑問で眠れないまま、朝を迎えた。
「あらあら……、これはこれは……随分と厄介なのに憑き纏われてるわね……。 でも、私が来たからには、もう大丈夫よ」
旦那の慎也の依頼で、寝不足だった景子の元に来た霊能者は、大河内 修蓮と名乗る尼僧だった。 彼女の笑顔と声は、不思議と安心感を覚えさせ、彼女の『大丈夫』という言葉は、疲弊していた景子に安堵の息を吐かせた。
「ん~、これは……いわゆる生霊って奴ね。 狙いは……臨ちゃんみたい……」
生霊……
強い信念や思想、感情(主に負の)は、時として、周りの瘴気を巻き込み、形を成すことがある。 その状態がいわゆる生霊と呼ばれる状態である。
通常の霊、『魄』が瘴気を纏って『陰』となるのに対して、元々、瘴気と呼ばれる念が、他の瘴気を纏うため、完全な妖化には時間が掛かる。 だが、既に瘴気を纏っているので、発生した時点で、半妖化している状態と言えた。
修蓮の話では、営業職である慎也のアシスタントを担当している女性が、慎也に恋慕を抱き、息子の臨太郎さえいなくなれば、慎也は離婚に踏み切る事が出来、自分と結ばれる事ができる……、そう思い込んでしまい、生霊を飛ばしている……。 そういう事だった。
聞いてみれば、よくある話のように思えた。 なんだ、いかにも清廉潔白みたいな顔をしていたが、結局、慎也のせいではないか……。 思わず、自嘲気味の笑いをこぼす景子に修蓮は優しく語った。
「勘違いしないでね。 決して、慎也さんが不倫しているって訳ではないのよ? ただ、その女性が一方的に慎也さんに懸想しているだけ……」
その後、修蓮は、臨太郎を結界の張られた自宅へ匿う事を提案した。
一つ、生霊の狙いが臨太郎であること。
一つ、生霊は半妖化しており、祓うのに時間を要すること。
そして、修蓮宅の敷地内には、同じような境遇の子が勉強できるよう、協力者などによるフリースクールが存在していること。
この三つが、渋々ながらも、景子が親子で修蓮の自宅(正確には敷地内の居住区)へ引っ越す事を決意させた要因であった。
引越しの日、手伝いに来た青年は、和泉 真と名乗る、修蓮の弟子だった。 頭にタオルを巻き、作務衣を着込んだ無愛想な青年は、無言で鹿山親子の荷物を、次々と古びたバンに載せていった。 荷物は必要最小限とし、追加で必要なものが出たら、都度、取りに行く事にした。
景子が、その青年もまた、修蓮に救われた者の一人だということを知ったのは、引越しが終わって、数日が経った後の事だった。




