兆し
暗い闇の中、目の前に女学生風の着物を着た髪の長い女性が、こちらに背を向けて立っていた。 その見覚えのある後ろ姿からは、若い女性特有の香りがした。
「た……たすけ……て……ください」
目の前の女性が勇気を振り絞り、震える声を上げた。 動かない手足と同様に、大きな声を出すことは出来ない。 よって、自然とその声は、虫の泣くようなか細い囁きとなった。
僕は、それを無視して、後ろから彼女の肩に左手を置く。
ビクリ
途端に彼女の肩が、跳ねるように震えた。 その反応に満足した僕は、そのまま、右手で彼女の髪を持ち上げ、彼女の髪の匂いを嗅いだ。 彼女の匂いが鼻腔を刺激し、全身に興奮が走る。
「~~~」
彼女が、声にならない声を出そうとしていのがわかった。
肩に置いた左手を、彼女の白く細い首の方へとずらす。 一通り、その柔らかい肌触りを堪能した後、そのまま上へとずらし、彼女の顎に手をかける。
「~~~」
残念。 大声で恐怖を叫びたいのだろうが、それは叶わない。
顎にかけた左手をさらに上へとずらし、彼女の柔らかい唇に触れる。 ひどく乾いているように思えた。 まぁ、それも無理からぬ事であろう。 その唇の振動で、ようやく彼女が震えて、ガチガチと歯を鳴らしている事に気付いた。
チャキ
髪を弄っていた右手を解放すると、その手で腰の軍刀に手を伸ばした。 左手で彼女の唇を弄びながら、抜いた軍刀を彼女の頭上で前へと回し、上から彼女の目の前へと、ゆっくり、ゆっくりと下ろし、その刃を見せつけた。
「~~~」
無駄だというのに、彼女は、またもや叫ぼうとしている。 仕方の無い娘だ……
僕は、前に回した軍刀を移動させ、そっと彼女の首に当てた。 当てた瞬間に彼女の身体が、ビクンと跳ね上がった。 首に軍刀を当てた状態で、急に動かれると危ないという事がわからないのだろうか?
「や……やめ……て……、やめて……くださ……い。 な、なんでも……なんでもします……から……」
ようやく、大声が出せない事が理解出来たのか、再び、虫の泣くような、か細い声で、無駄な命乞いを始めた。
僕は、その美しい声に興奮しながら、軍刀に込める力を強くする。 首の弾力が軍刀を通して、右手に伝わる。
プツツ
ゆっくり軍刀を横に引くと、先程まであった抵抗が嘘のようになくなるのがわかった。 皮さえ切れてしまえば、後は簡単に切り裂ける。
「~~~」
僕は、彼女の声にならない叫びを無視して、左手で弄んでいた唇を離すと、ベタリと顔全体を手のひらで押さえた。
「~~~」
そして、そのまま一気に軍刀で、彼女の喉を掻き切った。
「 か 」
彼女の間の抜けた声と共に、勢いよく吹き出す血。
おっと、このままでは、血液を外套に見立てるのが難しくなってしまう。
僕は、彼女の髪を乱暴に掴むと、そのまま背後に引っ張り、その身体を地面に引き倒した。
ミチ
髪を引っ張って倒す際に、彼女の首の傷の端が少し千切れる音がした。 少し、深く切り過ぎただろうか?
倒れた彼女の首から、血が大量に溢れ、首を伝って地面へと流れていく。 やがて、血の勢いがなくなると、切断面からゴポゴポと赤い泡が出始めた。
……うん。 まぁ、悪くない。
横たわる女性の首周りの血に塗れた着物と、背後に広がる真っ赤な血溜まりが、外套に見えなくもない事に安堵する。
…………
そこで、ふと、今回は、どんな女性を殺したのだったっけ?
と思い至り、倒れている女性の顔を確認する。
そこには、青白くなった美しい顔を恐怖で歪ませた樹神 理恋の姿があった。
◇ ◇ ◇
そこで目が覚めた。
早鐘のように脈打つ心臓、カラカラに乾いた喉、寝汗でベトベトに濡れた冷たい寝間着。 隣には四歳になった息子の正一と、妻の絹代がスヤスヤと眠っている、いつもの……いつも通りの寝床だった。
……水を……飲もう。
冷たくなった寝間着をまとわりつかせながら、のそのそと布団から抜け出す。
『赤い外套の怪人』が、本誌に掲載されてから、一ヶ月。 久古君の話では、なかなかの反響だそうで、編集部の中では、短期連載してみないか? との声もあがる程であったらしい。 ただ、こういうのは、濃密な一話だから価値があるものだ、と久古君の独断でお断りを入れてしまった事を後から聞かされた。 別に構わないが、お断りの前に相談はして欲しかったものだ。
今見た妙に生々しい夢も、その影響を受けているのだろう。 自分が書いた『赤い外套の怪人』の凶行をなぞるような夢だった。 衝撃的だったのは、被害者が樹神君だった事だ。
……もしかすると、僕は彼女の魅力に惹かれているのだろうか……?
いやいや、僕には絹代がいるじゃないか。
そんな事を考えながら、水を飲んだ後、寝間着を替え、再び布団へと潜り込んだ。
◇ ◇ ◇
翌朝、目が覚めると、なにやら外が騒がしい事に気付いた。
「おはよう。 なんだか外が騒がしいが、何かあったのかい?」
朝飯を用意している絹代に問いかける。
「あぁ、おはようございます。 外が騒がしいのは、この先の角で、死体が見つかったかららしいのですよ」
その言葉にドキリとする。
「へ、へぇ、浮浪者かなんかかな?」
そこで絹代は手を止めて、そそくさと近寄ってきた。 あまり、大っぴらに言いたくないのか、顔を寄せて、小声で話し始めた。
「見つかったのは、若い女性の死体なんですって……。 しかも……首を真一文字に切り裂かれていたものですから……、ほら、昔、話題になったという、あの……なんとかジャックとかいう西欧の殺人鬼……。 あれの和製版が出た、と皆、大騒ぎしてしまって……」
それを聞いた瞬間、いてもたってもいられなくなり、僕は寝間着のまま、家を飛び出した。
人々が指を差し、噂をしている方向へしばらく走ると、絹代の言う通り、路地の角で人だかりが出来ていた。
野次馬達を押しのけて、最前列まで行くと、数人のサーベルを携えた警官と、死体を隠していると思われる、膨らみを持ったゴザが目に入った。
まさかな……。 まさか……
絹代から死体が発見された、と聞かされた時から、昨晩の夢が妙に気になっていたのだ。
……アレは、本当に夢だったのだろうか?
ひょっとしたら、アレは夢なんかではなく、現実だったのではない? 被害者は樹神君で、犯人は僕なのではないか……と。
いや、もちろん、ありえない事だと思っていた。 あそこで転がっている遺体が樹神君でなければ、なんの問題もないのだ。
僕は、勇気を出して、野次馬の一人に話し掛けてみた。
「被害者は、どんな人なんだい?」
「ん? それがな、仏さん、この辺じゃ見ない、ハイカラな若い女性ってんだ」
「……若い……女性……」
「なんだい? 心当たりでもあるのかい? もし、そうなら警官に声を掛ければ、ゴザをめくって見せてくれるぜ? さっきから、ほら、ああやって、何人も見せてもらってんだ。 まぁ、それでもまだ身元がわかんねぇってんだから、やっぱりこの辺の人間じゃねぇんだろ……」
そう言われ、ゴザの方を見ると、若い男性が警官に付き添われ、ゴザの中を見せてもらっているところだった。 ここからは、ゴザの中を見ることはできないが、どうやら、その男性も、はずれだったようで、遺体を見て、少し驚いた後、警官に向かって、首を振っているのが見えた。
どうする? 自分も同じようにゴザの下の遺体を見せてもらった方がいいのだろうか? いや、しかし、明確に心当たりがある訳ではないし、昨晩の夢が気になっているだけという理由で、警官の仕事の邪魔をしてはいけない。
しかし、ゴザの遺体を確認しなければ、このモヤモヤは消えないだろう。
そう考えて、悩んでいると、先程、遺体を確認していた男性に見覚えがある事に気付いた。 久古 真だったのだ。
その瞬間、一気に力が抜けた。
久古君が遺体を確認して、首を振ったということは、アレは樹神君の死体なんかではないということに、他ならないのだから。
空を見上げて、深く息を吐いていると、久古君が僕に気付いたのか、一直線に僕の方に駆け寄ってきた。
「やぁ、おはよう」
安堵のせいか、この場では不謹慎とも言えるような気の抜けた声が出る。
「……先生、……ちょっと……場所を変えましょう」
対して、久古君の声と表情は、かなり緊迫しているように感じた。
久古君の迫力に押され、二人で人気のないところまで移動すると、彼は辺りを見渡して、人がいないことを確認し、僕に顔を近付けた。
「あの遺体は……樹神 理恋……のものでした」




