96 少女ところによりジョッキー ~関東オークス編~
6月中旬の水曜日。この日は川崎競馬場にて、交流重賞の関東オークスが行われる。優はこのレースに、デビューから2連勝中のロマンシングソーマで挑戦する。交流重賞、ナイター競馬ともに、優には初めての経験である。
関東オークスは2100メートルで争われる3歳牝馬限定のレースで、交流GⅡ(jpnⅡ)として格付けされている。交流重賞のほとんどは、重賞としての国際的な格付けを与えられておらず、厳密にはリステッド(準重賞)の扱いになる。それでも現場に携わる関係者にとっては、本物の重賞と遜色ない価値あるレースと認められている。それは中央競馬の格別定戦(GⅠ勝ちは斤量2キロ増、GⅡ勝ちは斤量1キロ増……のように、賞金でなく勝ち鞍の格で斤量を定めるレース)では、正規の重賞と同じ扱いがなされているのを見ても明らかである。
関東オークスの舞台・川崎ダート2100メートルは、圧倒的に前が有利なコースである。それは小回りのコースを1周半する間に延べ6度もコーナーを回るトリッキーな設定から、当然の帰結と言える。
しかし、関東オークスに限って言えば、イメージほど逃げ馬が勝ってはおらず、差しが決まる年すらある。それは、このレースの開催時期と、2100メートルの長丁場が3歳ダート馬にとっては決してメジャーな距離ではないことの2点が大きな要因と考えられる。
すなわち、関東オークスは概ね梅雨入り前後の雨がちな時期に行われるため、毎年のように道悪で行われる。ダートが先行有利な一番の理由は、力のいる乾いたダートでは後続が速い脚を使えないからだ。しかし、渋って脚抜きが良くなった馬場では、その優位性が小さくなってしまう。
また、3歳ダートの中距離戦は1600~1800メートル辺りが主戦場であるため、そのペースに慣れた馬たちがこの2100メートルに集まると、結果オーバーペースになりがちである。アウェーの中央騎手が抱きがちな前残りのコース傾向への過剰な意識も、この傾向を助長する。
とは言え、コース形態から後方一気は困難なのに変わりはなく、道中ある程度の位置で流れに乗って直線入り口で勝負圏内にいることが勝利への近道であろう。
そして迎えた水曜日。関東地方は月曜日に梅雨入りが発表されており、この日も降り続く雨により、川崎競馬場の馬場状態は不良にまで悪化していた。ダートコースに水が浮くほどの降水量であり、馬場状態がタイムに直結しやすい川崎の砂質を考えると、今年の関東オークスは速い時計での決着が予想される。
今年の出走馬は計13頭。その中で1番人気に支持されたのは、5枠6番レインボープリズム。大社グループのコットンレーシング所属で、1400メートルのオープンレースである端午ステークスを勝っての参戦である。スピード豊かなマイラー血統の同馬は、新馬戦から全て逃げて無傷の3連勝。ここでは格上の存在だが、距離を疑問視する向きも多く、その不安が単勝3.4倍というオッズに表れていた。鞍上はおなじみミッシェル・ロベール。
2番人気は3枠3番、優とコンビを組むロマンシングソーマで、単勝オッズは4.0倍。派手さのないレースぶりながら2戦2勝の内容は濃く、前走で左回りを経験しているのもセールスポイントである。ここまで逃げのレースしかしていないが、気性的に逃げなければ駄目というタイプでもなく、こちらを本命視する予想家も多い。
3番人気は、7枠11番サンディビーチで、単勝は6.1倍。新馬戦でロマンシングソーマに完敗したものの、その後の未勝利戦、1勝クラスと連勝してここに駒を進めて来た。レース間隔を詰めて続けて使って来ているだけに、体調面の心配はあるものの、父ステイツリーダーの産駒は芝ダート兼用で走れる馬が多く、このスピードが出る馬場は有利に働きそうである。鞍上は引き続き、田崎 英太が務める。
そしてもう一頭の中央馬を凌いで4番人気に推されているのが、地元川崎期待の女傑ロゼッタ。南関東の牝馬クラシックである桜花賞(浦和)、東京プリンセス賞(大井)を連勝している。1枠1番の好枠を味方に、強力な中央勢を撃破しての3冠達成を狙う。騎手は大井の名手・神本 紀夫。
5番人気は8枠13番、中央馬では最も人気薄のテッカマキ。7戦2勝とキャリアは豊富だが、平凡な成績に加え差し脚質のため、積極的な買い材料には乏しい。手綱を取るのは棚田 裕延。
「充分間隔を開けただけに、いい仕上がりみたいですね。ロマンにとってはここが春の総決算になりますから、悔いのないレースをして来て下さい。」
「相手関係は走って見ないと分からないですけど、先行力と持続力が武器のこの子にとって、川崎の2100は合っているはずです。オーナーに初のタイトルをプレゼント出来るよう、全力を尽くします。」
相馬の激励に対し好勝負を誓った優は、雨が降りしきるパドックへと踏み出して行った。
時刻は20時10分。そびえ立つマンション群に囲まれた夜の川崎競馬場にファンファーレが鳴り響き、出走各馬が次々と枠入りを終えて行く。そして全馬が無事収まると、一瞬の静寂ののちゲートが開く。ナイターのカクテル光線が照らす雨粒の輝きをバックに、14頭が一斉に飛び出して行く。
迸るスピードを生かして先手を奪ったのは、レインボープリズム。抑えきれないほどの推進力で、後続を引き離し気味に飛ばして行く。
2番手には内枠を利してロマンシングソーマが付ける。外からこれを追ってサンディビーチが3番手。
ここから少し間が開いて、集団の先頭でロゼッタが脚を溜めている。普段とは違うペースに戸惑う地方馬は後方に置かれて、馬群はかなり縦長の形で進んで行く。
1ハロン12~13秒台の速いラップを刻んで逃げるレインボープリズム。いくら1番人気とは言え、これでは最後まで息が持たないのではないか。後続の騎手の多くがそう感じて静観の構えを取るなか、ただ一人動きを見せたのは、テッカマキの棚田。攻めの騎乗を信条とする彼は、しばしば意表を突く仕掛けで周りをかき回す。このレースでも、流れが落ち着こうとした向こう正面で外から一気に押し上げて、先頭を窺う構えを見せたのだ。
棚田が動いたのを察知した優は、股の間から地元の雄ロゼッタの様子を確認した。鞍上の神本に反応がないのを見た優は、これは早仕掛け過ぎると判断し、あえてスルーしてそのまま行かせた。
その結果、追って来たテッカマキを振り切るため、息を入れようとしていたレインボープリズムは再加速を余儀なくされた。途中で交わされた逃げ先行馬は得てして脆く、そこでレースを止めてしまう馬もいるほどである。ロベールの選択は止むを得ないものであったが、元々距離に不安のあった同馬には致命傷になってしまった。まくりに失敗したテッカマキともども、余力を失ってもはや風前の灯火であった。
川崎の勝負所の第3コーナーで、ロゼッタの神本がついに仕掛けた。馬群の外をスーッと上がって先行勢を捕らえにかかる。そうはさせじと3番手のサンディビーチ田崎はこれに応戦して、ロゼッタを外に張り出しにかかる。スピードを上げて並び掛けて来た2頭に呼応して、ロマンシングソーマの優も加速しながら外に押し出して行く。
そして4コーナー。失速する前の2頭を置き去りにした3頭は雁行態勢のまま、遠心力に任せて膨らみながら加速を続ける。
残すはおよそ300メートルの直線。後続を引き離したこの3頭による優勝争いから最初に抜け出したのは、コーナーリングで1番距離を稼いだロマンシングソーマであった。
(これは、やった!)
終始プラン通りの完璧に近いレース運びに、勝利を確信した優だったが、その直後、すぐ外にいたサンディビーチにあっさりと交わされてしまった。同馬のこの道悪馬場への適性の高さは、想像以上であったのだ。水のたっぷり浮いた馬場をまるで泳ぐように突き抜けて、後続を7馬身千切り捨てる大楽勝。デビュー戦の雪辱を果たし、見事に初の重賞勝ちを飾った。不良馬場の勝ち時計は2分16秒7、レースの上がり3ハロンは39秒1という厳しいレースであった。
優のロマンシングソーマは、ロゼッタの外からの追撃を何とか首差凌ぎ切り、2着を確保した。完敗とはいえ重賞での2番人気2着は立派な結果であるが、引き揚げて来た優の表情は悔しさで満ち溢れていた。
「思い通りのレースが出来たし、行けると思ったんですが……。」
「今日は仕方ないよ。相手が走り過ぎたね。やっぱり重賞はそんなに簡単に勝たせてはもらえないから。」
厩務員の綾が落ち込む優を元気づけようと慰めの言葉を掛ける。
「そうですよ。サンディビーチに敗れはしましたけど、堂々たるレースぶりでしたよ。賞金は加算出来ましたし、一息入れて秋に備えるとしましょう。」
相馬も優の健闘を称え、ねぎらう。
(ああ、負けたんだ……。)
二人の言葉でようやく張りつめていた気持ちが緩んだ優は、一瞬掴んだかに思えた重賞タイトルがするりと逃げて行った重い現実を受け止め、お祭りが終わった後の子供のような寂寥感に苛まれていた。
調子、馬場、展開、相手関係……。いろんなものが上手く噛み合わなければ、大レースを制するのは難しい。それでもいつかは勝ちたいと決意を新たにした優は、川崎競馬場をあとにした。




