9 マッチレース
太陽の一言が、優の凍り付いた心を一瞬で融かしてくれた。
走るのは馬だ。どんな凄いジョッキーでも、全ての馬を勝たせることなんて出来ない。技術も駆け引きもまだまだの自分ではなおさらだ。そんな自分が馬を勝たせようだなんて、思い上がりも甚だしい。チョコレートケーキの能力は断然だ。自分はただ邪魔をしないで、この馬の能力を発揮させることだけを考えればいい。
(デビューしてから2か月以上経って、やっと騎手としての覚悟が固まるなんて。ホント、何やってんだろ、私、ふふっ。)
本馬場に入場した優は、つい先ほどとは打って変わった笑顔で、スタート地点へと向かって行く。ピッタリと折り合いのついた、極めてスムーズな返し馬であった。
「あいつ、案外大したタマかも知れんな。」
一部始終を見ていた厩務員は、感心しきりだった。
ファンファーレが鳴り響き、いよいよスタートの時が来た。
3歳未勝利、牝馬限定戦、芝1800メートル、馬場状態は良馬場。好天続きで絶好のコンディションだ。フルゲート18頭の各馬が、続々とゲートに収まって行く。9番ゲートの中で優は、いいスタートを切ることだけに集中していた。
そしてゲートが開く。持ち前のスタートダッシュを遺憾なく発揮したチョコレートケーキが、先頭をうかがう。しかしそうはさせじと、2番人気、ミッシェル・ロベール鞍上の18番パックンフラワーが、大外 2度目の騎乗でチョコレートケーキの癖を掴んでいる優は、ハナにはこだわらない。パックンフラワーを行かせて、番手の位置をキープした。
その優をがっちりマークするのが、4番人気、名手・菅田 満が駆る6番カルテジアン。3番人気、マッテオ・ジョバンニが騎乗する11番ワタボウシは、中団に付けている。8番人気、神谷 陽介の2番ゴージャスディナーは最後方待機で脚を溜めている。
早い段階で隊列が固まったまま、レースは淡々と流れて行く。1000メートルの通過は63秒ジャスト。繊細な3歳牝馬限定戦らしい超スローペースであるが、府中の長い直線を意識して、まだ誰も動かなからハナを叩きに来る。
い。マークを集める本命の優は、ロベールの真後ろにつけてじっとしている。馬群は大きく固まったままで、先頭から最後方まで大きな差はない。
人気の先頭集団にとっては楽な展開。業を煮やしたジョバンニのワタボウシが、大外をまくり上げて一気に並びかけて来た。このままではチョコレートケーキは、パックンフラワー、カルテジアンとの間のポケットに押し込められて、仕掛けが遅れる危険が生じる。それを制するように、優は冷静にチョコレートケーキを1頭分外に導き、じわりとペースを上げてパックンフラワーに並びかける。すんなりチョコレートケーキを行かせては分が悪いと、ロベールも対抗して先頭をキープする。
この攻防で、先行勢と後方集団の距離が少し開いたまま、最後の直線を迎えた。絶好の手応えで回ってきたチョコレートケーキが、手綱を持ったまま自然と抜け出して先頭に立つ。ロベールが応戦するものの、能力の違いからじわじわと差が開く。
パックンフラワーを交わした優は、チョコレートケーキを内ラチ沿いに導き、残り400メートルの標識を待たずしてスパートした。少し早い仕掛けだが、パンパンの良馬場、高速馬場なら、前は簡単には止まらない。一気に後続を突き放しにかかる。
果たして、優をマークしていたカルテジアンも、早めに脚を使ったワタボウシも、チョコレートケーキにはついて行けず、置き去りにされた。やはり、チョコレートケーキの能力は頭一つ抜けている。
このまま独走かと思われたところで、後方から1頭だけ鋭く脚を伸ばして来る馬がいた。ゴージャスディナーだ。瞬発力が武器のこの馬の持ち味を生かすため、陽介はペースが遅いのを承知で動かずジッとしていた。道中馬群が固まっていたため先頭との距離が短かったのは、この馬にとって好都合と言えた。目を見張るようなキレ味で、一気に先頭に迫って来る。
残り200メートルを切った。優も1頭伸びて来る馬がいるのには気がついたが、もう打てる手は全て打っている。チョコレートケーキの力を信じてひたすら手綱をしごき、叱咤激励の鞭を入れる。
陽介は、上下のブレがない美しいフォームで、ゴージャスディナーをグイグイと追う。それに応えるかのように、一完歩ごとに先頭との差が詰まる。陽介は馬体を併せずに、外から一気に交わし去る腹積もりのようだ。
同期二人のマッチレースとなったこのレースは、内外離れての接戦となった。最後は女性騎手の1キロ減量が生きたか、チョコレートケーキがゴージャスディナーの追い込みを半馬身しのいで、先頭でゴール板を通過した。