86 ここまでと、これから
春の天皇賞は、名手・菅田とコンビを組んだ昨年の菊花賞馬レーザーポインターが優勝。そして暦は5月に替わり、春競馬はクライマックスに突入する。
ゴールデンウィーク後半の今週、東京競馬場ではGⅠ・NHKマイルカップがあり、3歳最強マイラーが決定する。
その前日の土曜日に、優にとって重要なレースが組まれている。6月に川崎での交流重賞・関東オークスを目標とするロマンシングソーマが、新潟ダート1800メートルで行われる3歳1勝クラス(500万円以下条件)のわらび賞に出走を予定している。
ダート路線を歩む3歳春の牝馬にとっては、関東オークスは大目標の一つである。この時期、牡馬や古馬との混合重賞は敷居が高いため、ダート重賞の中で唯一の3歳牝馬限定戦であるこのレースにおいては、中央馬の6つの出走枠を巡って、激しい競争が繰り広げられる。
そのため、最低でも1勝クラスの条件戦を勝ち上がってオープン入りしておかなければ、本番の出走は厳しい。優とロマンシングソーマにとっては、負けられない戦いとなる。
「ロマン、調子いいみたいですね。クラスが上がって相手は強くなるかも知れませんが、前走のレース内容なら好勝負になると思います。藤平さん、悔いのないレースをして下さい。」
ロマンシングソーマの追い切りを終えて引き揚げて来た優を激励するのは、オーナーの相馬。来週の夏木立賞を予定しているソーマナンバーワン共々、愛馬の様子を見に来たのだ。
「はい。1回レースを使った上積みもかなりありそうで、息遣いなんかは見違えるほど良くなってます。関東オークスもそうですけど今後のことを考えると、ここで勝って賞金を積んでおきたいですね。」
馬主資格を取得したばかりの相馬が所有している3歳馬は、この2頭だけである。にも関わらず、両頭ともオープン、さらにその上のステージを目指せるほどのポテンシャルを秘めている。高額の良血馬を購入しても思うような活躍をしてくれないことがほとんどの中、この引きの強さは彼の馬を見る目の確かさを示すものであった。
神谷厩舎の今後の厩舎運営、そして優が目指す大舞台へと進むためにも、相馬オーナーの期待に応えて結果を出さなくてはいけない。心の中で必勝を誓う優であった。
そして迎えたレース当日。輸送も問題なくクリアしたロマンシングソーマは、ここでも単勝2.1倍と抜けた1番人気に推されていた。外国馬である同馬は使えるレースが混合戦に限られるため、ローカルのここに狙いを定めたのである。このレースは特別戦のため、現在の優の強みである4キロの減量のアドバンテージはなくなってしまうが、この日は東京と京都でダービーに向けた重要なステップレースがあるため、上位騎手を確保できない有力馬が出走を避ける傾向があり、ここは出走馬10頭と手薄になっていた。太陽の絶妙なレース選択により、ここは勝機充分と言えた。
「一緒に走るのは久しぶりですね、優センパイ。センパイの馬強そうですけど、簡単には勝たせませんから。」
久々のローカル開催での騎乗となった優に対し、ライバルとして対峙することとなった雅が、不敵に挑戦状を叩きつける。とはいえ、彼女の騎乗するシゲオスリーベースは9番人気の人気薄。好走は厳しそうである。
「ようお嬢。久々の新潟はどうだ。今日なんか東京より全然涼しくて、過ごしやすいだろう。」
そんな世間話に花を咲かせるのは、ローカルの帝王・古畑。その古畑だが、このレースには騎乗馬がいない。それどころか乗り鞍自体を徐々に減らして来ており、フェードアウトの雰囲気を醸し出していた。以前雅に漏らした『時間がない』という言葉も気になっていた優は、思い切って核心を突く質問を繰り出した。
「古畑さん、もしかして────騎手を辞められるんですか?」
「やっぱり分かっちまうか。俺な、この秋の調教師試験を受けるんだよ。体力的にも騎手を続けるのは辛くなって来たし、ここまでやれたからもういいかなって。まあそんな簡単な試験じゃねえし、落ちちまうかも知れねえけどな。あっ、うるせえ爺がいなくなって清々するってか?もし駄目だったらまだ騎手を続けるから、ぬか喜びはしない方がいいぜ、ハハッ。」
冗談めかして軽口を飛ばす古畑だが、その表情にはどこからともなく寂しさが滲み出ている。優にとっても古畑は、出会いから色々あったが面倒見のいい頼れる先輩となっていた。
「そんなことありません。古畑さんがいなくなったら、私寂しいですよ。……試験、頑張って下さいね。」
「……そうか、ありがとよ。」
古畑は照れ臭そうに顔を背けながら、一言そう言った。
レースは、騎乗に迷いを見せていた先週からすっかり立ち直った優のロマンシングソーマが、好スタートから2馬身差をつけての逃げ切りを決めた。稍重の勝ちタイムは1分54秒0、上がり3ハロンは38秒9。
自身にとって1か月ぶりの勝利を上げ、断然の1番人気に応えた優は、引き揚げて来るなりプレッシャーから解放されて大きく息を吐いた。
「これで、胸を張って関東オークスに行けますね。本番が楽しみになりました。」
相馬に勝利を報告する優の表情は、晴れやかだった。優とロマンシングソーマ、若い人馬の将来は、鞭を置こうとする古畑とは対照的に、希望に満ちていた。




