49 癖馬
正月競馬で上々の滑り出しを見せた優に、1頭の有力馬の依頼が舞い込んだ。
「おう、優。今週の成田特別のアップサイドダウンなんだが、依頼した上位騎手みんなに断られたらしい。空いてたらお前に乗ってもらえないかって、湯川先生が言って来てるんだが、どうする?」
優は少しばかり考え込んだ後、顔を上げて返事した。
「あの馬に乗れるのはチャンスだと思います。ぜひお願いします、先生。」
アップサイドダウンは、激しい気性難から未勝利戦を勝ち上がることが出来ずに、一度地方競馬に転出している。その後地方競馬で2着に3秒差をつける大楽勝を演じ、再び中央に戻って来ると、復帰初戦の500万円以下条件戦も後続を寄せ付けず完勝。ここでも能力的には勝ち負け必至の4歳牡馬だ。
何故上位騎手が断るのかというと、相変わらずの気性難が、騎手に怪我や騎乗停止のリスクを背負わせるからである。実際、東京競馬場での前走では、ゲート内で騎手を振り落とし発走を遅らせた上、最後の直線では右に左に大きく蛇行し、後続の動き次第では大事故につながる危険があった。さらに表彰式でも落ち着くことなく暴れ続け、その際蹴られた厩務員は肋骨を折る大怪我を負ってしまった。
「安全を考えて、今までこのレベルの癖馬の依頼は避けて来たんだが、お前ももう一人の騎手として勝負して行かないといけないからな。無事に回って来れれば勝ち星が期待出来る大チャンスだが、くれぐれも気を抜かずに乗るんだぞ、いいな。」
調教や馬具で改善出来ないレベルの気性難に対しては、レースでの特効薬などない。騎手に出来るのは、落ちないように、そして他馬に迷惑を掛けないように、集中し続けることだけだ。太陽も半ば祈るような気持ちで、優を送り出した。
成田特別は、中山のダート2400メートルで行われる、1000万円以下条件戦だ。ダートでは珍しいこの長距離レースは、暴走の危険に長く晒される一方で、少々の粗相はカバー出来る余裕もある。13頭立てながら、アップサイドダウンは抜けた能力の持ち主だ。このレースは文字通り自分との戦いであった。
アップサイドダウンは、パドックから激しいイレ込みを見せ、何度も尻っ跳ねを繰り返す。優が跨っても全く落ち着く気配はなく、そのままの状態で地下馬道に向かった。
本馬場に出て来たアップサイドダウンは、スタンドからの歓声でさらに興奮する。もはやロデオ状態となり、優は前後に上下に繰り返しシェイクされていた。
(あわわ、落ちる、落ちるーっ!!!)
優は放馬しないよう、ただただ馬にしがみつくことしか出来なかった。
1分ほど格闘した後、ようやく動きを止めた同馬は、スムーズな返し馬で向こう正面のスタート地点に向かった。
(この子、どうやら納得してくれたのかな……。何だか急に大人しくなったけど。)
まだレース前だというのに、優もアップサイドダウンも既に汗びっしょりになっていた。
輪乗りからスタートを迎えゲートに入ると、アップサイドダウンは思い出したかのようにまた暴れ始める。何度も大きく立ち上がり、優はその度にゲートを押さえて落ちないように必死でこらえ続けた。
(早く、早くゲートを開けて!これ以上は持たない!)
暴れていたアップサイドダウンが一瞬落ち着いたところで、スターターがゲートを開く。大出遅れを犯してもおかしくない状況だったが、なんとか好スタートを切って2番手を追走することに成功した。好スタートは狙ったわけではなく、本当にたまたま出ただけだった。
特に折り合いを欠くこともなく、アップサイドダウンは淡々とレースの流れに乗っている。しかし鞍上の優は展開や作戦を考える余裕もなく、馬が悪さをしないよう気を張り詰めているばかりだった。
(何だ、今日はえらく真面目に走ってくれてるじゃない。このまま行ければ勝てそう。)
と優が期待を持ったのも束の間、勝負所の3~4コーナー中間で異変が生じる。アップサイドダウンはコーナーリングを拒否して直進、逸走する気配を見せ始めた。
(わああ、やばい、やばい、やばい。お願い、戻ってぇ!)
内に体重を掛け、左ムチを連打して、コース復帰を促す。ようやく内に曲がり始めた頃には、2番手から8番手まで大きくポジションを下げていた。
普通なら絶望的なロスだが、アップサイドダウンのエンジンは一級品だ。大外から進出を開始すると、あっという間に差を詰めて行く。
(よし、これは突き抜ける。勝った!)
一瞬の油断が、失敗を招いた。外に逸走する気配を見せていたアップサイドダウンが、今度は急に内に大きく切れ込む。勝利を意識して気を抜いてしまった優は、この急な斜行に反応が遅れてしまった。
馬群の鼻面をかすめるように内ラチ沿いまでササってしまった同馬だが、再加速すると後続を寄せつけずに先頭でゴールを果たした。良馬場の勝ちタイムは2分36秒1、上がり3ハロンは37秒8であった。
着順掲示板には、審議の文字と青いランプが点灯していた。




