37 病室
落馬した鈴木は意識が戻らないまま、競馬場のすぐ近くの病院に救急搬送された。
ウイナーズサークルで表彰される優の表情からは、笑顔が消え血の気が引いていた。
たとえアクシデントがあろうと、次のレースは待ってはくれない。表彰式のため遅れてコースに現れた優は、青ざめたまま、心ここにあらずといった感じで馬上にいた。
「……ぅ。 ……ょう。 おい!お嬢‼」
「はっ、はいっ!」
待機所で輪乗りの最中、古畑が自分に呼び掛けていたのにハッと気付いた優は、慌てて返事をした。
「鈴木の坊主が心配なのは分かるが、ボーっとしてんじゃねえよ。お前が乗ってるその馬は、関係者とファンの期待と、馬券購入者のお金を背負ってるんだ。半端な気持ちじゃ失礼だろうが。」
いつもの憎まれ口を叩く古畑だったが、優はそこに古畑の先輩としての優しさを感じ取った。
「そうですね、その通りです、古畑さん。活を入れて下さってありがとうございます。」
優にまっすぐな感謝を返された古畑は、柄にもなく少し照れながら言う。
「俺も仲間の落馬を腐るほど見て来たからな…。分かるっつうか、動揺するわな、あんな落馬見ちまうと。まあお前がここで心配したってどうなるもんでもないから、今はレースに集中しろよ、いいな。」
古畑の喝で心を立て直した優は、残念ながら勝ち星を積み重ねることこそ出来なかったが、いつも以上に気合いの入った騎乗で、この日を乗り切った。
全レース終了後、優と清原は、鈴木を見舞うために病室を訪れていた。
「来てくれたのか、おまえら。心配かけてごめんな。」
厩舎関係者が帰った後で、病室には他に誰もいなかった。
「鈴木君、意識が戻ったんだ。…良かった…。」
涙ぐみながら喜ぶ優に、鈴木は申し訳なさそうに言う。
「ごめんな、藤平。例のクリスマスパーティーの予定、キャンセルになっちまった。」
強度の脳震盪、頭蓋骨の亀裂骨折、それに手足の複数個所の骨折…。当分の間、入院しての静養を余儀なくされる重傷であった。
「俺あの時、勝てると思って焦っちまった……。逃げてた清原にも迷惑を掛けたな、本当ごめん。でも、馬が、テナモンヤが大事に至らなくて良かったよ、マジで。」
前の馬に触れて転倒したテナモンヤだったが、幸い軽い外傷で済んだとのことだった。
「俺さ、騎手を辞める決心はついてたけど、それまでにせめて1つくらいは勝って、中央競馬の歴史に少しでも足跡を残したいと思ってたんだ。こないだテナモンヤに乗せてもらって、2着に入った時、この馬とのコンビなら俺でも勝てるんじゃないかって……。俺、俺さ……。う、う、うう────。」
鈴木は号泣した。人目もはばからずただ泣いた。優と清原は、掛ける言葉も見つからずに、もらい泣きするばかりであった。
────騎手免許は、3月に更新される。そして騎手を辞めて調教助手に転身する予定の鈴木は、免許を更新しない。すなわち、あれが騎手・鈴木 拓郎の最後のレースとなったのだ。
まだ日曜のレースがある。翌日騎乗予定のある騎手は、夜の9時までに調整ルームに入室しなければならない。
「見ててね、鈴木君。鈴木君の分も私、頑張るから…。そしていつか、鈴木君が鍛え上げた馬に私が乗って、一緒にGⅠを勝とうよ。」
「じゃあな、鈴木。早く退院出来るよう、リハビリ頑張れよ。」
「おう。……2人とも、今日はありがとな。」
優と清原は、病室を後にして、中京競馬場の調整ルームに向かった。鈴木がいなくなっても競馬は続く。そんな当たり前のことを考えて、一抹の寂寥感に襲われながら。




