26 3頭併せ(2)
先行する2頭の間を割って追い抜く3頭併せ調教のオーダーは、失敗に終わった。
手綱を引いてしまった優は、先行する僚馬2頭に置き去りにされ、大きく遅れてゴール板を通過した。うなだれながら二人に追いつくと、あの温厚な太一が珍しく太陽に怒りを露わにしていた。
「ちょっと父さん、今のはないよ!あんな急な寄せ方したら優ちゃん、恐怖心を克服するどころか悪化しちゃうじゃないか!」
「お前もそう思うか?優。」
太陽の問いかけに対し、優は無言でかぶりを振る。
「そうだよな。実戦ではスペースが開いているのなんて一瞬だ。ぼやぼやしてたら閉められちまうか、他のやつに取られちまうかだ。間を開けて、さあどうぞなんてやっても、何の自信にもならんのは、現役の騎手であるお前が一番よく分かっているはずだ。」
三人は重苦しい雰囲気で戻ってくると、次の調教の準備に入った。
「太一、優。次も同じ形で3頭合わせだ。優はフレイムセイヴァーに乗れ。」
フレイムセイヴァーは、あの七夕賞の日に優が乗って未勝利戦を勝ち上がった馬だ。次走で5着に入り、今週の福島の500万円以下条件戦で、再び優が騎乗する予定になっている。
「さっきの3頭は来週以降の出走予定だったからまだ修正が効くが、次は今週使う馬の最終調整だ。また失敗するようなら、馬のコンディションにも影響が出て大きな迷惑を掛けることになる。それでもやれるか?優。」
「父さん、優ちゃんを追い詰めたいのかよ!そんな言い方…。」
「ああ、そうだ。」
太陽はきっぱりと言い切った。
「な、何言ってんの。ショックが残ってるんだったら、少し休ませて落ち着かせてあげてもいいと思うよ。こんなに慌てる必要あるの?」
「それがあるんだ、太一。」
太陽が続ける。
「俺の同期が落馬で乗れなくなった話はしたよな、優。そいつもお前と同じように馬群にビビるようになってから、3年くらい悪戦苦闘してた。レースで馴らしていけば良くなると思ってたんだが、乗れば乗るほど治らない自分に絶望するようになってな。結局騎手どころか競馬界から足を洗っちまったよ。腕の立つやつだったんだけどな…。」
太一は、何も言えなくなってしまった。
思い出話を終えると太陽は、諭すように優に語りかけた。
「優、以前福島のパドックでお前に、『走るのはお前じゃない、馬だ』って話をしたのを覚えているか?」
「はい。私、人気の重圧で押し潰されそうになってたんですけど、あの一言で救われました。」
「それは、いろんな意味で絶対の真理なんだ。お前が恐怖に囚われて結果を出せないと、乗っている馬の評価が下がる。残念なことだが、価値を見出せなくなった競走馬の多くは処分されて一生を終えることになる。お前が苦しんでいることなんか、馬にとっては足を引っ張る以外の何物でもない。お前の心の弱さが、馬を殺すことになるんだ。走るのはお前じゃなくて、馬だからな。」
2本目の追い切りを始める直前、太陽は最後通牒を突き付ける。
「さっきも言ったが、覚悟が持てないんならここで騎手を辞めろ。馬もお前も不幸になるだけだ。この追い切りでそれを見せてもらう。」
太陽は太一と何かを打ち合わせて、3頭併せがスタートした。
優は太陽の今の言葉、今までの教えを噛みしめてながら、フレイムセイヴァーを走らせる。
(やっぱり落ちるのは怖い。けど、それで馬の一生を台無しにするのはもっと怖い。私は騎手だ。馬の邪魔しか出来ないのなら、降りなくちゃ駄目。馬の力を発揮させることだけを考えて乗るんだ。女は度胸!)
腹を決めた優のフレイムセイヴァーが、直線に入って仕掛けて2頭の間を突く。
すると、外の太陽と内の太一が、同時に馬体を寄せて来た。1頭半ほど開いていたスペースが一気に失われてしまい、進路が狭くなる。
その時優は、手綱を引くのではなく、スピードに乗せたまま素早くフレイムセイヴァーを2頭の外に誘導し、スパートして一気に抜き去った。
ゴールを過ぎ、追いついた太陽が優に声を掛ける。
「そうだ、それでいい、優。」
その言葉を聞いて、優は吹っ切れたように、にっこりと微笑んだ。
「ブレーキを掛けるのは論外だが、あそこで無理に突っ込んで来たら、それは勇気ではなく無謀、自分も周りも危険な行動だ。もしお前がそうしていたら、俺は騎手を辞めさせるつもりだった。馬にとってベストの選択を取ることに集中していれば、おのずと恐怖なんて感じる暇が無くなるものなんだ。」
「よく分かりました、先生。『走るのはお前じゃない、馬だ。』本当に重い言葉ですね。」
「それは俺の師匠が教えてくれた言葉なんだ。お前もいつか、自分に続く人間に伝えてくれればいい。…後はレースで結果を出すだけだな。本番でもフレイムセイヴァーを頼むぞ、優。」
この一件で、師弟の絆はさらに深まった。優にとって師匠は、文字通り太陽のような存在となっていた。




