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少女ときどきジョッキー  作者: モリタカヒデ
第2部 少女のちジョッキー
221/222

221 少女ところによりジョッキー ~ジャパンダートダービー編~(3)

 最後の直線に入ってから、先行する2頭に置かれること約3馬身。残り300メートルを切った辺りでようやく、ムチを握った優の右腕が上がる。

 

 ほぼ同じ位置を追走していたテムジンを行かせてからのスパートは、もし届かなければ騎手がその責を負うことを意味する。極めてリスキーなその判断を支える勇気の源泉は、相手の仕掛けが早いという直感だけではなかった。

 逃げるマッハマンは、テンから飛ばして行く競馬を続けたことで力みが抜け切らない。そしてテムジンも先行有利なダートを意識してか、今回はゲートから出して行き、ハミを掛けたまま折り合いを付けるレース運びだ。

 これに対してストロングソーマは、課題としていた“フワッと出す”スタートを完全に自分のものとしており、持ち前の好ダッシュからポジションを取りつつジワリとハミを抜いて折り合う、スムーズな先行。この序盤の小さな差が、ゴール前では大きなアドバンテージに変わることだってある。手綱から伝わる確かな余力もあり、優にとっては先行していながらに差しに構えているように感じられていた。


 このムチは、かつて小倉記念の前のレースで苦悩したような無意味なものではなく、ラストに向けてギアを上げる合図。力任せでないソフトタッチの右ムチに応えて、ストロングソーマの重心がグッと沈み込み、前脚の回転が上がる。


 先頭争いの方は、残り200メートル付近でついにテムジンがマッハマンを捕らえた。必死の抵抗を見せるマッハマンだったが、折り合いを欠いたロスが響いてか徐々に脚色が鈍り、残り150メートルで先頭の座を明け渡してしまう。

 そしてここで飛んできたのが、ストロングソーマだ。持ち前の高回転のフットワークでトップスピードに到達すると、失速気味のマッハマンを一気に抜き去り2番手に浮上する。


 逃げるテムジンと陽介。追うストロングソーマと優。残り100メートル地点で、その差はおよそ1馬身半。

 差を詰める際の脚勢の差から、一気の首位交代もと思わせたストロングソーマだが、テムジンのGⅠ2勝の看板は伊達ではない。この苦しい場面でも踏ん張り、リードを保ち続ける走りを見せる。


 そのままの並びで、残り50メートル。2頭の差はじわじわと縮まっているものの、まだ1馬身ほど残っている。どうやらテムジンの押し切りで大勢決したかという雰囲気が、場内を包む。

 しかし、この状況でも優は決して諦めてはいなかった。力強い右ムチでストロングソーマを鼓舞すると、愛馬は手前を変え、ガチリとハミを取って再び両前脚の回転を上げる。それはあるいはテムジンのペースが落ちて来たことによる錯覚かも知れないが、この苦しい場面で目に見えて差が詰まり始めた。


 あとは出来るだけ速く、ストロングソーマと一緒にゴールに飛び込むだけ。優はただ、無心になって馬を追った。低く貼り付いた背中のラインは平行をキープして微動だにせず、馬の負担と空気抵抗を最小限に抑えている。いつしか彼女は、かつて自分が追い求めた理想の騎乗フォームを体現していた。

 対する陽介のフォームは、新旧のハイブリッドとも言える現代競馬の結晶。安定した騎座で上下動こそないものの、起こし気味の上体を目一杯使ってのパワフルな追い。見た目にも「追える」と伝わるフォームだ。静の優と動の陽介。実に対照的な騎乗フォームであった。


 外から併せた優のストロングソーマの馬体が、一完歩ごとにテムジンのシルエットに重なって行く。そして、テムジンが首差リードして迎えたゴール前、最後の一完歩───優は自らの腰を、背中を追い越すほどに高く力強く跳ね上げて、重心を思いっきり前へと放り出した。それがストロングソーマの前脚が地面を踏みしめるタイミングとシンクロした時、人馬は自らの限界を超えるかのように前へと瞬間移動した。

 ちょうどそこが、決勝線上であった。


 頭差抜け出したストロングソーマがゴール板を通過した直後、優はムチを持ったまま右手を握り、小さく喜びを表現した。馬に負担が掛かるのを避けるため、普段はガッツポーズを見せない優には珍しいシーンである。

 競馬は馬を無理やり走らせている、動物虐待だという声がある。優もそうした意見を承知はしているが、それが全てとは思ってはいなかった。少なくともストロングソーマは走りたがっているし、勝ちたがっている。そう感じ信じていた優だからこそ、この勝利の喜びを共有出来たように感じられて、無意識にガッツポーズが出てしまったのである。


 本命馬の土壇場での逆転負けにスタンドは一瞬静まり返ったが、その後に待っていたのは大喝采。勝者を称えるべく巻き起こったスタンディングオベーションからは、交流レースとは言え女性騎手による初のGⅠレース制覇という偉業の大きさがひしひしと伝わって来た。

 勝ち時計2分5秒1、上がり3ハロン38秒2という記録とともに、前身のスーパーダートダービーからの長い伝統を誇るこのレースの歴史に、ストロングソーマと藤平 優の名が勝者として刻まれた。



「やい、陽介。相手が彼女だからって手え抜いてんじゃねえよ!八百長だ、こんなの」

 テムジン頭の馬券でも買っていたのであろうか、心無いヤジを飛ばす者もいたが、同調するものはいなかった。入線後にガックリとうなだれた陽介の姿を見れば、彼がいかに真摯に勝利を目指していたかは明白だったからだ。そして、この接戦の勝敗を分けたのが他でもない騎手の差であると、誰よりも彼自身が理解していたことも。


「いいタイミングで抜け出せたと思いましたが、最後の最後に甘くなりました。テムジンはやはり素晴らしい馬でしたが、今日は勝ち馬に上手く乗られました」

 2着惜敗の陽介は敗戦の弁で、勝者である優の騎乗を称える。それは、騎手にとっては最大級の讃辞であった。


 一番最後に悠々と引き揚げて来た優とストロングソーマを出迎えたのは、喜びの涙に打ち震える陣営の姿であった。綾が、太一が、安川が、相馬が、そして武骨な太陽までが泣いている。おまけに、記者の冴と内藤も泣いている。神谷厩舎初の大レース制覇が、あまりにも劇的過ぎたからだろう。


「先生がよく言っている『走るのは馬だ』の本当の意味が、やっと分かった気がします。『走るのは馬だが、走らせるのは人』。牧場から競走馬を育成して、入厩後は厩舎一丸で馬を鍛え、レースを教えながら育てて行くのが、競馬。今日の勝利は、チーム皆の勝利です」

 

 チーム・ストロングソーマを称える優。その言葉を受けた太陽は、これまで見せたことのない柔らかい表情を浮かべて、返す。

「お前が感じた通り、競馬は人と馬が力を合わせて勝利を目指す競技だ。そういう意味では今日のお前は、まさに人馬一体、素晴らしい騎乗だった。純粋な馬の力だけなら、あるいはテムジンの方が上だったかも知れない。それを上回ったのは、紛れもなくお前の好騎乗があってこそだ」

 

 そう言うと太陽は、いつものように優の頭をポンと叩くのではなく、右手を差し出して握手を求めた。優が少し戸惑いながらこれに応じると、少し寂しそうな表情でこう言った。

「俺が20年以上掛けてやっとたどり着いた境地に、お前はもう達してしまったな。優、もう俺がお前に教えることは何もない」

 その言葉に、優は優しく微笑んで頭を下げた。この日、勝っても負けても泣いてばかりだった彼女が、涙を流すことはなかった。

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