212 日本ダービー(2)
テグザーとマッハマンの2頭がテンから勢い良く飛ばしていくスタンド前。そこから5馬身以上離れた後方では、残りの16頭が各々のポジショニングに腐心していた。
そんな中、優に導かれたストロングソーマは8番手、好位から中団の辺りで流れに乗っていた。
細心の注意を払ったそのスタートで、優はゲートから“フワッと”出すことに成功した。飛び出した勢いそのままに、馬の行く気を過度に損なわないように自然とハミを抜く高度な技術だ。弥生賞と皐月賞では失敗したものの、重ねて来たゲート練習の成果をこの大一番で見事に結実させて見せた。
そのまま折り合いを付けて本来の先行策に出ることも可能だったが、優の選択はいつもより幾分後ろの位置取り。これは、レース前に太陽と意見をすり合わせた結果であった。
「極端に悪化した馬場では、乗っていても得てして適正ペースが分からなくなるものだ。トップ騎手の武器である体内時計の正確さも、これだけ泥んこになればあまり意味を成さない。そうなると、切れを活かした追い込みが利きにくい状況を鑑みて、多くの騎手のポジションは自然と前掛かりになりがちなんだ。そんな中で普段通りの競馬に拘り過ぎると、オーバーペースに陥るリスクが高い」
太陽は、自らの長い騎手生活の経験に裏打ちされた持論を展開しつつ、続けた。
「それに、これはダービーだからな。明らかにここでは距離が長い馬も参戦して来る上に、みんなが勝ち気にはやることで、自然とペースが上がる。近年は馬場の高速化と整備技術の向上もあって、上がりの速い前残りのレースが頻発しているが、これだけ重い馬場なら昔のダービーのセオリーが生きて来る。ダービーは本来、我慢の出来る奴が有利なレースなんだ」
実際に現役時代、道悪のダービーを制している太陽の言葉には充分過ぎる説得力が備わっていた。優の2年余りの騎乗経験からも頷ける点が多く、前半抑えて行くことに異論はなかった。差し難い馬場状態とペースを天秤に掛けた結果が、全体の真ん中付近での追走であったのだ。
この土日、雨中のレースを重ねたことで、芝コースの内側は特に深く掘れている。そこを走ることはスタミナのロスに繋がるため、馬群は内ラチから2~3頭分を開けた形で動いて行く。先頭のテグザーとマッハマンは早くも1コーナーに突入しようとしている。
大きく離れた3番手に付けたのはスルスミ。
「現状、有力馬と同じ所からでは見劣る。他馬の決め手が削がれる分、前に付けてアドバンテージを取ろうと思った」(田崎)
続いて先行力を活かしたいプリンシパルステークスの覇者ダンシングヒーロー。ドンヴォルカンも前走の青葉賞同様に前目のレース運びだ。
その後ろは、前走の京都新聞杯で新味を見せたマイフェイバリット。そしてローリングサンダーはスタートが良すぎたか、ハミを噛んで掛かり気味に先行。その直後、8番手にストロングソーマ。
中団はまず、前走で連勝がストップしたライディーン。
「直線で馬体を併せる形に持って行きたかった。前後の動きに反応しやすいポジションが欲しかったので、真ん中辺りから」(福山)
差なく芝ダート二刀流のGⅠ馬テムジンだが、やや口を割っている。
「本当はもう少し脚を溜めたかったが、マイル中心にレースを使って来たこともあって馬が行く気。あれ以上抑えるのは難しかった」(ジョバンニ)
その外に皐月賞3着のフレイムハートが並んでいる。多田の手綱が動くシーンも見られ、行きっぷりは今一つの様子。
「跳びが大きいし、ちょっと非力な所もあるから、この馬場ではなかなか進んで行かなかった」(多田)
そして紅一点、世代最強牝馬ニンリルはここ。
「馬場を心配していたが、脚を取られることもなく案外上手に走っていた。下を気にした分、折り合いも付いてくれた」(菅田)
これをマークするように、ヨーロッパからの刺客マルコポーロ。さらにホープフルステークスの勝ち馬エナジーフローがその外に付けている。
「菅田騎手が前にいたので、この位置でいいと判断した」(ジョーンズ)
「ミツルさんを見ながら進めれば大丈夫だと思っていた」(ロベール)
例年短期免許で来日しているジョーンズはもちろん、通年免許で騎乗しているロベールにしても、これほどの極悪馬場でのダービーは未経験だ。アウェーにおいて騎乗経験豊富な地元の第一人者にペース判断を委ねるのは、世界共通の定石である。
後方集団は、まずインドラ。
「ドロドロの馬場を全く苦にすることなく、楽に走っていた。この馬のペースで運べば最後は脚を使ってくれると判断して、馬任せであの位置から」(ヴェットーリ)
連れてきさらぎ賞馬ポテンショメータ、スプリングステークス馬ブルーゲイルの2頭が続くが、思うように進んで行かないのか鞍上が促しながらの追走。時折ノメるような仕草を見せており、走法的に馬場が合っていない様子だ。
そして殿から追走するのは何と、単勝1.3倍の大本命馬ゴールドプラチナム。いつもの軽やかな駆けっぷりは影を潜め、脚を痛めた陸上選手を見るようなぎこちないフットワークを見せている。鞍上の陽介の手綱は動いていないものの、前を行く2頭と同様にこの馬場にフィットしていないのは明らかだ。
絶対王者に囁かれていた唯一の不安が現実のものとなってしまったのか。その異変に超満員のスタンドがどよめくのを尻目に、馬群は2コーナーを抜けて向こう正面に達しようとしていた。




