210 景色
パドック周回を終え、地下馬道へと姿を消したストロングソーマ。カツーンカツーンと蹄音を響かせながら前の馬を追って歩く姿は、前走と打って変わって落ち着き払っている。トレセンからずっと装着しているメンコが、いい方に出ているのだろうか。
地上に出るまでのそのわずかな時間に、優は厩務員の綾ととりとめのない言葉を交わす。
「そう言えば、綾さんはどうして厩務員になったんですか?」
「中学の時、家族全員で競馬を見に行ったんだけど、それがダービーでね。優ちゃんと似たようなものかな。生で見る馬が格好良くて、それでいて可愛いし。そして何より、勝者だけに許されるウイニングランでもうジーンと来ちゃって。それでこの世界に入りたいって思ったの。でも私は優ちゃんみたいに騎手になれるほど運動神経も良くなかったし、やっぱり私はお世話する方かなって」
「いよいよ来月ですね、結婚式。……太一さんを支えるために厩務員の仕事を辞めようとか、考えたりします?」
「そういうのは、全然ないかな。私の人生は私の物だし、何よりこの仕事は好きでやってるからね。優ちゃんだって、結婚するから騎手辞めますなんて、言わないでしょ?」
「もちろん」
スロープをゆっくりと駆けあがると、まばゆい光の向こう側で十万人を超える大観衆が歓迎する。
本馬場入場を終え、思い思いのコースで返し馬に向かう各馬に対し、それぞれのファンが大きな声援を送る。
先入れする馬もなく隊列通りの7番目に入場した優は、ゴールドプラチナムと陽介が馬場の真ん中辺りで立ち止まっているのに気が付いた。陽介は馬上から、じっと観客席側を見つめている。そしてゴール方向まで視線を流すと、ゆっくりと返し馬に向かったのだが────
そのフットワークはいかにも頼りなく、いつもの軽やかさが欠片も感じられない。明らかにノメっている。今日の主役の一挙手一投足を食い入るように見つめていた観客からも、にわかに戸惑いと不安に満ちたどよめきが起こり始める。
遡ること数分前。パドックでゴールドプラチナムに跨る陽介に対し、オーナーの大山は素直に不安な心境を吐露した。
「今日の馬場は、ゴールドには可哀想な具合になってしまったな。強い馬はどんな馬場でも強いなんてのは、古い時代のノスタルジーみたいなもんだ。もしこれは駄目だとなったら無理させなくてもいいから、無事に回って来てくれ」
数々の名馬に携わって来た日本競馬のドン・大山にとっても、このゴールドプラチナムは特別な存在だ。この不向きな馬場を走らせることでのダメージを心配する発言は、半ば今日の勝利を諦めた心境を映したものでもあった。しかし、それに対して陽介は言い切った。
「勝ちますよ。今日の出走馬の中で一番強いのは間違いなくこの馬、ゴールドプラチナムですから」
その陽介は、鮮やかな緑の絨毯から一転して泥まみれの田圃と化したこのターフを体感した時、一体何を見て、考えていたのであろうか。
(陽介、何を見てたんだろう?)
同じように馬場の外を見遣った優の視界に飛び込んだのは、レース直前で隙間もないほどびっしりと埋まったスタンド。
(ああ、あの時私は、お母さんと一緒にあの辺の一番前に張り付いてたっけ)
自らが騎手を志すきっかけとなったかつてのダービーの日を思い出しながら、優は不意に自らの思考がスーッとクリアになるのを感じた。
小倉記念を勝った時のような絶対集中にはついに至らなかったが、これで充分。師匠の太陽と練り上げたレースプランを基に、臨機応変に対応して勝利を目指す。余計なプレッシャーや気負いを抱かずに、ただ出来る事をやればいいだけだ。
「じゃあ、行って来ます」
優は綾に別れを告げて、ストロングソーマと共に決戦のゲートへと駆けだして行った。このぬかるんだ馬場を、ゴールドプラチナムとは対照的に、回転の速いフットワークでリズミカルに軽快に。
所変わってマスコミエリア。犬猿の仲の二人、女性記者の冴と穴記者の内藤が、お互いのダービーの最終予想について語っている。
「おいおい冴さんよお。あんたあれだけゴールドプラチナム推しだったってのに、この大一番で浮気かよ。女は怖いねえ」
「これだけ酷い馬場になってしまっては、あの馬の武器であるスピードと瞬発力が活きないですから。それでも地力で押し切る可能性は充分ありますけど、本命にするにはいささかリスキーでしょう。それに女がどうこう言うなら、内藤さんの本命の鞍上も女じゃないですか」
「俺はいい年こいたおじさんだから、けなげに頑張ってる女の子は応援したくなるんだよ。馬もこういう馬場は得意そうだし。それにあの子、子供みたいな顔して結構な勝負師だからな。あんたとは別の意味で怖い女じゃないの」
冴のダービー最終予想
◎インドラ
〇ニンリル
▲ゴールドプラチナム
△マルコポーロ
△テムジン
△ライディーン
内藤のダービー最終予想
◎ストロングソーマ
〇スルスミ
▲マルコポーロ
△エナジーフロー
△ドンヴォルカン
△マッハマン
△フレイムハート
△ダンシングヒーロー
△マイフェイバリット
△ブルーゲイル
午後3時半に京都10レースが終わると、国歌独唱。無事に歌い上げた人気歌手が両手を上げると、場内は割れんばかりの大喝采。この儀式的な厳かさも、ダービーならではの物である。
そして時刻は午後3時40分。数分後には決しているレースの勝者たちを一足早く祝福するかのように、東京競馬場のバックに虹のアーチが架かった。幻想的な光景に、観客席からも自然と溜め息が漏れる。
上昇する台上のスターターの赤旗に合わせて、生演奏の関東GⅠファンファーレが高らかに響き渡る。昨年デビューしたサラブレッドたちの一年の総決算、日本ダービーの発走だ。




