209 嵐のち晴れ
ぐずついた天気が続く今年のダービーウィーク。当初、日本ダービー当日はそこまで馬場は悪化しないのではないかと見られていたが、木曜の夜になるとその予報は激変した。
本州の南に発生した低気圧が急速に発達し、梅雨前線を刺激しつつ関東地方へと接近して来るという。いわゆる爆弾低気圧である。
台風並みの激しい暴風雨をもたらすため、開催の中止も心配されるところであった。しかし、本州から幾分距離を置いた南の海上を進むため風は危険なレベルまでは強まらないと予想され、無事に開催される運びとなった。
そんな不穏な状況下で迎えたダービー当日。
東京競馬場が開場した朝の時点で、芝コースは既に重。ここから更に雨脚が激しくなると予想されており、本番は不良の中の不良馬場、俗に田んぼと言われるほどの極悪な馬場状態でのレースになることが確実な情勢となっていた。
「何で日本にはスクラッチがないんだ。こんな馬場でゴールドプラチナムを走らせたくはないのに……」
空を埋め尽くす真っ黒な雲の群れからシャワーのように無慈悲に降り注ぐ雨空を、恨めしそうに見上げてひとりごちているのは、大山 一郎。大社グループの総帥にして、ゴールドプラチナムの馬主である。
大山が馬場を不安視している理由は、ゴールドプラチナムの独特な走法にあった。
同馬の爆発的な推進力をもたらすのは、高く振り上げた前脚を叩きつけることで得られる、強烈なグリップ。もちろんパワーも兼ね備えており、少々の馬場悪化を苦にするものでもない。しかし、このまま異常なまでに馬場がぬかるんでしまうと、この最大の武器が失われてしまうのは火を見るより明らかだ。
ブックメーカーの存在を前提としている欧米と違って、日本競馬は馬券販売の収入を基礎として成り立っている。そのためスクラッチ、即ち出馬投票後のエントリー取消が認められないのは止むを得ないことではあるが、それは好走条件として馬場状態を選ぶ馬にとっては望ましくはないのも確かだ。
そんな大山の心配をよそに、降りしきる雨はますます激しさを増して行く。昼前からは時折強い横風も混じるようになり、恒例となっている昼休みのダービー騎乗騎手紹介も中止となってしまった。
例年十万人を超える大観衆が詰めかけるこのレース。ほとんどの人が風雨を避けて室内に籠ってしまったため一気に人口密度が上昇し、すし詰め状態で身動きが取れない状態になってしまっていた。
途中、排水設備のキャパシティを超えるほどの降水量のため、逆流した雨水が場内のマンホールの蓋を噴き上げる現象も発生した。そのまま放置しておくと極めて危険なため、警備員がマンホールの上にコーンを置いて、観客が近寄らないようこれを見張る事態となった。
出走する人馬は容赦なく降り注ぐシャワーを浴びながらも、予定通りにレースを消化し続けて時計の針を進めて行く。次第に雨の勢いは弱まり、ダービーの出走馬がパドックに姿を現した午後3時にはピタリと停止した。すると風雨から解放された観客たちが一斉にスタンド前を埋めて行き、場内は一気に華やかさを取り戻した。
やがて停止命令が下り、整列した18人の騎手たちが愛馬に向かって散らばって行く。
「わしからは何も言う事はない。頼んだぞ、陽介」
大山が、ゴールドプラチナムのもとに駆け寄って来た陽介に一言だけ声を掛ける。
「分かりました。勝ってきます」
相棒の長所も短所も知り尽くし、オーナーの不安を誰よりも理解しているはずの男は、そう力強く返答して馬上の人となった。
一方、ストロングソーマ陣営は和やかなムードに包まれていた。
人気薄の上にこの馬場への適性にも不安は皆無なため、余計なプレッシャーを背負うこともなく、皆表情は明るい。
「初めてダービーに出せただけで、充分幸せですよ。勝ち負けよりも、まずは無事に帰って来て下さいね」
生産者であるカガヤキ牧場の安川は、この極端な馬場でのアクシデントを心配しつつ、優に余計な重圧を与えまいと気遣って優しい言葉を贈った。
「私たちのわがままで目指したダービーですが、この場にいられるのはまさに至福ですね。もちろん勝つためにここに来ているのですから、着拾いなんかではなく1着を目指してベストを尽くして下さい。どうかグッドレースを!」
オーナーの相馬は、例年以上に揃った出走メンバーの中で厳しいレースになることを承知の上で、理想からぶれることなく優を鼓舞する。
「作戦はさっき打ち合わせた通りだが、レースは生き物だから臨機応変に対応しろ。走るのは馬だが、導くのはお前だ。自分が最善と思うように、好きなように乗って来い」
調教師の太陽は、弟子としてではなく一人の騎手として全幅の信頼を置いて、優を送り出す。
(私は幸せ者だ。こんなに素晴らしい人たちに囲まれて騎手をやってるんだから)
レース前には、優がダービー出走の夢を打ち砕いた古畑と雅からも激励を受けていた。
「初めてのダービーだからって、ちびってんじゃないぞ。こんだけひでえ馬場なら、上手く立ち回れりゃあ一発あるかも知れねえから、しっかり乗れよ。まあダービー勝ったこともねえ俺が言っても説得力に欠けるけどな」
「優センパイ、月並みなことしか言えないけど頑張って下さい。今日は後輩として、女性騎手としてとにかく応援してますから」
今までの人生で一番の大舞台に立つというのに、優の心はいつもに増して穏やかであった。厩務員の綾にエスコートされながら恩人たちにしばしの別れを告げると、優とストロングソーマは本馬場へと続く地下馬道へと姿を消して行った。




