203 プリンシパルステークス
ゴールデンウィーク終盤の土曜日、東京のメインレースはプリンシパルステークス。格付けはリステッドながら日本ダービーの最終トライアルレースであり、1着馬にのみ本番の優先出走権が与えられる。
それなりに長い歴史を誇るレースではあるものの、先週の青葉賞同様、ここをステップとしてダービーを勝利した馬は未だに存在しない。これは、本番まで中2週というタイトなローテーションを強いられることにより有力馬に忌避された結果、他の前哨戦に比べてメンバーレベルが低くなる側面が大きい。かつては調整に狂いが生じてここへの出走を余儀なくされた大物の出走はあったものの、結局本番を勝てなかったという事実もこの傾向を後押ししていよう。
今年の出走馬は、フルゲートに満たない全13頭。1勝馬の参戦も多くいささか寂しい顔ぶれの中で、最も注目を集めているのは2枠3番、中京の大寒桜賞1着からここに臨むロハノチャールズ。
この春に厩舎を開業したばかりの古畑 耕三の管理馬にして、騎乗するのはアイドル的人気を集める相川 雅、馬主も有名人と話題性は抜群。ダート路線を総なめにしたGⅠ馬ロハノロッキーを兄に持つ良血馬であり、ハナを切った時の粘り強さには定評がある。
そして優が代打騎乗する6枠8番ダンシングヒーローは、この低調な面子の中で2番人気に推されている。葉牡丹賞2着、弥生賞3着と、ストロングソーマとも差のない好走を見せており、実績だけなら1番人気になってもおかしくない実力馬である。
もう一頭有力視されているのは8枠12番、昨年の桜花賞馬シロイコイビトを姉に持つホワイトブレス。新馬勝ちの後は東京スポーツ杯2歳ステークス、ホープフルステークスと連続して格上挑戦したものの、結果を出せずに休養していた。復帰戦となった中山の山吹賞を、これまでの先行策とは一転しての後方待機から豪快に差し切り。勝ち時計や上がりタイム自体は特筆すべきものではなかったものの、この条件戦と見紛うようなメンバーに交じれば上位の存在なのは間違いない。鞍上は中田。
パドックでダンシングヒーローに跨った優は、場内に漂う無言の圧力のような空気をひしひしと肌で感じていた。
(ダービーで雅ちゃんを見たいんだから、余計なことすんじゃねえぞ)
(お世話になった先輩の大一番なんだから、顔を立ててやれよ)
(後輩が可愛くて人気あるからって、嫉妬して邪魔したりすんなよ)
優はそうした声なき声をシャットアウトするかのようにゴーグルを下ろすと、周回しながら言葉を交わす古畑と雅を尻目に、地下馬道へと向かって行った。
ダービーの切符はたった一枚。優と雅は本馬場入場後も視線を重ねることはなく、ひりついた雰囲気のままで午後3時45分の発走時刻を迎えた。
全馬ゲートインを終え、出遅れもなく揃った綺麗なスタートを切ると、内枠を引いた本命馬ロハノチャールズと雅のコンビが、大方の予想通りスッと抜けて先頭に立つ。
対する優のダンシングヒーローは、出足が付いたこともあって無理に控えることなく、いつもより前目の4番手の好位置を確保した。
本番での距離延長を考えると、理想としては前半ゆったり入りたいところではあるものの、このレースで勝利という結果を残さなければ次はない。加えて開幕3週目の馬場はまだコンディションも良好で、前に行った馬が簡単には止まらない状況だ。厩舎サイドと相談して臨機応変な騎乗を任されていた優は、迷わず逃げるロハノチャールズを射程圏に入れての競馬を選択した。
もう一頭の人気馬ホワイトブレスは後ろから2頭目と、前走に引き続いての後方待機策。展開不向きは承知の上で、苦い敗戦を重ねた末に見出した新味に全てを託したこの位置取りは、ダンシングヒーローとはまさに対極と言えるものであった。
単騎逃げが叶ったロハノチャールズの前半1000メートルの通過タイムは、1分0秒7。馬場状態を考えるともちろんスローではあるが、道中で後続が変な動きをするような極端なペースでもない。後ろを引き付け過ぎて瞬発力勝負で後れを取らないよう意識した上で、自分が残れるペースを模索した結果がこの溜め逃げであった。
これを見ながらレースを進めるダンシングヒーローの優も、雅のペースメイクを信頼していた。積極的に前に行く騎乗スタイルがすっかり板に付いた雅は、古畑の指導を受けつつローカルで揉まれることで、逃げの経験値を充分に積み上げているはずである。とは言え、このペースにそのまま乗っかっていたままでは、逃げ切りを許してしまいかねない。程良く前をつついて抜け出しつつ、後門の狼たるホワイトブレスの追撃を抑え込んでの先頭ゴール。これが彼女に与えられた勝利へのミッションである。
3コーナーに入る手前から少しペースアップして番手を上げると、ロハノチャールズの右後方に張り付いてプレッシャーを掛け始める。今まで何度か優に逃げを潰されて来た雅は、優がこの時点で本気でハナを奪うつもりはないことを当然理解している。それでも、嫌らしいくらいにじわじわと差を縮めて来るために、若干のペースアップを余儀なくされてしまうのだ。それは逃げ馬の強さと脆さを知り尽くしている故の、騎手の性とも言える本能的行動であった。
ここまでテンの1ハロンを除いて11秒台後半で緩やかに推移して来たレースラップが加速するのに伴い、一団だった馬群がにわかに縦に広がる。それを合図に後方集団も徐々にギアを上げて行き、全体が一気にスピード感を増して最後の直線へとなだれ込んで行く。
先頭はロハノチャールズ、連れて差なくダンシングヒーローという並びは変わらない。ここで優が抜け出しを図ればロハノを潰すことは可能であろうが、そのような早仕掛けではホワイトブレス以下の差し込みを受け止めきれない恐れが強い。逃げ馬を“可愛がる”形で泳がせたまま、今は手綱を抑えて我慢の時である。
残り400メートル付近で3番手以下が1馬身半差まで接近して来ると、ようやく優の手が動いた。それに反応して雅もスパート。力量上位の2頭が加速すると後続は再び突き放され、ゴールを目指しての激しい追い比べが始まる。
優が鈴を付けにきたために息を充分には入れられなかったものの、限界まで引き付けた上に動き出したのも相手が先だ。逃げればしぶといロハノチャールズなら、ゴールまで残し切ることも出来るはず。相棒を信じて雅は左ムチを振るう。
その外、右ムチで応戦する優も、自身の勝利を微塵も疑ってはいなかった。その自信を支えているのは、騎乗馬の能力への信頼。ストロングソーマに騎乗してのこれまでの対戦経験が、その実力優位を彼女に肌で伝えていた。ロハノを道中で動かしたこの展開なら、最後は捻じ伏せることが出来るはず。馬自体はダンシングヒーローの方が強いのだから、騎手がきっちり自分の仕事をしてやれば結果は付いて来る。師匠から散々教わった通り、走るのは馬なのだ。
必死に追い縋るダンシングヒーローに、なかなか先頭を譲らないロハノチャールズ。このままゴールかと思われた残り50メートルで、初めてダンシングヒーローが頭一つ前に出る。するとロハノチャールズにはもう、再び差し返すだけの余力は残っていなかった。最後は半馬身に差を広げて、優とダンシングヒーローが先頭でゴール板を駆け抜けた。勝ち時計1分59秒0、上がり3ハロン34秒5は水準レベルの決着か。
後方で脚を溜めていたホワイトブレスはゴール前猛然と追い込んで来るも、先行勢の絶妙なペース配分の前に屈しての3着。2着ロハノチャールズとはわずかクビ差であった。
「バカヤロー!何で差すんだよ」
勝者に向けられたのは歓声や拍手だけではなく、雅の勝利を期待していたファンからの心無い罵声も交じっていた。優はそれに応えるもなく、静かに地下馬道へと消えて行った。
差して凌ぐというミッションを見事完遂し、ダンシングヒーローと共に引き揚げて来た優は、関係者からの祝福に包まれた。その脇には、ダービー出走を逃して項垂れる雅と、無念の表情を浮かべる古畑の姿があった。
「おめでとさん。上手く乗られたわ」
下馬した優の背に、悔しさを押し殺しながら古畑が声を掛けた。振り返った優はぺこりと大きく頭を下げると、そのまま検量室へと去って行った。
勝負の世界は非情である。恩人であろうと妹分であろうと、自らが勝利を掴むためには蹴落とすしかない。根が優し過ぎる優は二人の夢舞台行きを阻んだことに心苦しさを感じながらも、依頼をくれた陣営の期待に応えられたことを喜び、次のレースではまた勝利を目指して全力を尽くすのだ。騎手という因果な職業に就いた優は、いつか鞭を置くその日まで、そんな苦楽を積み重ねて行く。
レース後、ダンシングヒーロー陣営から、本番のダービーでも騎乗出来ないかという打診があった。もちろん今回の騎乗内容を評価してのものであり、夢舞台であるダービーの出走馬を確保出来るのは大きな魅力だ。しかし優は、即決で断りを入れた。
「ありがたいお話ですが、すみません。ダービーはストロングソーマで決まってますから」
それは、自厩舎で苦楽を共にして来た相棒という情からだけではなく、ストロングソーマの方が上だという騎手としての選択に基づくものであった。
ただし、賞金下位の馬が立て続けにダービーの出走を決めた今日の結果を受けて、現状ストロングソーマが出走可能かどうかはかなり微妙な状況となっている。




