196 皐月賞(4)
スタート直後のポジション争いの最中、インドラの外からの押圧のあおりを受けて、ゴールドプラチナムに騎乗する陽介の左のアブミが外れてしまった。
後方からその一部始終を見ていた優も思わず声を上げてしまうほどのアクシデントであったが、目の前で見ていたはずのスタンドの観衆のほとんどは、この事態に気付くことはなかった。
陽介は、残された右のアブミ1本でバランスを保ち、重心が崩れないように騎乗姿勢を維持したままゴールドプラチナムを走らせ続け、宙に浮いた左のアブミに冷静に爪先を乗せると、何事もなかったかのように1コーナーへと進入して行ったからだ。この間10秒も要していない。
「陽介、騎手が落馬して競争を中止したら、レースはそこで終わってしまう。そのレースに向かって積み上げて来た関係者の努力や思いも、全て水の泡だ。馬の将来だって変わる可能性もある。勝ち負けは兵家の常だが、落馬は一番避けなきゃならないことなんだ。勝てる騎手である前に、落ちない騎手であれ。もちろん絶対落ちない騎手なんていやしないが、何が起ころうとも落ちない心構えを忘れるな」
これはフェブラリーステークスでの落馬のあと、陽介が師匠の伊沢調教師に掛けられた言葉である。あの落馬自体は予期せぬ不利を被っての事故だったが、もし落ちずにレースを続けられていれば結果はどうであったか。陽介はこの厳し過ぎとも言える叱咤激励を正面から受け止め、負傷療養中から鍛錬を積み重ねてより強い騎手を目指して来たのだ。
下半身を徹底的に鍛えることで騎座を安定させるとともに、体幹トレーニングを積んでバランスを強化することで、陽介は不測の事態にも耐えられる心と体を手に入れていた。
とは言え、時速60キロ以上で走る競走馬の背の上で激しい風圧や振動の中、これほどの完璧なリカバリーを成し遂げることが出来る騎手が、果たして世界にどれほどいるだろうか。優はその鮮やかな手際に感嘆すると同時に、同業者として嫉妬すら覚えていた。
ターフビジョンでゴールドプラチナムの異変に気が付いた一部のファンからささやかな拍手が起きる中、馬群は1コーナーから2コーナーへと向かって行く。
先頭を奪ったマッハマンは、中距離戦としては明らかなハイラップでレースを引っ張って行く。それでもピッタリと折り合ってリズム良く運ぶその姿からは、無理している様子は微塵も感じられない。
ハナを切れなかったテグザーは3馬身ほど離された番手を追走しているものの、自分のレースが出来ない初の事態に戸惑っているのか、馬が走るのを止めたそうな素振りすら見せるのを鞍上の棚田が必死に促している。
その後ろは2馬身ほど切れて、ワイネルワイバーン。この好位集団に取り付いたのが、裏街道ながら無傷の3連勝中の惑星2頭、フレイムハートとライディーンだ。競って勝負強いライディーンの福山は、脚質も近いフレイムハートの実力を信用しているのか、併せ馬のターゲットに設定しての徹底マークの様相である。
続いてイッキトウセン、ブルーバード、スルスミと続いて、ロベール騎乗の2番人気エナジーフローはここ。フリーアズアバードの後ろ、3番人気インドラは中団の外目。ローリングサンダー、ダンシングヒーローの2頭の後ろに、不利で位置取りを下げた1番人気のゴールドプラチナム。
そして末脚に賭けるホダカブロンソン、ブルーゲイル、ポテンショメータの3頭が後方に控えて、優のストロングソーマは折り合いに専念しての最後方となっている。
先頭集団は向こう正面から前半1000メートルを通過。そのタイムが58秒フラットと表示されると、場内に大きなどよめきが起きた。いくら高速馬場とはいえ、このペースではさすがに前が止まるのでは────そんな観衆の思惑をよそに、逃げるマッハマンの菅田の手綱は全く動かない。
集団に目立った動きはないまま3コーナーに差し掛かる。ここで早々と前進気勢を見せたのが、殿のストロングソーマ、藤平 優であった。
テンパってしまった相棒を落ち着かせるために一旦流れの外に身を置いた以上、そこからレースに参加するには流れを壊しに行くしかない。かと言って溜めに溜めての末脚勝負に託すには切れ味が足りないし、ギャンブルで内を狙っても瞬発力即ち瞬間の反応の良さが欠けているために馬群を捌くのは難しい。この状況で彼女が採れる策は、トップスピードの速さを生かした大外マクリ一択であった。
明らかなハイペースではあるが、直線一気が決まりにくい中山の直線と前が止まらない馬場状態を意識して、騎手意識は自然と早めの仕掛けに行き着く。ストロングソーマの動きに便乗する形で差し勢の多くが進出を開始する。好位から中団の馬群が密集している状況から、ほとんどの馬がコースロスを承知で外を回すことを選択した。
オレンジの帽子、14番ゴールドプラチナムもこのタイミングで外に出して進出を開始した。これを手ぐすね引いて待っていたのが、インドラの御子柴である。道中馬群の外に陣取っていた彼は、ゴールドプラチナムが加速して来るのに合わせて内から弾き出して、あわよくば失速させようと目論んでいた。横からの接触に対しては、進路をカットするよりも制裁は甘い傾向がある。現在の降着ルールなら最後に接戦にならなければ降着処分はセーフだろうという読みで、更なる一撃を加えるべく息を潜めていた。
もちろん陽介は、この御子柴の狙いを読んでいたわけではなかった。ただ愛馬の能力を把握し、ゴチャつきやすい中山で進路を失うリスクを負う必要はないと確信していた陽介の騎乗には、一寸の迷いがなかった。そしてその速さは、御子柴の予測を大きく超えていた。
陽介のゴーサインを受けたゴールドプラチナムは、瞬く間にトップスピードに到達すると、超加速で並ぶ間もなくインドラを抜き去ってしまったのである。まさかの目標ロストに虚を突かれた御子柴が一瞬呆然としたその隙に、続けて上がって来た後方待機組に外を塞がれたインドラはアクセルを踏み遅れる結果となり、この皐月賞の争覇圏から脱落した。




