156 朝日杯フューチュリティステークス
GⅠ開催でいつもに増して賑わう阪神競馬場のパドック。メインレース・朝日杯フューチュリティステークスの出走馬総勢18頭が、パドックにその姿を現した。
そんな競馬ファンの視線を一身に集めるのが、関西初見参の噂の怪物、ゴールドプラチナム。ある者は一言も発することなくその馬体に釘付けになり、またある者はその馬体のどこが凄いのかを評論家よろしく連れに語っている。筋肉の塊のようなムキムキボディのマッハマンがいるにも関わらず、多くの人はまるで芸術作品に魅入られたかのようにその目を離せずにいた。
ところでこのパドック、通常は馬番順に1から18までの馬がきちんと隊列を整えて周回するのであるが、今回は1番ソーマスターシップの蹄鉄がずれて打ち直したため入場が遅れてしまい、同馬は4番ゴールドプラチナムの直後に回る形となっていた。
そして止まれの号令が掛かる。ジョッキーが一列に並んでの礼を終え、各々のパートナーの下へと散って行く。
優はソーマスターシップの傍まで小走りで向かうと、師匠の太陽、厩務員の綾、オーナーの相馬と挨拶を交わした後、すぐ目の前で立ち止まっているゴールドプラチナムに目を遣った。
(綺麗な栗毛……。眩しいくらいピカピカで、まるで金色のオーラを放っているみたい。それに何よりあの馬体の凄さと言ったらもう……。)
ひたすら感嘆しきりの優。決してマッチョな体ではないが、縦横ともに文句の付け所のないほどのバランスの良さで、筋肉もつくべき所にしっかりと備わっており、無駄な部分を微塵も感じさせない芸術的な造り。それは、速く走るために余計な部分を全て削ぎ落とすように進化したサラブレッドの究極形態とも思える美しさであった。
そうして見惚れていると、陽介と伊沢調教師の話し声が、思わず耳に飛び込んで来た。
「60辺り、ですかね。距離と馬場を考えると。」
「そうだな。そのくらいでちょうどいいんじゃないか。」
隠す様子もないオープンな会話だったが、その数字が意味するところは何か、優は気になった。60パーセントの力で勝てる?そんな挑発的なことを周りに聞こえるように公言するような人たちではない。レースの1000メートル通過が60秒?あのマッハマンがそんな温いペースで引っ張るわけがない。一体何を指しているのだろうか。
ちなみにソーマスターシップ陣営の作戦は、至ってシンプルなものだった。好位で流れに乗って、一つでも上の着順を目指す。現状、ここでは能力的に厳しいのは承知の上で、レースは何が起こるか分からないからとにかく諦めずに全力を尽くそうという方向性である。
テーマ曲に乗って各馬の本馬場入場が進む。ゴールドプラチナムの豪快なフットワークの返し馬に、歓声が溜め息、どよめきに変わる。レースで走る前から既に観衆の心を鷲掴みにしている同馬だが、果たしてこのマイルの舞台でそのポテンシャルを遺憾なく発揮することが出来るのか。勝負は下駄を履くまで分からないものである。
そしてファンファーレが高らかに鳴り響き、場内のボルテージは最高潮に高まる。その大歓声の中でもゴールドプラチナムは微動だにせず、2歳馬とは思えない冷静沈着ぶりで出番を待っている。
各馬ゲート入りは滞りなく進み、最後に大外ワイネルタリスマンと多田が収まり全馬態勢が整う。
ゲートが開くとや否やポーンと飛び出したのは、やはりこの馬。ピンクの帽子は8枠17番のマッハマンだ。マイルに距離延長ということもありさすがに押して行くことはないが、その天性のスピードで難なくハナを切って行く。
2番手には、鞍上の中田がガシガシと手綱をしごいて3番アラマイヤウィードが上がる。以下、18番ワイネルタリスマン、2番コズモソルジャー、14番デンジャラスジーと続いて、その直後に1番ソーマスターシップと11番ケイエムウェルダンが付ける。
その後ろの中団グループは、10番ブルーバード、5番マイフェイバリット、13番ダイクファルコン、6番セイショウヤマモモ、8番フリーアズアバード、7番シゲオチキンカレーの順。ペースが流れているためか、馬群はばらけて縦長の様相。
後方集団は15番ミスターサターン、12番スプリングマン、16番ローリングサンダー、9番サドノスタンピードと続いて、1番人気のゴールドプラチナムは最後方の位置取り。
ハイペースを予想してか、上位人気馬がいつもより後方に付けている傾向はあるものの、ゴールドプラチナムのこの位置取りを読んでいた者は少ない。やはりマイルの速い流れに対応出来ないのか?ターフビジョンに悠然と殿を追走する大本命馬が映し出されると、場内は大きくどよめいた。
しかし、スタート直後に内からゴールドプラチナムの動きを注視していた優には、そうでないことが分かっていた。
そもそもゴールドプラチナムは、ただ乗っていれば誰でも勝てるというような生易しい馬では、決してない。強烈な推進力の裏返しで、技量不足の乗り手ならたちどころに持って行かれてしまうほどの行きっぷりを誇る馬だ。それを目立たずに巧みにコントロールしているのが、他ならぬ主戦の陽介なのである。
発馬後に僅かに手首を下げ、足首を中心とした微妙な重心移動で馬の行く気にブレーキを掛けることで、自在にペースを調整する。外野からのファン目線ではなく、同じレースに騎乗する騎手目線でそれを見ていた優には、痛いほど伝わって来ていた。陽介の位置取りは強いられたものなどではなく、完全に意図したものであることが。
そんな後方の思惑をよそに、快調に飛ばすマッハマンの前半800メートル通過タイムは、45秒4。マイル戦のペースとしては暴走と紙一重のギリギリのところで、鞍上の菅田が何とか息を入れている。
逃げているのが重賞3連勝中の2番人気馬とあっては、いくらオーバーペース気味とはいえあまり放置は出来ない。後方のゴールドプラチナムをいつまでも警戒しているわけにも行かず、各馬徐々にギアをを上げてマッハマンを追い上げ始めた。
縦長だった馬群が凝縮し始める中、そのゴールドプラチナムの鞍上・陽介は微かに手を動かしてギアを上げ始めてはいるものの、積極的に差を詰めようという様子は皆無である。1000メートルを57秒フラットで通過したマッハマンとの差は、実にまだ15馬身。本当に大丈夫なのか。さすがに場内も騒然となり、怒号さえ飛び交い始めていた。
先頭で直線に飛び込んで来たマッハマンの脚色は、距離が伸びた分か前走に増して余裕を感じさせない。それでも類まれな心肺能力でスピードの減退を最小限に抑えて、どうにか栄光の先頭フィニッシュを目指す。
流れに乗っていた優のソーマスターシップは、ここで一杯。マッハマンに付いて行くことが出来ずに、ズルズルと後退を余儀なくされた。代わって先頭を追うのは、マイフェイバリット、フリーアズアバード、ブルーバード、ローリングサンダーの実力馬4頭。逃げ切りか、差しきりか。ほとんどの観衆の目はこの先頭争いに注がれる。
と、ここで突如として轟音の如き大歓声が場内から沸きあがる。────来たのだ、あの馬が。
誰もマークすることの出来ない最後方から、誰にも邪魔されることのない大外のビクトリーロードを一直線に爆走して行く。出鱈目としか思えないほどのスピードで、みるみるうちに前との差が詰まって行く。
GⅠ制覇を狙ってラストスパートを掛けているトップホースたちが、まるで止まっているかのように────文字通り並ぶ間もなく一瞬で全馬を交わし去ったゴールドプラチナムと陽介は、そのまま後続に3馬身差を付けて勢い良くゴール板を駆け抜けて行った。その走破時計は驚異の1分32秒7。スーパーレコードを樹立したゴールドプラチナムが、史上最強馬への階段をまた一段駆け登って見せた。
楽々突き抜けた勝ち馬の後ろで、激しい2着争いはゴールまでもつれた。最後にグイっと一伸びして2着に食い込んだのは、まだキャリア1戦のフリーアズアバード。新興勢力の一頭が収得賞金を大きく積み上げて、来年のクラシックに新たに名乗りを上げた。
以下、3着マッハマン、4着ブルーバード、5着マイフェイバリット、6着ローリングサンダーと入線。この辺りはマイルではあまり力差が感じられず、展開次第で着順が入れ替わりそうな印象である。
ソーマスターシップは、最後力尽きて9着に終わった。自分のレースは出来たことで悔いのない優であったが、レース後に発表されたリザルトを見た彼女は衝撃を受けた。
1着ゴールドプラチナムの勝ち時計は1分32秒7で、その上がり3ハロンは32秒7。つまり同馬の1000メートルの通過タイムは、そう、ちょうど“60”秒であった。自ら設定したマイペースを忠実に履行し、いつも通りの32秒台の脚を使って勝つ。そんな困難なミッションを容易くパーフェクトに達成して見せたのだ。
この馬が負けることなど、果たして有り得るのだろうか。盤石としか言いようのない陽介とゴールドプラチナムのコンビを前に、歴史的名馬への羨望と、それを打倒しなければダービー馬になれないという絶望に、押し潰されそうになる優であった。




