136 元返し
優が通算30勝目を飾ったサフラン賞の後のメインレースは、GⅠスプリンターズステークス。このレースを制したのは、屯田騎手騎乗のブラインドフェイスであった。同馬は春の高松宮記念も制しており、これで春秋スプリントGⅠ連覇を果たしたことになる。
そして今週は、秋の天皇賞への重要なステップレースとなる2つのGⅡ、毎日王冠と京都大賞典が東西でそれぞれ行われる。毎日王冠には今年の安田記念を制したアールタイプ、京都大賞典には昨年の有馬記念馬バーニャカウダがそれぞれスタンバイ。いよいよ本格的な秋の競馬シーズンの到来を予感させる
とは言え、美浦トレセンの話題はその両レースではなく、専ら1頭の2歳馬のデビュー戦に集まっていた。
その馬はもちろん、ゴールドプラチナム。歴史的大種牡馬サタデーフィーバーを父に持ち、母ベルベットローズは未出走で繁殖入りしたものの、全兄に三冠馬ハネダブロンソンがいる超良血馬である。全国リーディングトップの伊沢 義男厩舎の管理馬で、騎手は2年目にして関東リーディング首位に立っている神谷 陽介。そして馬主はクラブではなく、大社グループのドンである大山 一郎名義になっている。これは、ローテーションや海外遠征、引退種牡馬入りなどの意思決定に際して、大山をはじめとする大社サイドの意向に沿って決められるように、クラブ法人などを避けて一元化したものである。名義とは別に他馬主との共有すらしない潔さは、この馬の素質と活躍に対する揺るぎない自信を示していると言えよう。
このゴールドプラチナムが出走を予定しているのは、毎日王冠が行われる日曜日の東京の、芝2000メートルの新馬戦。いつもならこの条件の新馬戦は、東京コースでの中距離戦という本格的な舞台設定から、クラシックを見据える実力馬が殺到してフルゲートになることも珍しくはない。しかしこのレースに関しては、ゴールドプラチナムのあまりの前評判の高さに、予定を変更してデビューを先延ばしにする陣営が続出。一時はレース不成立の懸念すらあったが、競馬会から各厩舎への働き掛けもあり、最終的には8頭が集まった。
積極的な出走ではない数合わせ的な馬が多い中で、唯一打倒ゴールドプラチナムに意欲的だったのが、栗東の早坂 秀雄厩舎のダンシングヒーローである。
同馬は大社グループのサタデーレーシングの所属馬で、父は当然の如くサタデーフィーバー。ダービー馬を輩出したこともあるこの厩舎は、関西にありながらもメンバーを見極めて積極的に東京競馬場のレースに遠征して出走させるスタイル。このダンシングヒーローは今年の早坂厩舎の一番馬であり、本命馬以外のメンバーが手薄なここを狙って来たのである。
「伊沢さんとこの馬が物凄い評判だけど、調教と実戦が結びつかない馬なんていくらでもいるからね。ダンシングヒーローは、今まで管理した2歳馬の中でもトップクラスの素質の持ち主。そうやすやすと勝たせはしないよ。」
戦略家として知られる早坂は、愛馬に対する自信を隠すことなく、饒舌に語った。鞍上は大社グループの御用達騎手であるロベールを確保し、万全の臨戦態勢を敷いていた。
そして日曜日になり、関係者も競馬ファンも大注目の新馬戦の時間がやって来た。天候に恵まれ、馬場状態は良の発表。開幕週のパンパンの良馬場での力比べが楽しめる、絶好のコンディションとなった。
厩務員に曳かれてパドックを周回するゴールドプラチナムは、落ち着き払ってまるで歴戦の古馬のような雰囲気を醸し出していた。馬体重は476キロと発表されたが、500キロ以上あるのではと思わせるほど馬体を大きく見せ、デビュー戦から既に王者の貫禄を身に纏っていた。
(これは……。あの馬にぶつけたのは失敗だったかも知れないな。)
知将・早坂に思わず敗北を予感させるほど、ゴールドプラチナムから湧き出るオーラは異彩を放っていた。
「陽介、派手な勝利は要らないぞ。実戦経験を積ませつつ、次走に備えて負担が掛からないようなレース運びで頼むぞ。」
「分かりました、先生。この馬は新馬戦だというのに既にレースを理解している感じで、俺が改めて競馬を教える必要は何もないかも知れないです。よっぽど大社ファームの育成が合っていたんでしょうね。」
伊沢と陽介の会話は、勝つことを前提としたものであった。それは決して過信や油断などではなく、この馬を負かせる馬がいるはずがないという確信に満ちていた。
電光掲示板に表示されたゴールドプラチナムの単勝オッズは、驚異の1.0倍。ダンシングヒーローという強力なライバルがまるで存在しないかのようなこの数字は、競馬ファンがこの時点で既に、歴史的名馬の伝説の始まりを予感している証であった。
レースは、ダンシングヒーローが2番手、ゴールドプラチナムがこれを見るように3番手の並びで進む。直線の長い東京、少頭数、2000メートルの距離と三拍子揃った展開は当然の超スローとなり、前半1000メートルの通過は1分6秒2。極限の上がり勝負となりそうだ。
直線に入ると2頭が抜け出し、一騎打ちの様相。手綱を扱くロベールのアクションが徐々に激しさを増し、いよいよダンシングヒーローのエンジン全開のゴーサインが出される。
素晴らしい加速に満足したロベールが右を向いた時、その視界に飛び込んだのはあまりにも衝撃的な光景であった。
ゴールドプラチナムは、まだ馬なりで走っていたのである。賢い同馬は、ペースの変化に合わせて自らスピードを加減して、しっかりと追走する。ダンシングヒーローの全速力の走りに、ゴールドプラチナムは道中の追走と同じ感覚で、ただ付いて行っていた。
異様な光景に愕然とするロベールを尻目に、残り1ハロンでようやく陽介の手が軽く動いた。促すような小さな手綱の動きに反応したゴールドプラチナムは、瞬く間にライバルを置き去りにしてしまった。
先頭でゴール板を通過した時、この2頭の間には4馬身もの差が開いていた。どスローのペースでダンシングヒーローが繰り出した末脚は、上がり3ハロン33秒3。これを終いに軽く追っただけで突き放したゴールドプラチナムの上がりは、驚異の32秒5。ラスト1ハロンは推定10秒フラットの超加速を見せ付けた。もし全力で走らせていたら、一体どれだけの脚を披露したことだろうか。
検量室前に引き揚げて来たゴールドプラチナムの首筋をポンポンと叩いて労をねぎらった陽介は、伊沢とがっちり握手を交わした。レースを見届けたオーナーの大山は、次走が東京スポーツ杯2歳ステークスに決まったことを報道陣に明かした。
こうしてゴールドプラチナムと陽介は、予定された歴史的名馬への道を歩むべく、記念すべき第一歩を踏み出したのである。




