135 メモリアル
通算30勝を目前にしながら、勝ち星が伸び悩んでいる秋競馬の優。何とかあと1勝まで漕ぎ着けているものの、夏競馬前と比べると勢いの差は明らかである。
これは女性騎手贔屓の依頼の大半を雅に持って行かれている部分もあるものの、主たる要因としてはやはり、短期免許で来日する外国人騎手に有力馬が偏ってしまうのが大きかった。
とりわけ香港のトップ騎手ペレイラは、前回の来日で神懸かり的な高勝率をマークしたことで、大社グループを始めとする有力馬主の依頼が殺到。来年には日本の通年免許の試験を受けるという噂も、まことしやかに囁かれている。
さらに頼みの神谷厩舎も現在は、勝ちを計算できるような条件馬が不在の空白期間に入っており、優としては我慢の時期である。
そんな苦しむ彼女に思わぬチャンスが訪れた。GⅠスプリンターズステークス当日の2歳1勝クラスの牝馬限定戦サフラン賞で、6月の新馬戦を好内容で制したシルエットバレエの依頼が舞い込んだのだ。
同馬はソーマナンバーワン、ストロングソーマの兄弟と同じカガヤキ牧場の生産馬。6月の東京で芝1600メートルの新馬戦に出走すると、好位追走から直線余裕たっぷりに抜け出し、2着に3馬身差を付ける完勝劇を演じて見せた素質馬である。
しかしその時に騎乗した短期免許の外国人騎手ウィルソンが、スタートから気合いを付けて位置を取りに行ったのがまずかった。元々ハミ受けに敏感なところがあったシルエットバレエは、その影響でスタートから激しく引っ掛かって折り合いを欠くようになったのだ。厩舎サイドからその点について注意してあったものの、言葉の壁もあり上手く伝わらなかったようで、結果目先の1勝のために馬に悪癖を付けることになってしまった。
そして新馬戦後の2戦は関東のトップ騎手の一人である中田騎手に依頼したものの、馬を宥められずに持って行かれて惨敗。管理する花村調教師は、騎手の技術以前に馬との相性に問題があると見て、タイプの異なる騎手へのスイッチを決断。当初はリーディングジョッキーのロベールに依頼したものの、近走の内容の悪さから断られてしまった。そこで、馬への当たりの柔らかさには定評のある女性騎手の優に、お鉢が回って来たというわけである。
花村からのリクエストで、シルエットバレエの最終追い切りに騎乗することになった優。先週ビシッと追い切ったこともあり、レースでのテンションを考慮して今週は軽めに流すだけという指示である。とは言えまだ未知数な若駒に騎乗する際には、実戦前に馬の感触を確かめられるだけでも、貴重な情報収集の機会を得られる大きなアドバンテージとなる。
(なるほど、ちょっとでもハミが掛かったらガツンと持って行かれそうな雰囲気があるな。手綱からこの子の気持ちがピリピリしてるのが伝わって来るみたい。)
ウッドコースを馬なりで、がっちりと手綱を抑えたまま回って来ただけだったが、この追い切りで優の肚は決まった。
そして日曜中山の第9レース、サフラン賞の時間がやって来た。芝1600メートルで行われるこのレース、発表された馬場状態は稍重。それでもGⅠ仕様で高速化している中山の芝は硬く、それなりの好時計が出るコンディションである。
10月のGⅢアルテミスステークス、11月のGⅢファンタジーステークスと牝馬重賞が続くこともあり、有力2歳牝馬の多くが出走待機している状況で、ここは比較的手薄なメンバー構成。今年の出走馬は9頭と少頭数にとどまっている。
1番人気は、シルエットバレエを断ったロベールが駆るロンリーアクトレス。新潟の芝1400メートルの新馬戦を1分22秒6、上がり3ハロン34秒9とまずまずの内容で勝ち上がっており、2番手から押し切ったレース運びも中山マイルにマッチしているとの評価で、単勝1.8倍と圧倒的な支持を集めている。
優と初コンビのシルエットバレエは3番人気。ここ2走の惨敗にも関わらず、他の出走馬が未勝利戦を勝ち上がるのに時間を要していたり、メンバーに恵まれた新馬勝ち後低迷していたりと低調で、初戦の好内容から依然として上位人気に推されている。優自身も過剰人気とは思っておらず、上手く折り合いを付けて運べば本命馬にも引けは取らないと考えていた。
レースは、スピードの違いから押し出されるように先頭に立った、1番人気のロンリーアクトレスが引っ張る展開。他の各馬も先行有利のコース形態を意識しており、これをマークしようと好位に群がるように続く。そのため常に後ろからつつかれる展開となり、鞍上のロベールにとっては少し息が入れにくい形となった。
そうした状況下で、優のシルエットバレエはどん尻最後方。スタートしてから手綱を全く動かすことなく、ハミを抜いたままで気分を損なわないよう走らせている。現状の折り合い難を克服するためには、一旦極端な競馬をさせて馬の精神状態をリセットするしかないという判断だ。
騎手の体重を感じさせないよう力を抜きつつも、ぶれる事のないしっかりとした騎座。何かの拍子にハミを取らないよう力を逃がすクッションとなる、柔軟な手首。そして何より、小柄な体の全身の神経を集中させて僅かな異変にも対応を可能にする、女性特有の繊細さ。騎手としての経験を積み上げる中で身に付いたそのソフトな騎乗スタイルは、まさに人間サスペンション。決して天才肌の騎手ではない優だが、馬を御するための当たりの柔らかさという一点においては、もしかしたら同期の天才・陽介をも上回るかも知れない、彼女の大きなストロングポイントとなりつつあった。
前半800メートルの通過は、47秒6。決して厳しいペースではないが、ロベールとしてはもう少しゆったりと行かせたいところであった。それでも追って来る2番手以下の手応えにはさほど余裕がなく、充分押し切れる算段は立っていた。
いくら最後に急坂があるとは言え、中山のマイルで後方一気はいかにも厳しい。後方からだと、早めに押し上げて前を射程圏に入れる競馬が望ましいのであるが、優は3コーナーでもまだ動こうとしなかった。
(この子はきっと、細かいギアチェンジには向いていない性格だ。それなら……。)
そう、気性的には真反対であるが、仕掛けると一気にトップスピードに乗ってしまう点では、先日のストロングソーマと重なる面が大いにあった。その反省を踏まえ、あえて仕掛けをワンテンポ遅らせ、残り600の4コーナー手前でようやくゴーサインを送った。
逃げるロンリーアクトレスは快調に飛ばして最後の直線に突入した。番手以下の馬は追走で一杯となり余力がなく、逃げ切り圧勝までありそうな雰囲気である。
と、ここで一気に迫って来たのが、エンジンの掛かったシルエットバレエ。じっくり折り合いを付けたことで同馬は本来のスピードを遺憾なく発揮し、ただ一頭本命馬を追い上げて来た。
直線入り口では3馬身ほどあった2頭の差が、じりじりと縮まって行く。そしてシルエットバレエは、坂でロンリーアクトレスの行き脚が鈍ったところを力強く抜き去り、残り100メートルでついに先頭に立ったのである。
最後は1馬身半の差を付けて、見事にサフラン賞を制したシルエットバレエ。優としても菊花賞のザゴリラの鞍上を奪われたロベール相手に、鬱憤を晴らすかのような快勝であった。
勝ち時計1分35秒フラット、上がり35秒3というレース内容は標準レベルであるが、優にとっては牝馬クラシックに挑む貴重なお手馬を確保した格好となった。生産者のカガヤキ牧場とのパイプをより太くする結果を出せたのも、今後の騎手人生においては大きな意味を持つことだろう。
騎手・藤平 優の可能性を広げてくれるかも知れないこの鮮やかな勝利が、彼女にとってはGⅠ挑戦のスタートラインでもある記念すべき30勝目となった。




