117 胎動
〈第2部〉少女のちジョッキー
デビューから1年半。新人、若手としてもがいた日々を経て、少女・藤平 優は一人の騎手として成長した。次に彼女が目指すのは、騎手を目指したきっかけでもある、競馬の祭典・日本ダービー。
優と彼女を取り巻く人馬のロード・トゥ・ダービーが、今始まる。
牧場での育成を終え、無事神谷厩舎にやって来た2歳馬ストロングソーマ。北海道からの長距離輸送の疲れもなく、元気そのものの様子である。
「この子、結構図太い性格してるみたいね。これなら輸送で体重を減らしたり、テンションが上がったりする心配はあまりなさそう。競走馬向きのメンタルの持ち主なんじゃないかしら。」
環境の変化に動じることもなく、桶に盛られた飼い葉を平らげる同馬に、担当厩務員の綾も感心しきりであった。
牧場の方で充分に乗り込まれてきたストロングソーマだったが、入厩したばかりということもあり、いきなり調教のピッチを上げるのは避けて、当面は軽い運動とゲート練習に留めることとなった。
「先生、明日の調教、私をスー君に乗せてもらえませんか?まずこの子の背中を味わってみたいんです。」
優はストロングソーマの調教を買って出た。彼女は、同馬の兄ソーマナンバーワンだけでなく、皐月賞馬ヴイマックスにダート短距離の新星チョトツモウシンなど、キャリアの割には数多くのオープン馬の乗り味を知っている。クラシックを目指すパートナーの感触を一刻も早く確かめたいのは、騎手心理としては当然のことだった。
「分かった、任せよう。ただ牧場でしっかり育成されて来ているとはいえ、まだ体が出来上がっていない若駒だし、無理はさせるなよ。」
そして翌日。2歳馬専用の緑色のゼッケンを着けたストロングソーマの背には、優の姿があった。
太陽からの指示は、角馬場からウッドコースまでキャンターで入り、直線も馬なりで流すというもの。時計も出さない、厩舎周りの乗り運動の延長のようなものである。ただし優の判断で、大丈夫そうなら軽く追って反応を見てもいいとのことだった。
「じゃあ行くよ、スー君。」
期待に胸を弾ませながら、優はストロングソーマをコースへと導いて行く。そしてキャンターからじわっとスピードを乗せ、直線に入って来た。
ほとんど馬任せで走らせているとはいえ、さすがソーマナンバーワンの弟だと優は思った。小気味良い回転の速いフットワークながら、スピードが乗って来た時の加速感と力強さは、オープン馬のそれを感じさせてくれた。
単走で直線半ばまで走らせているが、走りにブレる所もなく、しっかりした足取りだ。
(これなら……。)
優は試しに仕掛けてみることに決めた。競走馬の神髄は、やはり追ってみないと伝わって来ない。優は、軽く手綱を動かした。
引き揚げて来た優を、太陽と太一が出迎える。
「優ちゃん、どうだった?スー君の乗り心地は。」
太一の問い掛けに対し、馬を降りてゴーグルを外した優の表情は、何故か冴えない。そして少し考えた後、重い口を開いた。
「先生、太一さん。この子は、東京2400メートルを目指すべき馬ではないんじゃないでしょうか……。」
所変わって、日本一の大牧場・大社ファーム。その育成施設ももちろん、日本一のスケールと充実度を誇る。
その中の全天候型の坂路を1頭、入厩を控えたデビュー前の2歳馬が駆け登っていた。その馬は左後一白の美しい尾花栗毛で、額には鮮やかな白い菱形の星。湧き上がる汗に包まれて、眩い黄金の輝きを放っていた。
高く上げた前脚が前方に大きく投げ出され、地面に力強く叩き付けられる。その大きなフットワークが、早送り映像を見ているような速さで繰り返されているではないか。
素人目にも普通ではない走りをする同馬だったが、乗り役のゴーサインに驚くべき反応を見せる。高回転のストライド走法はさらにスケールアップし、より遠くへ、より速く繰り出された前脚は、とてつもない推進力を生みだしていた。決して坂路向きのフォームではないにも関わらず、軽々とゴールを駆け抜けてしまった。
「育成に入るまでは目立たなかったって聞いてたけど、とんでもないな、この馬。」
坂路調教に跨った乗り役が、感嘆の声を漏らす。
「こういう馬を怪物って言うのかな。今年のうちの一番馬どころか、歴史に名を残す一頭になるんじゃないか?」
出迎えたスタッフも、賞賛を惜しまない。この馬に関わる人々の中では、既に歴史的名馬クラスの評価がなされている様子である。
「怪物か……。」
スタッフの声に反応したのは、調教を見守っていた大社グループの総帥、大山 一郎であった。
「しゃ、社長!いらっしゃったんですか?」
驚くスタッフを横目に、大山は語る。
「以前の日本競馬では、怪物とは、突然変異で現れた天才型スーパーホースか、他馬とは一線を画したハードな調教で覚醒した叩き上げのどちらかでしかなかった。でも今は違う。血統のレベルが向上し馬の能力が平均化された中、最高の素質を持った馬を最高の環境で育て上げ、最高の厩舎と最高の騎手に託した結果、怪物が生まれるんだよ。偶然ではなく必然、近代競馬の結晶というべき存在だ。そして、それを生み出して行くのが、我々大社グループの役目だ。」
スタッフに訓示するように語る大山の視線は、坂路調教を終えたばかりの金色の2歳馬に注がれていた。
激しいトレーニングの後だというのにもう息を整えて平然としているその姿は、すでに王者の風格を備えていた。




