116 新たな道標
陽介と別れた優が帰宅すると、太陽がちょうど北海道出張から帰って来たところだった。
「お帰りなさい、先生。出張お疲れ様でした。」
「ああ、今戻ったところだ。明日も朝は早いから、あまり夜更かししないで早く寝ろよ。」
太陽は太一から、優の告白を除いた事のあらましは聞いていたが、それについて言い訳がましいことは一切言わなかった。そして優も、節子との過去やそれを黙っていたことについて、太陽を責めるつもりは毛頭なかった。それゆえの、平常運転である。
ただ優はたった一つだけ、どうしても聞いておきたかったことを尋ねた。
「そう言えば先生、スペースシャトルで勝ったダービーのウイニングランの時、私とお母さんに気付いてましたよね。あの時のお母さんの顔は、よく見えてましたか?」
「ああ、最前列で見てくれてたからな。泣いていたけど、喜んでくれてるのが分かった。それに、まだ俺を愛してくれていたのも、夫婦同然に暮らしていた俺には伝わって来たよ。俺は結局あいつの気持ちを裏切ってしまったけど、あの瞬間は昔に戻ったみたいで嬉しかったな。」
太陽の言葉を聞いて、優の長年の疑問が氷解した。ウイニングランの太陽を見つめる節子の複雑な表情、そして太陽に会わずに帰ってしまったことにようやく合点が行ったのだ。
(お母さんは、先生にまだ未練があったんだ。久しぶりに目にしてその気持ちが必死に押し殺してたのね。月乃さんはもう亡くなっていたのに、会うのを遠慮する理由もないもの。)
父と結ばれ一人娘の優を授かった節子だが、彼女の女としての幸せは、結局死ぬまで満たされることはなかったのかも知れない。そんな母の気持ちを思うと、亡くなるまでの12年間を一緒に過ごした優は、やるせない気持ちになるのであった。
1週間の騎乗停止処分を受けたこともあり、少しだけ早いお盆休みを貰った優は、実家に戻って父・寿也と親子水入らずの時間を過ごした。太陽と節子についても、二人はたくさん話した。分かったのは、寿也も節子も、本当の気持ちを理解した上で結婚生活を送っていたということ。母はくすぶる心残りを秘めたまま不幸な人生を送っていたというわけではなかったようで、優は少しだけほっとした。同時に、大人にはいろんな愛のカタチがあり、それを理解するには自分はまだまだ子供なんだと思い知らされたのだった。
そして優は、再び美浦に帰って来た。八月も折り返しに入り、トレセンも猛暑真っ只中。けたたましいセミの鳴き声の合唱をバックに、ぎらつく太陽が人も馬も容赦なく照り付けて来る。
「ただいま戻りました。」
「お帰り、優ちゃん。あれ、ずいぶんと日に焼けたね。」
太一が指摘した通り、この短い帰省の間に優の顔はこんがりと小麦色に変貌していた。
「お父さんの畑仕事を手伝ってたんです。日陰が全然なくって、部活に明け暮れる高校生みたいになっちゃいましたよ。日焼け止めとか塗っとけば良かったですかね。」
「そうよ、優ちゃん。年頃の女の子なんだから、もう少しそういう所にも気を配らないと駄目だよ。紫外線はお肌の天敵なんだから。」
そう言って注意を促すのは、綾だ。この短い休暇の間にあった一番大きな変化は、彼女が神谷家に同居するようになったことである。
優の告白がきっかけになったのだろうか。太一と綾の関係は一歩先のステージに進んだようで、事実上の婚約状態であるらしい。折を見て入籍して、来年の6月、ジューンブライドの季節に式を挙げる予定だとか。
(6月ってことは、ダービーのすぐ後だよね。ダービーの勝利をご祝儀に出来れば最高なんだけどな。)
ダービーと言えば、小倉記念の表彰式で話題になったソーマナンバーワンの弟が、とうとう明日入厩して来るらしい。重賞を制した同馬以上の素質馬かも知れないとの牧場評から、期待は高まる。
(でもその前に、私は早く通算30勝を達成しないと。)
優は昨年9勝、今年はここまで17勝。あと4つ勝ち星を積み上げれば、念願のGⅠに騎乗する資格を得られる。
今週は札幌で2勝クラスの札幌日刊スポーツ杯があり、そこにはデビュー2連勝中の期待の長距離砲ザゴリラが、優の進言で参戦する。ソーマナンバーワンがセントライト記念から菊花賞に向かう予定のため、優自身が本番で乗る事は出来ないであろうが、ここを勝ってクラシックの大舞台に送り出してあげたいところである。もちろん優は騎乗した2戦でこの馬のステイヤーとしての資質を高く評価しており、当然のように星勘定に入れていた。
「よう、もう着いてたのか。うおっ⁉なんでまたそんなに焼けてんだよ。」
優に会いに来た陽介は、案の定その顔を見て驚いた。
「畑仕事は日差しがきつくて大変なんだよ。陽介は真っ白でいいね。調教は夜明け前から始まるし、そこまで日焼けを心配する必要ないから。」
そんな他愛のない話をするうちに、いつしか話題は太一と綾の同居へと移って行った。
「でも家族が増えるのって、賑やかになっていいよな。俺も家に帰ろうかな。」
神谷家に下宿している優とも同居することになる爆弾発言だったが、優はそれを軽く受け流した。
「いいんじゃない。でも陽介の部屋は今私が間借りしてるから、空き部屋はもうないよ。それとも、一緒に住む?」
さらっととんでもないことを言い出した優に、陽介の顔はあっという間に真っ赤に染まった。
「やだ、冗談に決まってるじゃない。真に受けちゃったの?陽介って意外とそういう可愛いところあるよね。」
「おい、ふざけんなよ。びっくりしちまったじゃないか!」
からかわれたことに気が付いた陽介の顔は、さらに赤くなっている。
そんな二人の掛け合いに入り込めずに、少し離れた所から眺めていたのは、雅だった。今週はお手馬の予定に合わせて小倉に遠征するため、滞在していた新潟から帰って来ていたのだ。
(陽介センパイと優センパイ、何だかいい感じになってるみたい。きっと小倉記念の辺りで、いろいろあったんだろうな……。)
挨拶にやって来た来た雅だったが、以前とは少し違う二人の空気を感じ取り、ここは邪魔をしないで出直すことにした。
(元々良さそうな二人だったし、きっと上手く行くよね。陽介センパイ、やっぱり優センパイのことが好きだったんだ……。)
雅は、慕っている先輩二人がいい雰囲気なのを喜ぶとともに、伝える事のなかった想いをそっと心の奥にしまい込んで、その場を離れた。
そして翌日の美浦トレセン。馬運車が止まって、相馬オーナーと神谷厩舎のスタッフ一同が見守る中、一頭の2歳馬がゆっくりとスロープを降りて来た。
「ついにこの日が来ましたね。長旅お疲れ様、ストロングソーマ。」
相馬がストロングソーマと呼んだこの馬こそ、入厩を心待ちにしていた小倉記念馬ソーマナンバーワンの半弟。スラっとしていた兄とは違い筋肉質ではあるが、底光りする黒鹿毛の馬体は体つきのバランスも良く、くりっとした利発そうな目と併せて、走る馬の雰囲気を醸し出していた。
「この馬の父親はスペースシャトルでしたね。それがこの太陽先生の厩舎からでダービーを目指すなんて、ロマンがあっていいですよね。」
優は感慨深げに語った。あの日見たダービーで勝利したスペースシャトルの産駒を、現役時代に騎乗していた太陽が管理し、それに弟子の優が騎乗してダービーを目指すのだ。それが厩舎ゆかりの血統馬ともなれば、なおさらである。
「ようこそ神谷厩舎へ。これからよろしくね、スー君。」
優は自分で勝手につけたニックネームでストロングソーマに呼び掛けると、整った一本の白い流星が通った鼻筋を、優しく撫でた。
「スー君って、呼びやすくていいね。響きも可愛いし、それで行こう。これからは私がお世話するから、仲良くしようね、スー君。」
綾も同調して、ストロングソーマの顔をギュッと抱き締めた。
重賞制覇で厩舎のムードも上げ潮の中、故郷を離れて美浦トレセンにやって来たストロングソーマ号は、この日競走馬としてのスタートラインに立った。9か月後の日本ダービーを目指す、長いようで短い挑戦の日々が、今始まる。
優の成長とその周囲の人間模様を中心に描いた第1部は、ここでひと段落です。
次話からは、競馬ものの王道中の王道、ダービー挑戦をメインテーマに描いて行きます。
細々と続けて来たこの「少女ときどきジョッキー」ですが、途中でストーリー運びが雑になったり、キャラがぶれたりしてしまった所も多々あったかと思います。それでも見捨てずにここまで読んで頂いた皆様には、大変感謝しております。この後も引き続きお読み頂ければ幸いです。




