110 完璧のさらに上
レースを引っ張った人気2頭がそのまま抜け出し、競り合う展開となった今年の小倉記念。そこから抜け出したのは、前半59秒、後半58秒のレースプランを文字通り完璧に遂行し、1分57秒ジャストでゴールを駆け抜けた古畑 耕三とジェットマン。しかしゴール寸前、勝負圏外とも思える位置からの追い込みで彼らを差し切ったのは、コンビ復活を果たした藤平 優とソーマナンバーワンであった。
土壇場で交わされた古畑も、3着に敗退したウイニングショットの菅田も、ただただ呆然としていた。4コーナーを最後方で回ったソーマナンバーワンの前には、10頭以上の密集した馬群が存在したはずである。
普通に外を回せば少なくとも3~4馬身はロスするはずで、あの位置からさらに差を付けられては物理的に届くはずはない。
よしんば馬群を捌くことに成功していたとしても、スペースを探しながらの進路変更ではストップアンドゴーを細かく繰り返すこととなり、ストライド走法で決して一瞬の反応が鋭いとは言えない同馬では、抜け出した後にあれだけのスピードに乗った末脚を使えるわけがない。
トップジョッキーたる二人にすら、理解不能な現実であった。
「おいお嬢、お前一体何をやったってんだよ。」
入線後の優に追い付いた古畑は、たまらず問いただす。
「えっ?あ、私、勝ったんですか?そうか、そうですよね。」
古畑は愕然とした。極度の集中を保っていた優は、古畑に声を掛けられて緊張が解けるまで、レースが終わったことすらまともに認識していなかったのだ。あれほど求め焦がれていた重賞制覇を果たしたというのに。
「何をやったって言われても、空いたコースを通って来ただけですよ?」
「……そうかい。ま、重賞勝利おめでとさん。」
要領を得ない答えに苛立った古畑は、たった一言の祝福を残して、早々に地下馬道に引き揚げて行った。
検量を終えた古畑は、自分の目で確かめようとモニターに向かった。そこには勝利したソーマナンバーワン陣営の調教師・太陽とオーナー・相馬の姿があった。
「よう。帰って来たか、耕三。納得出来ないんだろ?その気持ちは俺もよく分かるよ。一緒に見るか?」
古畑は二人と並んで、レースのリプレイを食い入るように見つめ始めた。
スタートから馬なりでレースを進めた優とソーマナンバーワンは、ぴったりと折り合って後方を進む。ジェットマンとスモールワールドがまくって行った時もその手綱は微動だにせず、あくまでマイペースを貫いている。ここまではいい、分かる。
問題なのは4コーナーの勝負所から。最後方の内ラチ沿いにいたソーマナンバーワンは、優が手綱をしごくと徐々に加速し、スピードを上げながら迷うことなく馬群へと突っ込んで行った。そして────
古畑は目を見開いたまま、息を呑んだ。優の言った通りソーマナンバーワンは、空いたコースを通って来ただけだった。ただその際、優は一度も手綱を引くことなくトップスピードのまま、馬群の隙間を縫うように駆け抜けて行ったのだ。車に例えるなら、高速道路を走る密集した車列の間を、アクセル全開のままノーブレーキで縫って行くようなものである。それは安全マージンを微塵も残さず、少しでもミスを犯せば馬群の真っただ中での落馬が確実な、命の危険すら帯びた騎乗であった。
目一杯のスピードを乗せて最短距離を突っ切った馬群の出口は、先行するマシンハヤブサとウイニングショットのすぐ外。コースと減速のロスがほぼゼロなら、4キロの斤量差を味方につけたソーマナンバーワンが、スロー寄りの平均ペースで逃げるマシンハヤブサを捕らえることは、そう難しいことではなかった。
レースを見届けた古畑は、しばし沈黙した後、太陽に疑問をぶつけた。
「神谷先生、……いや太陽さん。ありゃ何だ?上手く行ったからいいものの、一歩間違えれば他の騎手も巻き込む大惨事になりかねないぞ。お嬢はそんなリスクを負ってまでギャンブルに出るような性格じゃないはずだ。それに、馬群を捌くってのは普通、前の馬の動きに対する予測と反射を裏付けとしているもんだろう。なのにあれは、まるで進む道が最初から決まっているかのように、コース取りに一寸の迷いもなかった。結果オーライでどうにかなるような馬群じゃなかったはずだぜ?」
「あれは予測でも反射でもない。予知の領域だよ、耕三。」
太陽の意外な返しに、古畑は戸惑った。
「予知?おいおい、超能力じゃあるまいし、そんなの不可能に決まってるだろ。冗談はよしてくれよ。」
「いや、不可能とは言い切れないんじゃないか?今のレースの優の集中力は、傍から見てても異常なほどに高かった。いわゆる“ゾーン”に入ったってやつだと思う。予測も反射も、その成否は集中力に懸かっているだろう?それを極限まで突き詰めれば、前の馬たちがどう動くかを瞬時に察知することも可能かも知れないし、もしかしたら優には最初から自分の進む道がはっきりと見えていたのかも知れない。」
「……そうか、『空いたコースを通って来ただけ』ってのは、まんまそのことを言ってたのかよ。当たり前のように見えてる進路を通るだけだから、そもそも危険を感じる余地なんてなかったってわけか……。」
「正直、俺から見てもお前さんの逃げは完璧だったと思うよ。あのまま勝っていれば、インターネットなんかで神騎乗ともてはやされたことだろう。」
太陽は古畑の騎乗を称賛しつつ、続ける。
「でも完璧に乗ったと思えるってことは、それは理屈の通る範疇にあるってことだ。本当の神騎乗ってのは、理屈じゃ説明がつかない、完璧のさらに上にあるものだと思う。優にさっきの騎乗を再現しろと言っても、まず不可能だろう。もしかしたら一生に一度レベルのチャンスを使ってしまったのかもな。
……元馬乗りとして、俺も今の騎乗には嫉妬すら覚えたよ。今回は気の毒だったな、耕三。」
想像を重ねたに過ぎない太陽の言葉だったが、それに不思議なほどの説得力を感じた古畑はようやく自らの敗北を自覚し、がっくりと肩を落とすのだった。
一方地上では、一番最後に残った優とソーマナンバーワンが、ようやくスタンド側に帰ってきた。
その時、つい先ほどまで優に容赦ない罵声を浴びせていたスタンドから巻き起こったのは、好騎乗を称えると同時に重賞初勝利を祝福する、温かい拍手であった。
陽介を負傷させたこともあり派手なガッツポーズなどを繰り出すことはなかったが、優は愛馬の歩みを止めると正面を向き、馬上から深々と一礼した。
さらに大きくなる拍手の渦に包まれながら、勝者の人馬はゆっくりと地下馬道へと消えて行った。
戻って来た優たちを検量室前で待っていたのは、ソーマナンバーワン陣営の太陽、相馬、太一、綾。全員言葉はなく、ただただ笑顔で出迎えた。それを見て優はようやく勝利を実感し、感極まって泣きそうになるのを必死で堪えた。
検量を終えた優に声を掛けたのは、敗者の古畑だった。
「脱帽だよ、お嬢。あれで負けたんだから、俺も悔いはねえよ。」
そう言って去って行く古畑の目には、微かに光るものがあった。デビューから因縁の深い古畑だが、今では頼れる先輩として慕っている。その古畑の引退間近の悲願を自分が打ち砕いたことに気付いて、優はいたたまれなくなってしまった。
「古畑さん、ありがとうございました!」
そう叫んだ優は頭を下げたまま、堪えていた涙を溢れさせた。
「ばーか、本当に勝って泣いてんじゃねえよ。」
発走前のやり取りを思い出した古畑は、背を向けたまま捨て台詞を吐いて手を振り、検量室を後にした。
そして迎えた表彰式。表彰台の上に立つ優に、綾が話し掛けて来た。
「みんなで重賞のウイナーズサークルに立つ夢、叶ったね。」
スプリングステークスの前に二人で語らったあの希望が現実のものとなり、優はとびっきりの笑顔を浮かべて見せた。




