108 シャットアウト
「藤平さん、急いで下さい。他の騎手の方は皆さんもうパドックに向かってますから。」
「分かりました。それでは先生、相馬さん、行って来ます。」
急遽ソーマナンバーワンの騎乗が決まった優は、競馬場の職員に促されてレースの準備に向かった。
「いい顔してましたね、藤平さん。すっかり吹っ切れた感じでしたし、もう心配なさそうです。
……しかし神谷先生も人が悪い。彼女に現役時代の話を聞かれた時、『自分をマシーンと思うようにしてた』だなんて言い出すから、思わず吹き出しそうになりましたよ。だって、あなたほど感情を表に出して乗るタイプの騎手を、私は知りませんから。」
相馬の厳しいツッコミに、さすがの太陽も苦笑いするしかなかった。
「確かに相馬さんから見ると、私と優のやり取りは茶番のように見えたかも知れませんね。おっしゃる通りマシーンのくだりは、あいつを深く悩ませるために、敢えて真実から一番遠いものを提示しました。
いろいろとご心配をお掛けして申し訳ありません。でもこの停滞は、あいつが騎手としてやって行くために必要な通過儀礼だったんです。」
「ほう、それはどういう事ですか?」
興味津々の相馬に少し照れながらも、太陽の話は核心へと向かう。
「優の武器であるヘッドワークと一瞬の判断力は、何より集中力の強弱に、その成否が左右される部分です。これまでのあいつは弱い自分を肯定出来ないから、マイナス方向への振れ幅が大き過ぎて、深刻なスランプを繰り返してしまっていました。毎週休むことなくレースに乗り続けるジョッキーの仕事においては、調子の波が激し過ぎるのは決して歓迎材料ではありません。だからこの辺りで、自分を見失わないように一本芯を通して欲しかったんです。
精神状態のアップダウンに左右されやすい点は、私も現役時代同じタイプでしたから、よく分かります。悩みに悩んで心の重しから解放されたあいつは、きっと自分の限界まで集中し切ったレースを見せてくれるはずですよ。」
「それにしても、藤平さんの迷いを解くきっかけを作ったのは、陽介君の励ましでしたね。本当によく見ているというか、あるいは彼女自身よりも彼女のことを分かっているんじゃないかと思えるほど、心に響いたうでした。」
「同期というのは、友でありライバルでもある特別な絆ですから。それに、現段階では技術なら陽介の方が断然上ですが、恐らく優の中に自分にない強さを見出して、意識しているんでしょう。今は天と地の差がありますが、もしかしたら将来は切磋琢磨して競い合える関係に到達出来るかも知れませんね。そうなれば、親として、そして師匠としては、最高なのですが。」
コネや世襲と批判されるのを嫌って、普段から陽介を褒め過ぎることのないよう気を遣っている太陽だが、ここでは親バカな本性が少しだけ顔を覗かせた。
「ピーンポーンパンポーン。小倉競馬第11レースの、騎手の変更について、お知らせいたします。騎手・神谷 陽介52キロは、落馬負傷のため、騎手・藤平 優52キロに、変更となりました。ピーンポーンパーンポーン。」
ソーマナンバーワンの乗り替わりを告げるアナウンスが場内に流れると、小倉競馬場の空気は一変した。これで人気馬を消せると喜ぶ者もいれば、買うつもりだったのに頼りなくて買えないと憤る者もいた。総じてこの乗り替わりが否定的な評価なのは、急激に上昇して行く単勝オッズが如実に示していた。
パドックに出る直前の優を心配して、太一が声を掛ける。
「優ちゃん、もしかしたら野次とか凄く厳しいかも知れないけど、気にしちゃ駄目だからね。優ちゃんは何も悪くないから。」
「いえ、悪いのは私ですし、自業自得ですから。事情を知らない人からしたら、私が陽介をケガさせてあの子を強奪したと思われても仕方ありませんしね。私なら大丈夫です。」
そう言ってパドックに出て行った優の背中は、太一には普段より少しばかり頼もしく見えた。
(何だか優ちゃん変わったな。一皮剥けたって言うか、少女から大人になった感じ。)
「同期を落としてまで馬に乗りたいのか、このクソ女!」
「さっさと辞めろ、この卑怯者!」
「お前なんかに乗られたら、馬がかわいそうだよ!」
静粛が求められるはずのパドックで、優に対して汚い野次が飛ぶ。
「酷い、酷過ぎる……。優ちゃん、あんなの気にしないでね?」
19歳の少女への容赦ない罵倒に、厩務員の綾は思わず眉をひそめる。
「いえ、陽介を落馬させたのも、私が勝ててないのも事実ですから。レースで失った信用は、レースの結果で取り戻すしかありません。それが私の仕事ですし。」
優は野次に動じることもなくパドックを後にし、本馬場にやって来た。
「ふざけんじゃねえぞ、このクソガキ!」
「人の不幸を蜜にして食う飯は美味いか、この泥棒猫!」
「よくもまあ恥ずかしげもなく、落としたやつの馬に乗れるもんだな!」
スタンドからも、一番最後に入場して来た優に対する猛攻撃が展開される。昨年小倉記念を制した陽介のファンも現地には多いのか、優が乗ることへの反発がひしひしと伝わって来た。
「優ちゃんガンバ!皆で応援してるからね。」
あまりの圧力に優が落ち込まないよう、綾は努めて明るく声を掛けた。
「ナンバーワンの力を出し切れるよう、全力を尽くします。」
優はたった一言そう言うと、返し馬に入って行った。
(最悪の雰囲気なのにまるで揺らいでいないし、どっしりと落ち着いていた……。こんな優ちゃん、今まで見たことないかも。)
自信満々だった前走とはまるで違う、大人びた空気を纏って遠ざかって行く優の背中が、何だかいつもより頼もしく見える綾であった。
各馬返し馬を終え、発走を待つ輪乗りの列。
「ようお嬢、まさかこのレースでお前と戦うことになるとはな。大事な記録も懸かってるし、ここは勝たせてもらうからな。また負けてワンワン泣かないようにな、ハハハ。」
古畑が得意の心理戦を仕掛ける。前走の醜態を揶揄して挑発するが、優はポーカーフェイスを崩さない。
「そうですね。今度は勝って泣けるように、頑張ります。」
(何だこいつ?いつもと違ってまるで手応えがないじゃないか。心ここにあらずなのか?まあいい、それなら好都合だ。3番人気のライバルをマークしないで済むんだからな。)
時刻は15時35分。スターターが台に昇って旗を振り、中京・小倉の重賞用の低くて重厚なファンファーレが場内に響き渡る。今年の小倉記念、間もなく発走。




