107 少女のちジョッキー
陽介の負傷で鞍上が宙に浮いたソーマナンバーワン。その代役として太陽から再登板指令を受けた優だったが、陽介を落馬させたことへの自責の念と、自分のせいで負けることへの恐怖に押し潰されて、どうしても踏ん切りがつかずにいた。そんな迷える彼女の前に現れたのは、医務室で応急手当を終えた陽介であった。
「強く打ったから力が入らなくて今日の騎乗はキャンセルしたけど、骨や筋には問題なさそうだし、心配しなくてもいいよ。それより俺を落としたことにお前が責任を感じてるんなら、それは間違いだぞ。あれはササるのを矯正するためのムチへの過剰反応だ。お前のせいなんかじゃない。」
斜行に至る状況を冷静に分析した陽介の言葉だったが、それに対して優は大きくかぶりをふる。
「違うの……。あれは、あのムチには、言う事を聞いてくれないシゲオアマノジャクへの苛立ちが込められていたの。馬とコミュニケーションを取るための道具であるはずのムチを、私は暴力装置として使ってしまった。騎手失格だよ、私……。」
最後は消え入るような声で、自己嫌悪に満ちた心境を吐露した優。しかし、それを聞いた陽介は怒るどころか苦笑いさえ浮かべて、諭すように言った。
「ほんと、お前は悩む必要のない所で悩み過ぎだよ。人間も馬もちゃんとした意志のある別々の生き物なんだから、通じない言葉の代わりに俺たちの意志を伝えるのが、お互いを繋いでいる手綱だったり、アブミだったり、ムチだったりするわけだろ。ムチを入れるのは馬への合図に過ぎないけど、それに何の感情も籠らないわけがないじゃん。もちろん腹立ち交じりにムチを打つのはいい事ではないけど、馬の方が反抗してるんだから、時には感情的になっちまうことだってあるさ。パートナー同士の喧嘩みたいなもんだと俺は思うけど、違うか?」
馬を対等のパートナーとして見ている陽介の考え方に、優は目からウロコが落ちる思いだった。
「私はずっと、馬に自分の言う事を聞かせることばかり考えてた。そうだよね、自分の都合を押し付けようとするだけじゃ、相手だってそうそう従ってくれるわけないよね。それは馬でも人間でも、同じ……。」
「そうそう。それに、そういう意志のある相手とコンビを組んで一緒に戦うからこそ、競馬は面白いんじゃないか。機械相手のカーレースや、犬の意志だけで走るドッグレースにはない魅力が、俺たちの競馬にはあるんだから、もっと楽しまなきゃ損だよ。」
陽介の言葉に、優は母・節子と見たあの日の日本ダービーを思い出した。土砂降りの雨の中、愛馬スペースシャトルとともに頂点を目指した騎手・神谷 太陽は、自らが言うマシーンどころか熱い感情を剥き出しにして馬を追っていた。その勝利の執念に応えて死力を尽くしたスペースシャトルの激走に、優は心を揺さぶられ、騎手の道を志したのだ。その原点に立ち返った優は、濁り切った心が洗われて行くような清々しさに包まれていた。
「ありがとう、陽介。私、大事なことを忘れてた。楽しいはずの競馬が、どうしてこんなに苦しくなってたんだろう……。」
感極まった優は思わず、陽介に抱きついた。
「ケガさせちゃって、本当にごめんね……。」
突然のハグに一瞬固まった陽介だが、優に他意がないのをすぐに悟り、我に返った。
「お前は自分の心が不安定なのを気にしてたけど、それはそれでいいと思うぞ。凹んでだらしない負け方をする時もあるけど、ツボに入った時のお前はミツルさんやロベール、ジョバンニ、それに世界一のジョーンズも蹴散らすような冴えた騎乗をして来たじゃないか。沈着冷静、いつも平均点の公務員騎乗なんかより、振れ幅は大きくても大当たりがある方が、よっぽどお前らしいと思うし。俺はお前のライバルであると同時に、騎手・藤平 優の一ファンだからな。」
そう言ってニカッと笑った陽介のおかげで、優はようやく自分の立ち位置を再発見することが出来た。
(先生は答えを出せって言ってたけど、そうじゃなかった。最初から答えなんてなかったんだ。私は私にしかなれないもの。私は騎手である限り、弱い自分を受け入れながら、前を向いて進んで行くしかない。)
「いろいろとすみませんでした、先生。もう二度と逃げ出すことはしません。もう一度私に、ナンバーワンに乗るチャンスを下さい。」
その言葉を待っていたかのように黙ってうなずいた太陽の表情は、厳しさの中にも温かさを帯びた、いつもの師匠の顔だった。




