106 元サヤ
苛立ちを吐き出すように放った優の5発目の右ムチに、シゲオアマノジャクはそれまでと違う反応を見せた。内にもたれ続けていた同馬が、突如として外側に斜行。後方から追って来ていたメルクリウスの進路を塞いでしまったのである。
手前を変えてスピードに乗った瞬間のアクシデントには、さしもの陽介も対応し切れず、シゲオアマノジャクの後ろ脚にメルクリウスの前脚が触れた。そのためバランスを崩して、ガクンとつんのめる格好になり、前への推進力をもろに被る形になった陽介は、勢い良くターフに叩きつけられる結果となった。
自分の斜行で陽介が落馬したのが分かった瞬間、優は心臓が止まる思いをした。満足に追えないまま後続にも捕まり4位入線を果たした後、振り返った優が見たのは、ゆっくりと立ち上がる陽介の姿であった。最悪の事態に至らなかったことに心から安堵する優だったが、陽介が左腕を押さえているのを見て、愕然とした。一瞬の出来事に充分な受け身を取ることが出来ずに、とっさに急所をかばった際に左腕を強打したのだ。
検量室前に引き揚げて来た優の顔からは、血の気が引いていた。陽介は自力で帰って来たものの、医務室に直行。以降のレースの騎乗は難しいかも知れない。陽介を慮ってか勝ったセイショウハヤカゼ陣営も喜びを爆発させることはなく、カンカン場は重苦しい雰囲気に包まれていた。
加害馬の騎手である優は当然のことながら採決室に呼ばれ、事情聴取を受けた。その結果、斜行は馬の癖が主な原因と認められ、失格処分は免れたものの、優には追って騎乗停止の処分が下ることになるであろう。しかし今の優にとっては、そんなことは問題ではなかった。
(私が未熟なばっかりに、陽介まで傷つけてしまった。怖い……。レースに乗るのが、怖いよ……。)
やせ細った彼女の心は、折れる寸前まで来ていた。
「神谷先生。ドクターストップで、陽介君はこの後の騎乗は無理とのことです。レースまで時間がないので、至急代わりの騎手を決めて下さい。」
競馬会の職員が告げたのは、ソーマナンバーワンの騎手変更要請であった。それに対して太陽は、迷うことなく即断した。
「分かりました。小倉記念のソーマナンバーワンは優で、藤平 優で行きます。」
その言葉を聞いた優は、驚愕した。
「先生!私はもうナンバーワンから降りた人間です。私なんかが乗ったら、勝てるものも勝てなくなります。どうか他の方を当たって────」
固辞しようとする優の言葉を遮るように、太陽は告げた。
「優。ナンバーワンのことを一番よく理解している騎手は、お前だ。デビュー前から稽古をつけて来たし、実戦での騎乗経験があるのもお前だけだ。陽介が乗れなくなった今、唯一ナンバーワンの背中を知る騎手を推すのは、プロとして当然の選択だろう。」
「でも、でも、私が陽介を落としたんですよ。陽介を乗れなくしておいて、自分がナンバーワンの鞍上に舞い戻るなんて、そんな、そんな恥知らずなこと、出来ません……。」
涙目でなおも食い下がる優を、太陽は突き放した。
「優、俺はお前の迷いについて、この小倉記念までに答えを出せと言っただろう。思わぬ形になってしまったが、今がまさにその時だ。まだお前が乗りたくないと言うなら、それでもいい。だがもしそうなら、今すぐこの場で鞭を置け。結果が出るのを怖がっているような奴に、騎手の仕事が務まるわけがないからな。」
「私、私は……。」
優は言葉に詰まった。自分はまだ、騎手として掲げた目標を何一つ成し遂げていない。GIの晴れ舞台もまだ踏めていないし、ダービーで勝負するという陽介との約束もまだ果たせていない。騎手を辞めたくなんかない、でも……。積み上げて来た自信が木っ端微塵に砕け散っている今、自分にゴーサインを出して一歩前に進むことが、どうしても出来なかった。
自分の情けなさが許せなくて、悔しくて、優はぽろぽろと涙を零した。
(最近の私は泣いてばかりだ。何で私は、こんなにも弱いんだろう……。)
「まだ吹っ切れてないのか。本当に世話の焼けるやつだな、お前は。」
優ははっとして振り返った。厳しい口調ながらもどこか優しさを感じさせる、優にとって聞き慣れたその声の持ち主は、左腕に包帯を巻いた陽介であった。




