105 右ムチ
小倉記念を次に控えた準メインレースのRKB賞。
優の騎乗馬シゲオアマノジャクは、内への斜行癖がきつく、能力をフルに発揮できないレースが続いていた。上位騎手が敬遠するほどまともに走れない馬であったが、優はそれに違和感を覚えていた。と言うのも、シゲオアマノジャクは連戦を予定しているため小倉競馬場に滞在して調整しているのだが、今週優を背にダートコースで追い切った時は、全く悪さをする様子がなかったのである。
そこで同馬の過去のレース映像を改めてチェックした優は、一つの結論に至った。この馬は内ラチを頼って走りたいタイプで、ラチとの間に他の馬がいるのを嫌がっているのだと。実際最内を通った追い切りは終始スムーズな走りだったし、勝ったレースはいずれも直線で早めに先頭に立って最内を走り抜けるパターンだったのだ。
この分析から優が描いたレースプランは、好スタートを切ってあわよくばハナを切る、もし逃げられなくても前目につけて先頭を窺う位置をキープし、直線に入る前には先頭を奪って最内の進路を確保して、悪癖を出すのを封じるというものであった。
一方、手前を変えるのが苦手という弱点を持つメルクリウスは、1週前追い切りに陽介が跨り、栗東のウッドチップコースで手前の切り替えを入念にチェックしていた。
陽介の馬乗りとしてのセンスの高さは、こうした地味な技術こそがその真骨頂である。通常、手前を変えるにはムチや騎手の重心移動を合図として用いることが多いが、メルクリウスには反応が芳しくない。そこで陽介が試してみたのは、重心移動と他の手段の組み合わせであった。そしてたどり着いたのが、目標の馬の真後ろから外に出して、それと同時に左足による扶助を加えるという方法だった。馬の気分あるいは癖としか言いようがないが、外への遠心力に足でブレーキを掛けるようなイメージで乗ってみたところ、スムーズにパンと手前を変えてくれたのだ。レース本番でどうなるかは未知数だが、陽介は手応えを掴んでいた。
そしてRKB賞の発走時刻がやって来た。12頭が出走するこのレースは、パンパンの良馬場で行われる。
1番人気 2枠2番 セイショウハヤカゼ 菅田 2.8倍
2番人気 5枠6番 メルクリウス 神谷 3.9倍
3番人気 4枠4番 シゲオアマノジャク 藤平 5.5倍
枠入りが順調に進む中、優はスタートに全神経を集中していた。
(内ラチ沿いを走り続けることが出来るから、ハナを切るに越したことはないな。ここは速い馬もいるけれど主張して行こう。)
そしてゲートが開くと、シゲオアマノジャクは反応良く最初の一完歩を踏み出した。
(やった。これなら……。)
そのまま出して行こうと促す優だったが、その目論見は脆くも崩れ去った。同じく好スタートを切った内のセイショウハヤカゼが、鞍上の菅田の出ムチに応えて猛ダッシュを見せ、先頭を奪ってしまったのだ。
(やられた!ミツルさんは、この子の癖を見抜いていたんだ。まさかセイショウハヤカゼがここまで強引に来るなんて……。)
歩く競馬四季報の異名を持つ菅田は、自分が乗らない馬であっても、その成績や癖までも把握していることが多い。優が逃げを打って来ると読んで、機先を制したのだ。
そこで次善策として、優は半馬身ほど遅れた所でセイショウハヤカゼの外に馬体を接した。内ラチ沿いを取られたままでは、シゲオアマノジャクは直線でまともに追うことが難しい。早めに先頭に立てるよう、動きやすいポジションをキープしていた。
対して陽介のメルクリウスは、4番手のインで流れに乗っている。菅田と優がやり合ってくれれば漁夫の利を得ることもできる、絶好の位置でレースを進めていた。
前半の600メートルの通過は33秒3。開幕2週目の絶好の馬場を考えてもこのクラスでは遅くはないペースだが、前が残れないほどの無理もしていない、絶妙なラップ。深追いすれば止まってしまいそうな流れで、早めに動きたい優には苦しい展開となった。
(このままじゃジリ貧だ。ミツルさんよりワンテンポ早く仕掛けて、出し抜けを図るしかない。)
意を決した優は、3コーナーの中間からスパートを開始し、セイショウハヤカゼの前に出ようと動いた。しかしそれも菅田の想定の範囲内。即座に呼応して突っ張り、シゲオアマノジャクのリードを決して許すことはなかった。
(ミツルさんがこの子をここまで警戒してるとは予想外だよ。後ろにメルクリウスが控えているのにロングスパートに付き合うなんて。それともこのペースで押し切れる自信があるのか……。)
八方塞がりの優を尻目に、セイショウハヤカゼはまだまだ余力充分の手応えで先頭をキープしたまま、最後の直線に突入した。
外に張り付いているシゲオアマノジャクを促す優だが、案の定内のセイショウハヤカゼにもたれてまともに追えない。手綱を左に引き右ムチを入れて修正を図るが、まるで効果が感じられない。
じわじわとセイショウハヤカゼに引き離され始めたシゲオアマノジャク。これを後ろからマークしていた陽介のメルクリウスが、満を持して追って来る。
優は手綱を左に張ったまま、右ムチを2発、3発、4発と連続して入れるが、この懸命の修正動作にもシゲオアマノジャクは耳を絞って反抗し、内へ向かう仕草を止めようとはしない。
シゲオアマノジャクの真後ろに突っ込んで来たメルクリウスを、陽介が1頭分外に導く。そして左足で合図を送ると、鮮やかに左手前に切り替わった。
内のセイショウハヤカゼにはついて行けない上に、外から追って来るメルクリウスの勢いを感じ取った優の焦りと苛立ちは、頂点に達していた。
(もうっ!何で、何で言う事聞いてくれないのよーっ!)
無心とは程遠い感情に任せて振り下ろした、5発目の右ムチ。
その直後、小倉競馬場のスタンドは、大きな悲鳴に包まれた。




