104 準メイン・RKB賞
まばゆい陽射しが降り注ぐ、夏真っ盛りの8月初旬。ついに小倉記念が行われる日曜日がやって来た。
「ひでえ顔してんな、お嬢。いろいろあったんだろうけど、あんまり考え過ぎんなよ。俺らがやってんのは自分だけじゃなく周りにとっても命懸けの仕事なんだから、集中して乗らないと大変なことになっちまうぞ。」
疲れが顔に滲み出た優を心配して、古畑が声を掛ける。
「……私なら大丈夫です。そんなことより、古畑さんは小倉記念を勝てば全10場重賞制覇達成ですよね。応援してますから、頑張って下さい。」
「おいおい。お嬢が応援しないといけないのは、自分の厩舎のソーマナンバーワンの方だろ。まあ気持ちだけはありがたく受け取っとくよ。ありがとな。」
大丈夫とは言ったものの、全然大丈夫ではなかった。1か月近く悩みに悩んだものの、優は未だに自分なりの答えを見出すことが出来なかった。こんなに弱くて不安定な心の自分が、騎手としてやって行けるだろうのか、そもそも騎手を続けていいのだろうか。そして自分は、陽介が乗るソーマナンバーワンに勝って欲しいのか、そうでないのか。それすらも分からなくなったまま、太陽が示した期限であるこの日を迎えてしまった。
「おはよう、陽介。ナンバーワン、調子いいみたいだね。私はメインの乗り馬いないけど、頑張ってね。」
霞ケ浦での一件以来少し気まずくなっていた二人だったが、この日は優の方から意を決して挨拶した。
「おう、おはよう。ナンバーワンな、追い切りも滅茶苦茶動いてたぞ。任せとけ、勝つよ。」
一瞬のためらいもなく勝てると言い切る陽介が、優にはまぶしかった。自分の技量に迷いのない、本物の自信に満ちているのが伝わって来る。
(ナンバーワンの手綱は私なんかより陽介が取った方が、あの子にとっても幸せなのかも知れないな。チャンスを逃してばかりの私より……。)
そんな思いを口にしようとして、優はぐっと飲み込んだ。それを言ってしまうと、陽介に本気で軽蔑されそうな気がしたのだ。
「そっか。応援してるから、あの子をよろしくね。」
やっぱりナンバーワンには負けて欲しくないと、優は思った。たとえ乗らなくとも、自分にとっては特別な馬だから。
その後、レースは順調に消化されていった。9レースまでに陽介は、名手・菅田らと並んで2勝をマーク。目下の好調ぶりを持続していた。
そして準メイン、第10レースはRKB賞。3歳以上2勝クラスの芝1200メートル戦である。
1番人気は菅田が乗る4歳牡馬セイショウハヤカゼであるが、それに続く2番人気は陽介、3番人気は優の騎乗馬となっている。そしてそのどちらも、難ありのいわくつきの馬であった。
陽介が騎乗するのは、3歳牡馬のメルクリウス。関西のトップステーブルの一つである安井 高志厩舎の所属馬で、ここまで5戦2勝。上のクラスでも通用するであろう高いスピードを誇るが、この馬には直線で手前を変えるのが苦手という大きな弱点があった。
手前とは、走っている時にどちらの前脚が先に着地するかを意味する、所謂利き足のようなものである。だから同じ手前で走り続けると疲れてしまい、失速する可能性があるのだが、馬によっては片方の手前で走るのが好きでそのまま走ってしまうのだ。右回りだとコーナーを走りやすい右手前で走った後、直線で左手前に変えるのが理想なのだが、メリクリウスはそのまま右手前で走る悪癖がある。短距離戦だけに手前をが変わらなくても押し切れることも多いが、これまでの敗戦はその影響で取りこぼしたと思われるものばかりであった。
ここは高い技術を持つ陽介を見込んで、手前を上手く変えてくれることを期待しての依頼だそうである。
一方、優が乗るのは、林厩舎所属の5歳牡馬シゲオアマノジャク。このクラスで2、3、2、4着の安定勢力であり、いつ突破してもおかしくない能力の持ち主である。ただ、この馬には直線での内へのササり癖が酷く、まともに追えなくなって取りこぼしたレースが非常に多かった。トップ騎手でも矯正出来ないほどのきつさで、リーディングジョッキーのロベールを騎乗停止に追い込んだこともある。そのため上位騎手からは敬遠されがちで、以前騎乗したアップサイドダウンと同じような理由で、優にお鉢が回って来たのだ。
とは言え、高い能力の持ち主であることは疑いの余地がなく、連敗の泥沼にはまっている優にとってはチャンスには違いなかった。
ともに問題ある馬の騎乗依頼を受けた陽介と優だが、その経緯はあまりにも対照的なものだった。それは今の二人の立ち位置の違いを、如実に示すものと言えよう。
この3頭が中心視されている今年のRKB賞。特に注目度が高いわけでもないこの準メインレースが、メインの小倉記念にとんでもなく重大な影響をもたらすことになるとは、この時はまだ誰も知る由もなかった。




