102 正念場
小倉記念に出走するソーマナンバーワンからの降板を自ら申し出た優に対し、師匠の太陽はそれを二つ返事で了承した。
「その日は他にも騎乗依頼を受けているから小倉遠征自体はキャンセル出来ないが、ナンバーワンは他の騎手を立てることにしよう。だがその前にきちんと理由を話せ。降りたいから降ります、ではここにいる相馬さんにも申し訳が立たないだろう。」
太陽はそう釘を刺して、優に説明を求めた。
「分からなくなってしまったんです。レースに行ってどう乗ったらいいのか、どう乗れば勝てるのか……。今の私がナンバーワンに乗っても、またあの子のチャンスを潰してしまいそうで────」
「怖くなった、か。」
太陽は優の言葉を途中で遮ると、いつになく厳しい表情を浮かべて続けた。
「お前があのレースにどれだけ賭けていたかは知っているつもりだし、結果を出せなかったことに悔いが残るのも分かる。でもな、優────」
太陽との会話を終えてから数時間後、優は独りで霞ケ浦を見ていた。
時間が空いている時や気分転換をしたい時はロードバイクをかっ飛ばして、お気に入りのスポットからこの大きな湖を眺めるのが彼女の定番だった。
「探したぞ優。やっぱりここにいたのか。」
そんな彼女を訪ねて来たのは、愛車のママチャリに跨る同期の陽介だった。
「どういうことだよ、ソーマナンバーワンを降りるだなんて。あの馬はお前が、デビュー以来コンビを組んで手塩にかけて育てて来た大切な相棒じゃないか。」
「私なんかが乗っても、きっと足を引っ張るだけだから。陽介ならきっと、あの子を勝たせて上げられるよ。」
優の代わりに小倉記念の騎乗を依頼されたのは、陽介だった。
「ラジオNIKKEI賞の負けを気にしてるのか?あれは展開の綾だろ。大体、一回や二回の負けを引きずってどうするんだよ。そもそも競馬なんて負ける方が圧倒的に多いんだから。」
「……やっぱり親子だね。先生にも同じことを言われたよ。」
場面は戻って、優と太陽の会話。
「でもな、優。この世界はトップジョッキーでも5回に1回勝てればいい方だ。一つの負けを気に病んで騎乗に影響するようでは、その数少ない勝ちもその手中から零れてしまうんだ。
……いつかは言わないといけないと思っていたが、いい機会だし、はっきり言おう。そのメンタルの弱さこそ、お前の最大の欠点だ。負けを乗り越えて次にレースに臨むのが当たり前の世界なんて、およそまともな精神の持ち主では無理だ。図太く生き抜いていくには、今のお前は真面目過ぎる。真面目なのは美徳だが、騎手向きの性格ではないんだよ。」
太陽からの死刑宣告とも言える指摘に、優は凍り付いてしまった。一言も発することの出来ない優に、太陽はさらに畳み掛ける。
「ナンバーワンを降りたいとお前は言ったが、そんな及び腰の精神状態で他の馬に乗るのは失礼だ。お前の武器であるヘッドワークや判断力だって、満足に発揮出来やしない。本当は騎乗依頼を全てキャンセルすべきなんだろうが、レースの悩みはレースに乗らないと解決出来ないからな。ただ、どんなに長い年月を掛けて積み上げて来た信頼でも、それを失うのは一瞬だ。お前がいつまでも自分を見失っているようでは、馬にも関係者にも迷惑が掛かるし、その結果お前への依頼もなくなってしまうだろう。だから、小倉記念までに結論を出すんだ。ソーマナンバーワンの走りを見て、自分には無理だとまだ逃げるのなら騎手を辞めるべきだし、俺も止めない。もちろん俺は、お前なら乗り越えられると信じているがな。」
「……現役時代の先生は、どういう風に考えて乗っていたんですか?」
絞り出すような優の質問に、太陽は昔を思い起こしながら返す。
「現役時代の俺は、自分をマシーンだと思うようにして、勝とうが負けようが心の平静を保つようにしていたな。でもそれは優に向いたやり方とは思えない。そもそもお前の心の問題は、お前自身にしか乗り越えることは出来ないしな。俺から答えを提示することは適切でないし、不可能なんだ。考えて、悩んで、お前なりの答えにたどり着くしかないんだ。」
再び霞ケ浦の優と陽介。
「……親父の言うことが正しいとは、俺も思う。でも優、お前は本当にこれでいいのか?負ける怖さから逃げることで、お前は満足してるのか?」
責めるような陽介の問いかけに対し、優は自嘲気味に答えた。
「仕方ないよ。私には陽介のような技術やセンスもないし、ミヤビンみたいな華もない。いい馬に乗せてもらって勝ってただけで、先生の言う通り騎手に向いていなかったのかも……。」
「それ、本気で言ってるのか?」
陽介は怒りを露わにして優を睨んだ。初めて見るその表情にたじろぐ優に対し、陽介は突き放すように言う。
「俺と一緒にダービーに乗る約束はどうしたんだよ。強気が取りえのお前が、何をいつまでもうじうじ悩んでるんだよ。……わかったよ、もういい。俺がソーマナンバーワンで勝つところを、指をくわえて見てればいいさ。邪魔して悪かった、じゃあな。」
そう言って走り出す陽介に、返す言葉もない優はただ立ち尽くしていた。
「どうでした?優センパイは大丈夫でしたか?」
事情を聞いて心配していた雅が、トレセンに戻って来た陽介に尋ねる。
「お前に負けたあの一戦が尾を引いてるみたいで、まだいじけてた。でも大丈夫だよ、あいつは逃げっ放しで終わるようなタマじゃない。俺の挑発に応えて、必ず立ち直るさ。」
「優センパイのこと、信じてるんですね。」
「惚れた女のことだからな。ずっと見て来た俺には、分かるよ。」
競馬学校時代から二人と仲のいい雅は、陽介が優を好きなことを知っている。
「そうですね、あたしもそう思います。」
そう答える雅は、大切な先輩を気遣いつつも少しばかりの嫉妬を含んだ、複雑な女の表情を浮かべていた。




