100 決壊
懸命に粘り込みを図るホウヨクテンショウに、大外から一気に襲い掛かるソーマナンバーワン。果たして軍配はどちらに上がったのか。
ただ前だけを向いて一心不乱に追い続けた雅には、全く勝敗が分かっていなかった。入線後しばらく流してからようやく我に返った彼女が、ふと外を見遣ると、その視界に飛び込んできたのは────馬上でガックリとうなだれる優の姿であった。
「おめでとう、ミヤビン。負けたよ……。」
雅の視線に気づいた優は祝福の言葉を投げ掛けたが、それが精一杯だった。それ以上言葉を交わすこともなく、一目散に地下馬道へと消えて行った。
電光掲示板が示しているのは、1分46秒7の勝ちタイムと、上がり3ハロン34秒9の表示、そして9、10、3、14、2と並ぶ着順。ソーマナンバーワンは、わずか頭差で勝利を逃してしまった。
「大殊勲じゃねえか、ミヤビン!重賞初騎乗で初勝利とは、恐れ入ったぜ。」
ローカルでの雅の奮闘を見守って来た古畑が、わざと大袈裟に驚いて健闘をねぎらう。それを皮切りに他の騎手たちも次々に声を掛けながら、雅を追い抜いて引き揚げて行く。
一番最後に検量室前に帰って来た雅を待っていたのは、まさかの重賞勝利に喜びを爆発させる関係者の輪であった。
「よくやった、雅。本当に、よくやってくれた……。」
調教師の湯川は、感極まって泣いている。調教師生活の中で弟子を取ったのは雅で3人目だが、重賞を獲ったのは彼女が初めてだった。師弟コンビで勝つ重賞の味は、格別であったろう。
歓喜に沸くホウヨクテンショウ陣営とは対照的に、ソーマナンバーワンを取り巻く空気はどんよりと重く、まるでお通夜のような雰囲気であった。
「予想以上にペースが落ち着いてしまったし、4コーナーの不利も痛かったですね……。でも、これも競馬です。またチャンスが来ると信じて、前を向きましょう。」
何とか気を取り直したオーナーの相馬が、場を和ませようと気丈に振る舞う。沈んだ表情の妻と、愛馬の敗戦に泣いてしまった息子も、その言葉のおかげで次第に落ち着きを取り戻しつつあった。
一方、検量を終えた優は、検量室のホワイトボードに書かれた9、10と並ぶ着順を見て、これは夢なんじゃないかとすら思えていた。強く勝利を意識して臨んだ大一番で、まさかの敗戦。現実味のないまま、整列の号令がかかり、雅とホウヨクテンショウの勝利が確定した。
検量室を後にした優を待っていたのは、ソーマナンバーワン関係者の気遣いに満ちた表情であった。相馬も、太一も、綾も、そして太陽も、敗れた彼女を責める様子は微塵も見せなかった。それが優には、逆にたまらなく切なかった。
(私のせいで負けたんだ。もっと罵ってくれたっていいのに。重賞レースの1番人気馬に乗ることなんて、もしかしたらもう一生ないかも知れない。勝てるだけの力も間違いなくあった。私がもっと上手く乗っていれば……。私が、みんなの期待を裏切ってしまった……。)
ゴーグルを掛けたまま一言も発しない優に、太陽が歩み寄る。
「我慢しなくていい、泣きたいだけ泣け。」
そう言って太陽がゴーグルを外すと、優の両目は真っ赤に充血して、今にも零れそうなほどの涙を溜めていた。
「う、う、うっ、うううっ、うわああああああああああ────」
心のダムが決壊したかのように、我慢の限界を超えた優は感情を爆発させた。目の前の太陽の胸にしがみつくと、人目も憚らず号泣した。
自分のために、どうしても勝ちたいレースだった。大切な人のために、どうしても勝たなくてはいけないレースだった。自分の不甲斐なさに子供のように泣きじゃくる優を見て、誰も慰めの言葉すら掛けることは出来なかった。
そんな優の様子を知ることもなく、地上では勝者を称える表彰式が行われていた。口取りの記念撮影に収まる雅の顔は、初々しい喜びと大仕事を終えた達成感で満ちている。華のある彼女の重賞勝利を祝福しようと集まった大勢のファンに囲まれて、福島のウイナーズサークルは例年以上の熱気を帯びていた。
競馬の世界は残酷である。どんなに努力して、どんなに強い想いを持ってレースに臨もうとも、敗者が主役としてスポットライトを浴びる事は、決してない。勝者のみが、全ての栄誉を手にすることが出来るのである。
このあまりにも大きな挫折は、今後の優に一体何をもたらすのだろうか。手痛い敗戦をバネにして更なる成長を見せるのか、それとも────




