第四話:家族
また桜の咲く季節がやってきた。
信治のいる駅前支店は人事異動が無く、みんなそのまま。
信治にとってはホッとするところである。
信治の歩く地区も変わらず、客と信治は、もう顔見知りだ。
「伊藤君、悪いんだけどこの定期解約して欲しいのよね。」
保険屋さんの石田さんが持ってきたのは、十万円の定期預金証書だった。
「ありゃ、なんかあったんですか?」
「来週息子の誕生日なんだけど、新しいゲームの機械が欲しいんだって。けっこうするのね、今のゲームって。」
「定期崩すのはもったいないんで、よかったらカードローンでも作りませんか?」
「んー、でもそれ作ると使っちゃうのよね。それに来週までに出来る?」
「んー、ギリギリかな?じゃあしょうがないですね。」
信治は解約用の伝票と、朱肉をバックから取り出した。
「では、これに名前とハンコを、あと証書の裏にもお願いします。」
「‥‥これでよし、かな?」
「はい。あ、ハンコこれで間違いないですかね?」
「たぶんコレだと思うんだけど‥。」
「もし違ったら、また明日にでも伺います。来週までに持ってくれば大丈夫ですよね?」
「すいませんね、お願いします。」
「いえいえ。ところで、犬見てないですよね。」
「あー‥どんな犬だったっけ?」
「小さくて柴犬みたいな顔で、毛は茶色なんだけど、右前足だけ真っ黒の犬です。」
「んー‥やっぱり見てないわね。」
「そうですか、ありがとうございます。」
信治は客に、あの日助けた子犬のことを聞いて回っていた。が、有力な情報は得られなかった。
「毎度様でーす!」
ここは月に一度寄る、鈴木さんの家だ。
鈴木のおじいさんは、世界のことわざに詳しく、いつも一つ教えてくれる。
「‥‥ところで、子犬、見てないですよね。」
「見てないなぁ。」
「そうですか‥。」
肩を落とす信治。するとおじいさんはこう言った。
「『わるいことすべてが、害になるとはかぎらない』これは、イタリアのことわざだ。」
「どういう意味なんですか?」
「良くないことでも、受け取りようによっては、善に変えることができる。そういう意味だ。もし子犬が出て行かなかったら、君がアパートを追い出されていたかもしれない。子犬はそれをわかっていて、自分から姿を消したんじゃないかな。」
「でも‥‥また穴に落ちたりしてるんじゃ‥。」
「大丈夫さ。一度助けてもらった者は、その命を大事にするもんだ。きっと、どこかで元気にしとるよ。」
おじいさんの言葉に根拠はない。それでも信治は、なんだが心が落ち着いた感じがしていた。
「ごめんくださーい!」
「あら、シンちゃん。ちょうど良かったわ。今できたとこなのよ。さっ、上がって。」
ここは高額預金者、佐藤さんの家。ここのおばあさんは、いつも昼飯をご馳走してくれる。
とても親しくなり、いつしか
「シンちゃん」、
「ばぁちゃん」と呼び合うようになっていた。
「ばぁちゃん、今日は何?」
「特性カレーよ。絶対おいしいから。」
「わお。こりゃ楽しみだ。」
信治にとって、一日で一番安らぐ時間であった。
高額預金者とは言ったが、ばぁちゃんはお金持ちというワケではない。
コツコツコツコツ貯めて、一千万の定期を作ったのだという。
「ごちそうさま!最高に旨かったよ。」
「本当に?それは良かった。」
自分の為に、料理をして待っていてくれる人がいる。それだけで、信治は嬉しかった。
自分が作った料理を楽しみに、いつも来てくれる人がいる。それだけでおばあさんは喜んでいた。
急にメロディーが流れた。信治の携帯の着メロだ。
「すいません。」
と、携帯をとる信治。
(げっ、川岸さんだ。)
川岸は、ガソリンスタンドの事務員のおばさんで、いつも信治に電話をして呼び出す。
旦那さんは自衛隊なので金持ち。風信に定期をいくつも作っている為、逆らうに逆らえないのだった。
「伊藤さん、今すぐ来てちょうだい!」
「いや、今すぐはちょっと‥」
「小銭が足りないのよ。早く来てよ!」
ツーツー‥切られた。
「ゴメンばぁちゃん。行かないと。」
「大変だねぇ。また明日寄ってよ。」
「うん。じゃあまた。」
急いで川岸がいるガソリンスタンドへ向かう。
客と親しくなって、良いこともあれば、悪いこともある。もちろんこっちは悪いほう。
「毎度様でーす!」
「あら、早かったわね。」
(お前が早く来いって言ったんだろーが!)
ちょっとムカッ!
「じゃあ両替してくれる?百円を二本と、十円を六本。あと一円を二本ね。」
百円を二本とは、百円玉が五十枚まとまった棒状のものを二つ。ということで、一万円分になる。
「あー、すいません。十円が今二本しかないですね。」
「二本じゃ足りないわよ。持ってきて!」
「では今二本やるので、残り四本は後でもいいですか?」
「いいわよ。」
ともあれ、一旦支店に戻ってまた出て来なければならない。だいぶ時間ロスだ。
「まったく。そんな遠くないんだから自分で行けよな!」
この人には、信治もついグチを言いたくなる。
急いで他の集金先を回り、例の両替も届け、時間は午後二時三十分。
「なんとか間に合ったな。ってか時間余ったくらいだ。」
残す先は一軒だけ。
「どうすっかなぁ‥‥‥。」
お金を締める為、遅くても三時半には帰らなければならない。
それ以上かかるならば、一旦お金を締めた後、また金を持たないで回るしかない。
残り一時間。行く先は一軒だけ。だがそこは、田子のおばぁちゃんの家だった。
「‥行っちゃえ!」
一時間もあれば、なんとかなるさ。そう考えたのだった‥‥‥‥‥
「遅くなりましたー!!」
時間は午後四時二十分。
信治は慌てて帰ってきた。
「伊藤!遅いぞ!」
代理に怒鳴られた。
「また田子のばぁさんだな?」
係長はわかってくれている。
「まったく、しょうがないな。伝票とかあったら、よこしな!」
野田が手伝ってくれた。
「シンちゃん、お金数えるよ。」
木下も助けてくれる。
「私、コーヒー煎れとくから。」
草野も。
「俺も、あのばぁさんには苦労したんだ。五時半までかかったんだから!」
と、長谷川。
「あの時は心配したよ。事故にあったんじゃないか!ってな。」
と、次長。
「もう少しで、警察呼ぶとこだったよな。」
と、代理。
みんな笑っていた。
支店長は相変わらず無口だったが、静かに後ろから見守ってくれている。
職場というより、まるで一つの家族のようだった。
(家族‥‥そうだ。家族を金で買えるか、って言ったら、無理なんじゃないか?金で家族は買えない。なら家族は、金より大事だってことだ!ここのみんなは、僕の家族のようなもんだ。決して金では手に入らない、家族だ!)
信治の心の中で、希望の花のつぼみが、確かに膨らんでいくのを感じていた。
それから少し経って‥
野田が、会社をチョクチョク休むようになった。
誰も、そのワケを言わなかった。
信治も、他の人ならともかく野田さんなら。と、特に気にしていなかった。
たまに来ても、なんだか元気がない様子。
(そんなに休むなら、辞めちまえばいいのに。人手が足りなくなって迷惑だ!)
信治はそう思っていたが、一番負担のかかる木下や立花代理は、文句一つも言っていなかった。
(なぜだろう?木下さんはともかく、仲が良さそうでもなかった立花代理まで何も言わないなんて‥‥。)
そのワケは、眩しい太陽が照りつける、八月に入った頃にわかった‥。
「信治、落ち着いて聞けよ。」
いつになく強張った口調で、係長が伝えてくれた。
「野田さんがな‥‥‥亡くなった。」
「え!?どうして?」
「最近よく休んでいたろ。心臓が悪かったそうだ。昨日急な発作がきて、そのまま‥‥。」
「‥そうだったんですか。」
「明日の夕方六時から葬式がある。いいか、明日はなるべく早く帰って来いよ。みんなで葬式に行くからな。」
「わかりました。」
(‥野田さんが‥死んだ!?こんな急に!?確かに最近休んでばかりだったけど、でも出勤したときは、いつものように
僕に
「遅い!」とか
「下手くそ!」とかって憎まれ口をたたいていたのに‥‥。)
翌日、信治は約束通り早く帰ってきた。
二時半には自分の仕事を終え、中の仕事も手伝い、そしてみんな早めに職場を後にした。
五時半を回り‥残ったのは係長と信治だけだった。
「係長、なんか手伝えることありますか?」
「いや、いいよ。俺ももうすぐ終わるから、先に行ってな。場所、わかるよな?」
「はい‥‥‥係長、僕も葬式に出た方がいいですかね?」
「当たり前だ。早く支度しな。」
「‥‥‥野田さんは、僕になんか来て欲しくないんじゃないかな。嫌われてたみたいだし。いつもいつも文句ばっか言ってさ。いや、僕だって悲しいですよ。でも、嫌いな人に拝まれても嫌だろうし‥」
「バカヤロー!!野田はな、信治のことを認めてたんだぞ!!」
「え?」
「去年、信治が草野に言ったことがあるだろ。他の人のミスを一生懸命誤るなんて、普通できないって。しかも、野田もみんなも聞いてるなかでさ。あの後、野田がなんて言ったと思う?」
「さぁ‥どうせ文句なんじゃないですか?」
「そう思うだろ?野田はな、骨のある新人が入って来たって、喜んでいたよ。育て甲斐があるってな。」
「‥ウソだ。だって野田さんは、いつも叱ってばっかで、いつも厳しくて、いつも『遅い!』とか『そんなのもできないの!?』とかって言ってくるのに‥。」
「そう、野田はそうやって信治を育てていた。自ら嫌われ役になって、信治を鍛えていたんだ。簡単なことじゃないぞ。俺にはできないなぁ。自分は嫌われて陰口言われても、新人を育てる為にそれを貫くのは。」
「‥‥‥。」
「よし、行こうか。野田が待ってるぞ。」
係長と一緒に野田家にやってきた信治。
中には、喪服姿の人が大勢いた。
係長が先に、野田の遺影の前に座り、手を合わせた。
続いて信治も遺影の前に座る。
「‥‥野田さん、僕は正直あなたが嫌いでした。だっていつも僕にばっか厳しくて、うるさくて‥でも、おかげで仕事が速くなりました。丁寧になりました。ちょっと難しい仕事も、覚えることができました。今思えば、『遅い!』って怒鳴った後は、いつも僕の仕事を手伝ってくれていましたね。『そんなこともわからないの!?』って呆れた顔をした後は、細かい所までそれを教えてくれていましたね。あなたは、高校を出たばかりの未熟な僕に、仕事の厳しさを教えてくれた。忍耐と根性を叩き込んでくれた。‥‥‥本当に‥お世話に‥なりましたぁー!!!」
信治は、手を合わせたまま、目をつぶったまま、泣いた。
「ううう‥うう‥。」
信治の声は、静かな会場を駆け回り、それは他の人達の涙も誘った。
草野もその中の一人だった。
野田の写真は笑っていた。なんだか、喜んでいるように見えた。
「信治、この後飲みに行くか!俺がおごるからよ!」
係長が背中をポンと押して、酒に誘ってくれる。
「‥はい。」
まだ涙目の信治は、素直に頷いたのだった。
野田がいなくなったからか、四月に異動が少なかったせいか、十月に大幅な人事異動があった。
駅前支店も、もちろん。
草野、長谷川、立花代理。この三人が異動になった。
代わりに来た三人は、預金係に、この年入ったばかりの女性、川村さん。渉外係に、木村係の二つ下の男性、寺道さん。
そして立花代理の代わりに、沢井代理。
「伊藤さん。この通帳に付いてる定期の解約って、どうやるんですか?」
川村は話しかけやすい為か、信治になんでも訊いてくる。
「まず、普通の定期預金の解約と同じように‥」
信治にとって、後輩ができたのは嬉しいことだった。
川村優奈小柄で、まだ子供っぽい顔をしている。
見た目とは裏腹に、負けん気が強く、頑張り屋だ。
「伊藤君。酒は好きかい?」
寺道も小柄で、信治にとっても話しかけやすい人だ。
仕事はそれなりにできるが、おっちょこちょいなとこもあり、たまに変なとこでミスをする。
それもまた、彼の柔らかいイメージにプラスとなっていたりした。
「酒が好きというより、飲んでるときの雰囲気が好きですかね。」
二人はすぐ仲良くなっていた。
この二人は全く問題はない。問題なのは、沢井代理だ。
「伊藤、ちょっと。」
沢井代理は、優しい声と笑顔で信治を呼び出す。
「お前、今月ローンの案件いくつもってきた?」
「まだ、無いです。」
「無い!?お前なぁ、両替やら入金やらやってても意味ないんだよ。お前の給料、どうやって稼いでると思う?」
「ローンの利息、とかですかね。」
「そうだろ?だったら金借りる先、見つけてこなきゃ話になんないよな?」
「‥はい。」
「だったら、そこらのおばぁちゃんの家とかで、ゆっくりしてるヒマなんて、ないよな?」
「‥はい。」
「お前、一番取りやすいローンはなんだ?」
「カードローン、ですかね。」
「だよな。どうやってとってくる?」
「持ってない人に、どんどん勧めていきます。」
「わかったら、やれ。」
「‥はい。」
沢井代理は、完璧な作り笑いで、いちいち疑問系で、わかってる事を長々と説教してくる。
これは‥腹が立つ!!
(やってるけどとれないんだよ!!いちいちわかってる事言うんじゃねーよ!!上司なら、部下にやる気でるような言い方しろってんだよ!!)
と信治もキレ気味だ。
(はぁーあ‥‥野田さんは良かったな。実になる怒り方してたからなぁ。沢井代理、なんだありゃ。本当にやる気無くなりそうだよ。)
同じ怒ることなのに、何かが違う。確かに野田に怒られ、信治もムッとしていた。が、沢井代理に怒られた時は、ムカッ!!とする。この差は何だろう?
やはり、人を育てようとして言う言葉と、ただ頭にきて言う言葉とでは、言われた人の受け取り方は違うようだ。
「あの頃は良かったなぁ‥。」
アパートに帰った信治は呟いた。
「家族みたいに思えたもんなぁ‥。」
たった一人、会社に嫌な人がいる。それだけで、会社に行くのが、恐ろしく嫌になる。
信治は今それを痛感していた。
そんなある日、信治の好きな着メロが鳴った。
克也だ!
「もっしー。」
「おう、信治か。」
「そりゃあね。」
「おう、久保の話聞いたか?」
「あいつがどうかしたのか?」
「ああ、久保のやろう、結婚したってよ。」
「結婚!?あんなヤツがよくできたなぁ。」
「聞いた話だけど、久保、昔から金もちじゃん。」
「そうだね。」
「それ目当てらしいぞ。」
「金目当てってこと?」
「そう。」
「そんなんでいいのかよ。」
「かわいいからいいんだってさ。」
「へぇー。」
「もうすぐ、子供も産まれるそうだ。」
「ふーん。まぁどうでもいいけどね。」
「まぁな。んじゃ、それ言いたかっただけだから。」
「あっそうなの?」
「そう。じゃあね。」
「はいよ。」
電話を切って考えた。
「妻に子供、家族か‥‥ハハッ、ハハハ。なんだ、金で家族、手に入るんじゃん。そうか‥‥結局金かよ!!」
金で買えないものなんて‥‥ないんじゃないか?
信治の頭の中に、イヤな予感が走った。
希望の花のつぼみは、その花を開く事無く、静かに散っていったのだった‥。