10.旅のおわり
10.旅のおわり
暑は夏い。
いいや、夏は暑いのか。
真っ青な空のキャンパスに、ぽとりと落とされたこがねの玉。その照り付けるお天道様が、地面を人を、じりじりと焼いている。
きゅぅっと、目を細めて睨んで見るがいつ見ても不思議だ。あんなぼくの肉球よりも小さな玉っころが、こんなにも暑い光を出しているなんてさ。
さて、ぼくらは薄くらい路地の一角にどかりと陣取って、賑やかな通りを眺めている。
婆さんの黒猫は楽しい町だと言ったが、ぼくにとっては、なにもかもが多すぎて、暑苦しくて叶わない。
人もたくさん、猫もたくさん、犬までいるんだぜ。
お天道様が出ている間は、こうやって暗がりに座っているのが正解なのさ。そんな風に思っていると、お尻の方から声がした。
『ハチさん、ハチさん』
『ん?どうかしたかい』
『お参りは行かないの?』
『うん、暑いからね』
声をかけて来たのはトラだ。ぼくの相棒、旅の連れ。どうやら若い彼は、元気が有り余ってしようが無いらしい。
ぼくは振り向くこともなく答えた。
『ご飯は貰いに行かないの?』
『うん、暑いからね』
お尻に声をかけるのも飽きたのか、ぼくの周りをくるくると周りながら話しかけてくる。
なにやら人間が、順番にご飯をくれる場所があるらしい。そんな話を昨日聞いた。
でも今でなくとも良いだろうよ。
『それなら、それなら』
『うん、ぼくあ良いよ。トラは行っておいでよ』
ぼくを誘わず一人で行ったら良い。そう伝えると、ぱあっと明るい顔になった。
『じゃあ、いってきます!』
そう言うが早いか、トラは力を目一杯ためたバネのようにはずんで駆けて行った。
出会った時は、それはそれは箱入りネコで、かなぶん一匹にも腰が引けていたのに。このの短い間に随分と活動的になったものだ。
旅はネコを変えるんだな。
ぼくも変わったのかな?自分ではなにもわからない。
涼しい場所を探しては、しばらく座って通りを眺める事を繰り返す。すると、ひんやり冷たい平らな石段を見つけた。
お尻をつけると心地良い座り心地。ふんと一つ鼻で息をして目を閉じた。辺りがまっくらになる。
ひとつむこうの喧噪に、耳だけを向けて。
大人の声に、子供の声。その奥の奥に水の音に火の音。もっと小さく風の音。いろんなモノの音が、いっぺんに混ざってぼくの耳に響いてる。
そんなのが、丁度いい子守唄になるもんだ。
……
かさりかさり。
鼻先、ヒゲに何か触れて目が覚める。ゆっくり瞼を開くと、目の前のトラと目があった。
『ハチさん、ハチさん』
慌ただしく声をかけてくる。
その声に、返事と取れない事もない、静かなあくびを返した。くわーっと牙を見せて大きな口を開ける。
『ハチさん、ハチさん』
『うん、聞こえているよ』
『ねえ、もう日が沈んだよ』
片目だけを開けて、空を仰ぐ。ちょうど太陽が沈んだところ。あんなに元気だったお天道様は、もう頭の先っぽも見えやしない。
残り香のようなこがねの帯が、むらさき色の境界線をたたえて、今日の終わりを支えている。
『うん、そのようだね』
『お参り、お参り行かないの?』
『いこうか』
随分と涼しくなったし、暗い方がうっとおしい人間も少なくて歩きやすい。ぼくらは音も立てずに歩き始めた。
『行くのかい?』
路地の奥から、婆さんの黒猫が顔を出した。目だけが黄色くぎらりと輝いている。
『うん』
『行ってきます』
『気をつけてな』と、それだけ言うと、暗やみの中に消えて行った。
再びぼくらは歩き出す。
しっぽを振り振り。
からだはしなやかに。
道の端っこを、堂々と歩く。
あくまで端っこを、真ん中は歩かない。
自信と臆病と、傲慢さと謙虚さが合わさっている、それがぼくなのさ。
それで良いし、それが良い。
大きな、大きな鳥居が見えてきた。その先にはまた、大きな大きな橋がある。トラが靴下を嗅いだ後のような表情で、口をあんぐり開けてそれを見上げている。
『ふっ』と思わず笑いが溢れた。
『大きいね、ハチさんこれはなんだろう?』
『さあね、わからないや』
あい変わらず、端っこをのんびり歩く。
この辺りはひんやりして気持ちが良い。ぐぐっと大きく伸びた木の枝の天井が良いのか。それともまあるい石っころの地面が良いのか。
まったく静かな夜である。
しかし、よおく耳をすませば、「さやさやさや」「そよそよそよ」そんな声が聞こえる。
そんな世界の声を聞きながら、優雅に歩いていると、静寂を破る音が聞こえた。
ざくり!ざくり!
驚いて、ぴたりと足を止めた。恐らくは人間の足音だろう。ふと横を見ると、となりのトラは、びっくりしすぎて身体が固まっていた。
『ハチさん、なんだろう!?』
『人間の足音だろうね』
『大丈夫かな?』
『さあね、捕まりたくあ無いね』
こくりと頷き合うと、より音を立てないように慎重に歩き始めた。
一歩、二歩、三歩。
ぼくらは足音を立てることはない、しかし。
ざくり!ざくり!
また音がする。
まっくらやみの境内で、静かなはずの境内で。
ざくり!ざくり!!
音がだんだん大きくなってきて。
『わあああー!』
突然声を上げるトラ。何やってるんだよ、と釘を刺す。
『でも、でもだって。怖いよハチさん』
『うん。声を上げても解決はしないよ。それに、今ので気付かれたかも』
『ええ!?』
ざく!ざく!ざく!ざくっ!
音の感覚が短く、早くなった。何かわからないけど、何かが近くにいる。
『走ろう』
『う、うん』
一瞬。ぐっと力を溜めて、二つの後ろ脚でぴゃっと飛び出した。両方の前脚で着地して、そのままの勢いで跳ねるように走りだす。
誰に教わる事も無いけれど、ぼくとトラの走り方は同じ。身体が一番速く走る方法を知っている。
そこから先は無我夢中だ。
風を切って、石を蹴って!
『はぁーはぁー』
『ふぅっふぅっ』
しばらく走って、最後に階段を駆け上がったら息が切れた。もう限界だ。
うまく逃げられただろうか、じっと耳をすませる。もう音は聞こえない。
『大丈夫かな?』
『さあね、でも』
『目的地には着いたみたいだ』そう言って、前を見据えた。大きな、木でできた建物がある。正面にはお店の玄関のように白い布が、垂れ下がって、奥の方は見えない。
二匹並んで、しばらくそのまま眺める。
『ねえ、ハチさん。ここなんだろうね』
『さあね、でもたぶん。人間のカミサマがいる場所みたいだ』
ぼうっと魅入る。
『ねえ、ハチさん。猫にはカミサマはいないのかな?』
『どうなんだろうね』
気がつくと、まったく見えなくなったお天道様の代わりに、綺麗なお月様が顔を出している。
『でも、良いんじゃないかな。もし願い事があるなら、人間のカミサマにお願いしてみたら』
『いいのかな?』
『さあね、でも試してみようよ』
すうっと自然に目を閉じた。二匹並んで目を閉じた。
ぼくあお願いする事は無かったから、報告をする事にした。婆ちゃん、伊勢のお参りは代わりにしてやったぞ。と。
目を開けると、さきまでぴったり閉じていた白い布が、ふわあっとめくれた。
月の明かりを受けて、白より白くなったそれを見ていると、どこか不思議な気分になった。
思わず見惚れていると、身体が突然宙に浮いた!となりのトラもだ。
『『あっ!』』
言うがもう遅い。がっしりとした手で、大きな人間に捕まったのだ。
「捕まえた」
「首輪があるな、どこの迷い猫かな?」
『はなせー!』
「うーん、あ。首輪に住所も書いてある」
『はなせえー!』
じたばたして見るが、がっちり掴まれていて動けない。そのまま小さいオリに入れられた、もはや観念するしかない。
『ハチさあーん、どうしよう!』
顔は見えないが、トラの声がする。どうやら向こうもオリに入っているようだ。
ゆさゆさと。二人の人間に、二匹の猫がそのまま運ばれて行く。
『どうしようったって、どうしようも無いね』
『えええ!?』
『でも人間の話を聞く限り、とって食おうて訳でもないらしい』
『そうなの?』
『飼い主に届けるって言ってるよ。まぁ心配いらないんじゃあないかな』
『帰れる!?』
『うん、たぶんね』
抵抗する事を諦めたぼくは、オリの中で座って目を閉じたのだった。
……
ブロロロ……
乗り心地最悪の車に揺られて、懐かしい婆ちゃんの家に帰ってきた。
ああ、またよし子のおばちゃんと二人か。そう思って、げんなりしていると、ゆっくり玄関が開く。
そこには婆ちゃんの姿があった。
どうやら、手術というのは終わったらしい。
相変わらず元気のなさそうな顔でぼくを見て微笑んだ。
ふうん、それなら良いんだよ。
『おい、伊勢のお参り代わりに行ってやったぞ《ニャァァー》』
婆ちゃんにそう言って、またうぐいす色の座布団に座ったのだった。
おしまい!
トラもたぶん、成長してお家に帰りましたとさ。