おでぶ令嬢と砂糖菓子のような恋
一迅社ゼロサムコミックス様より発売の『悪役令嬢が婚約破棄されたので、いまから俺が幸せにします。アンソロジーコミック3』に収録していただいた作品の原作です。
漫画は名護マチオ先生にご担当いただきました。素晴らしいコミカライズを本当にありがとうございます!
2024年11月28日発売
「お前のような肥え太った醜いものと、婚約なんてできるか!!」
それは、よく晴れた日差しの心地よい日のことだ。
薔薇が咲き乱れる伯爵家の美しい庭の奥、生垣に囲まれた東屋の椅子には、二人の子どもが座っている。
一人は、この伯爵家の十歳になる娘、ティナ。そしてもう一人は、そのティナとこの度婚約をすることになった十二歳の少年・オスカーだ。
二人は今日が初顔合わせ。利害よって結ばれた婚約に、本人たちの拒否権などないと知っているにもかかわらず――オスカーは腹から出した大きな声で、ティナを全面否定した。
……わかっていてもたえられないほどに、ティナの容姿が酷かったのだ。
「それで女と名乗るなんて、お前はふざけているのか!? ただの肉の塊じゃないか!!」
オスカーの激しい叱責に、ティナの肩……と思しき部位がたぷんと揺れる。
オスカーの前にあるのは、正しく肉だ。桃色の布に包まれた肉だ。
てっぺんに焦げ茶色の髪がついているので、かろうじて人型に見えてはいるが。顔の部分は段になった肉に埋もれているので、表情を窺うことすら難しい。
貴族として産まれ、美しい世界で教育されてきたオスカーにとって、肥満体のティナはもはや未知なる生物にしか見えない。
こんなものを『自分の妻』として隣に置くなど……ましてや将来、この肉の塊と子を成さねばならないなど……絶対に無理だ。
恐怖で粟立つ肌をさすりながら、オスカーはじっと肉の塊を睨み続ける。
もしコレが本当に女性であるのなら、オスカーが言ったことはとんでもなく失礼だ。ほぼ同等の利益で結ばれている今回の婚約も、オスカー側の過失として破談にされてもおかしくない。もしかしたら、家から勘当されるかもしれない。
(それでも、無理だ!!)
ならば家を出て、一生一人で暮らしたほうがマシだ。一瞬で出した結論を頭に置きながら、目の前の肉の反応を待つ。
きっと怒るだろう。それとも泣くだろうか。いずれにしても、この婚約はなくなると確信しながら反応を待てば――
「そのお言葉をずっと待っておりました!!」
――オスカーに返されたのは、全く真逆の答え。
喜びにあふれた、愛らしい少女の声だった。
「……は?」
何が起こったのか、理解できない。
ただ、目の前の肉は本気のようだ。たぷたぷと揺れる腕?の脂肪も、喜びを表している。
「お、怒らないのか……? どうして」
「それは、私自身もこの姿が嫌だからです。オスカー様、少し私の話を聞いていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ」
外見は酷いものだが、ティナから聞こえてくる声はハキハキとしており、言葉遣いも丁寧だ。
予想外の展開に動揺しつつも、オスカーは姿勢を正して話を聞く意思を示す。ティナは小さく息をついた後、歳不相応に落ち着いた様子で話し始めた。
まず、ティナの家は男が産まれやすい家系で、過去五代まで遡っても産まれた子は皆男であったらしい。
跡継ぎに困らないのはよかったが、男ばかりでも縁談は結びにくい。何より、たまには女児も見てみたいと伯爵家の皆が思っていた。
……しかし、そんな願いも空しく、今の夫妻の間に授かるのも、三人続けて男ばかり。
これは今回も無理かと諦めていたところ……夫人がまさかの四人目を懐妊。歳の離れた末子として産まれたのがティナだったのだ。
親類一同は久々に産まれた女の子を、それはもうバカみたいに可愛がった。
流行りのドレスや装飾品、おもちゃもお菓子も望めば何でも贈ってくれる。いや、望んでなくても贈られてくる。
そんな中で育てられれば、それはそれはワガママな娘ができあがるだろうと思いきや……意外にも、ティナは常識的な考えのできる少女であった。
……甘やかしを受け入れられていれば、少しは楽だったかもしれないのに。
『どうかもう何も贈らないでくれ。何も欲しくない』
ティナはそう何度訴えただろうか。しかし、ティナを天使と呼んで憚らない彼らは、頑なに首を縦にはふってくれない。
どれだけ断ってもごちそうやお菓子が日々山のように積まれ、食べきれないと伝えても、遠慮していると受け取られてしまう。病気かもしれないと医者を呼ばれることすらあった。
迷惑をかけたくなくて、仕方なく食べていれば、当然体は太っていく。ぶくぶくと日々醜くなっていく己をティナが何度嘆いても、親族たちは態度を変えない。もちろん、減量のための運動も『危険だ』と許さない。
「これぐらい丸いほうが可愛い」「ティナが着られないようなドレスを作る職人が悪い」そんな生活を十年続けてきた結果が……今の醜い姿なのだ。
「なんてこった……そんな生活、虐待と同じじゃないか」
ティナが告げた悍ましい話に、オスカーは血の気が引くのを感じた。
確かに、伯爵夫妻は十歳の少女の親としてはいささか年かさではあったが、まさか過度の愛情によって娘を苦しめていたなんて。
「……失礼なことを言ってすまなかった。お前は被害者だったのに」
目の前にいるのは、何も変わらない布に包まれた肉の塊だ。だが、そこにもう恐怖などは感じない。
最初とは全く印象の変わった〝少女〟に、オスカーは深く頭を下げる。
「お気になさらず。こんな醜いものを娶れと言われれば、誰でも貴方と同じことをおっしゃったでしょう。私だって、こんな肉の塊と結婚なんて嫌ですもの!」
「それでも、傷付けてしまっただろう。本当に、すまない」
「……オスカー様は優しい方ですね」
くすりと、肉の奥から可愛らしい笑い声が聞こえる。
ティナがごく普通の令嬢として育てられていたなら、さぞ引く手数多な娘に育っただろうに。もったいない話だ。
「私が何を言っても『遠慮』としか聞いて下さらなかった親類も、政略結婚の相手である貴方の言葉となれば、さすがに聞いて下さるはずです。これで、食べきれないお菓子やごちそうを断れますわ!!」
「ああ、俺が役に立てるならぜひ使ってくれ」
「ありがとうございます、オスカー様。その、ワガママを許していただけるのならば、もう一押し。『お前が痩せるまでは会いたくない。痩せられなければ婚約は解消だ』と、大きな声でおっしゃっていただけませんか?」
「お安い御用だ。あー……こほん。お前が痩せるまでは会いたくない! もし痩せられなければ、婚約は解消させてもらう!! ……これで構わないか?」
「完璧です! 今のお声の大きさならば、護衛の彼らにも聞こえたはず。証人がいれば、私が運動することもきっと許してもらえますわ!」
再び腹から声を出したオスカーに、ティナはぶるぶると肉を揺らしながら喜んでいる。
ちらりと見やった先では、がたいのよい男たちが顔を青くしてこちらを窺っていた。あれだけ顔に出る者ならば、きっと正直に証言をしてくれるだろう。
「ああ、オスカー様。本当になんとお礼を申し上げてよいか……」
「礼など不要だ。むしろその……本当にすまない」
「私こそ! 婚約については家同士での話し合いになると思いますが、少なくとも私は、痩せるまでは貴方とお会いいたしません。婚約が続くにしろ終わるにしろ、二度とこの肉の塊は貴方の前には現れませんから。どうか、今日のことは悪い夢だとでも思って、忘れて下さいませね」
「自分の姿をそこまで言わなくてもいいだろう」
「だって私、鏡を見る度に悲鳴を上げたくなりますもの」
肉の塊が、またくすくすと笑う。彼女の声は耳に心地よくて、ずっと聞いていたいような不思議な気持ちになってくる。
視界の中にいるのは、少女ではなく肉なのに。
「……ティナ嬢、もし迷惑でなければ、俺は今日を忘れなくてもいいだろうか? いつか、また会える日を待ってもいいだろうか?」
「え?」
自分らしからぬ真剣な問いかけに、オスカー自身も驚いた。……だが、口にしたことはちゃんと本心だ。
待ってみたいと思った。彼女が、本当に変わるのなら、見てみたいと。
「先の言い方だと、お前は俺との婚約のために痩せてくれるのだろう? もちろん、解消を望むなら無理にとは言わないが」
「……いえ、貴方が待っていて下さるのでしたら、私はそれで構いませんが」
「ありがとう」
開口一番酷いことを言ってしまったのに、ティナは心の優しい娘だ。その優しさが、今の彼女を作ってしまったのも、また悲しいことだが。
「俺をいくら言い訳に使ってくれてもいい。これからは、無理に食べたりしないようにな。ちゃんと、体を大事にしてくれ」
「はい、ありがとうございます」
肉の塊は、淑女の礼の形(多分)に脂肪を揺さぶると、遅すぎる足取りで東屋から去っていった。
しばらくして、生垣の向こうから父伯爵と思しき男の悲鳴が聞こえた気がしたが、きっと今の彼女ならば何とかできるだろう。
ティナが本当に変わるかどうかも、彼女次第だ。
(もし婚約が続くのなら、俺も変わらなければな)
今のままのオスカーでは、きっと彼女の隣には相応しくないだろう。少なくとも、初対面の女性の容貌を貶すような男はありえない。
……つい先ほどまでは『相手が無理!』だと思っていたのに、自分の変わりようが少し面白い。
「……次に会える日が、楽しみだな」
駆けつけた自分の家からの使いを待って、オスカーも東屋を後にする。
薔薇の華やかな香りに、かすかに彼女の砂糖菓子のような匂いが混じっていた気がした。
* * *
――あの日から、三年の月日が流れた。
両家の婚約はなおも継続しているが、あの日以来オスカーがティナに会えたことはない。手紙のやりとりと、誕生日には花などの贈り物をするだけだ。
手紙の文面を見る限り、やはりティナは歳不相応に落ち着いた、理知的な少女である。穏やかに、優しく綴られるそれに、オスカーの期待は高まるばかり。
しかし、彼女から〝会いたい〟と言ってくれないということは、まだオスカーに見せられる姿ではないのだろう。
(もう、あまり時間もないんだがな)
ティナは十三歳になる。社交界デビューが十五歳なので、そろそろドレスなどの準備を始める頃だろうし、婚約者であるオスカーとの打ち合わせも必要になってくるはずだ。
彼女が今後も、オスカーとの婚約を続けるつもりであるならば。
「……昔よりは、俺もマシになったと思うんだけどな」
この三年間、紳士としての作法を厳しく叩き込んでもらった。もう二度と、彼女に酷いことを言ってしまわないように。
容姿だって、それなりに整っている自信がある。一足先にデビューした社交界でも、評判は悪くなかった。隣に並べて、恥ずかしい男ではないはずだ。
「……よし」
結局、不安と期待が抑えきれなくなり、ティナのもとへ『会いたい』とオスカーから手紙を出してしまった。
……結果は意外にも了承であり、もっと早く言ってしまえばよかったと後悔したのが――――十日ほど前のこと。
「懐かしいな……」
久しぶりに訪れた伯爵邸でオスカーが通されたのは、薔薇が美しい庭の東屋。あの日、ほんのわずかな時間を彼女と共にすごした思い出の場所だ。
人には見えないほどに太った、肉の塊と婚約を決めた場所。
(……全く変わらない肉の塊が出てきたら、どうするかな)
ティナからの手紙にも『減量は順調だ』と記されていたし、全くそのままということはないだろうが……何せ三年ぶりの再会だ。
もしや、行動を早まっただろうかとオスカーが不安になり始めたところで、
「お久しぶりです、オスカー様」
懐かしい少女の声が、耳に届いた。
「……ティナ嬢か?」
「はい。貴方の婚約者のティナです」
薄桃色の〝ドレス〟がひらりと揺れる。
かつてはカツラのように肉の塊に載っていた焦げ茶色の髪も、そよ風にサラサラと踊っている。
「……よかった、ちゃんと女性だったな」
「もう、それはさすがに失礼ではありませんか!」
心底安心したと呟いたオスカーに、ティナはぷくと頬を膨らませて反論してくる。
ああ、ちゃんと頬の位置がわかる。目は青い色だったのか。顔立ちは、伯爵夫人に似た『少女』だ。
(さすがに絶世の美女に変わってることはなかったな)
女性だと一目でわかるようにはなったが、まあそれぐらいだ。可愛いけれど、美女ではない。体も華奢とは言えない肉づきだろう。
しかし、かつては肉の塊だったことを思えば、これは驚異的な変化だ。三年前と比べれば、体の幅は三分の一以下になっている。よくここまでの減量を成功させたものだ。
「冗談だ。会えて嬉しいよ……見違えたな、ティナ嬢」
「そう言っていただけて光栄ですが、本当はまだお会いするつもりはなかったのですよ」
紳士ぶってエスコートを申し出れば、彼女も遠慮がちに受けてくれる。
指先はきちんと形がわかるし、三年前のように腸詰と見間違えるほど太くもない。ならば何が問題なのかと待っていれば、彼女はふいと顔を俯かせた。
「だって、まだ目標よりも少し太いのです。ドレスで多少は誤魔化せますけど、まだお肉が残っていて」
「充分じゃないか? 前と比べたら別人のように痩せているのに、まだ減量が必要なのか?」
「前の私は忘れて下さい! あんな肉の塊と比べられても困ります!!」
「同一人物だろう」
カッと頬を紅潮させたティナは、慌てた様子で言い募ってくる。
……はて、手紙では落ち着いた印象だったのだが、実際に会った彼女は妙にあどけない仕草が多いように見える。歳相応と言えば、その通りなのだが。
「以前はアレでしたけれど……私も、女なのです。オスカー様」
「うん? もちろんそうだ。ティナ嬢は、俺の婚約者だからな」
「……ですから」
少し潤んだ青い目が、オスカーを見上げる。
絡んだ視線が、彼女の熱をこちらへ伝染すように。
「貴方には、一番きれいな私を見てもらいたいと思うのは……いけませんか?」
「あ」
――とすん、と。恋に落ちる音が聞こえた気がした。
……ああ、もしかして、伯爵家の人々は気付いていたのだろうか。ティナがとてもとても可愛い少女であると。
娘が狼に群がられることがないように、わざと太らせたりしたのだろうか。
(……だとしても、彼らのしたことは間違っていたし、ティナを悲しませたことは許さない)
何より――ティナの婚約者はオスカーだ。
重ねた手にもう片方の手も添えれば、ティナはわかりやすく慌ててくれる。
そうか、彼女がこういう反応をしてくれるのは、オスカーを男として意識してくれているからなのか。異性との触れ合いに照れている。理由さえわかれば、その仕草のなんと愛らしいことか。
「すまない。嫌だったら、手を振り払ってくれ」
「い、嫌ではありません。婚約者ですから」
「そうだな……ティナ嬢は本当に可愛い。俺は幸せ者だ」
「えっ!? オスカー様!?」
ますます顔を赤くして視線を乱す彼女が、たまらなく可愛らしい。
三年前のあの日、逃げ出さなくてよかった。肉の塊の話をちゃんと聞いてよかった。
ティナは普通の女の子だった。いや、最高に可愛い女の子だった。
「……だからティナ嬢、もう痩せなくて構わないぞ。これ以上痩せて外見まで美少女になってしまったら、悪い男が沢山寄ってくる。今のままで、充分すぎるほど可愛い」
「ダメです! 今の私では、まだオスカー様の隣には相応しくありません! 痩せただけの私と違い、貴方はますます素敵な男性になってしまったのですもの……」
「あー……俺なんかでいいなら、今すぐ結婚しようか」
もちろん、そんなことが許されるはずはないのだが。
彼女の柔らかい手が愛しくて、添えていた手をそっと引き寄せる。
薔薇の咲く美しい庭の中、抱き締めた彼女からはやはり、砂糖菓子のような甘い香りがした。