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G  作者: kintarowith
3/3

G 下

2週間ほど経った。

海斗はカズの病室に入った。

チャンピオンシップレースのトロフィーをそばに置いた。

「へっ、笑わせる」

「何してたんだ」

「お前と違って暇じゃないんだ」

「ベッドにいて何が暇じゃないんだか」

カズは病室越しに窓を見た。

そのカズをずっと見ていた海斗はベッドに座ると携帯を出した。

「俺、これに出る」

カズに携帯を差し出す。

WKC:World Kart Championship、世界カート選手権大会。

今年はフランスから南のコートダチュールに位置する、F1でももっとも難関と言われている市街地コース、モナコ。

カートの世界一を決めるとされるこのレースで出場した選手は無条件にF3でのテストドライバーのスポンサー決定権及びスーパーライセンスの獲得に向けた本格サポートが与えられる。

「九太・・・お前」

「俺は将来を決めた。鈴は箱車で行く。それなら俺はフォーミュラーで決めるんだ」

「そうか!お前にしちゃ偉いぞ!」

カズは笑いながら言う。

「そのかわり、条件がある」

カズが海斗を見る。

「条件?」

「まず一つは、決勝までのサポートは頼みたい」

「当たり前だ。今までそうやってきただろうが。それだけか?」

「もう一つだけある」

「もう一つ?」

「ああ、アンタにお願いする一番のお願いだ」

海斗は病室扉を見た。

「入って」

病室に入ったのは先ほどの従業員、そして楓だった。

「楓。俺の知り合いの子。今まで沢山世話になった大切な人だ」

楓は頭を下げる。

カズは楓を見たがまた海斗を見る。

「それで、どうした」

「彼女をカズが里親として迎えてほしい」

「は、はぁ?!」

カズや回りが驚いて海斗を見る。

「俺が、さ、里親って・・・本気か?」


―1か月前、ニュル24時間開始4時間前。

「俺今まで考えてたことがあるんだけど。今言って良いかな」

「いいよ。どうしたの?」

「ひとつ、提案があるんだ」

「提案?」

「楓、その・・・うちに来ないか?」

「えっ?」

「うちの家族にならないか?」

楓は黙り込んでしまった。

「急にごめん。でも俺、楓と一緒にいて考えたんだ。俺楓と一緒にいて、その、気持ちがなごむっていうか、前よりも生きているのに何か光みたいなのが入った感じがするんだ。楓はこれからずっと1人になるなら、せめて家族の一員として迎えたりできないかな、って。俺は分からないけどアイツ無愛想ぽいけど良いやつだし、従業員も皆良い人たちで、これから不自由なく暮らすこともできる、はず。だから・・・どうかな」

楓は少し黙っていたが返答は速かった。

「・・・今度施設の人に言っておくね」

「え?」

「でも急に来ても驚くだろうから、カズさんにも言っておいてくれる?」


「それで、か・・・」

「ああ。彼女も認めてくれた」

「別に今まで鈴見てきてんだし、あいつは暫くこっちには戻らないらしいし。1人くらい増えたって何の問題も無いだろ?」

海斗が言う。

カズは楓を見た。

「楓、とかいったな。あんた、・・・車は好きなのか?」

「えっ?」

楓は頭を上げる。

「それは、関係ないだろ!」

慌てたように海斗が言う。

「うるせぇ!関係ねぇことあるか!俺は彼女に聞いてるんだ」

「えっ・・・」

「車は好きかって聞いてるんだ」

楓は黙った。

「いいか。うちらの家はサーキットのど真ん中だ。部屋がピットレーンと直結しているから時にはガソリンやタイヤの焦げ臭い臭いが一日中続くんだ。それを耐えるだけじゃない、好きになって毎日過ごすんだ」

楓は黙ったままでいた。

「おい、せっかく来るってのになんでそんな変に気分を刺すようなつけ込みするんだよ!」

「黙ってろ!だいたいこれくらいのこと知らなくて家に住んでたらどうだ。ってかお前も最初のうちにこれくらいのこと言っておけ、バカ」

海斗は軽く舌打ちし、首を振り下を向かながら腰に手を当てた。

黙って、良いと言ってくれればよかったのに。

予想外の展開だった。

「どうだ?それくらい、車は好きか。好きになれるか」

海斗は横目で楓を見た。

楓は黙ったまま考えていたようだった。

どうしようもなかった。

が、しばらくして口を開き始めた。

「最初は、」

全員の視線が楓に集まる。

「最初は車が苦手でした。車だけじゃなくて、乗り物自体が苦手だったのかもしれない。でも考えてみると私は車がだめなのじゃなくて、自分で考えようと思っていなかったのが駄目だったのかもしれない。自分からさけてばっかりで、逃げていたのかも。でも私は海斗くんの車に乗っていて何かが違うと思った。最初の頃、車は単純に人を運ぶ道具の一つだとしか思ってなかった。でもそれは違うってわかった。海斗くんと一緒に車に乗ってると、いつのまにか運転している自分が夢中になっていたのに気付いたんです。それからいつも海斗くんと一緒にサーキットに来たり、周りで走る車を見ていたり、音とかガソリンやタイヤの焦げる臭いも、すごく胸がドキドキして、興奮したような気持ちになる。こんなに何かに夢中になったのは初めてかもしれない。だから海斗くんと一緒に車に乗ったり、テレビでレースを見たりしてても同じ気持ちを共有できる、そんな気がする」

全員が黙ってそれをじっと聞いていた。

「それじゃあ、問題ないと?」

カズが言うと楓は意を決したようにうなずいた。

2人がしばらく見合う。

カズはしばらく楓を見ていたが一息ついた。

「九太」

カズが呼ぶ。

海斗がカズを見る。

「まず俺は何をすればいいんだ?」

海斗は楓と互いを見合うと笑顔をこぼした。



楓が家に来てから、3か月ほど経った。

鈴は退院後、本格的にサーキットでのフレッシュマンのレースへの出場を続けていた。

それに合わせてオファーも増えていた。

他でのサーキット活動が忙しく、オータムリンクへ戻る機会も少なくなっていた。

カズと海斗は一度サーキット運営は従業員に任せ、WKCへの出場に向けてその準備を行っていた。

いつものコースではベストで38.536秒のタイムが出た。

速くなるほどGはさらに強くなる。

そして滑る。

曲がりきれないカーブも多くなる。

日のうちに3回ほど従業員を動員させて16台総勢のレースを行ったりした。

16位中12位からスタートすると5周で全て抜き去った。

毎日が練習の日々だった。

朝も朝食を6時に食べ終わってから7時に走り始める。

9時ごろにはレースを一度やり、ピットに戻り、結果を確認し、また走る。

12時にはお昼を食べ終えて1時に始めると同時にレースを行ってピットに戻り、結果を確認し、それからまた走る。

3時にはまたレースをする。

ピットに戻り、結果を確認する。

また走る。

5時には終えてから夕飯を食べ終えて風呂を終わらせるとフォーミュラーレースの映像を観る。

それから9時にはもうベッドで寝る。

これが海斗の毎日だった。

楓は新しい家からは近場の駅までカズが送り迎えをしていた。

学年の変わり目前の定期試験に向けて勤勉を進めていた。

たまに車を洗ったりコースを掃除したりを手伝ったりした。

それ以来、楓はちょっと気になり始めた。

最近になってWKCへの出場が近づくにつれて海斗の目が変わってるのだという。

その事を従業員やカズに言うが、それほど気にしていない様子だった。

でも、やっぱり何かがおかしいと感じる。

大会までは残り1か月を切ったある日の朝。

「海斗、届いたぞ」

大型のコンテナトラックが近づく。

海斗と従業員数人とカズが近づいた。

後ろを開ける。

真っ白に包装された大きなボディ、そばにはタイヤやエンジンの部品、燃料タンクなどがある。

「んじゃ、やるか!」

「おう!」

全員でそれを下すとガレージに運び、土台に置くと組み立てを始めた。

楓は猫を抱きながらベランダから下を覗いていた。

海斗が来たときはまだ小さく走り回ってじゃれ遊んでいた猫も、今は年を取り、おとなしくなって楓の胸の中で静かにしていた。

海斗のレースが近づくにつれてコースは暫く閉鎖の日が続いた。

海斗の家には来たにも、それ以来2人で勉強する日はほぼ無くなっていた。

同時に一緒に居る時間も。

勉強してても海斗と一緒に居たときとはちがって何か寂しいものがあった。

「楓!」

下から声がかかる。

楓が出てくる。

「何?」

「大会用のカートだ。見てろ」

海斗がボディの包装をひっぺ替えした。

新しいピカピカのボディ。

「オレンジ色だ」

「楓色だよ」

「えっ?」

「楓色。全員で頼んだんだ。オータムモータス代表色だ」

「へぇー」

「もちろん、楓の、な」

「そんな、わざわざ・・・」

楓はえへへ、と笑った。

組み立ては午前中全てを費やした。

午後の1時には走り始めた。

数周走ってさっそく叩きだしたタイムは37.277秒というものだった。

「同じ性能でもこんなに違うかねぇ・・・」

「九太!」

カズの呼び声がした。

ガレージ上から顔を出している。

「モナコ入りが決まったぞ!1週間後だ!」

「っっっよっし!!」

海斗は両手でガッツポーズを決めた。

家に戻り、パソコンを確認する。

WKCからの報告では、モナコに入ってから最初の2日間はフリー走行、次の2日間で予選を行い、次の日に決勝。

それから2日後に帰国する。

とはいえ、まだモナコのコースを理解しきれていない。

F1のオンボード映像などでどんなコースかをざっと把握したのみである。

だが、それくらいでも九太なら行ける、というのがカズの推測であるが。

それからはレース回数を増やしたりしながら練習量を更に高め、時には夜暗くになるまでなった。

車両は届いてから3日後に現地へ送られた。

出発前夜。

サーキットに残る従業員やスタッフに言葉を告げる。

夜。

楓は目が覚めるとトイレに向かった。

部屋に戻る前にのどが渇いたため台所へ行く。

冷蔵庫からスポーツドリンクを出すとコップに出した。

暗いリビング、ガラス窓へ向かうとサーキットを眺める。

実質は楓も留守番、ということになっている。

一週間、しばらく海斗と会えなくなるということだ。

人生が変わるようなこの約半年間、毎日のように海斗と一緒だった。

とはいえ、練習に明け暮れていた海斗と話す機会は最初よりも少なくなっていった。

特に最後の一週間は楓が起きて寝るまでの間、ずっと見ていないということもあるくらいだった。

サーキットを眺める。

最初は全く考えもしない、まさに異世界のようなものだったこの光景も今は見慣れたものであった。

傍のソファーに腰掛け、外を眺める。

「・・・?」

ホームストレートのピットで何かが動いている。

人影だ。

1人。

それが誰だか楓にはすぐに分かった。

玄関を出るとピットで海斗が空を仰いていた。

空には半月が輝きながらコースを照らしていた。

「海斗くん」

声をかける。

「楓。まだ起きてたんだ」

「ううん、ちょっと目が覚めちゃって」

海斗の横に並ぶ。

「この光景とはしばらくさらばだなって思ったら、なんか寂しいとこもあるもんだな」

「たった一週間でしょ?大丈夫、すぐ戻れるよ」

「うん・・・」

楓は2、3歩前に進み、背伸びをしながら深呼吸をした。

「楓」

海斗の呼びかけに楓が振り向く。

「なに?」

「あ・・・いや、なんでもない」

楓が不思議そうに笑う。

「私は短い間だったけど、海斗くんはここに8年くらいいるんでしょ?」

「ああ。毎日ずっとカートに乗って乗りまくってた。車にも。だからこのコースは今の俺の全てを育ててくれたようなものなんだ」

「そっか」

「小さいときは前も後ろもわかんなくてなぁ・・・。コースを周るだけでもおぼつかなくてさ」

「そう?カズさんが言うには最初に走った時から海斗くんには素質があったんだって、確信したって言ってたよ」

「アイツは何だってわかる。俺が初めてカートに乗った時から知ってるからよ。・・・でも明日からは世界だ」

「頑張ってね。私応援してる」

海斗は頷いた。

「今夜はゆっくり休んで、明日からに備えないと」

「ああ」

楓はそのまま家に向かって歩き始めた。

海斗がそれを視線で追っていった。

「あ・・・」

楓は家に戻ってしまう。

「か、楓」

楓がもう一度振り返った。

「どうしたの?」

「あ、あのさ。今更になってまたお願いがあるんだけど・・・」



次の日は午前6時に起きる。

従業員の1人によって駅前へと送られる。

そこから空港までの高速バスに乗り、揺られること2時間半ほど。

空港に着いた。

カズが振り向く。

「準備はいいか?」

カズは海斗を見る。

「九太」

海斗はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「んだよ」

「怖いんじゃないか?」

「怖いことあるか、バカ」

「行くぞ!」

「ああ!」

そしてカズが振り向く。

「楓」

自信に満ちた笑顔。

「このバカのサポート、頼むぞ」

「はいっ!」


「俺と・・・もし良かったら、俺と行かない、か?モナコへ」

この決断をしたのは楓を家へ招き入れるとき以来だった。

家族の一員である楓を置いては行きたくなかった。

それにもう一つ。

「その、お願いばっかりで本当にごめん。俺いっつも人に頼ってばっかりでしょうがないんだけど、でも、楓がいてくれたら、俺、絶対頑張れる気がする」

これが本心だった。

バカバカしい、と自分で思う。

だってそれは、海斗の勝手な考え方だと思った。

第一、楓には楓自信で忙しいことが沢山あったはずだった。

それでも。

楓と一緒に行きたかった。

だが楓の答えは前よりももっと速かった。

海斗が二言目を発する前に楓は海斗に抱きついた。

「か、楓??」

「・・・やったー!私も行って良いの?」

「あ、うん。監督とクルーのほかで、サポート役ってことで・・・」

「やったー!嬉しい!私外国行くの生まれて初めてだから」

「そ、そうなんだ・・・じゃ、来てくれる?」

「もちろん!嬉しい・・・」

さらに強く抱きつく。

楓が一緒に来てくれる。

それも嬉しかった。

だが、その時はそれ以上に楓の一回り小さくて生暖かく柔らかい体が何とも言えなく心地よかった。


カズがまた振り返る。

「よし、行くぞ!」

挿絵(By みてみん)


フランスのコートダジュール空港に着いた3人を迎えたのは、なんとリムジンであった。

それからしばらく乗る事30分ほどしてモナコのモンテカルロにあるホテル前で止められた。

楓は自分の服装がこんなものに乗るのに合わないからと少し残念がっていた。

ホテルでは1人1人が個室で取られていた。

ちなみに同ホテルでは他のWKCのレーサーも泊まっている。

今年の出場者の中で日本人は海斗ただ一人だった。

逆に多かったのはドイツ人、イタリア人、カナダ人であり、そのほかにも沢山いた。

モンテカルロ市街地はレースに向けて仕切りが付けられ始めた。

その日の夜にはホテルの大宴会場で大会に先駆けて盛大なパーティーが行われた。

舞台上では参戦者一人一人の紹介も行われ、東洋人唯一の海斗もその一人だった。

その日はそれで終わった。

パーティの中、海斗は一人外へと出た。

楓が後ろ姿を見ると、すぐさま追っていった。

「海斗くん」

海斗はホテル階段脇の柵に寄り掛かって外を眺めていたが楓に気づく。

「楓」

楓も横に並んだ。

「綺麗だね」

「うん」

2人は並んで夜景から見える地中海の水平線を眺めた。

「さぁこれから1週間、大変になるな・・・」

楓はふふっと笑った。

「楓には悪いな、唐突なのに来てもらっちゃって。学校とかも忙しいだろうに」

「いいの。だって私、海外来たの初めてだったから。誘ってくれてすごくうれしかった」

「そっか。そりゃ良かった」

「忙しくなるなら、今夜は楽しまなきゃね」

「まぁ、そうだな」

海斗は軽く笑った。

大会前のパーティが終わると全員はそれぞれの部屋へと戻っていった。

海斗も自室の前まで戻った。

「明日から頑張ってね。応援してるから」

「ありがとう。絶対優勝するよ。そして将来は母さんみたいなフォーミュラーレーサーになるんだ」

「そのためにもここにいるんだものね。とにかく頑張って!」

「ああ」

そして別れた。

海斗は暫くパソコンでコースや車を確認していた。

海斗のカート、車も。

特注の車であるからこそ、また何か特別な感じさせるものがある。

その時は最初こそ大丈夫だった気がした。

不意に思い出したのは、母の薫の事だった。

母さんみたいなフォーミュラーレーサーに・・・。

海斗はネットで母の名前を検索した。

『薫 事故』―。

思い切って検索する。

「・・・!」

『20XX年 第3戦富士スピードウェイ35号車事故報告』


次の日はフリー走行。

海斗はホテルの自室でレーシングスーツに着替えてから部屋を出る。

自分のピットを確認するとガレージ内に入る。

既に来ていた従業員がいた。

そして車も。

カズはガレージ内で手元のモニターに目を通していたが海斗に気づいた。

不意に表情が変わったが暫くして合図をした。

「行けるか」

海斗は頷いた。

ヘルメットを被りカートに跨った。

F1の名コースの一つ。

それに今、海斗は初めて最初の一歩を踏み出そうとしていた。

ピットを抜ける。

最初のコーナーはスタート直後の右、それから坂を駆け上がっていくと緩い左へのカーブが続くが、それを抜けたと同時に切り替えす間も与えない直進から左へ。

それから坂を下っていき左へのヘアピン。

それを抜け少しするとコース中で一番きつい左ヘアピンに入る。

これを抜け、しばらくして右へ2つ曲がり、トンネルへ。

ここで全開状態をキープしたままトンネルを抜け、坂を下ってからその先には唐突なシケイン。

左右左と切り返す。

それからしばらく直進してから左へ緩く曲がってからシケインに入る。

左から入り、右へ。

そこから左へ切り返す際のスピードがきわどい。

それから進んで先端の右へのヘアピン。

それを抜けると最後のピット入口を過ぎた最後のホームストレート前の出っ張りを右へよけていく。

1周3.34km、コーナー数は19。

F1レースを含めると世界三大レースの一つでも数えられている。

挿絵(By みてみん)

事は3周して海斗が戻ってきたところだった。

「あれ?もう戻ってきた」

タイムは2分台、速くて2分を切るほどだった。

お世辞にも速いとは言えない。

恐らく初めてのコースに何回かスピンしたに違いないが、ピットに戻った海斗の様子がおかしかった。

海斗は勝手に一人で車をそのままガレージに入れてしまうとそのまま降りてしまった。

カズが近寄る。

だが海斗はヘルメットを取り、その場に置く。

暫く2人は立ち話を続けていたが、その口調は激しい口論へと変わり、やがて海斗だけガレージを出てしまった。

楓が近づく。

「どうしたんですか?」

楓に対するカズの答えに驚いた。

「怯えてる」

「・・・え?」

「あいつ怯えてる。ただこんなことは今までほとんどないんだ。このコースは本当に難しい。でもそれでもアイツらしくない。普通なら滑っても走り続けるのがアイツなんだがな。まさかあんなにまでなるなんてな・・・」

「どうするんですか?」

「様子を見るしかない。あのまま無理やり乗せたって仕方ないしな・・・」

「私が言ってみますか?」

「いや、止めておいた方がいい」

止めておいた方がいい、その言葉の意味に何か引っかかるものがあったが楓は何も言わなかった。

「まぁ、楓は好きにしてな」

「はい」

楓はしばらくコースを眺めていたが、やがてガレージを抜けるとホテルに戻った。


家から持ち込んできた教材をテーブルに出す。

2時間ほどやってから食堂に行った。

食事はバイキングになっている。

ハンバーグとパンとサラダをよそって運んだ。

その時に窓際のテーブルで海斗が座っているのに気付いた。

楓が近づく。

「海斗くん!」

海斗は見上げる。

楓の笑顔が消えた。

その海斗の顔は笑顔は無く、まるで変なものを見るような目で楓を見ていた。

「あ、の・・・一緒に、いい?」

海斗は黙って向かいの食器を引いた。

「ありがとう」

楓が座る。

しばらく食べているが、その間会話は一切無かった。

むしろ楓から話しかける勇気さえ一つもなかった。

海斗は険しい顔を少しも変えないままでただ窓から眼下のコースをじっと見ていた。

一通り食べ終える。

「・・・ごちそうさま」

小声でつぶやく。

海斗を見る。

海斗は相変わらずその体勢は変わらない。

楓は意を決して詰まりかかった声を出す。

「あの、今日の夜とか・・・、時間ある、かな?」

海斗は表情を変えないままゆっくりと楓に視線を移した。

睨まれている。

思わず視線を下に逸らした。

じっとして、しばらくしてから見上げてみた。

まだ見ていた。

「あっ・・・」

背筋に悪寒が走った。

とたんに楓は食べ終えたおぼんを持つと、席を立った。

さっさと片付けると振り返ることなく食堂を出た。

自室に戻って勉強を始めるが、集中できない。

ペンが、動かない。

さっきの海斗の表情がまるでフラッシュバックするように頭に浮かぶ。

まるで目つきが違う。

表情も。

何とも言えない気持ち、そのままベッドに飛び込んだ。

あれはいつもの海斗じゃない。

その日のフリーランは午前中の3周のみで海斗が走ることは無く、その日はそれからは2人が会うことは無かった。

次の日の朝。

この日もフリーラン2日目となる。

朝食はルームサービスで頼んだ。

丁度テレビではWKCのフリー走行が中継でやっている。

すぐそこでやっているのに。

ホテルを出て歩けばすぐピットに入って全員と一緒に見られるのに。

楓は自室から出なかった。

前日の夜にカズから一言。

「しばらく関わらない方がいい」

今になってその言葉の意味が分かる気がする。

今の海斗の状況はカズや他でも扱いにくいらしい。

昨日の昼ごはんの時から分かっていた。

窓の下に広がる市街地。

その奥には地中海。

クルーザーがいくつも停泊していた。

テレビで海斗の車がアップされる。

変だなと思った。

なぜ私は海斗にあんな目をされて、変に睨まれないといけないのか。

上手くいかないのは自分のせいじゃないのか。

考えてるうちに怒りのようなむっとしたような感じが沸き起こる。

改めて机に向かう。

2時間ほどして気が収まってからホテルを出た。

海斗の記録は1,49,534

だが、未だに本人は納得いってないらしい。

次の日からは予選となる。

今日のフリーは17:00で終わる。

30分前に楓がピットに来たが、海斗はまだ走っていた。

時間になるとピットにカートが戻ってくる。

海斗も戻ってきた。

その日のフリーでは上記のタイムを切るのは出なかった。

海斗が降りてくる。

ヘルメットとグローブを脱ぎ捨てるように置く。

ガレージが閉められる間に記録を確認していた。

楓は弁当を用意していた。

ルームサービスの物を詰めていた。

ガレージ出口に海斗が戻ってくる。

「お疲れ様。これ、食べて」

楓が差し出すと海斗はよけた。

「どいて」

そのまま出口に向かう。

胸の奥に何かが突き刺さるようなものが残った。

「・・・どうして」

海斗は立ち止まると振り返った。

楓は怒り、というより悲しさのようなものが同時に沸くのを感じる。

「海斗くん、ここ来てから変だよ。誰ともしゃべらないし、怖い目するし、ちょっと何か話そうとするだけで睨むし。私、なんでここに来たの?」

楓が頭を振り向く。

海斗の顔は前からその形相を全く変わらなかった。

「それだけじゃない。このレースが終わってからもずっとそうなの?それなら私、ここに来なきゃよかった。海斗くんと一緒に住まなきゃよかった。海斗くんと会わなきゃよかった!」

海斗はただ黙っていた。

「なんで・・・」

しばらく楓を見ていたが、とたんに普通の顔に戻った。

見るのは久しぶりな感じがする。

「ごめん」

海斗が答える。

「悪い。でも今だけはそっとさせてくれ」

そうだけ言い残すとまた出口に戻る。

楓は自室に戻ると夕飯は作った弁当を食べ始めた。

そっとさせて。

もしかしたら今の海斗の状況ではこれが精一杯なのかもしれない。

それならそっとしておこう。

カズさんも言っていた。


明日の最初の予選、それでまずは上位8位が決まる。

いわば勝ち残りのようなものである。

翌朝は9時に練習走行が始まった。

楓もピットに行ってみた。

カート本体は既にガレージの外に出されていたが、ガレージの中では海斗がイヤホンをして下を向きながらずっといる。

楓がそれを見ていた。

「さっきからずっとだよ。1時間くらい経つかな?」

従業員の1人が答える。

「1時間もずっとですか?」

「うん。でも意識はあるみたいだよ。それにほら、リズムを取ってる」

見ると足や膝が細かに動いている。

「本番前は全てを忘れるんだ、九太くんはね。それで時間になった時に出る。まぁそれがあの子なりなやり方だよ」

楓はもう一度海斗を見た。

ずっとしたを向いたままでいる。

「準備完了!」

「よし。楓ちゃん、九太くんを起こしてくれるか」

「あ、はい!」

楓は海斗に近づくと肩を叩いた。

顔を上げる。

「準備が、あ・・・」

楓が言う前に海斗はイヤホンを取って車へ近づく。

ヘルメットとグローブを取ると被って乗り込んだ。

あっという間。

気が付けば、周りにはクルーやカズしか残っていなかった。

楓はしばらくしてまた自室に戻っていった。

テレビを付ける。

予選が始まった。

優勝候補とされているのはドイツ人のレーサーとフランス人レーサー、それにブラジル人のレーサーだった。

海斗はあまり挙げられていない。

しばらく予選が続いて中盤までくると、上位では1分45秒台に乗せてくる。

その中でも海斗の調子は全く変わらなかった。

しばらく予選が続いていたが、不意に海斗の車は走行を中断してピットに戻った。

タイムは1,48,373。

カメラでアップされる海斗はヘルメットやグローブを付けたまま、閉まっているガレージ側を強く殴りつけているそれを周りの従業員が宥めている。

離れたところでカズが海斗の行動をただじっと見ていた。

その海斗の姿を見ると、まるで後悔に近い気持になった。

もう会いたくない。

でもその前に考える。

自分はサポートという形で来ているということだ。

海斗はそのまま戻ってしまった。

後で聞くところによると、あれは海斗の限界のタイムであったため自主的に自分のタイムのみ残しておいたという。

しばらく部屋にいたが、やがて携帯に電話がかかった。

相手はオータムリンク。

画面をスライドする。

「もしもし・・・?」

「もしもし?楓ちゃん?」

「その声は・・・鈴ちゃん?」

「えへへー、気になって電話しちゃったー。元気でやってるかなーなんて思って」

「そうなんだ。こっちは元気だよ。鈴ちゃんは?」

「こっちも元気よ。いろんなところから声がかかるけど一つに絞るのが迷うのなんのって・・・」

電話の奥で鈴の疲れた感じの声と息をつく音が聞こえた。

「鈴ちゃん」

「なに?」

「海斗、九太くんのこと、まだ好き?」

暫く何も返ってこなかったが。

「好きじゃない・・・って言ったらウソになるかな」

「そっか」

「でももういいの。あいつはきっと私が一緒に居られる相手じゃない。それに・・・」

「・・・なに?」

「多分、あいつは楓ちゃんの方が気があると思うよ」

「私なんかが?」

「あなただからだよ。きっと楓ちゃんはあいつにとって一番の支えになってるはず」

「そうかな・・・」

「楓ちゃん、あいつの事好きでしょ」

「え!?」

唐突な質問に素っ頓狂な声を上げた。

電話の奥で笑う声がした。

「その声の裏返り方は、やっぱりー」

「い、いや、そんなんじゃなくて・・・」

「あはは、楓ちゃんにも可愛いとこあるじゃない」

楓はなんとも言えない気持ちになってベッドに横になった。

「そりゃあ、レーサーだし、カッコイイし、良い物件だよね~」

楓は黙り込んだ。

確かに海斗の事は好きなのかもしれない。

でも、今は分からない。

あの睨みつける海斗の顔、未だに忘れられない。

「楓ちゃん」

鈴の声がした。

「なに?」

「そっちに居ててもきっとあいつが何かに行き詰ったり困った事が起きたりするかもしれない。その時にはしっかりサポートしてあげてよ」

そうか。

そういえば、サポートとして来てたんだ。

「うん。私に出来ることなら、頑張る」

楓が答えた。

「じゃー、そっちもこっちもいろいろと忙しいことだろうし。またね」

「うん。また」

結果、予選終了し海斗は12番手、明日の予選セッションの出場権は得られなかった。

その日の海斗は恐らくかなりな気の立ち方がひどいだろうと考えて関わるのはよそうと考えた楓だったが案の定、勉強中の楓に海斗からメールが来た。

短い文面で一つ。

「後でガレージに来て」

夕食を終えて時間は夜の22:00近くだった。

楓がピットのガレージに入る。

辺りを見回す。

誰もいない・・・?

「楓」

すぐ右わきから声がした。

ドア脇に海斗がテーブルに座っていた。

思わずドキッとした。

「びっくりした。遅れちゃったかな」

海斗が立ち上がる。

楓より頭一つ半分大きい体が楓に近づく。

「どうしたの?海斗くん。なんか、怖い顔。海斗くんじゃないみたい」

「・・・言えよ、俺に」

「えっ?」

唐突な言葉を掛けに驚く。

海斗が近づくにつれて楓が後ずさりをする。

「言うんだよ」

「何を?」

「お前は予選を途中で投げ出すようなサイテー野郎だって」

「そんなこと・・・」

「思ってるだろ?怖がりで、怯えてばっかで、お前みたいなチキンにレースは無理だって」

「そんなこと思ってないよ」

楓は鞄を前に抱いた。

ガレージシャッターにまで楓を追い詰める。

「海斗くん、おかしい。いつもの海斗くんじゃないよ!」

シャッターに追い込むと、両手でシャッターを叩き、楓の体の周りを抑えた。

一瞬身を縮める。

「そうだ!おかしいよ!怖ぇよ!怖くてたまらないさ!!だから逃げたんだよ!!」

海斗が怒鳴った。

荒い息遣い。

どうすればいいのか・・・何も思いつかない。

『きっとあいつが何かに行き詰ったり困った事が起きたりするかもしれない。その時にはしっかりサポートしてあげてよ』

鈴の言葉を思い出す。

「楓・・・俺はいったい、どうすれば・・・」

泣きそうにも思える声で言う海斗に意を決した楓は空いた右手で海斗の頬を平手で殴った。

バシッ

音がシャッター内で反響する。

「あ・・・」

反動でフラフラとする海斗の首に両腕を回し、顔を近づけた。

「・・・ごめんね。私何もできなかった。海斗くんのサポートのためにせっかく来たのに、今まで何もできなかった。ひどいことも言っちゃって。最低なのは私だよね。サポート失格だよね。足手まといだよね・・・」

海斗が気付くと楓は静かに嗚咽をこらえながら涙を流している。

「本当に、ごめんね・・・」

海斗は胸が締め付けられる痛みに襲われた。

「でもね、誰にだってあるの。海斗くんだけじゃない。私にだって時々胸の中で何かが張り裂けそうになったりして、どうしようも無いことが沢山ある。でも大丈夫。海斗くんは一人じゃないから。いつでも誰かに支えられて生きているから、ね」

しばらくいたが、やがて海斗が体を起こした。

久しぶりに見る柔らかい笑み。

「ありがとう。落ち着いた」

楓は息をつくと同じように笑みを浮かべた。

「こんな遅くにごめん。先戻ってて。俺は少しいるから」

一緒にいてあげたいと思ったが、一人で考える時間を与える方が良いと思った。

「分かった。あ、待って」

楓は右手首に付けていた赤い紐のようなものを噛み切った。

「海斗くん、どっち効き?」

「右だけど・・・」

楓は海斗の右腕を取ると、手首にその赤い紐を結びつけた。

「小さい頃に好きだった本のしおり。私ね、いつもこれに助けられてたの。どんなに苦しいこととかあっても、これを見てまた頑張らなきゃって」

「そんな大切なものを・・・」

「いいの。今は海斗くんが大事だよ。私からはこれ以外何もできないけど、これが海斗くんのお守りになってほしい。これからレースの時とかに、どうしようもなく苦しくなったりしたら、これを見て。そして思い出して、私たちは一人じゃないの」


翌日は次のセッションでの予選だった。

勿論、海斗はこの日だけは走らなかった。

それでもピットで画面を見つめながら各車の走りを一日中じっと見ていた。

その日の夜。

WKCの貸切のクルーザーで決勝前のパーティーがあり、海斗は今までの無愛想で狂っていたような態度のお詫びに、といって楓を食事に誘った。

楓は水色の清楚なワンピースに対し、海斗は新調したスーツを着ていた。

「何それ」

「変かな・・・」

「ううん。かっこいいよ」

「ありがとう」

右手首には赤い紐が付いていた。

デッキ横のテーブル。

前菜の野菜から地中海で獲れた魚介料理などが並ぶ。

楓には新鮮な料理が並んだが、海斗には全て火の通ったものが渡った。

レース前に食あたりになることを避けることだった。

成人でもお酒も飲めない。

しばらくすると、おとなしいtwerkのポップな音楽が流れ始める。

周りはダンスを始める人が増えてくる。

「ねぇ」

楓が立つと、海斗の手を引いた。

「いや、俺踊れねぇよ」

「いいから、私のやるようにやって。自然に音楽に合わせて体を揺らすだけ。いい?」

楓に合わせて海斗が同じように体を揺らす。

柔らかい体、地中海の潮の香りと一緒に優しいシャンプーの匂いがする。

楓が見上げる。

「どう?」

海斗が鼻で笑った。

海斗は手を引いてテーブルに戻った。

「やっぱりできないよ」

「海斗くん出来てたよ」

「俺はいいって」

楓が笑うとモナコの夜景を眺めた。

「綺麗だね」

「ああ」

「こんなの日本に戻ったら見られないかもね」

そう言われるとちょっと寂しいものがある。

「まぁあと2日あるから」

「そうね」


街に戻ると21:00近くになった。

これから全員はバラバラに散った。

街に入って繰り出す者もいれば、そのままホテルに戻る者もいる。

海斗は一度ガレージに向かった。

楓も一緒だった。

車はカバーを被っている。

それを一度引き剥がした。

「明日だね」

「うん」

「緊張してる?」

「意外に来たときよりも落ち着いてる」

海斗は近くのテーブルに腰掛けた。

「楓は先行ってていいよ」

「私もここに居ていい?」

「・・・ああ」

楓は近くの椅子に腰かけた。

鞄をテーブルに置く。

「楽しかった」

「うん」

「明日は頑張ってね!きっと海斗くんなら勝てるよ」

海斗は返答に迷った。

12位というのは後ろの方だった。

そして先を走るのは海斗よりも速いタイムで走った欧米列強のレーサー陣営。

でも、ここで素直な返答をして楓を落ち込ませるよりは明るくさせたい。

「ああ!もちろんだ」

答える。

楓は一度立つとカートに近づいた。

「綺麗な色」

「そりゃ、カエデ(・・・)色だからな。楓と同じように綺麗だ」

楓は恥ずかしそうに笑う。

「上手い」

「いや、本当に」

海斗が立つとヘルメットを取った。

楓の後ろに回ると上からそっと被せた。

紐は付けない。

グローブも渡すと楓はそれを付けてみる。

「こんな感じなんだ・・・」

「乗ってみてもいいよ」

楓はカートの横に立った。

「乗るときは、ボディを跨いで最初にシートに立って、そこにお尻を付けてから右足を右ペダル、左足を左に・・・」

海斗が指で指しながら座らせてみる。

「ステアリングは10時と2時の方角を握る」

楓がそっと握った。

「どう?」

「地面が近い・・・。こんな状態で走るの?」

「ああ。速いと140km/h。乗用車の少し早いくらいと思われがちだけど、これは体感速度だと2倍の280km/h。つまり楓からすれば普通の乗用車で280km/hの速度で運転しているのと同じってこと。かな」

「そんなに速いんだ。初めて知った。怖くない?」

海斗は笑って両肩を上げた。

「そっか・・・海斗くんってこんな感じなんだ・・・」

「降りるときはさっきの逆で・・・」

楓はシートに立ち、ボディを跨いで降りた。

グローブを外してヘルメットを取って渡した。

海斗は慣れた手つきでヘルメットを被り、グローブをしてから同じ手順でカートに乗り込む。

「最初に乗った時、俺は怖いとは感じなかった。むしろ気持ちが良かったんだ。100km/hで横切っていく世界が俺にとっては憧れでもあったし、これが俺の求めているものなんだって。だからここに来るまで今までそんなことが全くなかった。自分でも驚いてるくらいだ」

「そう・・・」

海斗はステアリングを握り目を瞑る。

「でもいつもそう。こうしてステアを握って走ると、今までの事は全て忘れられる。そして夢中になれるんだ」

しばらく瞑ってから片手でアイガードを下した。

モナコのコースが戻ってくる。

直角、ヘアピン、ストレート、シケイン・・・。

全てを走りきってまた我に戻る。

横を見る。

楓が見下ろしていた。

「悪い」

海斗がシートを立って降りる。

「ちょっと経ってた?」

「ううん」

「あ、そうか・・・」

海斗はアイガードを上げてヘルメットを取り、グローブも取るとまた戻した。

「正直俺明日はどこまで頑張れるかは分からない。でもここまで来れたって事は事実だ。俺はもうあきらめない。明日は攻めて攻めまくる。そして上を目指す」

「うん。応援してるね」

「ああ、頼む」

2人はカートにカバーをかぶせてからガレージを出てホテルに入り、それぞれ分かれた。

多分海斗はああ見えても多少は緊張しているのかもしれない。

さっき、ハンドルを握ってからしばらく黙っていた。

さっきは否定していたけど嘘だった。

本当は2分ほど沈黙していた。

でも多分、あの中でモナコを走ったんだろう。

そう考えた。


海斗は自室に戻るとスーツを脱ぎ、寝間着に着替えてそのままベッドの中へ入った。

明日はきっと大丈夫。

俺には応援してくれる奴がいる。

だから、きっと。

大丈夫だ。

そう考えながら目を閉じた。

それからどれくらい経ったか、分からないが暫くして騒音が聞こえてきた。

大勢の歓声。

そして。

「海斗・・・海斗!」

海斗は目を覚ました。

「・・・あれ?」

目の前には薫の姿が。

「母さん・・・?」

「ほら、出番よ。私たちで」

「あ、うん・・・」

海斗は立ち上がる。

薫について行き、ガレージを出ると眩い光が包みこんだ。

目の前が晴れると海斗はフォーミュラーカーに乗っていた。

そうか。

自分はもうそうだったんだ。

今フォーミュラーレーサーとして全国を走り回り、母と並んで走る。

そんな人生だったんだ。

そしてここは、富士スピードウェイ。

海斗は薫、35号車の後ろを追走していた。

親子走りは有名なもの。

ホームストレートに入る。

海斗は薫の後ろからスリップストリームの力を借りて加速していく。

目と鼻の先まで近づくと右へと寄り、並列になった。

横の薫を見る。

薫も海斗を見た。

母さん、俺はここまで成れたよ・・・。

薫がヘルメットの奥で笑った気がした。

インを差したからにはブレーキで勝負だ。

海斗はギリギリまで遅らせてブレーキングを始めた。

薫の車が横から前へと飛び込んだ。

タイミングが早すぎたか。

やっぱり母さんは速い・・・。

ただ、それもほんの0.1秒よぎった考えであり、即座にそれは消えた。

薫の車は減速しないまま第一コーナーを突破したのだ。

「あ・・・」

そのまま速度を落とさないまま車は右へと寄ったが、タイヤバーンへと激突すると一瞬宙に浮いたかと思えば回転しながら地面に叩きつけられた。

「母さん!」

気が付けば海斗はその場を目の前に立っていた。

車に乗っていたのに、でも今はそんなことは頭になかった。

海斗は車に近づいた。

原型を亡くし、黒ずんだ塊にも思えるほど崩壊した車のコックピットには人影は無く、外に垂れた血の跡だけが残っていた。

「母さん・・・?」

「海斗」

不意に後ろから声がして海斗はすぐさま後ろを見た。

薫が立っている。

「母さん。・・・これはどういう」

「あなたはまだレーサーになれない」

「・・・えっ?」

海斗が声を漏らす。

「あなたはまだ恐れている。自分がこうなるのを」

海斗はもう一度車を見た。

周りではマーシャルが駆け付け、周りを囲み始めた。

「でも、俺は―」

その途端、急に薫の手が海斗の首を掴んだ。

「うっ!」

海斗の首はどんどんと絞まっていく。

「か、母さん・・・」

「あなたに、私の痛みが分かる?」

とたんに薫の顔に所々に傷が裂け、と首に大きな切り傷が裂け始め、そこから大量の血が溢れだしてきたと同時に服が血の褐色で染まりはじめた。

海斗は恐怖に顔をうずめた。

薫の体が変形し始める。

「は・・・か、体が・・・」

薫の顔はやがて傷で埋まる。

「お前に、この痛みが、分かるか!」

海斗は目をギュッと閉じた。

「や・・・」

力を振り絞る。

「やめろー!!」

海斗が飛び起きる。

気が付けばホテルのベッドにいた。

荒く呼吸を繰り返す。

横を見るとパソコンが開いていた。

『20XX年 第3戦富士スピードウェイ35号車事故報告』の画面が。

ハッとする。

気が付けば海斗はパソコンを叩きつけていた。

画面は大きくひび割れ、何も映っていなかった。

「母さん・・・どうして・・・」

声を漏らすと静かにむせび泣いた。


暫くして22:30頃。

楓は勉強も大詰めにそろそろ寝ようとした時だった。

部屋のブザーが鳴った。

ルームサービスは頼んだ覚えがない。

変だな、と頭を傾げながらドアを開ける。

海斗が立っていた。

「海斗くん、どうしたの?」

海斗の表情がおかしい。

それは昨日やこの間のような険しく恐怖を感じる形相とは違った。

ただ、何かに怯えているような顔。

それもまるで子供のように。

海斗から出た答え。

「悪い。俺、やっぱり怖い」

海斗は怯えているんだ。

気付けば楓は海斗を胸に抱きしめていた。

「そうだよね・・・怖いよね・・・」

楓は海斗を部屋の中に引き入れた。


薫の事故は、ホームストレートを270km/h以上の高速域状態でコース外壁に激突したのが死亡への決定的なものだった。

最初にタイヤバーンへ衝突した際、飛散した部品やタイヤの衝撃でヘルメットが割れて顔面を直撃し、加えて顎紐が切りつけたため表面上、薫の首が潰される形となった。

コックピットは血と体液で入り混じった惨状となり、薫はハンドルを握ったまま硬直していた。

事故原因は報告書内でもはっきりとはされておらず、リアブレーキのシステム不具合や、ブレーキペダルと油圧制御に問題が発生したという件、思いのほか加熱したブレーキの液圧が原因でペーパーロックが発生したとも言われている。

ベッドで足を折って縮まるように座る海斗を見る。

「今までこんな事無かったのに」

海斗が言う。

「ただひたすら突っ走ることだけだったのに。最初の時から、いつでも全開で走ること。いつもそうだった。でも鈴が事故って、カズが事故って、また鈴の親の話も聞いたし。俺の母さんだって・・・。今更怖いんだ。怖くなったんだ。俺もいつかああなるのかなって」

海斗はしきりに右手首に付いている赤い栞の紐を触っている。

楓はしばらく考える。

サポート役として海斗に何をしてあげればいいのか。

暫く沈黙した。

「私ね」

楓が口を開いた。

海斗は楓を見た。

「今朝からずっと考えてたんだけど。なんで海斗くんの事打ったりできたのかなって。正直怖くてたまらなかったのに、なんでだろうって。それで思い出したんだ。最初に海斗くんと出会って一緒に勉強始めたとき、すごくうれしかったってこと。だってこんなに新鮮な気持ちで楽しく勉強する人他に居ないんだもの。一緒にいると、私も頑張ろうって勇気が出たの。私ね、津波で親も家も無くなってそれからずっと1人だった。それからはいつたっても1人で生きていくものだと、そう思っていた。でも、何か違うと思うの。私がここまで生きてこれたのは周りに何かの支えがあったと思う。だから私考えたの。人間だれしもが1人で生きているわけじゃないって。きっと近くに何かの支えになってる人がいるはずだから。だからあの時も同じなんだ。海斗くんが戦っているなら、私も一緒にいる」

「楓・・・」

楓は海斗を見た。

「忘れないで。私たちいつでもたった一人で戦っているわけじゃないから」

楓は少し考えてからあっ、と思いついた。

「本、読んであげようか」

「本?」

楓は鞄から一冊の本を出すと海斗の横で開いた。

赤いメガネを掛けた。

そういえば、楓は勉強の時などはメガネをしていたのに気が付かなかった。

「楓、目悪いのか?」

「うん、まぁね。左右で0.1くらい」

「そっか」

「海斗くんは目悪くない?」

「ぜんぜん、むしろ悪くなるのがちょっと怖いくらい」

「そっか。いいなぁ・・・。あ、でもレーサーだからやっぱり目は大切だよね」

「ああ、そうかも」

「じゃあ、海斗くんは横になって、目瞑っててもいいよ。私が読んでてあげる」

「あはは。そこまで・・・いや、それじゃあ甘えさせてもらおうかな」

海斗は横になって足を延ばした。

楓は本を開くと綺麗で透き通った声で読み始める。

そういえば、2人が出会ったきっかけも本だった。

そう思いながら5分~10分、15分と読み進んでいく中で。

「・・・ん?」

「どうしたの?」

「一つ聞いていい?」

「うん。分からないところある?」

「その、接吻ってなに?」

接吻、か・・・。

「海斗くん、キスって分かる?」

「ああ、分かるよ。キスのこと?」

「そう」

「そっか・・・。分かった」

楓は読み進めようとしたが一旦指で本を挟んだ。

「海斗くん、キスしたことある?」

「まさか。俺は生まれてからずっと車にしか乗ってないから」

「そっか・・・」

「楓は?」

「私も無いよ。これはね、大切な人としかしちゃいけないの」

「大切な人?」

「うん、誰とでもする人もいるけど、あんなのはよくない。もっとね、心から大切に想ってる人にだけしてあげなきゃ」

「心から大切に想ってる人・・・」

「私もまだした事がないからあまり言えないんだけど、好きな人とお互いの愛を確かめ合うための行為なの」

海斗はちょっと考えていた。

「好きな人ってどんなものなんだろう」

「それは・・・この人とずっと一緒に居たいとか、近くにいるだけで嬉しかったり。そういう人」

海斗は楓をじっと見つめた。

それはだって・・・。

はっとすると、互いに離れた。

海斗はまた横になる。

「・・・一生キスとか出来ないまま、死んじゃったら、どうしようかな」

「そんな事考えなくても」

「でも俺とかアイツとか今までずっと命掛けてきたものだからさ」

レースは少なからず命を懸けるものの一つである。

鉄の塊をコンクリートの道で飛ばして競争する。

これほどの自殺行為に等しいものは無い。

つまり、いつ死ぬか分からない。

「俺は多分いずれレースと一緒に死ぬのかもしれない。きっと楓や俺と近い世代の中では俺はきっと早死にするんだろうな」

海斗は冗談っぽく笑った。

沈黙。

海斗は楓を見る。

楓は冗談じゃない、と訴えんばかりの悲しい目で海斗を見ている。

「いや、まぁ冗談としてさ」

海斗はまた頭を戻す。

冗談じゃないかもしれない。

140km/h=体感速度280km/hの世界。

そしてその接近戦。

それが耐えられるか分からない。

『お前に、この痛みが、分かるか!』

薫の叫ぶ声が脳裏に浮かんだ。

分からない。

でも、だから怖かった。

今まではこんな気持ちは全くなかった。

だけど、今だけは。

今だけは怖かった。

体を少し縮める。

「俺も、母さんみたいに死ぬのかな・・・」

呟いたのがうっかり楓の耳に入っていた。

「あ・・・」

楓が海斗の目の前にいる。

「そうだよね。海斗くんは命掛けてるんだよね」

楓は本を置くと海斗に近づいた。

サポートとして。

家族として。

私から働きかけないと。

更に近づく。

「いい?これは海斗くんが明日死ぬとかじゃない。明日頑張って無事にゴールを迎えられるように、私からの、おまじない」

「おまじない?」

「そう、おまじない。いい?」

「う、うん・・・どうすればいい?」

「目、瞑って」

「それだけ?」

「うん」

海斗は言われた通り、目を閉じた。

数秒して、気配が近づいてきた。

熱が、吐息が、感じ取れる所まで近づいてくる。

薄く目を開けると、視界いっぱいに互いの顔が映った。

唇に柔らかい感触。

その途端だった。

海斗は気持ちがだんだんと和らぐのを感じた。

頭が軽くなる、長い間背中に背負っていた重い荷が降りたような、そんな感覚だった。

今までの恐怖がまるで嘘のように消え去った。

それが十数秒。

そして離れた。

驚きの表情をする。

2人が離れた。

「・・・ごめん。嫌だった?」

「いや、別に」

「本当?」

「うん。なんて言うか、楽になったような気がする」

「そう、良かった」

楓はまたベッドの端に戻った。

「あ、あのさ」

海斗が話掛けると楓が振り向いた。

「何?」

「今晩、ここにいても、いいか」

楓は驚いたような顔をしていたが、やがて笑った。

その夜は一晩、楓は本を読んでそれを横で海斗はずっと聞いていた。

どこかでその時、母親の笑い声が聞こえた気がした。

挿絵(By みてみん)


次の日。

天気は快晴だった。

朝から朝食もホテルを出てピットに来るまでずっと2人は一緒だった。

ガレージに入ると全員が驚いた顔をしていた。

この間まであそこまで我を忘れているような海斗が明るく、そしてやる気満々だった。

これほどコンディションが最高に満ちている日は無いかもしれない。

レーシングスーツに着替えてグローブを付けるとヘルメットを取る。

カズが近づいた。

「何か良いことあったのか?」

「カズ、頼みがある」

海斗はカズに耳打ちをした。

カズは一瞬驚いて海斗を見た。

海斗の顔は真剣だった。

その顔を見て、少し考えている様子だったが決断は早かった。

海斗のより良いレース環境作りにはとにかくより早くその環境を作ろうと考えたのかもしれない。

「楓!」

カズが呼ぶ。

楓は2人に近寄った。

カズがディレクターヘッドフォンを渡す。

楓は困惑したように海斗を見る。

「楓、お前が監督だ」

「ええっ!?」

周りも一緒に驚く。

「む、無理無理!さすがに無理よ、だってそれは・・・」

「でもね、本当の監督はカズだ。楓はその伝え橋。楓はこのマイクにコイツが言ったことや伝えることをそっくりそのままここで言ってくれれば良いんだ。簡単だろ?」

「でもどうして私が・・・?」

海斗は笑う。

「俺は楓と一緒に居れて嬉しかった。レースも一緒に居てほしい。居てくれればきっと頑張れる。だから―」

「海斗くんの、お願い?」

海斗はちょっと困った顔を混ぜた。

「いつもお願いばっかりで・・・ごめん、ほんと」

でも楓は首を横に振った。

「いいの。私、海斗くんとこうしていられるのがすごく嬉しい。だって毎日が夢みたいな世界だもの。こんな毎日が楽しい人生なんて今までなかったから。だから、むしろ感謝してるの。私海斗くんの家族になれてよかった。・・・ありがとう」

海斗は黙ってうなずいた。

「ほら、始まるぞ」

海斗は楓に顔を近づけるとそっとキスをした。

「絶対に勝つ。絶対に」

「うん。頑張って」

海斗はヘルメットを被り、カートに乗り込んだ。

カズがスターターを引く。

エンジンがかかった。

スタートはローリングスタート方式となる。

周回数は30周。

ピット前では一斉にカートが発進した。

目の前を上位者が通過していく。

頃合いを見計らってカズが合図をした。

海斗が発進する。

目の前にいる楓の姿を確認するとピットレーンに入った。

頑張ってー!

そういう声が聞こえた気がして海斗は右手首をめくって拳を突き上げた。

ピットレーンを出る。

「あいつ、元気そうだな。直前になって急に、何があったんだ」

カズが訊く。

楓はしばらくして答えた。

「過去の清算ですよ」

「・・・へぇ」

カズが軽く笑った。


F1のイエローフラッグ状態と同様に列の先頭ではセーフティーカーが先導している。

最悪のフリー走行、最悪の予選。

でも迎えたのは最高のコンディションだった。

前までの走りを思い出す。

足がおぼつかない、元気のない走り。

ただ恐怖におびえるそんな日々。

でも今はそんなのはクソくらえだ。

「聞こえる?」

耳から声が聞こえる。

「聞こえる。楓はカズからの言葉を全部伝えてくれ。それからモニターを見て」

「・・・見てるよ」

「左上に周回数と順位、右にタイムとギャップが付いてる。楓は俺が言う順位からのギャップとモニターから分かる周りの状況を逐一報告してほしい」

「分かった」

「大丈夫か?」

「うん・・・」

「不安か?」

「・・・大丈夫」

各車はコースを周りながら順位を整えていく。

最終に差し掛かる。

海斗は12番手から車両は1列に並び、ホームストレートへ差し掛かる。

全体は60km/hをキープしたままスタートへ。

海斗は右手首の赤いのを確認する。

楓のくれたお守り。

これさえあれば。

スタートライン前でフラッグが振られた。

全車が一気にスピードを上げて最初のサンデボーテコーナーへ突っ込む。

海斗は前後に混じりながら90km/h前後で抜けた。

列は変わらないままボーリバージュの坂を駆け上がっていく。

140km/h弱まで達してから一旦減速するとマスネの左カーブへ差し掛かっていく。

120km/hの速度が横Gを強く押し付ける。

コーナーを抜けてそのまま右へのカジノへ。

一度速度を100km/hまで落とす。

そのまま突っ込むとアウトへ膨らみ壁へ激突する。

壁ギリギリで切り替えし、直進する。

ミラボーと呼ばれる右へのコーナー前ギリギリで80km/h近くまで落としてから入る。

曲がり曲がらぬギリギリの限界点。

抜けて前との差が縮まってくる。

ここからフェアモントヘアピン。

40km/h近くまで落とし、曲がっていく。

ヘアピンを抜けて右へ全開で曲がった後にポルティエの右で70km/h近くまで落としてからクリアしていく。

トンネルへ。

140km/hで全開のまま列は乱れない。

トンネルを抜け、減速。

70km/hのままヌーベルシケインへ。

左から右、左へと切り返す。

海岸沿いの短い直線。

抜けてからタバコと呼ばれる左コーナーへ。

抜ける、プールシケインへ。

前と合わせながら90~100km/hで抜けていく。

列はそのままラスカスへ。

そこを抜ける前。

「前がクラッシュしてる」

ホーム前のアントニーノーズへ差し掛かかる。

ストレート手前でゼッケン50が低速で走っていたのを外から追い越す。

ストレートを通過し1周目。

順位は一つのみ。

「海斗くん、これからクラッシュが多くなるかもしれないから、ミスをしないように走って、クラッシュしたのはしっかり避けて逃げてね」

「・・・分かった」

おこぼれにはしっかりと喰らい付けということを言いたいのだろうが、海斗にはちょっと反発のようなものがあった。

でもこれが無いと、まず、勝てない。

普通の国内レースであれば1周目からガンガンと攻めていた海斗。

ところがここは異国の地に世界最強のカートレーサーが集まるレース。

前も後ろもそう簡単には崩さない。

順位はキープしたまま2周目へ。

海斗のさらに前では3台が接近戦を行ったままマスネからカジノへと入っていく。

その後ろの10番手に喰らいつきながらGに頼る。

フェアモントヘアピンを抜けると前が安定し始めた。

順位はそのままで3周目へ。

事はこの周のカジノで起きた。

マスネを抜けた途端目の前に白い白煙が上がっている。

視界が見えない。

白煙をインから突っ込むとアウトで1台を抜いた。

カジノ先の短いストレートでさらに1台。

ミラボー前で9位まで浮上した。

「順調。この調子」

「ああ」

海斗の返答は短く定まってくる。

それほど追い詰められているのかもしれない。

一度クラッシュした車両はそのまま後手へと回されてしまう。

そこからは恐らく入賞おろか、上位組に追いつくのも難しいだろう。

一気に9位に浮上して4周目へと入る。

「楓、トップとの差は?」

楓はモニターを確認する。

「12.668秒」

「俺はどんなタイミングで行けばいい?」

言葉を詰まらせ、カズを見る。

「海斗くんが、俺はどんなタイミングで行けばいいかって・・・」

「まずはミスをしないこと。そのままの状態で他のクラッシュを期待して行け」

楓がそのまま伝える。

「・・・分かった」

4周目は前に喰らいつきながら進んでいく。

最終前。

「あ、前が事故ってる!」

海斗がラスカスを抜ける。

アントニーノーズに入る前のガードレールでカートがバックしているのが見える。

その脇を抜けていく。

8位に浮上し上位組へ入る。

5周目。

やがて前とは間隔が開いていく。

だが順位は変わらないまま前に喰らい付いたままキープしている。

6周目。

タバコの後の直線で前が仕掛けている。

前の2台は接近戦のままプールのシケインへ入ると最後のラスカスでインから抜いていく。

前のみの順位が変わったまま、ホームストレートへ入る。

7周目、事態はまたもカジノで起きた。

2つ前の車両がさらに差を空けるところ。

途端に白煙が起きた。

視界がまたも白煙で埋まる。

はっきりしたとたん目の前に車両が反転している。

「!!」

瞬時に右へ逸らした。

減速する前の車両とのギリギリの隙間をすり抜けた。

「危ねぇ・・・」

「大丈夫?」

「ああ」

これによって7位へ浮上したが、ミラボーへ入る前にイン側が空いていた。

後続が手前から突っ込む。

さらにその後ろの車両も入る。

3台が並んだままヘアピンへ突っ込む。

2台が後ろへ引いた。

後ろにはまだ海斗に喰らい付く。

その先のポルティエまでに差を付ける。

7位を死守したまま1周を終える。

8周目のヌーベルシケイン。

左へ切り返しの際にイン側の縁石に乗り上げた。

車が一瞬宙に浮いた。

「うっ!」

海斗はその勢いのままタバコ前ストレートに入った。

「大丈夫?」

「危なかった」

「・・・シケインの縁石は乗るなって」

「早く言ってくれ」

「ごめん・・・」

「いや、・・・いい」

だがそれで前と少し差が開いた。

「前と差は?」

1位から18.622。

6位は17.700。

暗算で計算する。

「・・・0.922秒」

「まだ行ける」

「待って、またクラッシュしてる。最後のところ」

海斗がラスカスを抜ける。

1台がイン側にいるのをすり抜けた。

6位に浮上。

そのまま8周目を終えた。

「そのペースを保って。無理に追い抜こうとしなくてもいいから」

それからしばらくは6位をキープしたまま前に食いついていた。

12周目。

プールのシケインの2つ目。

右への切り返しでインが空いた。

迷わず飛び込むとすぐさま左へ切り返す。

5位へ浮上した。

完璧なオーバーテイクにピットでおおーっと声が上がる。

「楓、前との差を頼む」

楓がモニタを確認する。

ギャップが出ないが、前がラインを切ると次々と上がっていく。

4位は1位から13.190、5位の海斗は19.004。

「5.814秒!」

「了解」

13周、14周目、ホームストレートで前の車両の姿が見える。

姿を捉えながらペースを上げつつ行き、レース半分の15周目を周り、その差を1秒台へと縮めた。

「すごい!海斗くん、前との差は1.124秒!」

「このまま行く」

「え?」

16周目のサンデボーテの立ち上がりを110km/h以上に保ったまま上り坂を上っていく。

前が目の前に迫ると同時にインに避けた。

2台が並ぶ。

海斗が先にマスネへ入る。

アクセルオフでGの力で入っていく。

並んでいたのが後退した。

速度をキープしたままカジノへ。

4位浮上。

「すごい・・・」

「楓、今何位だ」

「4位だよ」

「前との差は?」

「5.908秒。でももっと縮まるかも」

16周目を周りきる。

「海斗くん、そのペースを維持して。しばらくは前との差を縮めて」

「分かった」

17周目へ。前とはどんどんと差が縮まってくる。

「20周目までに3位を目指す。そこから10周でトップを狙う」

海斗が言った。

楓がカズに伝えるとカズはただうなずいた。

プールシケインを抜ける。

「前との差は」

「3.522秒。きっと後ろに付ける。絶対行けるよ」

「ああ」

そう答え、ラスカスを抜けて最後のアントニーノーズに入ったその瞬間。

外側の縁石に乗りあがる。

この程度なら大丈夫だと思ったのが束の間。

後ろのタイヤが縁石と壁の間に引っ掛かった。

突然右へ大きなGがかかったと思えば視界が左へと流れる。

「あ・・・」

激しいスキール音と同時に車体は横になったまま流れた。

前がガードレールすれすれに滑り、そのまま反転してしまった。

車体が止まる。

ピット中が一瞬で凍りついた。

スピンした後一瞬時が止まったように思った、と同時に元に戻る。

「・・・っ!」

海斗は一度降りるとステアを右に切りながらあわてて後ろに下げる。

4位車がすり抜けていく。

体勢を立て直してから乗り込み、また元の道へ走り出す。

後ろからさらに6、7番手の車両が近づいたのをギリギリでカバーした。

海斗は5番手で後ろに着かれながら攻めたてる。

その周は大幅なタイムロス、2,01,689。

今までの1分50秒台には到底及ばない。

ヘッドホンからは海斗の荒い息遣い、かすかに”くそ・・・くそ・・・”とつぶやく声が聞こえる。

「あと12周だ・・・」

「5位追い上げでも時間がかかる。トップは、いや入賞も・・・」

周りのクルーが落胆した声を始める。

カズは額を抱えて座り込んでいた。

「楓・・・」

海斗の声がする。

19周目へ。

「海斗くん?」

「俺は、どうしたら・・・?」

楓はカズを見る。

「海斗くんが、どうしたらって・・・」

カズは抱え込んだままただ黙っていた。

「と、とにかく落ち着いて今のポジションキープだよ」

「うん。これ以上ミスをしないように。前との差は・・・気にしないで、さ・・・」

クルーが言うが、楓は言えない。

何かが違うと感じた。

20周目。

ようやく先ほどの車が見えてきた。

でも10周以内にトップへとは。

「楓」

海斗が語りかける。

「俺、負けちゃうかな」

ピットの周りでは沈黙していた。

カズももう立ち直りそうにない。

「俺、負けたかもしれない」

元気がない。

昨日のように。

でも、あんな海斗はもう見たくない。

監督なら監督として、海斗のために。

「・・・まだ!まだ負けてないよ!」

楓が叫ぶ。

周りが楓を見た。

「楓ちゃん・・・?」

「負けるなんて言わないで!海斗くんは海斗くんの走りを貫き通して。私があなたのこと全力でサポートする。だから、まだやれる!」

カズが顔を上げた。

海斗の息遣いが落ち着いてきた。

「楓・・・」

カズが楓のマイクに近づく。

「ボヤボヤすんな、九太!てめぇ何今更弱気になってんだ?俺はメソメソするやつは、嫌いなんだよ!」

奥で海斗のふっと笑う音がした。

「うるせぇ・・・まだ負けねぇよ」

クルーが復活する。

「いいよ、海斗くん!その調子だよ!」

「楓、1位との差は?」

17.738秒。

これから10周の間にこのトップに挑む。

それは恐らく物理的にも無理かと思われた。

でももう気にしなかった。

「やる、やってやるぞ」

「いいよ。海斗くんの走り、貫き通して!」

アクセルを踏み込む。

20周目のマスネを全開で周りきる。

出口で少し滑ったがカウンターを掛ける。

次のカジノを110km/hオーバー。

ミラボー入口に入ると、ギリギリから全開で抜けた。

トンネルを通り、シケインを抜ける。

ヌーベルシケインを抜け、タバコをほぼ前回のままで抜けると前をはっきりと捉えた。

プールを抜けるとすぐ目の前に迫った。

ラスカスを抜け、ホームストレートに入る。

ラインを切った。

「奴との差は?」

「0.273秒、もう目の前」

「ここで仕掛ける」

サンデボーテ直前。

前がブレーキと同時にインに入り、前へ飛び出した。

「あっ!」

100km/h以上を保ったままスムーズに抜ける。

「抜いた・・・これで4位奪還だ」

「でも入賞圏内までまだまだだ・・・」

それでも海斗の走りは違っていた。

今までのコーナーを全て10km/hほど早く抜けている。

安定している。

ヘアピンも40km/h後半で押させながら曲がり切れている。

トンネルに入ると、右へと入るのが見える。

「3位が見えた」

ピットがまたおおーっと上がる。

ペースはそのままをキープする。

「あわてないで、まだ8周ある。海斗くんならすぐ行ける」

「ああ」

平均速度を上げながらコーナーを次々と抜けていき、トンネルに入るとその姿をほぼはっきりとらえていた。

そしてその前には2番手の車両が見える。

シケインを抜け、タバコも120km/hをキープしたまま抜けるとプールに入る。

既に目の前に捉えていた。

ホームストレート。

「前の差は」

「0.886秒!」

楓の計算も早くなる。

「仕掛ける」

サンデボーテ手前。

またもブレーキは向こうが先だった。100km/h後半をキープしながら抜けると目の前に捉えた。

ボーリバージュの登り坂で迫りくるのをインから抜いて行った。

マスネとカジノをペースキープのまま抜けていき、それからさらに差を付ける。

「抜いた」

3位浮上。

入賞圏内に入った。

それからさらにヘアピンを抜け、トンネルに入るまでにはもう2番手車を捉えた。

モナコ場内ではクラッシュからの猛勢いの追い上げに誰もが気を取られていた。

タバコを120km/hで超える。

プールへ。

プールシケインを出ると、目の前に捉えた。

「行ける、仕掛けるぞ」

ラスカス前。

サンデボーテの手順を思い出す。

ラスカスを抜ければスペースがある。

インが空いたのをすかさず突っ込んだ。

そのまま行く。

が、加速が足りない。

アントニーノーズ前で追い返される。

24周目へ。

「奴との差を」

「0.271秒!」

「仕掛けてやる」

ブレーキを遅らせるとインへ入る。

コース一杯を使って全開に入れて抜けた。

アクセルタイミングの速さは2台の差を開いた。

「抜いた」

2位浮上した。

「信じられない・・・この短時間でこんなにまで・・・」

誰もが驚きを隠せないままでいる。

「楓、1位との差は」

「7.167秒。ちょっとあるけど、まだ6周ある」

「3周でけりをつける」

そんなバカな・・・。

全員が考えるが、ここまでの事が起きてもう何が起こるか分からなかった。

キープを保ったまま25周目へ。

ヘアピンを抜け、コーナーやシケインを果敢に攻めていく。

挿絵(By みてみん)

26周目へ。

ホームストレートで先を走る姿がわずかに見える。

「見えた」

ピットが一瞬騒ぐが、楓とカズは微動だにしない。

「差は4秒くらい。そのまま、行って!」

そのままカジノを抜け、ヘアピンでは曲がる前の完全に後ろ姿を捉えていた。

トンネルを抜け、ヌーベルシケインを抜けてからタバコを120km/h以上で抜けた。

ラスカスを大きく周るとすでにアントニーノーズで後ろ姿を捉えていた。

ホームストレート、27周目へ。

「差は?」

「2秒ジャスト!」

「この周で決着をつける」

サンデボーテを抜けるとほぼ射程に捉えた。

コース観客がさらに興奮のボルテージを上げる。

マスネ、カジノへ。

既に走行ラインをしっかりと押さえている。

ヘアピン、ボルティエを抜け、トンネル前では後ろを抑えていた。

トンネルを抜け、ヌーベルシケインを抜けると後ろにぴったりと張り付いた。

「抑えた」

「頑張れ!」

タバコを抜ける、プールシケイン。

左から右への切り返し、前が迫った。

インが空いている。

逃さない。

110km/hの状態で右インを付く。

後ろをがっちりとカバーしたまま左へ切り返した。

「抜いた」

一瞬だった。

コース上で歓声が上がった。

ピットでも。

車両はそのままアントニーノーズを抜けてホームストレートに入った。

28周目に入った。

1位で。

残りは3周。

「海斗くん、1位のままペースをキープして」

「いや、ここからはタイムアタックだ」

そういうと着実にコーナー速度を上げていった。

コーナーからコーナーへ、乗れる縁石には乗り、コース幅を広く使いながら。

29周目。

モニタを見る。

+3.458秒。

「すごい・・・たった1周で」

「あいつ、楽しんでやがる・・・」

カズが言った。

楓がカズを見た。

「アイツの今の気持ちは昔初めてカートに乗った時に戻ってるんだ、きっと」

「海斗くんが・・・」

車はペースをキープしたまま29周目も回り切り、ファイナルラップを迎えた。

タイムは1分45秒を切っている。

既に後ろとの差は5秒以上に伸びていた。

「楓」

全開で走ったまま海斗が呼びかける。

「あっ、差は5.625秒!このままだともっと伸びるよ!」

「違うんだ」

「えっ?」

「ありがとう」

海斗が言った。

「海斗くん・・・」

「楓は、最高のレース監督だよ」

楓が笑った。

全開状態の海斗は各コーナーやヘアピンをそのキープしたままに抜けていく。

トンネルへ。

「俺、楓と会えてよかった」

「私も!私も海斗くんと会えてよかったよ」

トンネルを抜け、ヌーベルシケインへ。

「これからも何かあったら、助けてくれるかな」

「もちろんだよ!なんでも助ける。だって、私海斗くんのサポートだもの」

2人で笑っている。

タバコへ入る。

「楓、俺昨日言ってないことがあった」

「何?なんでも言って」

プールシケインへ。

「俺、楓の事・・・好きだ」

とたんに楓は目頭が熱くなるのを覚えた。

それからすぐに自然と涙があふれている。

ラスカルへ。

「私も!私も海斗くんの事、好き!大好きだよ!」

「良かった。・・・終わったらすぐそばにいてくれるかな」

「もちろん!戻ったらすぐ行く!真っ先に行く!」

アントニーノーズを抜ける。

最終ホームストレート、”アルベール1世通り”へ。

「待ってて。すぐ行くから」

とたんに海斗の息遣いが荒くなってくる。

ラインが近づく。

「よし、よし!よし!!!」

つんざくような声。

フィニッシュライン、チェッカーフラッグ。

「やったー!やったぞー!!」

マイクからは海斗のただ喜ぶ声だけが響かせていた。

ピット中、そしてコース中が歓喜に埋め尽くされた。

完璧な最後の走行、2位とは8.550秒もの差をつけていた。

挿絵(By みてみん)


ウイニングランを終え、ホームストレート前で誘導されながら止める。

ホームストレートではチームクルー、カズ、そして楓が待っていた。

ラインで止めると同時に我も忘れて楓にすがると思い切り抱きしめた。

「楓、やった!俺、やったよ!勝ったよ!」

「うん!見てたよ!」

海斗はいつまでもずっと抱きしめていた。

カズが近寄るのに気付かない。

カズがヘルメットを軽く叩くと、一度離れた。

カズを見る。

「ったく。ハラハラさせやがって」

カズが言った。

「お前に心配される筋合いはねぇよ」

海斗が答えると、2人で抱き合った。

一度離れる。

「お前のために連れてきた人がいる」

「えっ?」

カズがピットから連れてきた一人。

父、浩二だった。

「父さん!」

「海斗!」

「父さん、どうして・・・」

「お前の素性は調べた。そんでこのお父さんに結び付いたって訳だ。お前が大学行くって言って戸籍まで取ってなぁ」

「あー、あれ見たのか」

「海斗」

浩二が海斗を見る。

「その・・・父さん、この前はごめん。本当に、俺なんか―」

「そんなことはもういいんだ。立派になった!本当に・・・立派だよ」

喜び泣きじゃくる父の姿、海斗は初めて見た気がした。

「きっと母さんも喜んでるはずだよ。いや、絶対に」

「・・・うん」

そして抱き合った。

「さぁ、お前にはまだやることがあるぞ」

浩二が言う。

「えっ、やること・・・?」

「九太!お前、レースが終わってからの定番忘れてんのか!ボケっ」

表彰式だ。

「おら、行って来い!」

カズは海斗のヘルメットを取り、グローブを預かった。

「ああ!」

海斗は一人離れようとしたが、何かを思い出したように戻ってくると楓の手を取った。

「行こう!」

「あ、・・・うん!」

2人はホームストレート先のサンデボーテの教会前の表彰式へと向った。

周りの無数の歓声を浴びながら表彰台中央を上がった。

トロフィーを受け取ると同時に天高く突き上げる。

世界一の世界。

それが今の海斗だった。

「海斗」

声がした。

楓じゃない、薫だ。

海斗は表彰台の奥を見た。

歓声の上がる場所から少し離れた場所に薫が微笑みながら立っていた。

母さん、俺はやっぱりまだまだだ。

でもここまでやってこれたのは事実だ。

だから今は自分を誇れる。

いつかは母さんのようなフォーミュラーレーサーになるんだ。

海斗も薫を見ながら笑った。

海斗はもう一度、楓を見る。

楓も海斗を見る。

「ありがとう、楓」

海斗が言う。

「ありがとう、海斗くん」

楓も言うと、2人でまた改めて口づけを交わした。

モナコはその2人を歓声でもって包み込んだ。

挿絵(By みてみん)


海斗はまたピットレーンに立っていた。

モナコから帰って、海斗はまたここに立っていた。

「九太」

後ろから声が掛かる。

後ろを振り向くとカズがいた。

「カズ」

カズは頬を上げながら海斗の横に来た。

2人はピットレーンからホームストレートの第一コーナーを見ていた。

「ここは、俺を育ててくれた全てだ」

海斗が言う。

「そうだな」

カズが答えた。

「俺の全てだ」

「うん」

「俺は・・・もう、行かないと。ここを離れて」

カズは腕を組みながら地面を見た。

「まぁ、巣立ちの時、ってな」

「ここを捨てるみたいで、なんか、嫌だな」

海斗は残念そうに顔色を曇らせた。

カズは横目で海斗を見ると軽く笑った。

「女々しい野郎だ、お前は・・・」

「なんだよ、それ」

海斗が言うとカズは笑いながら海斗を見た。

「お前は新しい一歩を踏み出してるんだ。お前だけの翼を広げてな」

「俺だけの翼、か・・・」

海斗は後ろを見た。

ベランダからは鈴が立っていたが、海斗と目が合うと笑って手を振ったのを見ると海斗も振り返した。

海斗はため息をついた。

「お前は世界一のレーサーになる。それだけじゃない、きっと車の歴史に名を残すような人間になるはずだ。迷わずにお前の道を突き進め。そしてまた行き詰ったら、いつでもここに戻ってこい。いつでも、サーキットと、マシンは、お前を待ってる」

海斗は頷いた。

「ありがとう、カズ」

海斗が言うとカズはまた笑った。

「ありがとう、か・・・」

「なんだよ」

「ったく、可愛らしさが無くなったなお前は」

「可愛らしさって、俺がかよ」

「そうだよ。昔まではそうだったよお前は。文句ばっかり付けて、ギャンギャン喚いて」

「そうかよ」

「ああ、でも今のお前はもう違う。・・・立派になった。誇らしいな」

カズが言った。

2人は見合ったがやがて声を上げて笑った。

「お互い、らしくねぇな」

「ああ。ま、こんなもんだろ・・・」

2人はまた暫く黙ってピットレーンに立っていた。

「よし、旅立ちの記念だ」

カズが言うと向かいのシャッターに近づいてそれを開けた。

そこにはカーボンとブラックメタリックで輝いたGT-R SpecV 23号車がいた。

海斗が笑う。

カズは海斗に近づくとポケットからキーを出すと海斗に差し出した

「こいつはもうお前の物だ。煮るなり焼くなり、好きにしろ」

「・・・でも、俺は・・・」

「お前の夢だ。俺はただ補うだけ、あとはお前が実現させろ」

「カズ・・・」

海斗はカズを一度見てからキーを貰ってそれを手のひらで見た。

「俺の夢か」

海斗は離れるとGT-Rに近づいた。

車内に乗り込む。

あの時と変わらない、いつものだ。

助手席のヘルメットを取ってそれを被るとエンジンを掛けた。

いつもと変わらない、あの時の音。

嬉しさに思わず、笑い声を上げた。

カズが横に近づく。

「よし、行って来い。しっかりレコード刻み付けてから出て行けよ。中途半端なタイムだと、まだここからは出さねえからな」

海斗は手を上げたと同時にアイガードを下げ、ピットを出た。

海斗には見慣れた風景全てが喜びや寂しさ全ての感情を感じさせた。

第一コーナー。

あの時は衝撃だった。

鈴と走った時だ。

FFのフロントヘビーと荷重の回頭性をうまく使ってGT-Rをごぼう抜きにした。

ミニコースに入る。

シケイン。

ここは忘れもしない。

あの時、雀を轢いた自分、そしてその時感じた罪悪感。

そしてそこから独自に考えた新たな荷重移動技術。

恐らく今の自分の技術の全てはここから始まっているんだ。

ミニコースのホームストレート、ここは今の自分の原点でもある。

何の変哲もないこの道から、全ての始まり、自分を育てた最初がここだった。

カート。

まるで地面に吸いつけられるような、ワクワクしたあの時。

あの感動は忘れられない。

もしかしたら一番幸せだったのかもしれない。

ミニコースの第一はコースで何度も繰り返したミスでも印象的なのが2つある。

忘れもしない、カートに乗っていた時とR34 GT-Rのオーバースピード。

オーバースピード。

限界を超えて車は曲がらない。

ミニコースを抜け、ループを抜けると最後のシケインに入る。

ここはいつも手こずる人が多くとも海斗にとっては慣れたものだった。

セリカの時も、その前に乗っていた、ホンダのビートの時もそうだった。

カートのような感覚だったあのビートでいつも駆け抜けていたライン。

全てがつい最近なのに懐かしい。

それをGT-Rでまた駆け抜けていく。

最後の緩いシケインを抜け、ホームストレートへ入るとアクセルを踏み込む。

エンジンの音を響かせながらGT-Rはホームストレートを通り過ぎていく、その横でカズや従業員、楓、鈴たちが居た。

GT-Rは第一コーナーへ突っ込み周って行った。

「速い」

鈴が言うとカズは笑った。

「速いってもんじゃない。ありゃ、バケモンだ。何の変哲もない平凡なサーキットから俺たちはバケモンを生み出しちまった。もちろん、お前もな」

カズは鈴を見た。

鈴は軽く笑う。

「どうかしら。私がどこまで行けるか」

「俺には分かる」

カズはピットレーンに背中を付けて鈴を見た。

「お前もいずれ、ああいうバケモンになる。お前自身頭角が現れてるのに気付いてないだけだ」

「ふーん・・・」

GT-Rのエキゾーストがまた近づく。

目の前を猛スピードで走り抜けていく。

「あの・・・海斗・・・九太くんはバケモノなんですか?」

楓が言う。

「そうだ。アイツの技術はそういう事だ。人間が引き出せる限界、それを覆して更に上の限界を見出す。きっと後にも先にも、あんな奴が出てくるか・・・いや」

またGT-Rが周ってきた。

それを目で追っていく。

「多分、居ないだろうな」

カズは言った。

ゴールラインを割る。

全員の目がタイム塔に集まると息をのんだ。

「まだだ」

カズが言った。

「まだまだ。アイツはもっと速くなる」

「・・・そっか」

鈴が言う。

「その為にはあいつの閉じてる翼をしっかりと開かせなきゃな」

周ってきたGT-Rはガレージへと入った。

翌日に海斗は鞄を持って外へ出た。

深く息を吸う。

もう一度ガレージを見る。

そこにはGT-Rとセリカが並んでいた。

後ろからカズが近づいた。

「出てけ。お前にもう用は無い」

海斗がカズを見ると頷いた。

「今まで・・・そのなんつーか、ありがとな」

「何そんな口ごもってんだ。この間は素直に言えたくせによ」

海斗は頭を掻いた。

「覚えてるか?俺とアンタが出会ったときの事」

「なんだよそんな話。映画じゃあるまいし。」

「俺は生きる気力を失ってた。歩道橋から飛び降りようとしたんだ。でもカズがそれを引き留めて、ここに連れたんだ。あの時アンタが居なかったら、きっとあの対向のトラックに轢かれて死んで、多分俺はここに居なかったと思う」

「まぁいい。・・・鈴も旅立ち、そしてお前も行き、また静かになる。金も減らねえしなぁ」

「なんだよ。それが旅立ちに言う言い方かよ」

「知るか。いいか、俺はあの時、お前に用があったから歩道橋で引き留めたんだ。今はもう用済みだ。おら、さっさと出てけ」

カズは海斗を出口まで押した。

海斗は軽く笑った。

「・・・じゃ、行くよ」

「ああ、行け。・・・ま、くれぐれも達者でな」

海斗は軽く頷くと背を向け、歩き出した。

その後ろ姿をずっと見つめるカズの後ろから楓と鈴が顔を出した。

「出会いもあれば、お別れもあるって感じか」

楓はうつむいた。

「そう・・・だよね・・・」

カズは楓の肩を持った。

「大丈夫。アイツならまた戻ってくる。きっと」

「そうね。きっと」

鈴も言った。

そして3人は海斗が見えなくなるまでずっとその後ろを見つめていた。

そう、そしてこの物語は親を亡くした1人の少年のお話であった。

人生も絶望のどん底に沈められ掛けた彼は自ら強くなり、そして世界一へと上がりつめた。

でもこれは必ずしも彼一人の力ではない。

彼の周りにはたくさんの仲間が付いていた。

カズ、鈴、母薫との思い出や雀との思い出、チームクルー、ライバル達、楓、そして多くの車・・・。

全ての存在が彼を強くした。

そして速くなった。

しかし、ここでの話はこれで終わるが、彼の話はまだまだ続くだろう。

例え彼がこれからどんな困難に直面しても、きっと今の彼なら乗り越えていけるだろう。

きっと。




―6年後。

オータムリンク。

今日もここには多くの車がエキゾーストを鳴り響かせ、コースを周っていた。

やがて通常の車のスポーツ走行が終了し、ミニコースへ多くの子供が集結する。

先導する1人の男に数人の子供が付いてく。

その先はミニコースの第1コーナー。

「いいか、皆。このラインを見るんだ。」

その男―カズは路面にチョークでコーナーへと矢印を描いた。

「どの方向に向かってる?」

カズは立ち上がり振り返る。

「一緒に来て」

子供たちがさらに駆け寄る。

「この方向を見るんだ」

「ターニングポイント、エイペックス(頂点)。エイペックスはなんだったかな?」

カズはイン側縁石の頂点に印をつけた。

「確認する場所だ。エイペックスは何?」

「「確認する場所」」

子供たちが言う。

「エイペックスは何?」

もう一度言う。

「「確認する場所」」

「エイペックスは何?」

「「確認する場所」」

「エイペックス」

カズは立ち上がるとコーナー出口へと向かう。

「そしてリリースだ」

カズはその場で立ち止まる。

「じゃあざっと復習だ」

全員は一度またコーナー手前まで戻ってくる。

「チェックするところは分かるね。まずターニングポイント」

「「ターニングポイント」」

全員は列になってコーナーへ向かう。

「エイペックス」

「「エイペックス」」

そしてコーナー出口へ出る。

「出口に向かって解き放つ」

「「出口に向かって解き放つ」」

「そうだ。出口へマシンを解き放つ。そうしたらリアタイヤのグリップを確保できるんだったね?」

カズはコーナーを指差す。

「鯨の背中の形を覚えてる?これが鯨の背中だ」

カズはコーナーで車の真似をする。

「早く突っ込みすぎるとエネルギーが全てそこに行ってしまう。これはダメ」

カズはインから外へと膨らむ。

「犠牲をはらって、もっと、もっと、もっと最高に。効果を引き出すために犠牲を払う。効果があるというのはどういうこと?素早く勢いを上に向かって送り出す、だね?すっと上までだ」

カズは一人に近づいた。

「ここに来て、皆見て。ふたつのメカニズムを見て」

カズは子供の両手を持ち、同時に頭を持つと手元、頭の順に左右に回して見せた。

「自分の顎を送り込む、自分の手を送り込む。自分の顎を送り込む、自分の手を送り込む。送り込むことによって自分が倒れこむのを防いでるんだ。分かるか?食いつきやグリップは外側のタイヤから来るからそれを送り込むんだ」

カズは離れた。

「よし、皆用意はいいか?」

「「はい」」

「砂糖は少なめ、水はたっぷり。いいな?」

やがてコースの周りは大人たちで囲まれた。

「よし、みんな準備はいいね」

放送が流れる。

コース上ではカートが並べられた。

やがて子供たちは車に乗り込むとエンジンが掛かった。

カズは黒スポーツカー―GT-R R35 SpecVの後ろで一緒に先導する。

「少し速く、もう少し速く・・・」

全体は一周し、ホームストレートへ戻る。

「そのまま、もっと速く、もっと速く、そのまま、そのまま・・・―行け!」

一斉に発進したカートは第1コーナーへと突っ込んでいき、立ち上がっていく。

カズはピットに戻り、手前の監視台上に上った。

そう、これが自分の世界。

今の全てを自分は与えられた。

それはたった一人の少年によって。

それによって自分の人生は大きく変わった。

勿論、もしかしたら思っていた夢や理想とはかけ離れたかもしれない。

でも今、これで自分自身が幸せな世界を送っている。

だからこそ今、それを分かち合い、そして自分が出来る限り与えられるように。

そしてここに居るんだ。

全ては彼のお蔭だ。

だからこそ、自分は更に進むことが出来る。

やがてカズは部屋に戻ると荷物を揃えた。


フランス、サルトサーキット。

ここにはLMPクラスのマシンが数多く並んでいた。

その中に1人の女性ドライバーが立っていた。

―SUZU・・・。

もはや1人の女性ドライバーという枠を超え、箱車レース自体でこのドライバーの右に出るものは居ないとさえ言われる天才的レーサー。

そこにもう1人が近づいた。

「よう」

声を掛ける。

振り返るとカズが立っていた。

「カズさん」

「元気か、鈴」

「見ての通り」

鈴は子供っぽくクルリと回って見せた。

本格的なプロのレーシングドライバーとしてのデビューは事実上海斗よりも早かった鈴はその当初から国内でのフレッシュマンレースで下位クラスを操っていたにも関わらず、上位クラスとも互角なまでのレースを繰り広げたことにより、一時レース界に衝撃を与えた。

それからは国内のツーリングカーレースで参戦を続けていたが、2年も経ったときには既に国内を飛び出し、海外のツーリングカーレースに参戦していた。

それからは世界各地でトップタイトルを上げ続けた彼女は女性のレーシングドライバーであるということを超え、既に1人の優秀すぎるレーシングドライバーとして世界中が認めていた。

「今度はル・マンか・・・」

「ええ。後半の入り組んだコーナーがちょっと懐かしいな」

「懐かしい?」

「ええ。なんていうかいろんな意味で」

「そうか」

カズは軽く笑った。

「あいつは・・・九太はうまくやってるの?」

「ああ。お前も知ってるだろ」

「知ってるけど、実際どうなのかはよく知らないし。こっちはこっちで忙しいですからね」

「たまにオフの時はまたオータムリンクに戻ってこい。そしたら皆で集まってよ」

「うん」

カズは周りを見回した。

「時に・・・鈴。誰か、居ないのか?」

そういうと片手で小指を立てた。

鈴はふふっと笑うと周りを見回した。

「そうねー・・・」

見回してからまたカズを見た。

「居ないわ。せいぜい予選で私を落とせるくらいの人がいないと」

カズは笑った。

「それはまた難しい基準だなー」

「まぁ、いずれ現れるかな。九太みたいな人」

「世界は広いんだ。そのうちあいつみたいなやつがいつ現れてもおかしくないぞ」

「そうね。楽しみにしてるわ」

車のエンジンが掛かった。

「それじゃ、俺はボチボチ行くか」

「帰り?」

「いや、今度はモナコへ飛ぶ」

「モナコ・・・か」

鈴はヘルメットを被った。

「あいつによろしく言っといて。今の私は箱ならもうあんたには負けないって」

カズは軽く頷いて手を上げた。

鈴は車に乗り込むと轟音を上げてピットを抜けて行った。

私がなぜここまで来たのか。

他の人からは何も分からないかもしれない。

でも自分自身では一番分かっている。

それは自分の道がここであると確信し、進むことが出来る。

昔ではなく今、私は私であると信じることが出来る。

全てはそう、彼のお蔭だ。

彼が私に与えてくれた、私の世界。

彼が無ければきっと今の私もいなかっただろう。

そして私は前に進める。


そして海斗。

彼はまたかつての地に舞い立っていた。

Formula 1=F1という史上最速のマシンと共にしながら。

F3に転向して1年半の間にも彼はトップタイトルを取得しつづけた。

だが、彼は物足りなさを感じた。

さらに速く、と。

それは周りも同じ考えだった。

だからこそF3からF1への転向の速さは本当に異例であったに違いない。

それからはほぼ無名に近いF1チームのテストドライバーとしてのシートにいたが彼の追い上げは誰もが予想しておらず、転向から半年も経たないうちにファストドライバーの席を取ってデビュー戦となったオーストラリアGP、アルバートパークサーキットで東洋人史上初、そしてF1史上最年少で予選PPを迎えた海斗は決勝レースで独走態勢のまま2位以下を1分以上突き放したまま、優勝。

それまで決勝レースへの進出も難しいほどの無名であったF1チームを海斗にシートを任せるだけでたった1戦目で突如優勝を遂げるというのはすぐさまF1界で大きな衝撃を与えた。

また、F1で優勝する行為自体もまた東洋人おろかF1でも最年少であったが、その年のレース全ての体制は変わらずに連勝を続け、第14戦目のシンガポールGP、シンガポール市街地コースの決勝でのマシントラブルによるリタイアを決するまではその連勝記録を誰も止めることができなかった。

これは連勝記録樹立の年少だけでなく、シューマッハの7連勝、並びにアスカリの9連勝を大きく塗り替える、F1歴史史上初の快挙であった。

その後のレースを着実にこなし、1シーズンで2位以下とのポイントを150pt以上の差をつけてデビュー当初からシリーズチャンピョンに輝いた。

所が彼はただレースで勝つことだけを目的とはしなかった。

レース中の不足のトラブルやクラッシュなどが起きると、誰よりも先に海斗は向かい、自身の地位を無視して助けの手を差し出したり、まれにそれらを機にレース界から問われることもあった。

報道やレポーターに必ず彼が答えるのは、”先人に触れること”だけであった。

そしてそれから4年の間、彼はさらにその走りに極めていく。

アイルトン・セナをも超えるF1ドライバーとして名声を浴びる海斗となった彼も単なる速さだけでなくその魅力的で独創的な走りで誰もが魅了された。

海斗のいるチームは必ず勝つ、そんな噂もたちまち強くなり、彼へのオファーの数も多くなっていった。

そんな海斗を人々はこう呼んでいた

『Car’s interlocutor』=”車の対話者”と。

これから先、海斗自身がまたF1の新たな歴史を刻むであろうことは誰もが予想していた。

第9戦、モナコGP、モンテカルロ市街地コース。

既に車両はスターティンググリッドに並べられている。

海斗はこのコースはまさに、裏庭のようなものだと言った。

ここで勝利できないのは、自分の裏庭で転ぶのと同じであると。

予選はPP。

記録は1,13,537。

この記録は2004年のシューマッハが樹立したレコードタイムの1秒近く速い。

決勝前。

ピットで最終確認を行う海斗へカズと楓、そして子供がやってきた。

「あ!楓・・・なんでここに?そんでお前らも・・・」

「えへへ、遊びに来ちゃった」

楓が笑う。

楓はしゃがむと3歳になる娘、真子(マコ)を呼ぶ。

「ほら、お父さんだよ」

真子は海斗に駆け寄る。

「お父さーん」

「真子、元気にしてたか?」

「うん」

「そっか。勉強は進んでるか?」

「うん」

「よし、じゃあ抜き打ちテストだ」

海斗は真子の手を引いてピットを超えると自分のマシンに近づき、タイヤを指す。

「これは何のタイヤだ?」

「おぷしょん」

「どんなタイヤ?」

「柔らかいの」

「よし、次だ」

海斗は車体後方に回りウイングのエアロ中央を動かしてみせた。

「これはなんだ?」

「でぃーあーるえす(DRS=ドラッグリダクションシステム)」

「どんなものだ?」

「えっと・・・車が速くなるの」

「そうだ。正式に言うと、風の力をそのまま流すことで余計な風に当たらないようにするから速くなるんだ」

空いた右の手のひらで風の動きをする。

海斗は真子を撫でる。

「いいぞ。お前は将来、有能な女性初のF1レーサーになるかもな」

真子はピットへと戻っていく。

海斗は楓に近づくとキスをしてから抱き込んだ。

「頑張ってるね」

「俺は何時でも全開だよ」

胸には1歳半になる息子の(マコト)を抱いている。

誠が海斗の腕へと入る。

「よしよし・・・大きくなれよ・・・。そして、強くなるんだ」

語りかける。

「分かるかな」

海斗が言う。

「きっと分かってるよ」

楓が答えた。

海斗は頷く。

カズが近づく。

「世辞もねぇ。立派になった」

「ありがとう」

「あいつはどうだ?」

「あいつ?ああ、鈴か」

カズは誇らしげに笑った。

「あいつも近々こっちに遊びに来るだろうよ。なんたって今度はル・マンだからな。提携先が好成績でな。最高のマシンに最高のドライバー。まるで今のお前みたいな感じだよ」

「そっか。あいつも箱で頑張ってるんだな」

「準備を」

クルーから声がかかる。

海斗はフェイスネックを被る。

そばでカズがヘルメットを渡すと、それを受け取って被った。

「実はこれを機に、お前に渡したいものがあってな」

「今か?」

「ああ。お前が俺と会ったときの話だ」

「?」

海斗は頭を傾げる。

「タダでは泊まらせないと言い、お前は俺に渡した」

海斗は笑って思い出す。

100円。

「あれか・・・。でも確かに俺はありがたいと思ってる。だから恩返しをしようと―」

「いや、もう十分してもらってる」

カズが答える。

「カートで世界一になって、それからはプロのフォーミュラーに入って、今や世界のF1王者だ。賞金の半分は入れてくれるおかげでうちらのコースやモータースも大きく成長できた。全てはお前のおかげだ。だから、あの時の借りは返そうと思ってな」

「返すって・・・」

カズはポケットからコインを出すと、海斗に渡した。

昭和59年。

裏面に斜めに青い筋が入っているコイン。

「これは・・・、あの時の!」

「それはお前に返す。借りは返した」

海斗が笑う。

「なんだよ・・・」

「なんだ。不満か?俺はその金でお前をここまで食わしてやったんだからな」

海斗は頷いた。

「はは、そうだな。・・・分かった。これは預かるよ」

「お前ならさらに行ける。速くなれよ。それがお前らしい姿だ。そうだろう、海斗?」

カズが言う。

海斗は笑った。

「・・・九太で結構だ」

海斗が答えるとマシンへと向かった。

マシンそばで浩二が立ち上がった。

「海斗、今日も良好だ」

「ありがとう。父さんが居てくれればいつでも心強いよ」

「準備はいいぞ」

海斗は乗り込む。

ステアリングを取り付け、シートベルトを付け、最後にネックガードを付けた。

「海斗!」

楓の声がした。

海斗はピットを見た。

「お父さーん!頑張って!」

「お前達がそう言ってくれればお父さんはいつも無敵だ」

海斗が言う。

エンジンがかかる。

振動が体に染み渡るこの時から海斗は自然と体がマシンと一体となるのを感じていた。

そして思う。

きっと先人の人たちもそうだったに違いないと。

コース上はやがてスタートのマシンだけが残った。

エキゾーストが鳴り続けながら、発進する。

フォーメーションラップを始める。

日本人のF1レーサーが全台を先導する。

これがこの数年前後で何度も繰り返され続けた。

コースを160km/h前後で抑えながら走っていく。

時折減速をし、左右に揺らしながらタイヤを温めていく。

F1中もっとも難関コースも海斗にとっては馴染みのコースだった。

1周を周り切り、スターティンググリッドへ合わせていく。

マシンを止める。

後続車がスタート位置へ並んでいく。

握る手を一度広げる。

右腕に気づいた。

袖をまくる。

あの時と同じ。

赤い筋が見える。

目を閉じる。

23年間の人生が流れる。

短い間。

9歳の時。

初めてカートに乗った時の気持ち。

それが今、またよみがえる。

「海斗」

声が聞こえる。

母の声だ。

「母さん」

「幸せ?」

前までそう言えなかったときがあった。

でも、今はもう違う。

夢は叶った。

仲間もいる。

大好きな人もいるし、子供も。

「幸せだよ」

海斗は答える。

母が幸せそうに笑った気がする。

あとは、全開で前に進むだけだ。

昔の自分とはもう違う。

今の自分は自分を誇れるようになる。

目を開ける。

袖を戻し、ステアに手を戻す。

前を向く。

スタートシグナルの明かりが点いていく。

エンジンの回転数が一気に上がる。

全てが点く。

エキゾーストがデフに上がる。

ライツオフ。

Gが一気に背中に掛かる。

「身体を任せて。ありのままに」

誰よりも早く、最初のコーナーへ突っ込んでいき、抜けていく。

そして海斗は、前に進み続ける。


挿絵(By みてみん)

Fin







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