G 中
海斗がカズの元に来てから8年が経っていた。
乗る車の種類は増え、GT-Rだけでなくコンパクトカーから乗用車、はたまたスポーツカーやハイパワーカーに乗り始め、最終的には海外製のスーパーカーなどにも乗ってサーキットを走る機会も増えていた。
サーキットでのイベントなどにも参加するが、誰もがその腕を認めていた。
無論海斗の速さはカートでも同じだった。
125ccのレーシングカートに乗ることも多くなり、また数々のイベントに参加も多くなっていた。
一方の鈴はというと。
R34のスカGを与えられてから自分で車に手を入れ、目立った車の乗り換えも無く、フレッシュマンのサーキットレースに出場を続けていた。
また度々公道へ出ることが多くなっていた。
公道に出るのは海斗も同じだが鈴は出たきり暫く戻らない日が多かった。
理由は特に訊いては無かったが。
サーキットでは丁度、ここでも海斗がある働きをしている。
モータースポーツオリエンテーションのアトラクションの一環として4人以上の車両に限り、お客の乗ってきた車で運転手が変わり、コースを周るのだ。
一般的には従業員のうちがやるのだが、海斗もその一人だった。
今日の客は男女二人組のカップル。
車は灰色のインプレッサワゴン。
ハネムーンのつもりなのか、独り身のカズにはあまり関わりたくなかったようだった。
これは予約制だったが、受付に来てからも2人とも腕を組んだままいちゃついており、手前の言いつけもまるで聞き流しているようだった。
聞き流しているというのも実際本当のようである。
なんせ、前もってヘルメットの被り方やピットに出てからの注意を散々にしておいたにも関わらず、「あれー?どうやって被んだっけあはー」や「運転するのきょーちゃん(恐らく彼側の名前)なのーえへー」などと言って全くここにきていることさえ自覚していない模様だった。
「最初に説明させていただいたと思いますが・・・」と言うと「ちょっち聞き逃しちゃったみたいですぐふー」というなんとも言えない2人だった。
海斗が車に乗ってみる。
後部座席はごちゃごちゃとしていてバラの香水のようなものが強かった。
車をピット前に止める。
最初のうちに飛ばされそうなものや下手に壊れやすいものは出しておくようにと言っておいたが、いちゃいちゃの2人に聞こえているわけがなく「分かりましたぷひー」としか言っておらず、中は何も変わってなかった。
どうなっても知らね・・・。
海斗は思った。
ようやく2人が出てきた。
従業員の1人が近づいた。
「九太くん、ほどほどにね」
耳打ちをするが、前もってカズに”飛ばしてやれ”と言われた。
従業員<カズの言いつけであることは瞭然であることは分かっていた。
海斗が乗り込む。
後ろでは相変わらず2人の世界が。
「シートベルト、お願いします」
「あ、大丈夫です」
そう答えるとまた2人でべちゃくちゃと離し始めている。
困った・・・。
「すいません、でもこれ上から言われてる規則なのでー」
「えー、マジすかー。マジか・・・」
2人はしぶしぶとシートベルトを付ける。
腹立つ。
エンジンをかける。
オートマ車だったのでアクセルとブレーキのみだった。
サイドブレーキを切り、ギアをドライブに入れる。
ミラーで後ろを見る。
お前たちはいったい何しに来たんだ。
いい加減に・・・。
海斗は体ごと振り向いた。
「すいません!!」
「わびっくりした。なんすか」
「・・・事故ったら、すいませんね」
「え?」
海斗は言い残すと前に向き直し、アクセルを踏み込んだ。
こいつらには、あえてこれくらい不安でも与えてやれ。
3周して戻ってきた後ろのカップルについては言うまでもない。
海斗は家に戻った。
家に長く住みついた黒猫はすっかり年を取ったが元気だった。
お昼中は他従業員と食堂にいた。
カズと海斗がカツカレーと前菜類をカカカと口に放り込んでいく。
「客がまだ残ってるんだ、九太。今日は遊ぶ暇なんかねぇ!食ったらさっさととコース出ろ。レーススーツまで脱いでバカが」
「んだよ!俺は朝から働いたぞ!夕方くらい休ませろ、クソ」
「休む暇はねぇっつーんだ!さては、また車で乗り回して外出るのか!」
「別にいいだろーが!だいたい、鈴だってどっか行ってんじゃねーか!なんで俺はダメなんだよ!」
「偉そうに、俺に向かって口答えとは生意気な。毛も生えてねえツルツルの野郎が!」
「うるっせぇ!毛ぐらい生えてらぁ!」
「どこに生えてんだ!マゴマゴ言わずに出ろ!」
「やだね!」
「んだとぉ・・・?」
海斗は食べきってから席を立った。
「勝った!」
海斗はカズの車のカギを取った。
「あちょ、おい!待て!」
「車借りてくぜー!」
そう言い残すと、食堂を走っていく。
「九太待て!九太!」
海斗はガレージのカズのGT-Rに乗り込むと外の駐車場を抜けてサーキットを出た。
「ったく、しつこいんだから・・・」
この頃になると海斗は頻繁にカズのGT-Rに乗り込んでいた。
これからどこへ行こう。
ナビを付けてみる。
テレビでは渋谷の食べ歩きロケが放映されている。
そうだ、久しぶりに渋谷でも行こうかな。
長らく首都圏の中へは出てきていない。
ナビでは目的地を渋谷南口に設定した。
17歳の海斗は免許など持っているわけがない。
だが、これまで御用になったことまではない。
身体も十分に大きかったし、違反もしたことが無かった。
カズも海斗が外に出て乗り回すのを特に何も言わなかったが。
高速道路を1時間半ほどしてやがて都会の街並みが近づいてくる。
郊外から入ると街並みが大きく変わっていた。
久しぶりに戻る渋谷の街並み。
車は南口の高架下をくぐるとやがてハチ公前で出た。
今から7、8年前だった。
失墜のどん底だった海斗本人がこの交差点を疾走していた光景を思い出す。
何も変わらない。
車はセンター脇に入った。
人通りがさらに多くなってくる。
入ってからパーキングに入れ、海斗は降り立った。
駅へ戻ってみる。
南から15分ほど行った所に神社がある。
その近くに図書館があった。
中に入り、適当に本を取る。
開く。
「・・・?」
読めない。
平仮名は読めるが、漢字などは分からないものが沢山と出てきている。
無理もない、海斗は9歳からは基本教育など全てを忘れてレースに身を寄せていた。
この時の年といえば学校で漢字や算数の割り算なども学び始めたときだったはずなのに、海斗はカートで誰よりも速く、誰よりも果敢に攻める。
それだけを突き詰めていた。
隣に一人の女が立っていた。
高校の制服を着て黒髪のショートヘアの子だった。
海斗はしばらく考えてから、本を差し出した。
「あのさ、これなんて読む?」
その子は本を覗き込むと少し驚いたような顔をしていた。
「鯨・・・」
「くじら?・・・鯨、か」
不意に笑い声が聞こえた。
そっちを見る。
少し離れたところでテーブル席がある。
数人の男女の高校生くらいが溜まって話をしている。
「だからーお前がカケんのがいけねぇんだろーが」
「うるさいー、もしもし?あ、切れたー・・・」
黙っていたが、不意に隣にいた子が海斗を離れた。
しばらくしてテーブルの喧騒が止んだ。
海斗が見るとテーブル脇でその女の子が立っていた。
「・・・何?」
座っていた一人が言う。
「うるさくするなら外行きなよ」
「外なら何してもいいのー?」
「それはあなたたちの自由でしょ」
テーブルの全員は互いを見合っていたが、テーブルを立った。
「行こ」
しばらく立ち去るのを黙ってみていたが、やがてまた本棚に戻ろうとすると海斗の姿が消えていた。
閉館近くになってから、図書館を出ると掲示板前でさっきの連中が集まっていた。
「こいつ、1年の時からウザくて。誰ともしゃべってないの」
女子の一人が言う。
「へー、じゃあ何しても良いんだね」
そのそばを通っていこうとするのを肩を掴んで止められた。
「おい無視すんなよ」
鞄をひったくられると中身を地面にぶちまけられた。
「やめてよ!」
「外でなら何してもいいんでしょー。いいんだよねー」
その少し離れたところで男子が笑っていた。
そのさらに少し離れたところに海斗がいた。
コンビニでおにぎりとスポーツドリンクを買っていた。
男子の一人が海斗に気づく。
「あー、ゴメンゴメン。見ちゃった?いやーちょっとばかり取り込んでてさ・・・」
とたんに1人が後ろに回り込むと両腕を抑えた。
もう1人が胸倉をつかむ。
「何も見てねぇよな。おい!何も知らないよなぁ!!」
そう言って左膝を海斗の腹に蹴りいれた。
が、ボンと跳ね返った。
「な」
海斗はただ前のその男子を見ていた。
「なんだよ、その目は!」
右こぶしを同じく腹に入れるが、同じだった。
続けて右、左、右と入れる。
海斗は平然としている。
「うぜえんだよ!」
右から頬横を殴ったが、変に潰れる音がした。
「い、痛ってぇー!!」
男子が拳を包みながら、しゃがみ込んだ。
海斗は顔を戻して平然と男子を見ている。
「くそ、どうなってんだ、こいつ・・・」
不意に海斗が両腕を強く振り上げた。
「わ、わぁー!」
抑えていた一人がひっくり返った。
「て、てめー!」
また拳が飛んでくるのを片手で受け止めると握力を入れ始めた。
「や、やめ・・・痛ててててっ!」
海斗がさらに力を入れる。
「やめ、やめろ!おま・・・」
拳からはやがてメキメキと変な音を立て始めた。
「・・・行こう」
「うん」
女子が離れていく。
海斗が離す、男子は悲鳴を上げながらその場で崩れ落ちた。
海斗は神社近くの駐車場に車を止めていた。
タイヤ止めに腰掛けて本を読んでいる隣に、さっきの女の子が立っていた。
「新学校は皆仲良しなんて嘘だよ」
女の子が言う。
「お父さんとお母さんは私が小学校卒業前に死んじゃった。震災で」
今から5年くらいまえだったと思う。
北の方で起きた地震がとてつもない被害を与えたと聞いたが、レースに夢中だった海斗はあまり聞く機会がなかった。
「それからは養護施設に預けられて、それからずっと過ごしてる。一人でいるのも慣れてるもの」
海斗に向き直る。
「暴力は良くない。でも助けてくれてありがとう」
「別に助けてないよ」
「助けたじゃん。・・・それより平気なの?」
「何が?」
「体抑えられてあんなに殴られてたじゃない」
「あんなの、カートのGに比べたら痛いにならない」
女の子は傾げた。
「G?」
「加速度のこと」
「・・・ふーん」
「なぁ、これなんて読む?」
女の子は覗き込んだ。
明らかに中学生くらいで習った漢字だった。
「何も知らないんだ。小学校の時から学校行ってない」
「そうだったんだ・・・」
「母さんが事故で死んで、それからずっと。父さんもどこ行ったか分からない。それでしばらく世話になった人がいるんだけど」
海斗はまた本を読み続ける。
「それなら・・・私がその本、教えてあげようか?」
「え?」
海斗が見上げる。
「私がその本の分からない所とか、全部教えてあげる」
「本当か!」
海斗が立ち上がった。
「うん。私、楓。木に風って書いて、楓」
「楓・・・か。俺は、海斗。海斗って字は・・・点が3つで、上が、・・・えっと」
「あ」
楓が指をなぞる。
「”うみ”と”と”かな?海はさんずいに毎日の毎。”と”は点が二つに十」
「そう、たぶん」
楓は笑みを浮かべた。
「海斗くん、か・・・」
言うと軽く笑みを浮かべた。
風が彼女―楓の髪を揺らす。
「海斗くん、って車好きなの?」
「まぁ。どうして?」
「この車、なんていうか・・・スポーツカーだよね」
「俺のじゃないけどな。世話になってる人の」
「そうなんだ。・・・だと海斗くんてもう18歳なのかな」
「えっ?」
海斗が楓を見る。
「だって免許持ってるから運転してるでしょ?私より年上だね」
海斗は少し黙ってから言った。
「楓は何歳」
「もう17になったよ」
「誰にも言わないか?」
「・・・何?」
「俺たち、同い年だ」
今度は楓が黙った。
「俺免許持ってない。無免でずっと過ごしてきた」
楓はGT-Rと海斗を見る。
「俺はカートレーサーだ。死んだ母さんはフォーミュラーレーサーだったけどレース中の事故で死んだ。身寄りのなくなった俺を引き取ってくれた人がプロレーサーなんだけど、前から俺を知っててよくカート場に顔だしてたのを見られてた。それで俺にカートを乗せ始めて、それから俺の年の人はみんな学校行ってたのに俺だけは一人でサーキットを周ってた。知らずのうちに実車にも乗り始めていた。サーキットならクローズドだから免許無くても乗れるけど、その時から公道にもちょくちょく出て運転してた。今もバリバリの無免許だけどさ」
楓は横で黙って聞いていたが、不意に聞いた。
「レースって楽しい?」
「楽しいよ。でもそれ以上に俺はカートに乗っているのが落ち着くというか、気持ち良いんだ。カートに乗っていると知らないうちに母さんと一緒にいる気がする。だから、レースに出ても勝てる。予選でもいいタイムが出せる気がする」
海斗は本を閉じると立ち上がる。
「施設まで送ろうか。俺が住んでるのは全然違うところだけど」
「でも・・・」
「大丈夫、数年間無免で運転してるけど1回も捕まったことも無いし、目を付けられたことも無い」
「でも迷惑じゃないかなって」
「全然。場所言ってくれればどこでも送れる」
「・・・それじゃ」
海斗は鍵を開けると、助手席の扉を開けて楓を乗せた。
扉を閉め、運転席に回る。
車を出した。
楓は広尾にある児童養護施設にいたらしい。
施設前で楓を下す。
「ありがとう。この事は誰にも言わない」
「そうしてくれると嬉しいよ。でも本当にこれから本を教えてくれる?」
「もちろん。放課後なんかには時間あるからまたあの図書館に来て。待ってる」
「分かった」
その後、携帯の番号を聞いてから別れた。
家に戻る車。
助手席には楓の香りがうっすら残っていた。
それからは毎日のように海斗は朝のランニングを終えてから、午前中はサーキット、午後は練習、夕方になる前には図書館へと向かっていた。
楓は都立の高校に通っていた。
海斗の取った本はアメリカのハーマン・メルヴィルの長編小説、『白鯨』だった。
捕鯨船の船長はその昔、大きな白い鯨に片足を奪われ、その復讐を誓う。
だが。
「主人公は自分の片足を奪った憎い鯨に復讐しようとしている。でも実は主人公は、自分自身と戦ってるんじゃないかな」
「自分自身?」
「うん。つまり、鯨は自分を映す鏡で」
「鏡、か・・・」
海斗は楓と本だけでなく、ほかの勉強も始めた。
身近な小学・中学の勉強から。
楓は勉強を見るのがうまかった。
むしろ海斗の勤勉さが良かったのもあるかもしれない。
小学・中学と進んで勉強を進めていった。
休憩などには代々木公園などへ散歩に行ってた。
「すごい集中。これなら私の参考書の問題も近いうち解けるかもね」
「楓の教え方が上手いんだ」
「そう?」
「そりゃそうだ。だって俺本人が言ってるんだから、間違いない」
2人は遊歩道の途中で座った。
「それで、お世話になってる人ってどんな人?」
「カズってやつ。あと同い年で鈴ってやつも」
「兄弟?」
「みたいなものかな。でも世話になってるのはカズの方。テキトーなやつでさ」
「適当なの?」
「ああ。練習の時もヒントしかくれないし、あとは自分で考えろって。マジなんなんだか」
「でも、仲いいんだ」
「まさか。喧嘩してばっかり。・・・まぁ腕は確かだけどさ」
「いいな。私親と喧嘩とかしたことない」
海斗は楓を見た。
「中学入るまでは親がいた。親の幸せのために私がいる。幼稚園から受験してそれまでは親を納得させる成績を死にもの狂いで取って、でも震災で家と親も無くなってからは東京の養護施設に入って、それからは私一人のために勉強してきた。でも分かってる。私は私自身で自分を見つけなきゃ。そうでなきゃ本当の私になれない。これからもそう。だから今は辛くても必死で勉強して、学費免除されるくらいの成績で高校を卒業して大学に受かったら施設を出る。それからは私自身のためだけに勉強して、自分の力で卒業して、そして自分の人生を生きる。私の幸せのために、生きる」
しばらく沈黙が流れる。
楓が空を仰ぐ。
大きなため息をひとつ。
「初めて私の本音を誰かに言えた!」
楓は大きく背伸びをした。
「スッキリしたー」
「楓・・・」
海斗は楓を見る。
楓は海斗を見た。
「海斗くんはこれからの夢は?」
「分からない。でも多分これからもずっとモータースポーツだと思う。今はカートに乗ってるから将来はできたらカーレーサーとかになりたいのかも」
「私知ってる。F1、とか?」
「いやー、そこまで行けたら凄いだろうなぁ・・・」
海斗は苦笑いをしながら頭を掻いた。
「でも海斗くん勉強は楽しくない?」
「まさか。すごく楽しいよ。こんなに面白いものだとは思わなかった」
「でもやっぱり私が教えるには限界がある。でも、多分海斗くんの知りたいことをもっと教えてくれる人がきっといるよ」
「知りたいこと?」
「海斗くん、大学行く気ある?」
「大学・・・?」
「そう。大学ならきっと知りたいことがもっと見つかるはず」
「でも、そんなの考えたことないよ。それに高校だって行ってないし・・・」
「海斗くん、高認って制度知ってる?」
「コウニン?」
「高校卒業認定制度って言って。昔は大検って言ってね、これを受ければ高校に行ってなくても高校卒業の資格を貰えて、大学受験もできるの。そうすれば大学へ行く幅も広くなるよ」
海斗は考える。
「んー・・・」
「受験なら私がサポートするよ」
海斗は手元の本に目を落とした。
「知らない事、もっとたくさん知りたくない?」
次の日の土曜日朝。
海斗はいつものように走っていた。
『知らない事、もっとたくさん知りたくない?』
楓の言葉が頭をよぎる。
走りながら考える。
「知らない事・・・か」
今までレースばかりの自分だったのに。
知らず知らずのうちに勉強が楽しくなっていたのは自分でも驚いていた。
勉強は楽しくないものだと思っていた。
そういう人もいたからだ。
でも気が付いたら確かに楽しんでいた。
部屋に戻り、支度をする。
鈴が降りてくる。
「どこ行くの?」
海斗は鈴を見た。
「ちょっとな」
「何?」
「まぁ大したもんじゃねぇよ」
「最近カズさんの車でどこ行ってるの?」
「お前には関係ねぇよ」
鈴はややムッとした顔をしたが部屋に戻った。
海斗は渋谷の区役所へと楓と向かった。
が。
「無理でしょ」
「えっ?」
2人は愕然とした。
「だって君、どんな学力だか知らないけど、その年まで引きこもってたんでしょ?今からなら夜間中学からでも始めたら?」
「ですが―」
「もし仮に受かっても保護者の援助なしに学費どうするの。奨学金もよっぽどじゃなきゃいくらまで出せるかも分からないんだし。世の中そんな甘くないんだから・・・」
「しかし・・・」
楓は言葉を濁らせた。
2人は事務所を出る。
「っ、よく分かりましたっ」
楓は出ていく。
「やっぱり無理だよ、大学なんて・・・」
楓は落ち着かないまま案内掲示板の回りをぐるぐる回っていたが、上から別の人が駆け下りてきた。
「ごめんねー!何でも相談して!特待制度のある大学も少なくないし、返済不要の起業奨学金も紹介できるから。まぁもちろん成績次第なんだけどね。分からないことあったらなんでも言って」
「あ、ありがとうございます!」
楓が頭を下げる後ろで海斗も後から頭を下げた。
海斗は高等学校卒業程度認定試験の教科を眺める。
「数学と理科も必修・・・全く勉強してないけど」
「そこは任せて!しっかり私が教えるから」
チャイムが鳴った。
「高認受験のため住民票が必要とのことですが、元の住民票は既に職権で削除されているようです」
「やっぱり・・・」
「ただ戸籍の付表に記録が残っていますのでこちらから新しく住民票が登録、手続きができます。お父様の名前と現住所の記載に間違いがないかご確認ください」
書類に目を通す。
「離れて、暮らしてた、お父さん・・・」
「どこにいるかも見当がつかなくて。まさか、こんなに簡単に父さんの居場所が分かるなんて・・・」
「どうする?会いに行く?」
「今から行ったら迷惑じゃないかなー・・・。忘れちゃってるかもしれないし。でも―」
次の日、海斗は都内にある自動車修理工場前のパーキングまで来た。
まだ迷っている。
でもどうしようか。
車の中で1時間は悩みいただろうか。
工場から1人が出てきた。
「浩二さん!」
後ろから若い人1人が続く。
あれが、父さん。
部品を渡されしばらく見回してからまた返した。
意を決して車を出るとゆっくりと近づいていく。
「・・・あっ、あ、あの」
のどから詰まりそうな声を出す。
浩二は振り返り、海斗を見る。
「・・・はい?」
「お、俺のこと、覚えて、・・・ますか」
浩二はしばらく海斗を見ていたが、頭を傾げて軽く困った笑みを浮かべながら頭をかいた。
「そうですよね・・・」
海斗は肩を落とした。
「すいません・・・」
そう言うと海斗は車へ戻ろうとした、その時。
「海斗?・・・海斗なのか?」
海斗は振り返る。
その途端、海斗に抱きついた。
「と、父さん?」
「こんなに大きくなって・・・分からねーよ!どこで何してたんだよ?」
「その、世話になった人がいて、それで・・・」
「そうか。良かった・・・。すまない、今まで何もしてやれなくて」
「父さん・・・」
浩二は暫く海斗を抱きしめたままただ泣いていた。
「そう、良かったね」
楓が言う。
「父さん、母さんの事ずっと後になって知ったらしい。行方不明の俺をずっと探して、警察が諦めた後にもあちこち探しまわってたらしいんだ」
「そう・・・」
「楓ー!その人楓の彼氏ィー?」
「違うよ!」
「じゃあ誰ー?」
「どこの学校ー?」
学校のフェンスを挟んで後ろから声が上がる。
「あっち行ってて!」
楓が言うと笑いながら蜘蛛の子を散らすように中へと行った。
「ごめん」
「いや、いいよ。これで俺も普通になるのかな」
「普通?」
「普通のやつと同じで親と一緒に居て、普通に勉強したり働いたりして。普通に家に帰って普通に寝る。今までレースばっかりだったけど、もしかして俺にもそんな普通の生き方、あるのかな」
「どうするの?これから」
「でも、やりたいことあるし・・・」
「レーサーになること?」
「うーん、でも・・・」
「悩んでるんだ。カズさんのことも」
テーブルを挟んでカズが座っている。
「どこ行ってた」
カズが言う。
近々ニュルブルクリンク24時間に出るため、既に準備を進めていた。
「大事な話があるんだ。・・・聞いてくれるか」
海斗が言う。
「俺からもある」
カズが言う。
「お前の寝床にこれがあった」
中学演算参考書。
「最近は午後もスッポかして、勝手に俺の車乗り回してどこ行ってるんだ?近いうちここのことは暫くお前と鈴に全部任せるんだ。その覚悟がお前出来てるのか?」
海斗は暫く黙っていたが答えた。
「・・・大学に行きたい」
「ああ?」
「この世界をもっと知りたい。だから・・・」
カズが憤り半分の顔で海斗を見る。
「大学に行くのはいい。だけど考えろ、お前の夢はなんだよ。そんなことよりお前にはもっとやるべきことがあるだろうが。速くなるのがお前の目的じゃないのか。プロになって食っていく。そのためにここにいるんだろ?俺もそのためにやってやってんだろうが」
「速くなったよ」
「速い?笑かすな」
「十分速くなった」
「お前のどこが速くなったってんだ。あ?」
「はぁ・・・お前と話してるといつもこんなになるよな。俺の話も聞かずに自分ばっか勝手に喚いて」
「言ってみろ!いつ速くなったんだ?」
「もういいよ!」
カズは立ち上がると中学演算参考書を取った。
海斗は玄関の前に立った。
「待て!どこ行く」
海斗は顔だけ振り返った。
「もう一つある。俺の本当の父親が見つかった。そこに帰る。今決めた」
「なっ・・・」
海斗は玄関に向かった。
「待て!九太!」
海斗はGT-Rに乗り込むが、フロントでカズが手で押さえる。
「行くな!」
海斗はエンジンを掛ける。
「どけよ!」
海斗は一度デフまで吹かした。
「行かせねぇ」
ムッとした海斗はいったん降りるとカズの左頬を殴った。
地面に転げるカズの隙に素早く発進した。
「待て!九太!」
カズの制止も振り切って行く。
「九太!!」
カズが叫んだ。
鈴は上からそれを見ていた。
代々木公園の中央を歩いている。
「迷ってたの解決した?」
楓が訊く。
海斗は黙っていた。
「しなかったんだ」
「関係ないよ、もう。これから父さんと会うんだ。会ったら解決する」
「無理してない?」
「まさか。なんで俺が」
そう言い残すとまた道を歩き続けた。
修理工場前で待ち合わせた。
父はスーパーの買い物を提げていた。
「海斗!今日はお前の好きな卵トーストだ。作って一緒に食べよう」
車は父と運転席だけ代わった。
「それはそうと、海斗。世話になった人のこと詳しく教えてくれないか?」
父の運転する横顔はどこか懐かしい面影があった。
「えっと、サーキットを運営してるプロのレーサーで・・・」
「レーサーか。母さんみたいなフォーミュラーレーサーだったりして」
「いや、普通の箱車だよ。でも今度ニュル24時間の出場が決定してる。この車で行くって」
「それじゃ、すぐに返した方がいいんじゃないのか?行くついでにご挨拶のひとつでもしないと。それから過ごさないと」
「え・・・」
海斗が言葉を詰まらせた。
浩二が不思議そうに海斗を覗く。
「いや、当然だよ。だって急に埋まんないよ、時間」
「そっか。ごめん、そうだよね。大人の流れる時間と子供の流れる時間って全然違うもんな。俺にとっては薫や海斗と過ごした時間がつい昨日のように感じるんだ」
「昨日・・・」
「しっかりしなくちゃならないな、これからも。少しずつやり直そう。前を向いて進んでいこう。辛かったことも全部忘れて」
「・・・なんだよやり直すって」
海斗の言葉に浩二が振り向いた。
「なんで全部辛いって決めつけるんだよ」
「海斗・・・」
「父さんは俺の事何も知らないくせに。知ったようなこと言うなよ!!」
海斗が怒鳴った。
しばらく沈黙が流れてからまた海斗が口を開いた。
「・・・そうだよな。父さんが知らなくて当たり前だもんな。俺居なかったんだし。ごめん、俺やっぱり向こうに戻るわ。今日は行かない」
そういうと、車を降りた。
浩二も降りると、席を変わる。
「夕飯は?」
「要らない」
海斗は車を反転させる。
「海斗!もし決まった道があるなら、海斗自身で決めたらいいよ。だけど忘れないで、そのためなら俺はできる限りのことをなんでも全力でするから。だから・・・海斗!」
海斗は黙って元来た道を戻り始めた。
「何やってんだ俺・・・なんで実の父さんにあんなこと言っちゃうんだ?」
夜。
海斗はまたサーキットをランニングしていた。
今までの出来事を考える。
―海斗くん、大学行く気ある?
そんなの考えたこともない。
俺の夢に関係あるのか?
そんな俺が大学なんかに通ってる暇が?
―お前の夢はなんだよ。そのためにここにいるんだろ?
カートで世界一を目指す、そんな夢。
俺の勝手だろ、そんなの。
なんで他人に口出しされなきゃならないんだ。
―海斗自身で決めたらいいよ。そのためなら俺はできる限りのことをなんでもする
俺一人でもここまでのし上がってきた。
なぜ今更?
でも・・・。
海斗は立ち止まった。
考えが交差する。
どうすればいいんだ、俺は?
くそっ・・・!
「・・・わっかんねぇ!!」
夕食を終えてからガレージに入った。
明日には搬送され、しばらくこのGT-Rとはお別れとなる。
海斗はGT-Rのカーボンボンネットに手を当てた。
「・・・頑張れよ」
つぶやくと家の中へと入った。
すでに中は暗いままだった。
カズは既に自分の自室に入っていた。
鍵をテーブルに置くと上に行き、自分の寝室へと入る。
ベッドに転がる。
そのまま目を閉じて眠ろうとするが、眠れない。
今日の事、そして今までの事で頭がいっぱいだった。
海斗は電話を取ると連絡先から楓を選択した。
こんな時間に電話するのは、と一瞬ためらいもあった。
呼び出し音は10秒ほど経ってから止まった。
「・・・もしもし」
楓の声。
「あー、もしもし。俺、海斗なんだけど」
「海斗くん。どうしたの?」
「その、こんな遅くにごめん」
「ううん。私も起きて勉強してたから」
「そっか。そのー、なんていうか・・・」
海斗は立ち上がるとベランダに出た。
「居てもたってもいられないっていうか、気分が落ち着かないっていうか」
「何かあったの?」
「父さんと会ったんだけど、そのまま帰ってきちゃってさ。アイツとも喧嘩して口聞いてない」
「そっか・・・大変だね」
眼下にはサーキットが続いている。
夜で風が揺らす木々の音が辺りの静寂を割っていた。
「そう言えば、楓の名前って木の楓だよね」
「そうだよ」
「俺とこのサーキットはさ、周りが楓の木で囲まれてるんだ」
「そうなんだ」
「ああ。秋になると綺麗な葉っぱに色づいて、たまにコースの上とか縁石が落ちた葉っぱでいっぱいになったりしてさ」
「へぇー。そうなると、どうするの?」
「あまり多いと片づけたりする。それでも走ってる時にたまに落ちてる葉っぱとかで最悪スリップしたり、グリップ落ちたりして」
「そっかー・・・」
「どうして楓って名前なんだ?名前の由来は?」
「楓って立派な木でしょ?だから木のように根付き、たくましく、風のように爽やかで、時には勢いよく・・・それでいて楓の葉のように四季とりどりに色を変える。臨機応変、柔軟で慎ましやか・・・て感じかな」
「そうなんだ。今の楓ピッタリ」
「あはは、ありがとう。でもまだまだだよ・・・」
海斗はベッドに戻る。
「海斗くんの名前はどんな由来なの?」
「さぁ・・・。聞いたこともないし考えたことも無い。だいたい海に斗って、何か意味あるのかな・・・?」
「意味が無くて付ける親はいないと思うよ。それがどんな理由でも、きっと何かの意味を持ってるはず」
「そっか・・・そうだよな」
海斗が答える。
「ありがとう。ちょっと落ち着いた」
「良かった」
「ごめんな、こんな時に」
「いいの。また何かあったらいつでも電話して、ね」
「ああ。じゃぁ・・・寝るわ」
「うん、おやすみ」
電話を切った。
「誰から?」
鈴の声がした。
「知り合いだよ。・・・誰でもいいだろ」
「・・・女の子?」
「お前には関係ねーよ」
海斗が言うと鈴は黙り込んだ。
夜遅くまで起きていたため、次の日に起きたのはお昼頃だった。
下の階に行く。
鍵は無くなり、少し部屋が片付いていた。
ガレージに行くがGT-Rはすでになかった。
カズはすでにドイツへと向かったようだ。
車も一緒に。
鈴も既に家を出たらしい。
家の中に残されたのは海斗と・・・。
黒猫が来ると海斗の前でニーと鳴いた。
そうだ、こいつもいた。
カズと鈴の居ないリビングは何となく落ち着いていて、それでも何か淋しかった。
鈴は度々のように家を出ていた。
今日も早朝から家を出ていた。
1週間くらいの間ずっと楓と図書館に行いながら公園へ行った。
ひと段落してから2人は代々木公園のパーキングの傍で2人座っていた。
前にはセリカが止まっている。
「今日は少し涼しいね・・・」
「ああ。心地がいい」
「しばらく車が違うね」
海斗のセリカは長らくガレージにしまっていたが、GT-Rも無い今、レース感覚を補う為にもセリカに乗っていた。
前までセリカはサーキット専用にしていたものだったが、気付けばカズが知らぬうちにナンバーを取得していた。
「いつもの車はちょっと今は使えないんだ。今度あいつのレースでさ」
「そうなんだ。どれくらい?」
「まぁ数週間てところかな」
「そっか」
「なんか悪いな。いつもの車じゃなく急にこんなので」
「良いよ。私この車好きだよ。なんて言うの?」
「セリカ」
「セリカ・・・か」
海斗は本をしまった。
「海斗くん、どこか行きたい所とかない?」
「さ、さぁ・・・」
「今日は早めに勉強切り上げて、どこか行かない?」
「行くってどこへ?」
「私に任してくれれば連れて行くよ」
海斗は楓に連れられながらお台場の方を周った。
レジャーランドで遊んでから、お昼はパレットタウンで食べてからアクアシティを周った。
夜は海浜公園で一休みをした。
「あー、楽しかった。こんなに遊んだのすっごく久しぶりだと思う」
「俺も。ずっと車ばっかり乗ってたからさ」
2人は海沿いのベンチで座った。
「海斗くん、これからどうするの?」
「まぁ、一人で家に帰って一人で飯作って一人で寝る、かな」
「ずっと一人?」
「ああ。だってあいつはいないし、従業員も必ずしもいるわけじゃないし」
「そっか・・・。さびしくない?」
「全然。こんなのいつでもあったから」
楓はしばらく黙って考えていた。
「もし迷惑じゃなかったら、私も一緒に付いててもいいかな?」
「え?」
海斗は楓を見る。
「一人だといろいろ大変だろうし。それに私海斗くんの家ってどんなのかなーとか気になるし。だめ?かな」
「良いけど施設は大丈夫なのか?」
「連絡しておくから、大丈夫」
「本当に?それなら良いよ。丁度明日と明後日はニュル24時間でアイツが走るんだ」
「あいつって、海斗くんが世話になってる、カズさんて人?」
「ああ。衛星中継のやつを見るんだ。良かったら、その・・・」
「私も見ていい?」
「もちろん」
2人は家に戻った。
「ここだよ」
海斗は玄関の鍵を開けて中に入る。
「広い・・・」
「まぁあいつ、サーキットも経営するくらいだからさ。夕飯は食べたし、もう寝るか」
海斗は下のお客用の部屋を開いた。
「好きに使って。ちょっと狭いけど、な」
「ううん、全然大丈夫。すごく広い。私の部屋でもここまで広くないもの」
「良かった。風呂は好きに入って。バスタオルも脱衣所にあるから。着替えは用意できないけど」
「ありがとう」
「・・・んじゃ、俺はもう寝るわ。おやすみ」
「うん、おやすみ」
海斗は上の寝室へ向かった。
楓は風呂を覗いた。
大きなガラス張りに大きなバスが置いてある。
楓が中に入る。
バスの前の壁には画面が埋めてあった。
テレビか何かなのかもしれないが、楓はちょっとためらいもあってつけなかった。
でも手足がここまで伸ばせる風呂は初めてだと思う。
すぐ横はきっとコースが眼下に広がっているのだろうけど暗くて街灯だけが点々と灯されていた。
風呂をあがってから寝室に戻る。
寝室の壁には一面に車のポスターや写真が貼られていた。
そばの本棚にはどれもレース関係の本などが並んでいる。
そのうちの一つを手に取ってベッドで横になってから開いた。
次の日の朝。
遅く起きた海斗は下に行くと、既にテーブルには卵焼きやウインナーにトーストが並んでいた。
「あ、あれ・・・?」
台所から1人が顔を出した。
「おはよう!」
「おはよう・・・」
「勝手にやるのもあれかなって思ったんだけど、こうして泊まらせてくれてるから何かやらないとって思って」
いつもの朝食とは全く違う。
多分冷蔵庫にいろいろあったのに楓は使うのをためらったのだろう。
海斗はテーブルに座る。
向かいに楓が座った。
「眠れた?」
「うん、すごく気持ちよかった」
「朝はちょっと準備あるから、好きに家使ってていいよ」
「分かった。でも勝手にやるのはちょっと悪いかな・・・」
「遠慮しないでいいから。自分の家みたいな感じで、な。いただきます」
海斗は箸を取ると皿に近づけた。
あれ・・・?
どこかで見た覚えがある光景だった気がする。
「海斗」
別な女の人の声がした。
「海斗の好きな、卵トースト。熱いうちに食べよ」
口に運ぶ。
「海斗くん、どうしたの?」
海斗が見上げると楓が心配そうな顔をしていた。
「なんでもないよ」
「なんでもないことないよ。だって、海斗くん。泣いて、るよ・・・?」
「え?」
知らず知らずのうちいつの間にか海斗の頬を涙が伝っていた。
「あ、あれ?」
海斗が立ち上がる。
「わ、悪い」
海斗は反転すると階段を上へと上って行った。
「海斗くん!」
ベッドでうつ伏せになる。
悲しいわけじゃない。
思い出したんだ。
長い間海斗の食べていたものは普通の人とは違っていた。
だから一般家庭の食べ物を忘れていた。
「そっか・・・」
今まではこうだったんだ。
海斗は起き上がる。
階段を下りて行った。
「大丈夫?」
「ああ。ごめん、迷惑かけて」
「ううん、私こそごめんね。何か嫌なこと思い出させちゃったみたいで」
「いやむしろ良かった。俺は今まで全く違うもの食べてたの忘れてたんだ。なんか、母さんの料理みたいで」
「そう。食べれる?」
「もちろん。楓料理上手いね」
海斗はその時だけは久しぶりにごく普通な朝食を食べていた。
その間楓はずっとそばについていた。
上から足音がした。
鈴が降りてきた。
「鈴!」
鈴はテーブル前の海斗と楓を見た。
「朝食だ。そういえば、お前にはまだ会わせてなかったな。楓、俺の知り合いで、いろいろ教えてくれるんだ。俺らと同じ17歳で―」
「ちょっと出かけてくる」
鈴はそのまま家の玄関へと向かった。
海斗は立ち上がった。
「出かけるって、今日夕方カズのレースだぞ。どこへ・・・?」
鈴は振り返った。
「あんたには関係ないでしょ」
「あ、朝飯は?」
「要らない」
そう言い残すと外へ出た。
「私、嫌われてるのかな・・・?」
楓が言う。
「そんなことは・・・」
海斗は言いかけたが、やがてため息をついた。
その日の16:00までにはサーキットを閉めた。
西日がサーキットのホームストレートを照らしている。
海斗が地面から熱気の残るコースに出た。
コーナー下りから楓が枯葉で一杯のチリトリと箒を持って戻ってきた。
海斗は楓に気づくと近づいて行った。
「いろいろ手伝ってくれてありがとう。時間と人手が無いからって受付とかやってもらっちゃって、悪いな」
「ううん、いいの。楽しかった」
「楓は覚えが良いから何でもすぐ出来るからいいな」
「そうかなー」
「ああ」
「今日はカズさんのレースでしょ?」
「うん」
海斗は路面の舗装路を撫ぜた。
辺りはガソリンと白煙の臭いがたちこもっている。
「何してるの?」
楓が訊く。
「熱いな」
海斗が答える。
「海斗くんはいつもこんな仕事してるんだ」
「ああ。でも今は、もう何も」
海斗は暫くコーナーの奥を見つめていた。
「そうだ!どうせ時間はあるし、ちょっと乗るか」
「えっ?」
海斗はピットへ回った。
ガレージの一つを開ける。
ガレージにあるのはトヨタのヴィッツRS。
「私運転したことないよ」
「いいから」
楓を運転席へ乗せる。
海斗は助手席に乗り込む。
「していいの?」
「ああ、ゆっくりでいいから。やってごらん」
楓はシートベルトを締める。
「エンジンは右のボタン」
「う、うん」
「かける前にブレーキは踏んどいてね」
「あ、うん」
ボタンを押すと同時にエンジンがかかった。
電気系統に明かりが点く。
「そこのレバーのボタンを押しながら軽く引いて下げる。それからそこのギアを変えて」
サイドブレーキが緩むとギアをドライブに入れた。
「よし、じゃぁ好きに走ってごらん」
「好きに?」
「そう。ここはピットも道幅は広いし好きなだけ出してもいいからさ。サーキットだから」
「うん・・・」
楓がブレーキを緩める、車が動き出すと同時に急にまた止まった。
「わ!・・・ごめん」
「びっくりした?」
「う、うん。ちょっとね」
楓が困り笑いを作る。
「クリープって言ってね。オートマ車はブレーキを緩めれば自然に進むんだ。ブレーキもアクセルも実際多分楓が考えているほど効かないわけじゃないから、上からちょっと軽く踏むだけで進んでいく。あとは曲がりたい方に好きなだけステアリングを切る」
「んー、でもちょっと難しいかな・・・」
「大切なこと一つ」
「大切なこと?」
楓が海斗を見る。
海斗は笑う。
「身を任せて、ありのままに」
「身を、任せる?」
「そう。操るのは運転手。それに答えるのが車。だから車の答えに身を任せるんだ。大丈夫、自信を持って」
「うん。やってみる」
楓は前を向くとまたブレーキを緩めた。
車が進み始める。
ピットを出てコーナーに入り、ロードコースを周る。
1周の間、海斗は横で見ながら教えていた。
ショートサーキットのシケインを抜ける途中、海斗は車を止めさせた。
ギアをパーキングに入れ、サイドを引き、エンジンを止める。
「どうしたの?」
「しっ」
海斗が車を降りる。
楓も後を追った。
周りは風と木々を揺らす音だけが残る。
「・・・気持ちがいい」
楓が言う。
「そう思う?」
「うん」
楓が頷く。
海斗はインの縁石に近づく。
「丁度ここだった。タイムアタックで走っているとき雀を轢いてね。元気になったと思ったら、ある日の朝、冷たくなってた」
「そうなんだ・・・」
落ちていた楓の葉を拾い上げた。
「俺たちは走り行くうちに忘れかけるんだ」
「何を?」
「レースよりも大切なものだ」
そう言って海斗は葉を水平にした。
一匹の小さな蟻が表面を這っていた。
「こんな小さいのに・・・気付いたの?」
海斗は笑って鈴を見る。
「俺らはレースをしている。レースは常に上を目標にする。誰もが上を狙う、欲を持ってるんだ。そうすると、いつの間にか忘れていく。他の命が見えなくなってくる気がする」
「海斗くんも?」
海斗は軽く頷いた。
「速くなりたい。トップを取りたい。・・・でも他の命を忘れたくない。忘れちゃだめなんだ。レースよりももっと大切なもの」
海斗が言う。
「大切なもの、か・・・」
車は1周周ってからピットに戻った。
「はー。面白かった」
「良かった。楓本当に物覚え良いんだな。少し教えただけでコツもタイミングも覚えられるから」
「えへへ。ありがとう。海斗くんが教えてくれたからもあるよ。海斗くんもこんな感じで運転してるのかな」
「レースの時はもちろん5、6倍のスピードは出てるけどな」
「そんなに!すごい・・・」
「ああ。だから本当はもっと覚えることもあるし、自分で見つけ出さないといけないこともあるんだ。でも、一つだけ同じことがある。なんだと思う」
「うーん・・・」
楓がしばらく考えた
「身を、任せる・・・?」
「そう!身を任せるんだ。いつだってそれは変わらない。どんな名レーサーも車と一心同体になるには、ただ体をマシンに預けることなんだってね」
「そっか」
「それともう一つある」
「もう一つ?」
海斗は楓を見た。
「命を見ること、って言うのかな」
「・・・そっか」
「きっと楓なら、そんな人になる気がする」
「そんな人?」
「そう。いつでも、欲を持たずに、他の命を忘れない。そんな人になると思う」
「そうかな」
「ああ。きっとそうだよ」
車をガレージに入れる。
辺りは暗くなりはじめていた。
「いつも終わった後に考えるんだ。考えるたびに答える。俺はいつも一匹狼でのし上がって、夢なんてあるのかって。いろいろ自問自答を繰り返すんだ。俺はいつも一人だった。数年間の間、ずっと。でもいつも俺だって一人じゃないと気付いたんだ」
「そうなんだ」
「もちろん楓と出会った時もそうだ。楓は俺にいろんなことを教えてくれた。今の俺があるのも楓のおかげでもある」
「そんな、一番は海斗くんの力だよ。一生懸命に頑張ってたんだから」
「今まで色々面倒を見てくれたんだけど、俺考えたんだ。俺多分、大学には行かない。勉強は楽しいよ。いろんなことを知ることができた。世界は広いんだって思った。初めて知った。でも俺にはやっぱりそれよりやることがある。やりたいことがあるんだ」
「そっか・・・」
急な答えに楓は残念そうに俯く。
「楓を裏切るような形になってごめん」
「ううん。海斗くんの人生は海斗くんが自分で決めないとね。だから決断出来てすごいと思う」
それでも楓は残念そうだった。
「楓」
「なに?」
「俺今まで考えてたことがあるんだけど。今言って良いかな」
「いいよ。どうしたの?」
「ひとつ、提案があるんだ」
「どんなの?」
「よく考えてほしい。これはもしかしたら、楓の人生を変えてしまうかもしれないから」
一通りの見回りを終えてから従業員や海斗と楓は食堂に集まった。
大型のスクリーンでは既にニュル24のスタート前になっていた。
全員が集まっていた。
普段食堂で働く人も今日限りは特別手当で居てもらうことになった。
テーブルには一晩では食べきれないような食べ物が沢山盛られている。
から揚げが大皿に盛られているのを海斗が取った。
「見ろ!いるぞ!」
カメラはピットを捉えている。
ピットには黒いGT-Rが止まっている。
違うのはスポンサーやゼッケンのシールが貼られていることだった。
車の周りにはドライバーが集まっている。
ピットに集まる人々の中でカズの姿が見えた。
「カズさんだ!」
食堂がワーッと盛り上がる。
「あの人?」
楓が聞く。
「ああ」
“オータムモーターズ”という名称で参加したGT-RはSP8Tと呼ばれるクラスで参加した。
2500cc~4000ccまでの排気量の車両を指す。
去年はクラス優勝、さらには総合でも9位でゴールをしていた。
ここでは2台が出場。
23号車と123号車。
勿論双方とも同種類である。
カズは23号車に乗る。
「去年は9位だ・・・今年は総合入賞を目指したいな」
「分からねぇぞ。もしかしたら、今年は・・・」
全員はスタートの瞬間を待ちわびていた。
200チーム以上という車両が大勢で一斉に走る、それがこのレースである。
中には総合優勝を狙うワークスから、自慢の愛車をカスタマイズしてレースに臨むプライベーターなどそれは図りしれない。
オータムモータースは後者に当たる。
その理由として彼らの車には実質のメーカーからの後援を受けていないことにある。
「始まるぞ!」
ピットからは次々と車が出てくる。
「あいつ・・・帰ってこねぇ」
「鈴ちゃん?」
「こんな時いないなんてあいつ何考えてんだ・・・」
「帰りに渋滞してるんじゃない?」
海斗はしばらく悩んでいたが。
「あ、いけね」
海斗が思い出したように声を漏らす。
「どうしたの?」
「楓はそこにいて」
海斗は一度家に戻った。
寝室に向かい、携帯を取るとまた食堂へと戻った。
「どうしたの?」
「携帯忘れて」
「そんな、もうスタートしたよ」
200以上のチーム車たちは世界一難関と言われるコースでの地獄のような時間が始まっていた。
スタートから8時間以上が経過した。
深夜、食堂前では寝袋や毛布に包まっている人などが集まっている。
楓も毛布に包まって目を閉じていたが、海斗は8時間以上の間ずっとレースを見続けていた。
テーブルの食べ物はいつの間にかほとんど無くなっている。
チームの車は頻繁には映らない。
衛星を通じてヨーロッパのテレビ局を直接見ているため、文句も出すわけにはいかない。
彼らのチームは一瞬しか映し出されてない。
優勝の有力となっているのはアウディのR8LMSとポルシェの911GT3である。
頻繁に移されるこのチーム。
ところがオータムモータースはそれほどまで長く映されなかった。
海斗は正直、優勝を決めてほしかった。
海斗にとっては全てのレースは優勝こそが全てと信じていたからだった。
予選では総合13位、クラスでも首位であった。
海斗は椅子に深く腰を掛ける。
背伸びをした。
体を戻すとたんにドッと眠気が射した。
「うーん・・・」
目を閉じる。
まだ何時間もある。
耐久レースは見てる側まで耐久しなくても・・・。
考えるとフッと笑った。
次第に海斗はそのまま眠った。
暫くして音が聞こえてきた。
辺りは少しジメジメしたような、高い湿気を感じる。
そっと薄く目を開いて見た。
「・・・あれ?」
気が付けば海斗は白いガードレール脇でしゃがんでいた。
「今、どこに・・・?」
辺りは薄暗いが、雲からは日が射し始めていた。
さっきまであんなに夕日がきれいだったのに突然雨が降ってるのか。
目の前には少々安定していない道が広がっていた。
まてよ。
海斗が考えた。
ここはオータムリンクじゃない。
でも今いるのはサーキットだ。
やがて聞こえてきたのは、エンジンのエキゾーストの音。
今ではあまり聞かない。
低い音質だ。
だがその音がさらに上がっていく。
右手のコーナーから1台が立ち上がってくる。
これは・・・70年代くらいの古いF1だ。
コーナーは高速の左、海斗の目の前を一台が猛スピードで抜けていくその後ろからもう一台がコーナーに突進してきた、その途端。
バランスを崩した車はリアから手前に流れ車は右へと傾くと制御を失ったまま左のガードレールに激突した。
2、3回転したかと思えば海斗の目の前で炎を上げて炎上した。
炎上した車の脇を1台がすり抜け、その後ろから避けるのに間に合わなかった後続車が激突。
「うわっ!」
更にその後ろからもう1台がまるでビリヤードの玉突きのようにぶつかっていき、炎上した車はコースを左へ押し出され、海斗の目の前でフロントをこちらに向けて3台がコース上で止まった。
手前から白いヘルメットを被ったドライバーが飛び出すと叫びながら炎上した車へと駆け寄った。
海斗は目の前で燃え上がる車をじっと見た。
中ではドライバーが少々もがいていたが、不意に海斗を見たとたん動きが止まったと思えば、その目は海斗をじっと見つめていた。
が、やがてその車はまた炎に包まれた。
海斗はただその炎上する車の炎をじっと見つめた。
やがて炎に重なって目の裏に明るい感覚を感じた。
暫くすると。
「・・・くん。・・・とくん」
声がする。
まぶたの裏が眩しかった。
しまった、あのまま寝てしまったのか。
「海斗くん!」
声をかけるのは楓だった。
最後まで見ていたのは海斗だけであり、他は早くも起きていた。
「あ、うん」
「起きて海斗くん!」
ただならないような呼びかけにようやく眠い目をこする。
周りが騒がしい。
「どうした、皆・・・」
「海斗くん、あれ!」
「え?」
楓の指すスクリーンに海斗が凝視した。
同時に眠気は完全に消され、慄きが体にのしかかった。
真っ暗なコース中、GT-R 23号車が映っている。
が。
車体は前部がコックピットに至るまで完全に潰れて煙が出ている。
事の発端はレース開始から16時間後だった。
タイヤ交換で後退してから順位を挽回中に重大事故の多さで最も悪名高いコーナー「ベルクヴェルク」の一つ手前にある左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、右側のキャッチフェンスを突き破り、露出した岩に衝突したのだという。
最後のピットで交代したのはカズだった。
しかも元の要員だった1人が体調不良で一時休憩するため、急きょカズがいわばアンカー役として乗ることになった。
運悪く時間はドイツ時間での0:45。
ニュルの北コースにライトなど一つも無いため辺りは静寂と闇に包まれていた。
そしてさらにまずいことが3つ。
一つは煙が黒色なこと、もう一つは車下からはオイルが流れていること。
そして3つ目は、カズが車から降りる様子が見えないことだった。
「あー・・・うー・・・」
言葉にならない声を出してみる。
俺はどうなったんだ?
確か、さっきの高速コーナーを左へ行こうとした。
全開のままステアを切った。
曲がらなかった。
それで、そう、車が・・・。
頭が回らない。
ヘルメットは衝撃で飛んだようだ。
「・・・いけね」
体を起こそうとするが背中に激痛が走った。
「あっ・・・あー!!」
カズは叫びを上げる。
背中の骨が折れているみたいだ。
天井のライトをつける。
そのうち視界がはっきりしてきた。
シューという音と一緒にコックピット内にも煙が立ち込めている。
フロントからは黒い煙の下からだんだんと赤いものが出てきている。
「おい、おいおいおいおい待てよ待てよ」
シートベルトを取る。
扉を開けようとするが、歪んだまま開かない。
「頼むよ・・・」
カズは脚でドアを2、3回蹴る。
開かない。
やがて赤い炎は目に見えるまでになった。
「あー、あー。・・・くそ、くそ!」
その炎はスクリーンでも見えていた。
上空からはヘリがライトで照らしている。
周りではコースクルーや他のクラスドライバーが決死の救出を試みている。
が、とたんにに集まっていたクルーらがあわてて四方に駈け出した。
「おい、なんだよ」
「・・・まさか!」
少しも間の開かないまま、とたんにフロントのエンジンルームのボディや部品がはじけ飛び、火柱が立った。
辺りが一瞬明るくなる。
車に近かったクルーは弾き飛ばされたように地面に倒れこんだ。
周りが一斉に立ち上がる。
楓がショックに両手で顔を覆っていた。
画面ではそれから2、3秒遅れてボンという破裂音が響いた。
「ウソだろ・・・」
全員は立ち上がったままでいる。
周りには救急車や車両が集まっている。
放送ではアナウンサーや解説員などが悲惨な現場を前に言葉を失い、時折悲痛な嘆きを漏らしている。
各チームのピットも唖然としてモニターにくぎ付けになっていた。
決死の消火活動に数十分、ようやく救急隊によってコックピットの扉がこじ開けられた。
中からカズを引っ張り出す。
カズのレーシングスーツやヘルメットは黒ずみ、煙が上がっていた。
そのまま担架に乗せられ、救急車へと運ばれた。
「・・・海斗!海斗!」
カズが立っている。
「遅い!遅い!いつも全開で走れ!それが勝利の鍵だ」
「スーパーラット」、「不死鳥」の異名を持ち、神がかった走りでF1時代を博したオーストリアの名レーサー、ニキ・ラウダ。
彼が不死鳥と言われたのには理由があった。
彼が事故を起こした時、ヘルメットが脱げた影響で頭部に大火傷を負い、FRP製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けた。
全身のおよそ70%の血液を入れ替え、数日間生死の境をさ迷ったが、牧師が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復。
事故発生から6週間後の第13戦イタリアGPで奇跡のレース復帰を果たし、4位入賞した。
大腿部の皮膚を移植した顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だったが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事も無かったという。
そして彼が事故を起こしたのがこのニュルブルクリンクのベルクヴェルクだった。
230km/hにまで達して制御不能となった23号車は、暗い見通しの悪い緩い左から右への切り替えしに相応できないまま突っ込んだ。
ニュルブルクリンク24時間、123号車は総合13位でゴールラインを通過した。
カズはニュルブルクリンク近郊の病院に運ばれた後に応急処置がされたが、すぐさま日本へ帰されてから都内の病院へ送られた。
海斗と楓2人は他の従業員と連れられながら都内の大型病院へ向かった。
病室は個室の滅菌室の中だった。
「こっちだよ」
カーテンを開ける。
滅菌の透明なシート、その奥にベッドの上に横たわるカズの姿があった。
体全体を包帯で巻かれている。
「もう3日は立ちますが、未だに昏睡状態から覚めなくて・・・」
人工呼吸器のシューシューという音が響く。
あまりにも痛々しい姿、楓は耐えられずにそっちを向いた。
海斗はじっとそれを見ていた。
一度病室を出る。
「九太くん、カズさんが出る前に喧嘩したらしいじゃない。あの人はいつもそうなんだ。自分の気持ちが落ち着かなかったり、想い残しがあるとレースに調子が上がらない。今度のは特にそれがあったのかもわからないな。ましてや休憩の暇もなくすぐに出たんだ。こうなる事ももしかしたら分かっていたのかもしれない・・・」
「母さんが死んでから俺は行く当が無かった。渋谷の交差点で彷徨って、死のうとまでしてた俺を拾ってくれたのがアイツだったんだ。それから俺にカートを乗せて、俺の走りを黙ってみてた。俺が最初から一人でのし上がるんだと分かって、そのための環境つくりをしてくれてたんだと思う」
「海斗くん・・・」
両手を額に付けて下を向いた。
「生きているだけでも有り難いって言う状況なんだから。命が助かっただけで良しとするべきよ」
海斗は黙っている。
「・・・悪い、俺もう戻るわ」
海斗は来た車のうちの1台で家に戻った。
サーキットに戻り、ガレージの一つに入った。
2日前に返されたGT-R 23号車。
23号車は損傷が少ないのはリア部分のみで、フロント部分は原型を全く留めていない。
コックピットも手前に大きく歪んでいる。
こじ開けられたドアは繋ぎ目が完全に切断され、軽く固定されているだけだった。
中に入ってみる。
椅子に座る。
目の前が手前に出っ張っていた。
これで脱出するのはおそらく難しかったに違いない。
周りは黒ずんで鉄とゴムと焦げ臭い臭いが強かった。
息をつくと、変形したステアリングに頭を付ける。
何も残っていなかった自分を救ってくれた車。
自分の夢を叶えてくれた車。
それが今は・・・。
さらにもう一度大きく息をつく。
海斗は楓と一緒にまたいつもの代々木公園まで来ていた。
「九死に一生、か・・・レースってそんな世界なのね」
「ああ。そうだろうな」
楓は海斗を見た。
「海斗くん、残念じゃない?車・・・」
「・・・まぁ」
海斗は答えたが携帯を握ったままずっと何かを考え込んでいるようにいた。
「どうしたの?今朝から何か悩んでるみたいだけど・・・」
「鈴が帰ってこない」
「えっ?」
「4日前の楓と朝食で出たっきり帰ってこない。連絡もないんだ」
「ってことは4日以上も戻ってないの?」
海斗は軽く頷いた。
「そんな・・・」
「昨日今日いないのはざらなんだけど、こんなにいなかったのは初めてだ。しかも音信不通で」
「事故・・・とか?」
「そうかもしれないけど事故起こしたら何か来るだろうし、第一あいつがそんな事故起こす玉じゃないだろうし」
楓も一緒に俯いた。
「やっぱり、私がいちゃまずかったのかな・・・?」
「そんなことないよ!」
海斗があわてて言った。
楓は海斗を見た。
「私鈴ちゃんの考えてることもなんとなく分かる気がするなぁー」
「考えてること?」
「うん。もしかしたらだけどね。鈴ちゃん、海斗くんのこと好きだったりして」
「あいつが、俺の事を?」
海斗は少し笑った。
「まさか。8年も一緒に過ごしてたし、その間もあいつはずっと車のために生きたような奴なのに。そんなあいつが他の事に走るなんて・・・」
「それは分からないよ。鈴ちゃんだって女の子なんだよ?男の人を好きになってもおかしくない」
「・・・でもそうだとして、それであいつがどっか行っちまうなんて」
「うーん」
楓は暫く考えたが。
「まさかだけど、鈴ちゃん、変なのとつるんだりしてないよね」
「変なのって?」
「海斗くん走り屋って分かる?」
「ああ、まぁ。峠を走ったりするんだろ」
「うん、でも実際そんなに綺麗なことじゃないらしいよ。結局は公道で規則違反の走りをして迷惑を掛けたりもして」
「でも俺らはサーキットと一緒にいたから。まさかあいつが・・・」
2人はしばらくしてから渋谷の方へと戻ってきた。
「いろいろとありがとう」
「ううん、いいの。私も楽しかった。また誘ってね」
「ああ」
「あと、鈴ちゃんのこと・・・」
「ああ、あいつ・・・」
「戻ってくるといいね」
「ああ。・・・じゃあまた」
楓は後ろ手を振った。
信号が青になりスクランブル交差点では一斉に人が渡り始める、その瞬間。
海斗は向かいの対向車線にいた青のR34GT-Rに気が付かなかった。
急に発進したと思えば人ごみを高度にかき分け、その先は的確に楓を捉えていた。
「楓!!」
海斗が駈け出すが間に合わない。
だが車が急減速をした。
フロントは楓を突き飛ばし、楓は地面に転げた。
海斗が駆け寄る。
「お前っ!」
中からは一人の―鈴が降りてきた。
「鈴・・・」
「あんたがカズを殺した」
「何言って・・・」
「あんたが殺したのよ!」
鈴は怒鳴った。
「だからよ・・・だから私はGT-Rが嫌いなの。でももう遅いわ」
「何が言いたい・・・?どういう意味だよ」
「どうせあんたには分からない。でも特別、答えを教えてあげる。明後日の午後5時。宮ケ瀬北原で待ってる。あんたにもカズと私の親の気持ちを思い知らせてやる・・・」
そう言い残すと車に乗り込んだ。
サイレンが近づいてくる。
鈴はそのまま車を発進すると反対へと向かった。
「あいつ・・・」
「海斗くん・・・」
楓の声がした。
「楓!大丈夫か?」
「あの子、目の前を見失ってる・・・」
海斗は病室へと楓と一緒に戻ってきた。
従業員が気付く。
「九太くん、カズさんはまだ起きないよ・・・」
海斗は黙ったまま通り過ぎると病室に入っていった。
「き、九太くん・・・」
周りが後を追う。
不意に海斗はカーテンを開け、滅菌のシートをくぐった。
「ちょ、九太くん!」
「ダメだよ、そんな・・・」
海斗はカズを前に立つ。
相変わらず昏睡状態から覚める様子がない。
海斗は大きく息を吸った。
「何やってんだ!とっとと起きろ、バカ野郎!!」
病室外にまで響く怒鳴り声。
「きゅ、九太くん、落ち着いて・・・」
「いつものお前らしくないじゃないぞ!さっさと起きろグズが!!」
看護婦が駆け込んできた。
「ちょ、ちょっと何してるんですか!」
「・・・ん」
とたんにくぐもった声が聞こえた。
「え?」
声を漏らした。
「・・・ん、てんめぇ・・・」
まさか、と全員はカズを見た。
「か、カズさん!」
「出ってったくせに・・・よくノコノコと・・・」
カズの体がわずかに動いた。
「あんたこそなんだ、だらしねぇな!それでもレーサーかよ!」
「・・・んだとぉ・・・」
「あ?聞こえねぇ。はっきりしゃべれ雑魚が!みっともねぇ」
バカバカしい言い合いが続くなかでもカズの意識と言葉ははっきりとして来ていた。
「もっとはっきりしゃべれよ!しょぼくれてんじゃねぇ!お前はまだまだプロだろうが!」
「てめぇ、みたいなのが、しゃしゃり、出てこなくても、負けねえんだよ!!」
病室では従業員共に歓声が上がった。
「ヒヤヒヤさせんなよ」
「心配しろなんて、頼んでねぇ」
「良くまぁくたばらなかったもんだぜ」
「くたばらねぇに決まってんだろ」
「馬鹿いえ。こんな状態なくせに」
海斗は腕を軽く押した。
「いいっつ!」
カズが声を一瞬漏らしたが。
「・・・なんともねぇよ」
そういうと2人は笑った。
カズの意識は翌日には戻っていた
まだ体には包帯が残っているが、言葉もはっきりしている。
だが鈴は戻らなかった。
海斗はカズに状況を説明した。
「あいつが、峠走りか・・・」
「いつからあんな風になっちまったんだ?お前気付かなかったのかよ」
「気づいてはいた。変な時間に出て行ったきり帰ってこなかったりも多かったからな」
「なんで言ってくれなかったんだよ」
「お前も出てたからだ。お前だって最近は誰かと一緒に遊んだりしてたらしいじゃねぇか。帰って来たと思えば急に学校に行くなんて言い出したりもしやがって」
2人は悩みこんだ。
「・・・あいつ、GT-Rが嫌いなのか」
海斗が言った。
「それか・・・」
「絶対に関係あるはずだ。そうでなかったらあんなところで楓を轢きかけたり、あんなことしないだろ。カズ何か知らないのか?」
カズは黙り込んだ。
「しっかりしろよ!アイツのためなんだぞ!」
カズは暫く黙りこんでいたがやがて口を開き始めた。
「10年前だ」
「10年前?」
鈴が小学2年生の頃の話だ。
スーパーGTのレースが国際規格に上がって間もない時。
あいつの父親はGTレーサーだった。
箱車レースではそれはもう目覚ましい大活躍でな。
誰もが認めた名レーサーだったのにも、悲劇が起きたんだ・・・。
「予選四位。あとはトップに躍り出て逃げ切るだけだ。」
良助は予選結果を思い出した。
病気がちの妻と車好きの長女の3人で暮らしている。
JGTCから出場を続け、今シーズン、優勝争いに食い込んだところだった。
このレースで2位以内に食い込めれば、シーズン優勝が決定する。
鈴鹿サーキットは通いなれたサーキットの一つだった。
車はスカイラインGT-Rのベース車。
ニッサンの最高傑作だといっても過言ではない車。
この車に出会えて幸せだ。
美香に出会ったときの衝撃と同じものを見たときに感じたものだと言っても過言ではなかった。
鈴鹿は第一、第二コーナーを抜け、次のS字へ突っ込む。
ここで二台の車を抜いた。
次の逆バンクコーナーをインベタでぬけて次の大きな左カーブをアウト側から進入できるようにする。
ここを抜けると右へのほぼ直角のコーナーがあったあと、立体交差をくぐる。
くぐった直後に右に軽く曲がり、すぐに左へのRの小さなヘアピンがある。
かなり強めにブレーキングして何とかクリアする。
ヘアピンのあとはゆったりとした右コーナーがあり、そして左へのスプーン。
前は確実にクリッピングポイントをキープしてきっちりと走っている。
だが、負けられない。
スプーンのあとの直線で抜く。
スプーンのあとの直線はさっきくぐった立体交差の上部分を走るためゆっくりと登っている。
だからギアチェンジのタイミングを誤るとあっという間に減速してしまうのだ。
だがそんなヘマはしない。
坂の途中でトップと並んだ。
坂を登りきり立体交差を越えたところで左に大きく曲がってまた直線があり、そしてこのサーキット名物の超低速シケインがある。
コーナーを二台並んで曲がるわけにはいかず、一歩譲るしかなかった。
そして右へのコーナーを加速しながら抜ければ、メインスタンド前のストレートだ。
今度こそ抜いてみせる。
アクセルを踏み込み、トップに追いつく。
スリップストリームに入る。
すぐに抜ける体勢だ。
しかし、直線は追い越せるほどの長さではなかった。
テールトゥノーズの状態でコーナーへとはいっていく。
クソッ、ダメかっ。
このままの状態では危険なのでいったん離れるしかない。
ラップは最終。
このまま二位に甘んじていても優勝はできる。
しかし、それはプライドが許さない。
一周5.9kmのこのサーキットをウェイトハンデも付いたままで何周も走った状態ではタイヤがかなり摩耗してきているのがわかる。
だが、勝つためには少々危険だが、やってみるしかない。
立体交差の手前の右コーナーにほぼノンブレーキで突っ込んだ。
ハンドルを切りながらブレーキを踏み込むと、当然、後輪が滑り出す。
ここからが勝負だ。
素早くカウンターを当て、体勢を立て直し、アクセルをゆっくりと踏み込んで後ろに荷重移動。
後輪はグリップを取り戻した。
そして高速でコーナーを曲がることに成功した良助はとうとうトップに立つことに成功したのである。
そして摩耗によってグリップを失って暴れる車を押さえつけ、良助の車はトップでゴールすることに成功した。
何とも言えない感動が良助を押し寄せていた。
優勝カップを手にし、ライバル達とシャンパンをかけあって互いの健闘を称えあう。
しかし、その感動はピットから大慌てで走ってきたチームの仲間達の言葉で消え去ってしまった。
「大変だ、良さん!奥さんが、美香さんがっ!」
「それで、鈴のお母さんはどうなったんだ?」
「あいつの母親は前から病気がちだった。それまでにも幾度か倒れたことがあったんだが、その時のはかなり危なかったらしい。それはあとでわかったことだがね」
ピットクルーの話によると、美香はテレビでレースを見ていたらしいのだが、良助のゴールを見届けると同時に意識を失ってしまい、鈴がそれを見つけて急いで病院へ運んだという。
嫌な予感がする。
病院へと急ぐにも、肝心な車が無い。
を積んできたトレーラーでは遅すぎる。
電車もバスも無い。
良助は覚悟を決めた。
「コイツで行くしかない」
「コイツ?まさかGTカーで行くなんて言いませんよね?」
「緊急事態だ。警察も見逃してくれるだろう?」
「無茶だ!公道をレーシングカーで走るなんて・・・」
「嫌な予感がするんだ。美香のそばに行かなければ。多少の無茶は承知だよ。とにかく時間がない。すまん」
良助は周囲の反対を押し切り、GT-Rのエンジンを掛けると公道へ飛び出した。
信号も何も無しでとにかく病院へと走らせた。
目の前に病院が見えてくる。
その瞬間、その視界を大きなタンクローリーが塞いだ。
「うわっ」
ブレーキをかける暇も、ハンドルを切る余裕も無かった。
良助と車はタンクローリーのタンクに時速100㎞で突っ込んでいった。
大音響が響き、辺り一面が炎に包まれた・・・。
気が付くと良助はベッドに横たわっていた。
良助の顔を愛しい妻美香と娘の鈴がのぞき込んでいた。
そして。
「バカ!何、考えてるの?私を心配してくれたのは嬉しいけど、逆にあなたが私達を心配させてどうするのよ!・・・ゲホッ、ゲホッ」
「だ、大丈夫か、美香!ウアッ!?」
起きあがって美香を支えようとした良助の体に激痛が走った。
よく見てみると、体中に包帯が巻かれている。
手を動かすのすらままならない状態だった。
「全身大やけどを負っているのよ。先生が感心してたわ。よく生きてたもんだって。普通なら即死よ!幸い、タンクローリーの運転手さんも軽いやけどで済んだらしいけど。もし誰か死んでたらどうするつもりだったの?縁起でもないことが頭をかすめたわ」
「美香・・・」
傍では鈴が泣きじゃくっている。
「バカ!バカ!お父さんのバカァッ!!」
動けない良助のかわりに美香が泣きじゃくる鈴の肩を抱きしめた。
よく見ると、美香は車椅子に座っている。
決していい状態というわけではないようだ。
美香、鈴、すまなかった。
「すまない。そして、ありがとう、二人とも。わたしはまだ死ねないよ。いろいろやりたいことが山ほどあるんだ。こんなケガさっさと直してレースに復帰しないとね。」
「ダメなのよ」
「だめ?」
「もう、レースはできないの。もう二度とお父さんの手足は前みたいには動いてくれないんですって」
「え・・・」
聞き返す声がうわずってしまう。
レースはできない?
そんなバカな。
「生きているだけでも有り難いって言う状況なんだから。命が助かっただけで良しとするべきよ」
もはや何も聞こえなかった。
そんな、そんなことって・・・。
「まったく動かなくなるわけではないらしいから、ドライブくらいならできるはずよ。昔みたいに私達をどこか遠くへ連れていって下さいな」
「・・・車は?」
「跡形もなかったらしいわ。100キロの猛スピードでタンクローリーに激突して、さらにガソリンが引火して大爆発を起こしたんだもの、無理はないわ」
「そうか・・・」
鈴は家へ帰っていった。
病室で良助は美香と話を続けた。
「すまない。まさかこんな事になるとは思っていなかった。」
「あの娘はこれから一人ね・・・まだ小学2年生なのに。すごく心配だわ」
「そうだな・・・。それより、お前はどうなんだ?私は当分退院できそうにないんだろう?」
「私、そう長くはないらしいの」
美香のその言葉に衝撃を受けた。
「な、な、・・・長くはない、って入院期間のことだよな。すぐ退院できるってことだろう?」
「私、末期ガンなんですって。手術しても転移がすすんでるから助かる見込みは薄いって」
彼女はそうさらりと言ってのけた。
「長くはないってどのくらいなんだ」
「もって半年って先生はおっしゃってたわ。今は薬で痛みを抑えているの」
「鈴には、鈴は知っているのか、お前の病のことを」
「ううん、あなたが死ぬかも知れなかったのにそんなこと言えるわけないでしょ」
「なあ、どうしてお前はそんなに冷静でいられるんだ?自分があと半年しか生きられないって伝えられたんだぞ。なんてひどい医者だ。患者にそんなこと宣告するなんて」
「ねえ、あなた。私、あなたと二人っきりでドライブに行きたいな。昔みたいに」
「美香・・・」
「そうだわ!ヤビツ峠!あそこで昔2人で腕慣らしに走ったじゃない?あそこで夜景を見に行きましょうよ」
「・・・そうだな」
「約束。連れてってよ。絶対だよ。だからそんなケガ、さっさと治しちゃいなさい」
美香はそう言うと優しく微笑んだ。
そして自分の病室へと帰っていった。
良助は一人になって泣いた。
彼女なら残された時間を強く生きることができる。
下手に隠すより、告知して強く生きてもらう道を選んだのだろう。
残された時間を輝かしく生きてもらう道を。
死を宣告されて平気なはずはない。
美香がいくら強くったって不安も感じているはずだ。
私はその不安を和らげてあげなければならないのに、逆に心配をかけるような真似を・・・。
自分自身に言い聞かせた。
絶対に妻をドライブに連れて行くんだ。
こんなケガ、すぐに治してやる。
そして次の日からリハビリが始まった。
つらく苦しい毎日が続く。歩く訓練、両手を動かす訓練、どれもがひどい痛みを伴った。しかし、負けるわけにはいかない。
妻との約束、それが彼の支えとなっていた。
「ははは、なんてこった、結局、支えるはずが支えられているのか、私は。」
一ヶ月後、美香の退院が許された。
とりあえず、発作が起こりにくくなったからだ。
鈴にはまだ美香の病については知らされていなかった。
鈴の嬉しそうな顔が良助には辛かった。
美香はあの優しい微笑みを彼に向けた。
「じゃあ、先に家に帰ってるからね。約束、忘れないでよ?」
「二人っきりでデートだろ?忘れないよ」
良助の方はといえば、かなりの回復が見られるようになった。
最近では一人でご飯を食べられるようになった。
「その年にしてはすごい回復力ですよ。あなたのような患者さんは初めてです」
「妻と約束しましたから。退院したらドライブに行くんです」
「なるほど、そうなんですか。もうじきですよ。頑張って下さい」
そしてその言葉通り、さらに一ヶ月後退院した。
まだ、元通りというにはほど遠いが、普通の運転くらいなら何とかできるくらいまで回復していた。
「ええ、無茶さえしなければ、運転だってできますよ。レースは無理ですがね」
美香と鈴が迎えにきてくれていた。
「すごいよ、お父さん!こんなに早く退院できるなんて」
「おいおい、私はそう簡単にはくたばらないよ。じゃあ、まずは約束通り、美香の運転でドライブに行こうか」
久々の一家団欒だった。
鈴が心の底から笑っているのを見るのは本当に何年ぶりだろう。
何も知らない、可愛い愛娘・・・。
「なんだよ、悲劇とか言って、ちゃんと退院して約束だって果たせるようになったんじゃねぇか。鈴がGT-Rを嫌う理由が全然見えてこないぜ。ハッピーエンドだろう?」
「そう先まで焦るな。お前の悪い癖だぞ。・・・まぁ確かにレース中に起こった悲劇はハッピーエンドを迎えられたって言ってもいいかもしれない。でもな・・・」
カズが言葉を濁した。
「まだ、続きがあるのか?」
「とんでもない、本当の悲劇が三人に襲いかかった」
「とんでもない、悲劇?」
「美香の運転でドライブに行ってそれから家に戻ってきて鈴に言ったんだ」
「じゃあ、これからちょっと夫婦水入らずで出かけてくるよ、鈴。留守番よろしく頼む」
「ブゥ。ずるいよ、お母さん。お父さんを独り占めするなんて。」
「フフ、ゴメンね、鈴。でもこれはお父さんが入院していたときに二人で約束していたことなの」
美香は鈴の頬を撫でた。
「じゃあ、行って来るよ」
そうして良助と美香は家を出た。
R33スカイラインGTRに乗って二人は初めてデートをしたあの道を目指した。
神奈川県道70号線。
ヤビツ峠。
「あの時みたいにコーナーを攻められないのが残念だよ。今、そんな事したら、事故っちまう」
「バカね、運転できているだけで十分よ。あの時はあれで楽しかったけど、こうやって落ち着いてワインディングを抜けるのも楽しいわ」
宮ケ瀬ダムから下っていく。
森林の奥深くへと入って行く。
「鈴の・・・あいつのカートの腕は上がってきつつはあるが、まだまだだな。将来はこの車でも譲るか」
「最初から速い車に乗せるなんて。最初はスペシャリティーカーとかで腕をみがかせた方が良いのよ。パワーに頼りっぱなしの運転じゃうまくはなれませんわ」
「はは、娘の成長を願う夫婦の会話じゃないな。これじゃ、レースのコーチ同士の会話だよ」
「私もあなたも走るのが大好きなんですもの。あの娘にもそれを味わってもらいたいと思うのは自然なことだと思うわ」
「そうだな、うちの人間は、走るために生まれてきたようなものだからなぁ」
「ふふっ」
そして、2人は峠を越えた展望台に着いた。
車から降りて外の夜景を眺める。
眼下には夜の街の明かり、空には星が無数に広がっていた。
「相変わらず素敵な景色ね」
「美香、君だって素敵だよ」
良助はそういいながら美香の肩を抱き寄せた。
もう20年も前、初めて彼女に口づけした時もこんな夜だったっけ。
今夜も・・・。
「美香、好きだよ。目を閉じて・・・」
「バカ、いい年して・・・」
そういいながら目を閉じる彼女。
良助はその彼女に口づけをしようとした、その時。
ドサッ。
突然倒れ込んだ。
「美香?!おいっ!しっかりしろ、美香!!」
「ゴメンね、せっかくのデートなのに・・・」
「待ってろ、すぐに病院へ運ぶ!」
良助は美香を車の助手席に横たえると、エンジンをかけた。
一刻を争う。
救急車を待っている暇はない。
第一この峠の間は圏外で携帯も通じない。
駐車場を飛び出して峠を下る。
しかし、コーナーを素早く曲がることができない。
どうしてもハンドリングとヒール&トゥの足回しが遅れがちになる。
だが、そんなことに構っている余裕は無かった。
「ダメだよ、良助。無理しちゃダメ・・・。私達には鈴が・・・ウッ!」
「君が死んだら鈴が悲しむだろうが!死なせてたまるか!」
「今事故ったらあなたも死んじゃうでしょ・・・ダメよ、私は大丈夫だから。もっとゆっくり走りなさい・・・」
美香の額には汗が浮かんでいた。
顔色も良くない。
苦しそうだ。
肩で息をしている。
良助の気持ちは焦るばかりであった。
そして右へのコーナーを曲がっていた時だった。
対向車線をパワースライドしながら走ってきたGT-Rがセンターラインを越えてきたのだった。
昔の彼ならとっさに避けることなど造作もないことだっただろう。
だが、今は・・・。
「すまん、美香、そして鈴・・・」
「山の中だから通報が遅れたって事もあって、救急車がその場に駆けつけたのは事故から30分くらいたってからだったらしい。車は滅茶苦茶だったらしいが、シートベルトを締めていたおかげで救急車が辿り着いたときには二人はまだ生きていたが、知らせを受けた鈴が病院に着いたときには二人の意識はもうほとんど薄れかけていて、看護婦さんの「ほら、お嬢さんですよ。」って声にうっすらと目を開けて、鈴の顔を見てわずかに微笑んだと。「元気で」って。 そしてそのまま二人とも息を引き取ったそうだ」
「そういうことか・・・。言ってしまえば、親の命を奪った車、か」
「それから身寄りのなくなったアイツはうちに来た。まぁこの世に突然たった一人で残されたんだもの無理はないがな」
海斗はため息をつくとしばらく黙っていた。
「もう一つお前に俺の話をしてやろうか」
「お前の?」
「お前、俺に訊いたことがあったな」
カズが言う。
海斗は顔を上げてカズを見た。
「なんて」
「”お前に家族はいないのか”ってな」
「そうだっけか」
「ああ」
カズは軽く笑った。
「なんだ。もう忘れたのか」
「ああ。・・・んでなんて答えたんだ」
「何も答えちゃいねぇ。っていうより急に聞かれたもんだからな」
海斗は軽く頷いた。
またしばらくの沈黙。
「鈴が来る4、5年前だった」
カズが言った。
海斗はカズを見た。
「俺には女房が居た。腹の中には新しい子供もいたんだ。彼女が妊娠してるって分かった時、俺は決めたんだ。もしコイツが生まれるときには絶対に傍に居てやろうって。約束までもした。だがある日だった。子供が生まれるとき、俺はレースを終えて表彰台に立っていた」
「良かったじゃねーか」
「子供は死産だった」
「えっ?」
海斗が言葉を失った。
「子供が死に、女房も死んだ。苦しかったろうに俺はその時はお祭り騒ぎだった。飲みまくってから運転し、捕まった。拘置中に両方とも死んだのを知った。それからだ。俺はレースから一時撤退しやっていたのはサーキットとカート場の経営ぐらいだけだ。何もしなくとも金は入ってきてはいた。だが、生きる目的が無かった。でも・・・そんな、ある日だった。俺は鈴と出会った」
カズは海斗を見た。
「最初のアイツはまるで獣だった。それでも車に対する熱情は止まなかった。だから俺はあいつのために車や、レースや、ライバルへ連れたんだ。きっとアイツの中では九太も支えの一つになったんだろう」
「俺が?」
「そうだ」
カズは笑って海斗を見た。
「お前を見たとき、俺は最初の鈴を思い出した。お前はまだ小っせえのに死のうとしていた。でも丁度その時思ったのさ。もし俺が今何も残せていなければ、後をコイツらに任せてみても面白いかもしれない。掛けてみようと思った。そう、死んだ俺の子供がお前らの代わりであるように。結果どうだい。お前達の成長は俺の想像を遥かに超えていた。俺はお前達を育て始めた。勝手に増える金が今度はどんどん2人に費やした。金は減るのになぜか気持ちが良かった。面白いように成長していくんだ。今までの道に光が射したようにな。でもあいつはきっと人並み以上にGT-Rを憎んでもGT-Rと共にする人間だってことはある意味縁なのかもしれない。だが、もはや今のあいつは目的を失っている。このままだとあの両親の二の舞になってもおかしくないだろうな・・・」
「俺が悪いのかもしれない」
「えっ?」
カズが海斗を見た。
「俺がサーキットから離れるから、あいつはライバルを失っちまったのかもしれない。別に俺はまだサーキットで走るつもりでいたのに。レーサーでいくつもりも・・・」
「九太・・・お前」
翌朝、海斗はまたいつものようにサーキットを走っていた。
いつもより速く、全速力で。
『あの子、目の前を見失ってる・・・』
そうだった。
きっとあいつの目は何かを失ってる目だ。
そうでなければ今頃公道なんかで走る事などしなかったはずだ。
GT-Rの縁・・・。
あいつにはそんなのが。
何かでGT-Rを憎んでいる。
でも、逆に言えばそれでもGT-Rを愛するものも持っているんだ。
海斗はホームストレートで立ち止まると息をついた。
あいつをもう一度戻すには・・・。
海斗の胸は既に決まっていた。
海斗は再びカズの病室に来た。
楓は病室にいた。
「海斗くん」
カズは手に持っていた雑誌をそばに置いた。
テレビを消す。
海斗はカズの横顔を見つめた。
カズの包帯は取れたが、横顔には火傷のケロイドの痕が額から頬に切り裂くようにあった。
「俺、峠に行く」
カズはふと海斗を見た。
「なんだと」
「今日だ。午後5時。宮ケ瀬北原。裏ヤビツから表まで、一本。それであいつと決着をつける」
カズは唖然としながら海斗を見ていたが。
「馬鹿野郎!!」
病室中に響く声で怒鳴った。
「カズさん・・・」
「俺が何のためにお前をサーキットで走らせてると思ってるんだ!お前はレースのプロだ!それを出来損ないの走り屋なんざへ棒を振るのか!ふざけんじゃねぇ!!」
海斗はじっと聞いていた。
カズは暫く海斗を見ていた。
「・・・それでも、行くのか」
カズが言った。
海斗は頷いた。
カズは下を向いてため息をついた。
「カズ」
海斗が言う。
カズは海斗を見た。
「ありがとう、カズ」
「・・・えっ」
唐突な言葉にカズは唖然と海斗を見た。
「おかげで目が覚めたよ。背筋がしゃんと伸びた。いつもあんたには迷惑ばかりかけてすまねぇな。でもな、今日は別にこれから走り屋として生きていくために峠へ行くんじゃない。あいつを、鈴をもう一度サーキットへ連れ戻すために行くんだ。確かに少し前の俺だったら走り屋になって、その後も公道を走ることに快感を覚えて、いつしか今の鈴みたいになりかねなかったのかもしれない。でも今は違う。俺の居場所はやっぱりサーキットしかないんだ。俺を育ててくれた全てなんだ。今の鈴のようにならないようにしてくれたのも、それを教えてくれたのがサーキットであり、鈴でもあり、楓でもあり、コースの人たちでもあり、ライバルでもあり、カズでもあるんだ。俺を育ててくれたたくさんの人たちのおかげだよ。だから俺はその恩返しをしたい。あいつのことは他人事にはできないんだ。鈴の問題は俺の問題でもある。だから・・・だから俺は行く。そして今一度、鈴を力ずくでもサーキットに連れ戻す。そして正々堂々と勝負してやるんだ。あいつの事、俺に任せてくれ」
「九太・・・」
海斗はカズを正面から見つめた。
「・・・仕掛けるポイントは後半の表に入った時だ」
カズは海斗に伝えられる全てを伝えるとベッドに深く潜った。
海斗は病室から出ると家へと向かった。
ピット前ではコースの管理が集まっていた。
海斗が近づく。
「海斗くん!」
楓が駆け寄る。
「楓・・・」
楓は不安そうな顔を見せる。
「九太くん」
声が掛かる。
「R34のGT-R相手だとそんじょそこらの車だと難航するだろう。乗り手もレベルが高い。こっちで出来ることなら何か―」
「いや、俺はもう決めてます」
そういうとそばのシャッターを開けた。
海斗はその車に近づいた。
「・・・最後にオーバーホールだけしてありますか?」
「あ、ああ。でも九太くん、相手は鈴ちゃんのR34のGT-Rだぞ?もはや公道さえ走るのも持て余すレーシングカーだ」
「ええ、分かってます。だからコイツで行くんです。あいつは俺に教えてくれた。車はパワーや性能だけじゃない。乗り手と車との対話で速さはいくらでも変わる。今のアイツはきっと目的も対話も見失ってる。だから今度は俺がアイツに教えてやるんです」
「九太くん・・・本当に行くのかい?」
「はい。俺、行きます。アイツの事、カズの事、よろしくお願いします!」
海斗は一礼をした。
楓が近寄った。
「絶対に帰ってくるよね?」
「ああ。絶対に。あいつも一緒にな。力ずくでサーキットに引き摺り戻し、楓にも謝らせてやるから」
「私はいいの。でも海斗くん・・・絶対に、帰ってきて・・・」
海斗は頷いた。
車に乗り込むとあの時と変わらない雰囲気がした。
一晩車泊までした車だった。
エンジン、サスペンション、ボディー、全てが手足のような感覚。
俺に車を、対話することを教えてくれた。
今度は俺たちが教える番だ。
エンジンを掛け、海斗のセリカはピット裏から家を出て行った。
「『俺を育ててくれたたくさんの人たち』か・・・」
「その中に俺たちも含まれてるとはな・・・」
従業員が話し合っている。
「九太くんが小さなころからずっと一緒にいたからな」
「ああ。最初はこっちから見ても生意気で、イヤなガキだったな」
「雨の日も風の日も、毎日走って」
「面倒見てやってるのにありがたい顔一つもしないで」
「それが気付いたらあんなに大きくなって・・・」
「いっぱしの口をきくようになって・・・」
「・・・誇らしいなぁ」
「・・・誇らしいもんだ・・・」
楓はただその会話をずっと聞いていた。
宮ケ瀬北原の信号手前で青のR34が止まっていた。
セリカが後ろに付ける。
R34から顔が鈴の顔が出た。
「待ってたわ。それで来るんじゃないかと思った」
「鈴。お前を迎えに来た」
鈴は海斗の顔を見るや軽く笑った。
「迎えに?」
「ああ。今ならまだ間に合う。サーキットに戻ろう。また一緒に走ろう」
「何を言い出すかと思えば・・・」
鈴は嘲笑った。
「私はね、ここが割に合ってるの。どうせあなたもレーサー辞めてあの楓とかいう女の子と一緒に学校行くんでしょ?」
「鈴・・・」
「私は知ってたの。2人が会ってた時の事も。それからあなたはサーキットを離れていく。私にはもう誰もいない。だから私も峠に移った。あなたがサーキットを離れたようにね」
「俺はサーキットを離れない。俺の将来は決めた。だからお前も一緒に来い。走り屋のような出来損ないの世界には引き込まない。力ずくでもサーキットに連れ戻す」
鈴は軽く笑った。
「その車」
「なんだ」
「あの時は私があなたを抜いた。でも今度は違う。私はこの車を知っている。音と部品の一つ一つから、何から。だから勝ち目はどうか、ね」
「それは違う。お前は車を知っていない」
「は?」
鈴が海斗を見る。
「本当に車を知るならここにはいないはずだ。お前がレーサーならなおさらだ。お前はもう車と対話することを忘れている。車を他の復讐の道具か何かと勘違いしてんじゃないか?そんな人間に車を乗る資格などない」
鈴はムッと海斗を睨んだ。
「・・・偉そうに。あんたがそれで私を連れ戻せるのなら見物ね」
鈴はエンジンを掛けた。
海斗はセリカに戻るとGT-Rの横に付けた。
無人の交差点前。
信号の変化を待つ。
歩行者が赤に変わる。
2台はエンジンの回転を上げて行く。
信号が変わると同時に2台は白煙を残し、峠へと突っ込んでいった。
抜群のトラクションを掛けて加速をする2台だが加速の速いGT-Rが前へと出た。
出足で少しぐらい互角をキープできると思ったがそこは計算違いか。
ここで抜けなければアイツはきっと1人で行っちまうだろう。
その前に俺があいつの前に出るんだ。
2台は緩いコーナーを抜けると一つ目のトンネルへと入る。
ここからしばらくは直線区間。
セリカが一番離される所だ。
海斗の頭にコースは必ずしも完璧に入っているとは言い難い。
県道70号線のヤビツ峠は全長約30kmの長さ。
その中に低速~中速、細道から幅広、路面状況の激しい変化もある。
トンネルを抜け、橋を抜け、最初の緩い右へのコーナーに入った時にはR34とその差は大きく引き離されていた。
勝機は直線を抜けてから大きく左右される。
最初の細道の間にいかに前との差を縮められるかによってその後が大きく違う。
緩いコーナーをいくつか抜けるとやがて中央分離の段差ができた。
右側をキープしながら抜けていき、やがて道が本格的に狭くなる。
これが峠道か。
やがて道が細くなる。
左右の幅が急激に狭くなり、横の崖壁が目の前で通り過ぎる。
左右にいくつか振るうち、R34のテールライトが見えてきた。
ガードレールを挟み周りを杉林が囲む。
緩いカーブは徹底してステア操作をキープし、鋭いコーナーではギリギリの減速を行う。
ライトウェイトスポーツ、これなら高速状態をキープしながら徹底してインを保持できる。
R34にはある意味不利だ。
2台は林に囲まれた細道を駆け抜けると暫くしてフェンスに囲まれた少し広い直線へ出る。
再び多少の差が生まれる。
スピードを維持したまま次の細道へ。
最初の左を抜けると少しきつくなる。
海斗はブレーキペダルを軽く煽った。
ブレーキ油圧を戻すためだ。
ギュイッと踏み込み3速まで落とすと左へ、そのまま右へと振り細道を追った。
建設現場の分岐を超え、道を突き進んでいく。
鈴にはむしろ信じられなかった。
鈴がこの峠で走り出してから大方数か月は経っている。
なのに対し海斗がこの峠に来たのは初めてのはず。
「こんな状況・・・」
しばらく続くくねくねとした細道を抜け短い直線を抜けると緩い右左右へと道が煽られる。
「気に食わないっ」
鈴は1速落としたまま切り込んでいった。
後から海斗が続く。
インのスレスレを通り、ここから連続するコーナーを過ぎていく。
ここではオーバーテイクポイントが無い。
だがこの細道の間で差はしっかりと詰めてある。
あとは後半の広い道に持ち込むしかない。
全体の3分の1を過ぎると左へと橋が架かる。
暫くの高速のままで突っ込むとアンダーが出る。
計算に入れながらブレーキのフットワークを左足で効かせながらアクセルを踏み込む。
速い。
きついコーナーもぴったりとついてくる。
でも峠で走りこんだ以上、サーキットのような定められた所をグルグル回ってる奴とは違う。
「まだまだ!」
細道を超え、短いトンネルを超える。
それを抜けてさらに走ると道幅はさらに狭くなる。
R34の減速が強くなっている。
曲がりきれないからか。
だがその点こっちが有利だ。
後ろからさらに煽りをかける。
「くっ、ちょこまかと・・・」
道幅が広がったと同時にアクセルを強く踏み込む。
さらにトンネルを抜け左へのコーナーをオーバー気味で突っ込む。
僅かなサイドで切り込む。
その後ろからセリカが同じラインへ突っ込んだ。
まだ来る。
「くっそぉおおっ!」
鈴が怒鳴った。
海斗はその鈴のGT-Rに明らかな異変に気づいていた。
「安定してない・・・」
ベストな狙ったラインを僅かながら外しかけている。
チャンスかもしれない。
暫く続くくねくねとした道をインからインへと突っ込みながら追い上げる。
全体の半分まで来ると短い橋を超える。
道幅が一気に広がる。
きた。
「九太くんに何を教えたんですか?」
従業員の一人がカズに訊く。
「なーに、ちょっとしたあの峠の攻略方法だ。あそこは裏から入ったら暫くは狭いからな。基本秦野に入るまでの間は抜けるポイントはゼロに等しい。だから最初のうちに張り付いておけってな」
「でも相手は熟成されたR34のGT-R。しかもドライバーも長年GT-Rに精通した鈴ちゃんだ。そもそもアテーサーE-TSの4WDとFFの弱い足やパワーじゃそれこそ月とスッポンじゃないですか」
「そこは”ここ”で勝負だ」
そういってカズは腕をポンポンと叩いた。
「そんな無茶な・・・」
「攻略は教えた。あとはアイツに任せるしかないんだよ。それにあいつは俺たちにも無い特殊な技も身に着けてる」
「特殊な技?」
R34の全開ポイントが意外と多い。
まだ後ろだ。
道幅は少々狭くなりさらに直線が多くなる。
その度にセリカと差が生まれていく。
僅かな曲がりも海斗はノンブレーキと荷重移動に任せた。
それを抜けるとまた連続する低速コーナーが増えていく。
くそ・・・。
クリッピングポイントが見いだせない。
とにかくアクセルと曲がっていくことに専念するしかない。
低速区間を抜け、中速区域へ。
それを抜けるとまたさらに道幅が広がった。
2台が連なって加速していくと、左のヘアピンへ。
差が広い・・・。
ここは、詰めてやる。
鈴が減速、コーナーへ入る後ろから海斗はアウトから減速、インへ突っ込む。
曲がり始め、サイドを引く。
まだしばらく直線。
でも差は維持できた。
その先のきつい右へ。
セリカはインを維持したままR34を追う。
差が付き詰まる。
それを抜け、またさらに直進。
次に来る左と右をインをついたまま追った。
3分の2まで走り、茶屋の前を通り過ぎていく。
中速が続くコーナーを海斗はインをついて行きながら進んでいく。
「くそっ!」
振り切れない。
このままだと後半の広い道に出たときどう出すか分からない。
海斗も後ろからついても分かっていた。
鈴は先ほどよりもさらに明確に狙ったラインを外し始めている。
中速域、これがこのセリカの本領発揮だ。
高回転域のアベレージをキープしながらもライトウェイトのコーナーリング性能が明確になる。
後はヘアピンが来れば、ブレーキと一緒にアンダーを殺す。
鈴はバックミラーで後ろを見る。
コーナーでは驚くほどに攻め寄っている。
なぜあそこまで近づけられる?
軽いだけのアンダーなFFに・・・。
「なんで・・・なんでよ!!」
「まずアイツは普通とは違った独特なヒーツアンドトゥ技法を持ってる」
「独特なヒールアンドトゥ?」
「通常のヒールアンドトゥは右足のつま先でブレーキを踏み込み、かかとでアクセルを煽る。無論左足はクラッチだ。だがこれに一つラグが生ずる欠点がある。車のブレーキとアクセルは右足だけで行うからな」
「でも足回しで踏みかえだけならそれほど時間が掛かるものでは?」
「いや、それでもコーナー中で足回しにラグとモタツキが生ずるんだ。コンマ1秒でも早くするため、アイツなりなやり方がある」
「車は普通右足でアクセルとブレーキ、左足でクラッチが常識でしょう。それでシフトチェンジと踏みかえのラグを縮めるなんて」
「それこそF1やシーケンシャルのようなセミオートじゃないと。どんなものなんです?」
「左足ヒールアンドトゥだ」
従業員がカズを見る。
「ひ、左足、ヒールアンドトゥ??」
「そうだ。FFは常にアンダー傾向の強い車だ。車の性格を操るためには常にアクセル、ブレーキ、ステアリングの3拍子がしっかり揃った上に適切な荷重移動を加えることで本来のライトスポーツの力を発揮できる。九太はカートから育ったために、車を操る際には左足ブレーキが精通している。減速時は左足でブレーキを掛けながらかかとでクラッチを踏み込み、右足でアクセルを煽る。これで常に左足はブレーキペダルから離すこと無く、アクセルと両立して操ることができる。アクセル、ブレーキのペダル操作にラグも消せる。クラッチ・アクセル・ブレーキそれぞれのペダルで加減を調節することで一番適当な出力と速度をキープしてコーナーを抜けられる」
「そんなことが・・・いつから?」
「2、3年前だ。あいつは一度あの車で雀を轢いたんだ。切り返しでかわそうとしたが、荷重が移らずにアンダー。付きっきりでいて元気になったと思った途端に死んじまってな。それがショックだったらしい。それからあいつは一人で考えたんだ。常にアクセルとブレーキで荷重移動を起こすきっかけを作れるようにな。それも素早く、いかなる状況においてもだ。だからよくあいつが乗る車でもマニュアルのペダルには変わった加工がされててな。同時にクラッチのアソビも微妙に調節されてる。特に今日のセリカはあいつと一緒に育ってきた車だからな。それでもアイツは乗りこなすんだ」
「成し遂げられないことを九太くんは先にやってのけてしまうのか」
カズはふっと笑った。
「あの野郎、最初にオートマの車に乗った時にもおかしなマネをしやがってな。左足をブレーキペダルにのせたんだ。無論その時はバッチリ叱ってやった。まぁ、それが九太の今までの走るスタイルだった訳だからな。でもその時には驚いた。と、同時に感じたよ。こいつの行先は、きっと普通では収まらないだろうってな。昔の走りと比べたら、今は格段と違う」
「確かに、昔まで九太君の走り方はちょっと荒々しかったですよね。度々コースアウトなんかも目立ってましたし」
「ああ、昔の九太は分かってなかったよ。独創的な走りだけが突っ走って車の都合を全く理解しようともしなかった。でも今のあいつはもはや違う。車を理解し、限界を引き出すだけじゃない。それに加えて車と一緒に独創性の高い走りを生み出すんだ。まるで兄弟みたいにな。その結果、あいつは俺たちが物理的にも不可能とさえ言われることさえ成し遂げられる。ここまでは誰も予想できなかっただろう。俺だってな。今のアイツならどんな車でも、どんな常識外なやり方でも、自由自在に操れる技術があるだろう。そう、車と対話する力がな」
暫く広い道が続く。
だが海斗はオーバーテイクのポイントを見出そうとしていた。
ただ抜きやすい所じゃない。
あいつがしっかりと記憶に残る、そんなポイント。
道は暫く綺麗な舗装路を進んでいく。
やがて4分の3まで来るとヤビツ峠の休憩場を超えていく。
ここからコースは下りに入る。
左に振れてから右へと入る。
アウトから縁石ギリギリへと突っ込む。
「くっ!」
GT-Rの足の安定が悪い。
コーナーの度に突っ張っている。
海斗からも明らかに見えていた。
荷重の移動が甘い。
ラインも外れている。
もはや時間の問題だ。
だが、まだだ。
まだ今抜かすときじゃない。
後半の最後の最後まで持ち込む。
速い仕掛けは相手に立ち直らせる余裕を生むことになるのだ。
せめて、例のあそこ・・・展望台までは・・・。
下り道が続いて行く。
後ろからは抜く気配がまるでない。
何をたくらんでるのか・・・。
くそっ、煽られ続けて。
「うっとおしいんだよ!」
2台は固まったまま左へのヘアピンを抜ける。
出た!
展望台。
ここからだ。
右左の中速を抜け、左へ。
更に抜けていき、右左。
さらに広い道へ出る。
緩い中速の左、そしてその先だ!
低速ヘアピン右!
3速状態のままインへ突っ込む。
「しまった!」
アウトに膨らんだままのR34はアンダーのまま外へ孕む。
ブレーキングから2速へ落とすとサイドを引き込んでインへ突っ込む。
インについたまま抜いて行った。
抜けた!
だがこれで終わりじゃない。
後は麓まで逃げ切るだけだ。
R34はセリカの後ろをぴったりと追っていく。
こんなところで負けて・・・!
「負けて、たまるかーっ!」
抜けた暫くの直線区間。
次は右コーナーと左中速コーナーへ。
海斗は左にはらむと右コーナーをアウトから抜けると左インをついたままでいった。
左を抜けるとすぐさま中速の右へ来た。
仕掛けるなら、ここしかない。
海斗が右のイン側へ付いた。
同時に鈴のGT-Rは左アウトへ膨らんだ。
まさか!
「やめろ!」
高速状態のままコーナーのアウトへ突っ込む。
鈴のGT-Rは猛スピードのままガードレールを突き上がり奥へと落ちて行った。
海斗は車を戻すとガードレール手前で止めた。
車を降り、ガードレール脇から谷底を覗く。
「鈴ー!」
海斗が叫ぶ。
車は麓手前の木々の間で斜めに引っ掛かっていた。
海斗は足場を確かめながら運転席に近づく。
「鈴!」
鈴は力なく首を垂れている。
一度セリカに戻り、ウインドウハンマーを持ち出すと再び戻り、窓ガラスを叩き割った。
ロックを開け、扉を開ける。
「鈴、大丈夫か?!」
鈴は薄目で海斗を見る。
額と頬から血が流れている。
「きゅ・・・た・・・ゲフッ、ゲホッ・・・」
水混じりな咳と一緒に僅かに吐血した。
「待ってろ、動くな!」
海斗はシートベルトをちぎると、膝と頭を抱えてセリカの助手席に乗せた。
すぐさまエンジンを掛け、坂を下り始めた。
横に流れゆく風景。
薄れゆくなかで鈴は自分の映る姿が見えた。
私は・・・何をして・・・。
その隣を別な車が。
・・・GT-R?
中の2人がこちらを見ている。
運転手、男の人、良助・・・。
「・・・お父さん?」
その横には女の人、美香・・・。
「・・・お母さん?」
とたんに車の中に真っ白な眩しい光が差し込んだ。
鈴は目をギュッと瞑った。
ゆっくりと開く。
気が付けば鈴は真っ白な花畑の真ん中に立っていた。
「鈴」
声が聞こえた。
奥には
「お母さん!お父さん!」
鈴は2人に駈け出し、抱きついた。
「鈴」
母の美香は鈴の頭を撫でた。
「お母さん、会いたかった・・・」
「お母さんもよ」
鈴は父を見た。
「お父さんも」
「鈴、元気そうだな。レースはどうだ?」
鈴は笑みを浮かべながら大きく頷いた。
「凄く、だって私ね、大好きな車に乗りながら過ごせてるの」
「そうか。鈴は昔から車が大好きだもんな」
「うん!でも私にとっても、お父さんにとってもとっておきの車」
「とっておき?それは?」
鈴は笑った。
「もちろん、GT-Rだよ!私の大好きな車!」
3人は笑いあった。
「そうか。良かったな」
「うん!」
「そのうち鈴の運転で一緒にドライブでも行ってみたかったね」
美香が言った。
「行こうよ、皆で一緒に!」
鈴が言った。
「みんなでまた一緒に、車に一緒に乗りたいな~。あ、そうだ!」
鈴は2人の手を引く。
「ヤビツ峠!あの時はお母さん独り占めだったでしょ?だったら今度は3人で行こうよ!」
2人は少し困ったような笑みを浮かべた。
「私、あの場所が好き!私はいつでもあそこに居られる。だってそうすればまるでお父さんとお母さんと一緒に居る気がする。ねぇ、そうしようよ!みんなで行こうよ!」
2人はさらに困った顔をした。
「ここが、好きか」
「うん」
2人は鈴の顔をじっと見た。
鈴は2人の顔を見て笑みを緩めた。
「それで、自我自身だけに突っ走ってないか?」
「えっ」
鈴は声を漏らした。
鈴は良助と美香を交互に見た。
「復讐に突っ切って走ったりしてないよね?」
美香が言った。
鈴は下を向いた。
「それは・・・」
良助は鈴の頭を持った。
「お前は将来、有能なレーサーになるんだ。なのにそれを自我の欲のままに走ったりしてないよな?」
鈴は黙り込んだ。
「でも、それは―」
「どんな理由があっても、そんな風に車に乗るのを、私たちが嫌うのを、鈴は一番分かってるはずだよな?」
鈴は顔を上げた。
「あ・・・―」
2人が居ない。
「お父さん・・・?」
鈴は周りを見回す。
「お母さん・・・?」
周りの眩しいほどの白い花だけが鈴を囲んでいた。
鈴は立ち上がるととにかく前へ走り出した。
全速力で、ただ前へ。
「お父さーん!お母さーん!」
声の限り叫び続けた。
だが周りにはもう何もなかった。
唯一、走っていると奥に車が近づいた。
鈴は全速力でその車に近づいたがやがて目の前で崩れ落ちた。
それは前が押し潰れた悲惨な鈴のスカイラインGT-Rだった。
そうだった。
私にとって車は全てだった。
良助と美香が死んでからも。
サーキットで走る事だけが、生きがいだった。
車こそが、全て。
でも一人ではどうしようも無かった。
そんな時、来てくれた。
九太。
私は凄くうれしかった。
走りも考え方も単純なやつで、最初の頃は本当に雑魚でしかなかった。
それでも私は嬉しかった。
凄くうれしかった。
ライバルでもあり、仲間が出来たから。
そして日に日にそいつも速くなっていった。
いつの間にか私の知らないうちに。
でもある日から彼はサーキットを離れた。
私は見てしまった。
あの時、渋谷で彼が他の子と仲良くしているのを。
それからだった私はまた車でしかなかった。
サーキットも眼中になかった。
車しか、目に無かった。
でも逆に知らないうちに車のほかのことには何も無かった。
それからは私の体の一部でもあった。
私を表すのも、私を魅せるのも、全て車―そして怒りも・・・。
そして私は知らぬうちに車を復讐の道具としても使っていた。
鈴はしゃがみ込んだ。
「・・・ごめんなさい、お父さん、お母さん・・・。・・・私!・・・車に乗る資格無いの。私、車を利用した。復讐の道具にも使った。人を傷つけるためでも・・・」
知らず知らずのうちに鈴の目からは大粒の涙がこぼれた。
両手で両目を抑える。
「もう私、レースにも、車にも乗れない・・・」
鈴はしばらく嗚咽をこらえていたがやがて声を上げて泣き出した。
もしもあの時、九太に付いてサーキットに戻って行けば。
まだ間に合ったのに・・・。
今の私にはもう誰もいない・・・。
もう、誰も・・・、その時。
「しょぼくれんな、鈴!」
声が掛かった。
「・・・九太?」
「お前は俺と同じだ!俺と同じ、車に育てられた」
「九太・・・」
「お前にはまだやるべきことがある。サーキットに戻れ!俺たちはまた一緒に、レーサーになるんだ!」
そうだった。
私にはまだライバルがいた。
ライバルという、仲間が・・・。
だから、今ここでは負けられない。
もう前に進むしか、他に道は無い。
だったら、前に進むんだ。
お父さん、お母さん。
ごめんなさい。
こんな車を復讐の道具でしか使えないような。
自分の欲でしか使えないような、そんな人間だけど。
でも、やっぱりまだ私が生きるために・・・。
私は車に戻る。
そして今度こそサーキットに戻る。
そして、レーサーに・・・。
視界が戻る。
気が付けば、鈴は助手席に座っていた。
横では海斗が血相を変えてステアリングを握っていた。
「きゅう、た・・・」
海斗は鈴の声に気が付く。
「鈴・・・?」
鈴の方からは嗚咽が聞こえる。
「ごめん、なさい・・・ゲホッ、ゲホッ・・・」
譫言か?
でも今は・・・。
海斗はそのまま近場の病院へと鈴を運んだ。
1週間が経った。
鈴は命に別状も無く、食事も難も無く回復していた。
ただ事故以来、魂が抜かれたようにまるで元気が無い。
海斗が久しぶりに病室を訪れた。
「よう」
鈴は海斗を見ると少し笑いながら軽く頷いた。
「元気か」
海斗が訊くと鈴は黙ってうなずいた。
海斗は鈴の傍に座った。
「お前の車なんだが・・・ダメだった。エンジンが正面から潰されててな、シリンダーブロックが潰れてクランクシャフトとバルブシートが粉砕された。ボディもめちゃくちゃになってたし」
「そう・・・」
鈴はため息をついた。
「すごく驚いた。まさかあんたがあそこまでやれるなんて。しかもアンダー2LのFFでGT-R相手に」
「お前が俺に教えてくれたんだ。車は性能が全てじゃないってな。でも・・・最後のお前は見失ってたな」
「・・・そうかも。でもまだ理由があるんだ」
「まだ理由が?何の理由?」
「嫉妬してたの、私」
「嫉妬・・・?」
「そう。私、九太に嫉妬してた・・・2つの意味で」
そう言って鈴は海斗を見た。
「俺に?なんで」
「だって本当に九太が日に日に速くなっていくんだもの。だからもしかしたら追いつかれたんじゃないかなって。私逃げてた。ついこの間まで簡単に差をつけていたのがいつの間にかバックミラーの視界に、そして気づけばリアウインド一杯にまで迫ってきたんだから。だからいつの間にか怖くなって」
「そっか」
「九太自身も私も知らぬ間に、あんた速くなってる。少なくとも私が負けたのは事実だし」
「公道じゃ話にならねぇ。俺はサーキットじゃなけりゃ認めねえ」
「そっか。そう、あんたそんな人だったね・・・」
鈴は軽く笑った。
暫く黙り込んだ。
「でもそれだけで峠に行くのか?」
「ううん、本当はもう一つあって。九太さ、渋谷で女の子と会ってたでしょ」
「ああ、楓か」
「私知ってたの。あんたがその子と渋谷で会ってたの。それで九太、その子に会い始めてからサーキットにあまり出なくなったし、毎日その子と一緒で。だから嫉妬してたの。同時に寂しかった。これでサーキットで一緒に走る人が居なくなるから」
「・・・ごめん。俺そんなつもりなくて・・・でも俺もいろいろ悩んでて」
「もういいの」
鈴は窓を見た。
「もう、終わったから」
空では雀の群れが空に舞い上がった。
「でもなんであの峠へ?」
「それは・・・」
鈴は目を泳がせている。
「分からない?」
「分からないね。どうしてそうまでしてあの峠にこだわったんだ?しかもわざわざヤビツ峠に?両親が亡くなったのに」
「鈍感ね・・・」
鈴は軽く笑った。
暫く黙っていたがまた話し始めた。
「あの峠、私のお母さんとお父さんが初めてデートで走った所なの。私も何度か小さい頃この周りを一緒に周った覚えがある。その時言われたの。「鈴もいつか将来、好きな人が出来たらここに来て一緒に夜景を見に来なさい」って。だから私ここに来たの。そして伝えたかったの。好きな人ができたよって。その人も私やお父さんみたいな車が大好きなレーサーだよって」
「鈴・・・」
「でもあんたには楓さんみたいなもっといい人がいるんだし。言っても私たちは兄弟みたいなものだし。それに九太はいずれもっと上に行くんだろうし。それなら私たちはそれぞれ違う道に行くしかないんだろうね、きっと」
「鈴、まさかお前また・・・」
「バカ。そんなんじゃないって」
「そっか」
「私、サーキットに戻るよ。そして考えたんだけど、これからは箱車レースで全てを掛けようかなって。そしてまた・・・」
鈴は海斗を見た。
「今度一緒になった時には、また一緒に走ってくれる?」
「ああ。いつでも待ってるよ。サーキットでな」
海斗が答えた。
「良かった」
鈴が笑う。
「・・・その時は、今度こそは絶対に負けないから」
鈴は付け加えた。
良かった、やっぱり鈴はいつも通りだ。
「望むところだ」
海斗も言った。
「さてと」
海斗は立ち上がった。
「帰るの?」
「まぁ、カズの所に寄ってから帰りだな。でもお前はこっちの尻拭いはしてもらうぞ」
「え?」
病室の入り違いに楓が入ってきた。
「あ・・・」
「仲良くしろよ。・・・じゃ、なんかされたら言って」
そう言い残して海斗は病室を出た。
楓は鈴の傍に寄った。
「その・・・」
鈴は言葉が詰まったが頭を下げた。
「ごめんなさい!私、本当にどうかしてて・・・」
楓は笑みを見せた。
「いいの。だって、鈴ちゃん私の事本当に殺そうなんてしなかったでしょ?」
「えっ、それは・・・」
「だってそうじゃなかったら、あんな中途半端な突き飛ばされ方しないもん」
鈴は黙って下を向いた。
楓は鈴の傍に座った。
「私とあなただと趣味も合わないだろうけど、こんなのとか好きかなとか思って」
「え・・・?わぁ!すごーい!」
楓と鈴の楽しげな会話が聞こえ始めるのを届けてから海斗は病室を離れた。
海斗はカズの病室に戻った。
「よくやった」
カズが言った。
「こっちの問題だからな」
「まぁお前もらしくねぇ態度とったもんだな」
「なんだよ、それ」
「俺に言ったろ、”ありがとう”って。”すまねえ”とも言いやがったな」
「なんだよ」
カズは笑った。
「なんだよって」
カズはただ笑っていた。
「ったく、変なやつだ・・・」
カズは息をついた。
「ところでお前のセリカ・・・どんなん付けたんだ?」
「え?」
海斗がカズを見る。
カズは軽く笑った。
「いや・・・前から気になってな。お前一人で車を見てるから、あの車の力も分からないままでよ。ダイナモに載せてからお前何も見せなくなっちまっただろ」
「まぁな」
「天下のR34のGT-R、俺が確認した時にはゆうに650PSは出てたはずだ」
「そうなのか」
海斗も軽く笑った。
「まぁ元はテンハチのFF、エンジンも弄りようにも難しいだろうに。2Lで良いとこ250PSってところだ。スーパーチャージャーか、それとも低回転のターボキットか」
海斗は息をついた。
「何言ってんだ。俺はそんなもんくっ付けてねぇよ」
沈黙。
「・・・は?」
カズは頭を傾げた。
「俺は過給器の1つも付けてない。素のままだ」
「え?」
海斗がカズを見る。
カズは軽く笑った。
沈黙。
「・・・は?」
カズは頭を傾げた。
「何も?」
「ああ。4連スロットル以外何もだ」
「そんな・・・ありえねぇだろ!軟弱なエンジンと車が・・・」
海斗は笑った。
「なんだよおい。俺はただ素のままのエンジンをチューンして4スロしてから何もないぞ?」
「そんな・・・そんなバカなことは無い。相手はGT-Rだったんだぞ」
「ああ。知ってる」
「2.6L最強ツインターボのスポーツカーだ」
「そうだな」
「・・・鈴だぞ」
「分かってる」
「・・・それを?NAで?」
「ああ、そうだ」
海斗は当たり前のように答える。
「そんな、バカな・・・」
カズは慄く。
「そんなバカなことはない!バケモノ相手にフワフワした車が、勝てる訳が・・・」
「カズ、お前も知ってるだろ。俺は変なもん付けられた車は好きじゃないんだ。だからセリカも昔から今までずっとあのままだよ」
なんてことだ。
GT-Rはチューニングの幅も広い。
ましてやあのRB26エンジンの広いパワーバンド、幅広さは類を見ない。
しかもそれを操るのはあの鈴だ。
それで負かせた?
そんな事は物理的にも・・・。
カズはもう一度海斗を見た。
「お前のセリカ、どれくらい出てるんだ」
「ああー、パワーか」
「前からダイナモに載せてはパワーを図っていたが、最後に245PSまで行ってから見たこともないぞ」
「まぁしょうがねぇな、この際言うか。俺のセリカは・・・」
海斗はカズを見た。
「エンジン単体で275PS、排気系の見直しで・・・合計300ってとこか」
「300・・・」
「ああ。まぁ言うてもストロークは伸びたがな」
「・・・どれくらいだ」
「あーいっても2Lも無いと思う。ストロークアップで94mm弱ってとこか」
「・・・アンダー、2L?」
「そうだ」
2Lで300PSと言えば、もはや過給器付きで良い所だ。
でもこいつは・・・過給器も無く2Lの車をここまで引き出したのか。
カズは海斗を見た。
前に言ったことを思い出す。
最近こいつが分からなくなってきた。
だが今ははっきり言える。
こいつはもう分からない。
もしかしたら、物理的なものでは収まらない超越した何かがあるのかもしれない。
カズは笑い始めた。
「なにがおかしいんだ」
「いや、・・・はは。そうか」
「そうだけど」
「ああ、まぁ。・・・そうか。分かった」
「なんだよお前。変に笑ったり変にとちったり。火傷で頭まで逝ってるんじゃないか?」
「うるせえ」
「ま、いいや。俺は一度戻るよ」
そういうと海斗は病室を後にした。
その後ろ姿をカズは見つめた。
そうだ、あいつは前からそうだった。
車の本質を自ら感じ、共に行き、共に育ち、共に上へ。
それがあいつだ。
アイツにはもう物理的なもの全てを超越したものを秘めていてもおかしくない。
これはもう、ほんのそこらの車だけで留まらないだろう。