G 上
チャンスとは皆平等に与えられるものだ。
この世に生を受けたもの、それが最大のチャンスなのだ
~アイルトン・セナ
;時刻は18:00を回った。
カートの小さなサーキット回りでは夕日が周りを照らしていた。
ついさっきの熱気やガソリンやタイヤの焦げる臭いも、夕方の気温の低下に伴って少しずつ消えていく。
「本日のカートは全て終了しましたー。駅からお越しの方は左手駐車場を抜けて下さい・・・」
1人の少年はそのサーキット前で立ち尽くしていた。
見たところ10歳もしないくらいの小さい子供だった。
回りの大人たちは持ってきていたボストンバッグにレーシングスーツ、グローブ、ヘルメットが入っているのを確認するとバッグを持って出口へと向かった。
サーキットの点検で従業員が見回りを始めるが、手前では少年がずっと立っていた。
「またあの子か・・・」
「ここの所毎日のように来ている。カートに乗るわけでもなく、昼過ぎ位に来たと思えばずーっと走り回るカートを眺めてる」
「変な子だな。乗りたいなら乗ればいいものを」
「まぁどうせ持ち合わせのお金も無いものの。どうすることもない。それより、あの子を帰らせないとこっちはどうすることもできないぞ」
「俺が行こう」
1人は作業を離れると、少年に近づいた。
「僕、悪いけど今日はもうおしまいなんだ」
少年は黙っていた。
「僕はお母さんかお父さんと一緒じゃないのかい?」
話しかけるがなおも黙っている。
「一人で来たのかい?ご両親が心配するといけないよ。お家が近くなら送っていこうか」
あまりに黙り込む少年に頭を抱えた。
「まいったな・・・」
そのすぐ横の事務所からまた1人の男が顔を出した。
「あっ」
少年が声を漏らす。
気が付けばダーッと出口へと走って行ってしまった。
「あ、あらららー」
全員の視線が少年の背中を追っていく。
少年はそのまま出口を抜けて駐車場を抜けていく。
「またあの子か」
「ええ。ここんとこ毎日ですよ」
駐車場を抜けていくともう少年の姿は見えなくなった。
従業員や事務所に立つ男はその後ろ姿をただ見つめていた。
「まさかあの子、もう行く当てが無いんだったりしてねぇ・・・」
従業員はそう言い残すと作業に戻った。
男は事務所から出て出口前に立つと、少年の行った道をただ眺めていた。
渋谷。
ハチ公前のスクランブル交差点ではなおも人の通りが増し続けていた。
少年はそこで行く当てもなく彷徨っていた。
片手にはビニール袋、その中にコンビニで買ったおにぎりが2つとスポーツドリンクが入っていた。
回りでは見回りの警官が補導を始めている。
「君、未成年だよね」
「離してくださいよ」
「家出でしょ?こんな時間に出歩いてたらダメだよ」
「違いますって、なんなのもう・・・」
少年は交差点をセンター街に向けて走り出す。
通りを横切り、裏路地へと入っていく。
息を切らし、その場でしゃがみ込む。
通りからの音楽や喧騒が振動になって伝わってくる。
ビニールからおにぎりを出すと封を切って食べ始めた。
もしも自分に夢があったら。
自分の夢はなんだっただろうか。
さっきまで見ていたカートに乗ること。
カッコいいスポーツカーに乗ること。
そして将来は、母のようなフォーミュラーレーサーになること。
でも今は夢に向かうことさえままならない。
どうせ、一人だから。
―6時間前。
家の中では引っ越しの準備が行われている。
ダンボールに家の物が次々と入れ込まれていく。
「―海斗。そろそろ行くぞ」
後ろから声がかかる。
海斗は部屋の隅でしゃがみ込んだままじっとしていた。
「すいません、こちらはどうなさいますか?」
「あ、ああ。それはこちらで持っていきますので」
「そうですか・・・」
テーブルを見る。
テーブルには母の遺影写真と赤い布に入れられた遺骨が置いてある。
「海斗。急にお母さんが居なくなってさびしいだろうが、レース中の事故だから仕方がない。身寄りのいないお前だから、これからは本家がお前を後継として引き取る。いいな?」
お母さん。
薫。
日本人のスーパーフォーミュラーレーサーとしてはおそらく初となる女性レーサーだった彼女だったが富士でのレース中、ホームストレートで270km/hまで達した速度は落とされることなく、車は第一コーナーを突破。
結果どうなるかは、誰もが予想できた。
成績こそそこそこであったが、毎レースでも完走を続けていた。
事故直後、海斗は母の下へ向かうことを拒まれた。
とても、子供の前では見せられる状態ではないから、と・・・。
結局、それが海斗の見た母親のレース姿の最後であった。
父はもともと自動車整備士だった。
そんな2人がどうして離れ離れになったのか、小さい海斗は知る由もなかった。
「あなたはうちの家系で唯一の男の子。大切な人材よ。これからの生活は何不自由なく育てていくから」
横で伯母さんが言う。
海斗は黙っていた。
「分かったら、返事ぐらいするんだ。海斗!」
伯父さんが少し強い口調になる。
海斗は立ち上がった。
「お父さんはどこ?こんな時に何してるの?」
「いいか、海斗。お父さんの事は忘れるんだ。ずっと前に2人が離婚したのはお前も知ってるはずだ。裁判所の親権もこっちが後継として決まってるんだ」
「・・・だったら一人で生きていく」
海斗が答える。
「ふん。子供が何を言ってる。一人で生きていけるものか」
「一人でだって生きてやる。一人で生きて、強くなって、お前たちを見返してやる」
「なっ、なんて口の効き方なんだ。ふざけるな!」
「お前たちなんか、大っ嫌いだ!」
海斗は吐き捨てると、玄関へと走って行った。
「おい!待て!海斗!」
海斗は持ち金を確認した。
さっき家を出る前に持ち出したお金。
これからしばらく一人で生きていくにはこのお金しかない。
今日はとりあえず、ここで身を隠すか。
海斗は路地裏に入るとコンビニで買ったおにぎりにぱくついていた。
ただ昼から何も食べていない。
さすがにおにぎり2つでは満たされない。
ちゃんとした弁当でも買いに行こう。
そう考えて立ち上がると路地から出た、その途端。
ガシッ。
片腕を強く掴まれた感覚。
「あっ!」
一瞬にして背筋に悪寒が走った。
振り向く。
警官が2人ほど海斗を取り巻いていた。
「君ー、家出してきた?」
「は、離せ!」
振りほどこうとするが、警官の太い手が簡単にほどかれることはなかった。
「だめだよ、小さい子がこんな時間に出歩いてちゃ」
「ご両親の連絡先教えて。迎えに来てもらうから」
「えっ」
あんなところに戻るなんて。
二度と、ごめんだ。
「い、いやだ」
警官は肩をつかむ。
「はな・・・せ!」
肩から離れた。
2人の間をすり抜けると、センター街を交差点に向けて走り出した。
「あ!こら!」
「待ちなさい!」
2人が後を追ってくる。
人ごみをかき分けながら交差点を大きく横切る。
高架下を抜けていく車の間を抜けようとしたが、不意に1台の黒いGT-Rが海斗のすぐ脇で急停車した。
「わわっ」
それを抜けるとハチ公の銅像に近づいた。
タバコと吐物の臭いがツンと鼻につく。
高架下を抜けてバスターミナルの前を全速力で駆け抜けていく。
2人の警官がハチ公のそばまで来ていた。
「どこへ行った?」
辺りを見回している。
「こっちだ」
「いや、こっちだろう」
海斗は道を抜ける。
駅を離れ、しばらくして坂の先へ差し掛かったところで息が切れた。
荒い息遣いでそばのガードに寄り掛かる。
ポケットに手を入れる。
「あ、あれ?」
お金が無い。
もっと突っ込む。
裏地にひっぺがえす。
大きな穴が開いていた。
「しまった・・・」
穴のすぐそばに100円が引っ掛かっていた。
両手で100円を入念に見回す。
昭和59年。
裏面には斜めに青い筋のようなものが入っていた。
擦ってみるが取れない。
「こんなので・・・」
反対のポケットを念入りに確認する。
穴は開いていない。
100円を入れ返した。
問題はこれからだった。
100円でどう過ごしていくってのか。
また当てが無くなる。
ガード脇でしゃがみ込んだ。
どうしようもない感じが体に震えを与えた。
もう行く当ても無くなった。
生きていく方法さえ見つからない。
かといって素直にあんな家族には絶対に戻りたくない。
戻るくらいなら死んだほうがマシだ―。
死んだほうが?
そうだ。
そういう方法があった。
ガードの上には歩道橋が懸かっていた。
歩道橋を歩いて上がっていく。
飛び降りるには低すぎるか。
いや、対向車が大きいトラックなのを見計らってうまく頭から落ちれば確実に死ねそうだ。
坂の上手からコンテナのトラックが近づいてきた。
丁度いい。
こんな世界とはおさらばだ。
生まれ変わったら。
今度こそは夢を叶えられる、そんな世界に生まれたい。
暖かい家族、幸せな暮らしに囲まれて生きたい・・・。
スポーツカーに乗り、そしてサーキットを走るんだ。
そんな人生を。
考えながら、体を乗り出す。
「何してんだ?」
声の方へ顔を向ける。
「そんなことしたら、危ないぞー」
1人の男が立っていた。
「あっ」
カート場の事務所にいた人だった。
「何考えてんだか知らねぇが、言いたいことあったら言ってみたらどうだ?」
「か、関係ねぇよ」
「関係ないことあるか。ちっせぇガキがこんな時間にこんなとこほっついて。どうした、家出したのか」
「どうせ行く当なんかねぇよ」
「お父さんかお母さんはどうした?」
男は一つため息をついた。
「・・・ま、俺は面倒なことには首を突っ込みたくねぇし」
「なんだよ。大人のくせに。無責任な」
男は軽く鼻で笑った。
「無責任で結構。ところでここで何しようと思ったんだ?」
「・・・飛び降りてやるんだよ」
「飛び降りてどーするのよ」
「死んでやるんだよ」
「あー、やめとけやめとけ。対向で来る車のドライバーの身にもなってみろ。生涯悔やまれるんだ」
「なんだよ、面倒なのには首を突っ込まないって言ったくせに。・・・じゃぁいいや。電車に飛び込んで体ごと木端微塵になってやろう」
「それもやめとけ」
海斗はムッとした。
「なんでだよ」
「電車で自殺なんかしたら、片付ける人が大変だ。そのせいで大勢に迷惑がかかるんだ」
「どうせ死ぬんだから関係ないや。この際いろんな人に迷惑かけてやる」
「お前なぁ・・・」
そとからみればまるで微笑ましい親子の会話のようであった。
海斗はバカバカしくなってきた。
「んーもう!それよりなんなんだよお前!ずっと俺にかまって」
「だってこれから死のうとするやつとお話するなんて、結構レアだろ?」
「はぁ?」
「どうでもいいが、お前。ここで今すぐ死ぬよりも、あの車に乗ってみたくないか?」
「なんでそんな話になるんだよ。俺にかまうなって言ってんだろ」
「本当にいいのか?あの車だぞ?」
そういって男は路上脇に止まっている車を指した。
先ほど交差点で轢かれそこなった黒のメタリックのGT-Rだった。
「あ、あれは!」
「今死なないで俺と来ればあいつに乗っけてやるぞ」
海斗はGT-Rを見た。
海斗には夢があった。
それはカッコイイスポーツカーに乗る事。
そしてそれもただのスポーツカーではない、日本のモータースポーツ技術の結晶とも呼べるGT-Rに乗る事。
所がかっこいいスポーツカーに乗ることは今の海斗にとっては夢のまた夢。
しかもそれが夢にも見たGT-R。
「あの車、お前ならなんだか知ってるだろう?」
「・・・あれ、あんたのか?」
「ただのじゃないぞ。エンジンホールチューンとセミレーシングマフラーとコンピューターチューンで600psはゆうに超えるサーキット仕様のSpecVだ。これに乗って俺に付いて来ればたまに走行会なんかにも連れてってやる」
「本当かよ?!」
悩む。
死んでしまえばすべてが終わる。
自分の夢も。
でも今この見ず知らぬの男について行けばもしかしたら憧れをつかみ取ることができるかもしれない。
だが、こんな見知らぬ男について行ってもいいものだろうか・・・。
「どうするんだ?」
どうすることもない。
どっちにしろ自分の人生はこれからはロクにならない。
どうせロクにならないなら、あえて変な道に進んでみることも悪くないだろう。
それに何よりその黒のメタリックGT-Rからまるで誘惑するように発せられるオーラのようなものが海斗を惹いていた。
海斗は黙って体をひっこめると男へと向いた。
「そうこなくちゃな」
男は海斗の背中を二回叩くと歩道橋を降りた。
車は一般車とはかけ離れたスタイリングだった。
車高は地面スレスレに、タイヤのキャンバー角も僅かに外を向いていた。
乗り込むと目の前にダッシュボードが目の前に、少し目を上げるとすぐ地面を這う感覚だった。
発進と同時に体はまるでシートに吸いつけられる感覚がする。
シフトチェンジの度に体が揺れる。
「名前聞いてなかったな」
信号待ちの最中に男は聞いた。
海斗は考えてから答えた。
「教えない」
「ハァ?」
「個人情報だから」
男は困ったように頭を掻いた。
「んーじゃ、年は?」
海斗は片手を広げ、もう片方の手で4本の指を立てて見せた。
「九ぅ?はっ、そうか!んじゃ、お前は今から九太だな」
「なんでお前が決めんだよ!」
「俺はカズだ。よろしくな、九太」
「・・・俺をどこに連れて行くんだ?」
「お前にとっても良い所だ」
「良い所?」
1時間弱ほど揺られ続けたか。
ずいぶんと長い間乗せられていた気がする。
さっきのカート場にしてもまだ長い。
でもおそらく都内であろう。
「着いたぞ」
ようやくカズから声がかかった。
車は無人のゲートをくぐっていくと広い道を進み続けた。
周りを見回したが、真っ暗で何も見えない。
「ここどこだ?」
海斗が言う。
車はしばらく進んでから広い道から離れてトンネルのようなものをくぐって近くの駐車場を抜けた。
やがて中央に大きな建物が近づいてくる。
その前のガレージに車が入っていく。
ガレージ内で車が止まるとエンジンが止まった。
「ここだ」
カズはエンジンを止めた。
「これから食わせてやるにもタダって訳にはいかないぞ」
「金払うのかよ!」
「金じゃないにしろなんかあんだろ。これから俺がお前を泊まらせてやんだ」
「そうにしても・・・」
海斗はポケットを裏返した。
100円を取り出すとそれを差し出した。
「100円?へっ、お前100円で食わせてほしいってのか」
「もっとあったけど落としたんだよ!」
「だったら、地べた這いつくばってでもそれを取り戻すだろ!」
「そんな惨めなことできるか!」
「そんな気持ちで家出したのか。バッカだなぁ・・・」
「だから構うなって言っただろが」
「んーったく」
カズは百円を表裏に返しながら見回す。
昭和59年で裏面に斜めに青い筋が入っている。
「まぁいい、この100円は受け取っておこう」
100円を取ると、車を降りた。
海斗も車を降りていく。
ガレージ手前の扉を開けると、家の中へと入っていく。
玄関前でリビングの光景が広がる。
「広っ・・・」
リビングに入っていく。
カズは一人ソファーに横になる。
その前に海斗が立った。
「ひとつ言っておくが、俺はメソメソしたやつは嫌いだ。泣いたらすぐに放り出す」
「泣かねぇよ」
「そうこなくちゃな」
カズは背伸びをした。
「んじゃ、俺はもう寝るぜ。お前は上のソファーでも適当に使って寝ろ、九太」
そういうと奥の部屋へと入って行った。
海斗は回りを見回し、リビングの隣の階段を上って行った。
家にしては豪邸に近い。
豪邸よりも大きいのかもしれない。
別のリビングに入る。
ソファーよりはほぼベッドに近いソファーがある。
ソファーに座りこむ。
何かが近づいてくる。
「なんだ・・・?」
見えたのは細身の黒猫。
猫の頭を軽く撫でる。
壁の周りには歴代の昔から現代のレースカーやスポーツカーの絵や写真が貼られている。
大きい窓が張られている。
その奥では暗い影に外灯が数本立っている。
ここはどこだ?
良く見ようとした時。
「海斗」
後ろから女の声がした。
海斗が振り向く。
薫が立っている。
「海斗。海斗の好きな卵トースト、作ったよ」
「・・・うん。あれ?」
部屋には誰もいない。
海斗は思わずしゃがみこむと、知らぬ間に涙があふれ出てきた。
猫が寄り添うと、そばで体を丸めた。
「お母さん・・・会いたいよ・・・」
声を殺して嗚咽を堪えていたその時。
「みーちゃった」
女の声。
はっと海斗はその声の方を見た。
暗くて何も見えない。
「だ、誰だお前!」
海斗が声を上げた。
「みーちゃった。泣いてるの、みーちゃった」
「うっ」
海斗はそそくさと袖で目をゴシゴシと擦った。
「うるせぇ!」
「大丈夫。カズさんには黙ってるから」
「はぁ?」
やがてヒタヒタと足音が遠のき、奥の部屋の中へと消えた。
次の日の朝。
カズは上の階へと上がった。
ソファーに海斗が横になっていた。
「居た居た・・・」
カズは下からフライパンとお玉を持ってきた。
海斗の上で構えると大きく振りかぶって叩いた。
カン!カン!カン!
「わ、わわぁー!」
「朝だぁ!起きろー!」
時間を見ると9時だった。
「ったく、ロクな起こし方しやがって」
「まぁ寝耳に水ってやつだ」
「知らねーよって・・・」
海斗は外を見た。
眼下に広がるサーキットの道。
「うわぁー・・・すっげぇ・・・」
海斗は窓ガラスに張り付いた。
自分たちは丁度ピットロード手前にいる。
カズが後ろから近付いた。
「なんだ、今頃気付いたのか」
「真っ暗で何も見えなかったんだよ」
コース周りには木々が囲んでいる。
準備が出来たにもかかわらずガラスから離れようとしない海斗にカズは軽く後ろから頭を押した。
「いっつ」
「おら、シャワー浴びてこい」
「痛ってーな・・」
鼻と額を押さえながら振り返る。
海斗はタオルを持つと風呂場へと向かった。
脱衣場に入ると風呂場から音がする。
あれ?中に誰かいる・・・?
とは考えたも何の気なしに扉を開けた。
案の定風呂は利用中だった。
目の前に居たのは海斗と同じ年頃の少女だった。
目が合う、その直後海斗の右頬に強い衝撃が走った。
バシッ!
「いだぁ~!」
反動で床に転げる海斗をよそに少女はそそくさと脇を出てった。
海斗は首だけ起こしながら辺りを見回したが不意にリビングへと飛んで行った。
「おい!今誰が入って・・・」
リビングのテーブル前にはカズがキッチンに、先ほどの少女がテーブルの傍に座っていた。
「なんだやかましいな」
カズが出てくる。
「なんで風呂に女がいるんだよ!」
「女々しい野郎だなー。まだちっせぇ癖に互いの裸見合って恥ずかしがってんのかよ」
「当たり前だろ!だいたい、そ、その女誰だよ!家に他人がいるなんて聞いてねぇぞ!」
海斗がその少女の方を差しながら怒鳴る。
「ああー、お前言ってなかったか」
「聞いてるわけあるか!この家はお前と俺だけじゃねぇのかよ!」
「やかましいってんだ!逆に俺がお前と2人きりなんていつ言ったかボケ!」
海斗はカズを見ていたがまた少女を見た。
少女はしれっとした顔でテーブルに座っている。
「まぁ紹介はしておかねぇとな。鈴だ。お前と同じ9歳。そしてお前と同じ、親なし子だ」
「なんで一緒に面倒見てんだよ」
「お前と同じなんだよ。親なしの子供を代わりに育てて何が悪いってんだ。お前らもどっちみちいずれ、一人で生きていくことになるんだ」
「一人・・・」
海斗はもう一度その少女―鈴を見た。
「どーでもいいが、九太。女の前で裸が嫌なら隠すとこ隠してから来い」
海斗はハッとすると両手を股間に当て、風呂場にすっ飛んで戻った。
シャワーの水を頭に浴びながらカズの言葉を思い出す。
『お前らもどっちみちいずれ、一人で生きていくことになるんだ』
一人で、か・・・。
風呂を出てから朝食にテーブルに並べられたのは今までの暮らしていた時の食事よりもさらに想像を超えたものだった。
ステーキにフランスパン。
前菜野菜には黒い玉と大きなエビが沢山乗っている。
その横で別の蒸し料理がある。
サローインのステーキが目の前に置かれている。
テーブルの下では猫がエサ入れから食べていた。
オレガノとスパイスの香り。
「なんだよ、怒ってるのか?ちょっとズレただけだろ?ほら、さっさと食え」
海斗は何も言わずにただ座っている。
「どうした。腹減ってないのか?」
「減ってるよ!」
「じゃ食え!」
「こんな見ず知らずのもん食えるか!」
「食えないことあるか。どれも直送の高級ものだ。時間が経つともったいねぇ。それに、お前は後で連れてくところがあるしな」
「どこへ?」
「それは後のお楽しみだ。今は飯食ってスタミナ付けだ。でないとあとで困るぞ」
朝食が終わって暫くしてから海斗はレーシングスーツに着替えるとカズに連れられながら、サーキットへ連れられた。
部屋を出てすぐ、それがコースのホームストレート前のピットだった。
海斗がサーキットのピットに出たのはこれが初めてではなかった。
薫がいつもレースの度にピットに訪れていた。
その時のピット内はいつも周りはピリピリしていて威圧的な雰囲気があった。
富士スピードウェイの時も海斗は母親と一緒にピットにいた。
「海斗」
薫の声。
「お母さん」
薫は海斗の頭を撫でていた。
「頑張って」
当たり前だがいつも言う海斗の言葉。
「海斗がそう言ってくれればお母さんはいつも無敵よ」
そういって笑う薫の顔が思い浮かぶ。
昨日のGT-Rに連れられながら、サーキットの中を回る。
海斗はコースを周る中で回りを見回した。
「これ、全部あんたのなのか?」
「経営は俺が中心になってる。今日は休日だから俺たちだけだ。さぁ、俺たちはこっちだ」
コースは最初のカーブを抜けてからしばらくのシケインを抜け、右へのピットへ入る。
「ここだ」
車はピット側へ入る。
「待ってろ」
カズは降りるとガレージを開いた。
カートが並んでいる。
「あれは・・・」
カズは車に戻ると、端っこの空いたスペースに車を入れた。
「よし、降りろ」
車から降りる。
隣に1台のカートが止まっていた。
「これが・・・カート?」
「そうだ。お前カート乗ったことあるか?」
海斗は黙っている。
「まぁいい。お前がいつも見てきたあのカート場があったが、あれとは違うのわかるか?」
「違い・・・性能、とか?」
「そうだ。俺があそこで見ていたカートはスポーツカートと呼ばれるもので普通のレーシングカートとは違って、レンタル用の4ストローク汎用エンジンを利用したものだ。排気量が200cc、スピードも70km/h程度だ。それに対してこれは通常のスプリントカートのレーシングカートだ。入門クラスだが、あそこにあるものとは全く違う。2ストロークの冷却エンジンで100cc、速度は100km/h程度まで出る。お前にはまずこの100ccカートから乗ってもらう。その前に、お前にはこれだ」
カズがヘルメットを渡す。
「お前、身長は?」
「えーっと135くらい・・・」
「ちっちぇな」
「普通だよ!」
カズがシートにカバーのようなものを置く。
「まぁこれでも小さい方の車だ。乗れる」
横でカズが同じように自分のヘルメットをつかむと頭にかけ、深く被った。
「着けるときは、こう紐を2つの金具に通して、片方の出たところを・・・」
海斗が横で真似をする。
「こんなの乗って大丈夫なのか」
「怖いのか?」
「こ、怖いことあるか!」
海斗が怒鳴る。
カズは鼻で笑う。
「そうこなくちゃな。乗るときは、まずシートに一度立ってからその場でケツを付けて、右と左ペダルを付けるんだ」
海斗はボディーを跨ぐと、シートに立った。
その場でしゃがみ、シートに座ると右足をアクセル、左足をブレーキペダルに当てた。
「ペダルの位置大丈夫か?」
海斗は頷く。
「んじゃ、エンジン掛けるぞ」
カズは右横のエンジンでスターターと呼ばれるワイヤーを目いっぱい引いた。
ドゥルルルン。
エンジンがかかる。
その横でカズが同じようにエンジンをかけた。
カズがカートに乗ると少し進みはじめた。
片手で後ろを親指で指す。
後ろを着いてこいってこと・・・。
初めてのカート、進めてみる。
海斗は軽くアクセルを踏んでみた。
途端に体を後ろからググッと強く押されるような感覚が急に襲った。
「おおっ」
アクセルを離す。
これが、カート・・・。
踏み込むたびに襲うこの感覚。
ゆっくりとピットを抜けていく。
右のヘアピンに近づく。
ステアリングを少し右に切るだけでグッと曲がっていく。
身体はシートの左へ押し付けられる。
コースはしばらく直進し、左コーナーを抜けると、そのまま右へと曲がっていく。
しばらくまた直進し、また大きく右へ曲がっていく。
シケインに入ると右へ左、また右へと曲がっていく。
またさらに緩い右へ入っていき、また元に戻る。
1周1.3km弱のコース。
2分ほどで周りきった。
とはいえ速度は40km/h前後だった。
それでも地べたを這うようなこの感覚。
体感速度は2倍の80km/h近くということになる。
風を切るこの感じ。
気持ちがいい。
スピードに乗るこの感覚が何とも言えない気持ちよさを与えてくれる。
だが、海斗はこの走行と同時に不自然な快感を覚えた。
もっと背中を押される感覚を感じたい。
もっと早くスピードを感じたい。
横から襲われる押し付けられる感覚をさらに強く感じたい。
そして、もっと、速く走りたい。
カズは後ろを振り向いた。
アイツはまだやれるはず、いやもしかしたらやるつもりなのかもしれない。
また前を見るとググッとスピードを上げた。
海斗が突き放されたのに気付いた。
「あいつが同じ速さなら、こっちも同じ速さで行ける。いや」
海斗もアクセルを踏み込んだ。
「行ってやる!」
エンジン音が大きくなっていく。
回転数が高まり、速度がさらに速くなっていく。
差を縮めるため、最初のコーナーで少し速度を落としつつ突っ込む。
右にステアリングを大きく切る。
身体がシート左へググーッと締め付ける。
左腰骨と脇腹に固いシートの感覚が襲う。
なおも外側ギリギリ手前に近づく。
縁石寸前を切り返した。
「危ねー・・・」
前ではカズの車が既に次の左へ曲がっていった。
「くそっ」
迷わず海斗も後を追う。
ここからは少し下り坂。
速度が上がるにつれてテンションも上がっていく。
どんどん速くなる。
不思議だ。
アクセルを入れたままでもそのまま曲がっていく・・・。
それなら。
左へ差し掛かり、アクセルを半分緩めながら曲がっていく。
さらに強い横Gが海斗の体を右わきへと押し付ける。
耐える。
もっと行ける。
コーナーを抜け、さらに加速する。
さらに、速く。
さっきの2倍ほどの速さで2台はコースを1分ほどで周りきった。
カズはもう一度後ろを見る。
着いてきていた。
面白くなってきた。
あいつは想定以上に面白くなってきそうかもしれない。
あいつならもっと行けるのか。
ならこっちも。
そう考え、カズはさらにアクセルを踏み込んだ。
最初のコーナーを全開から突っ込み、中盤からスロットル前回で抜ける。
坂でさらに速度を上げ、そのまま左へ。
全開状態で緩く右へと入っていく。
直線はエンジンのデフリミットまで回したまま全開で右へ入る。
全開状態は続いたままシケインに入り、切り替えしながら最後の右へ入るとゴールを切った。
後ろを振り向く。
海斗の姿は無い。
さすがに全力で飛ばし過ぎると着いてこれなかったのかもしれない。
短い息を吐いた。
ところが、その4、5秒後だった。
1台がコーナーを抜けてきた。
海斗以外他にいるはずがなかった。
「あいつ・・・!」
海斗はコーナーを抜けるとカズのそばを通り抜け、速度をキープしたまままた最初のコーナーへ突っ込んでいった。
あいつは見込んだ甲斐があるかもしれない。
タイムは50秒台前半といったところか。
でもあいつならさらにやってくれそうだ。
これほどまで震え上がるような感じはカズ自身、初めて車に乗った時以来だったかもしれない。
ピットに戻った2人。
海斗だけあれから2、3周回ってからカズの誘導でピットに入れられた。
海斗はステアリングを両手で握り、正面を見たまま動いてなかった。
だが肩の上げ下げから早い呼吸をしているのは分かった。
「どうだ、初めてのカートの感想は」
カズが言う。
「なんて言うか、すっげぇ気持ちいい。今まで感じたことの無い速さと風を切る感じが、すごく気分がいい!いいんだけど・・・」
「いいんだけど?」
「もっとスピードが欲しいって言うか、なんていうか・・・もっと速くなりたい!」
海斗はカズを見る。
「そいつは意外だな」
「なんで?」
「初めての奴は高い速度とアベレージにビビって踏み込もうとするやつは少ない。もっと言うとそもそも9歳の子供がジュニアレベルのカートに乗る、お前のようなガキが100km/hも出すなんてのは話違いだ。でもお前はそれなのにお前は1周や2周慣らしただけでガンガンに攻め込んできやがる。おったまげたぜ。なぜそこまで恐れを知らない?」
「へっ」
海斗は鼻をすすった。
「そりゃ、俺はフォーミュラーレーサーの息子だぜ」
カズは態度を急変した。
「何?フォーミュラーレーサーの息子だって?レーサーの親がいたのか?」
「ああ。俺の母さん。・・・もう死んじゃったけどね」
思い出した。
そういえば最近富士で日本フォーミュラーレースで有能だと言われた初の女性レーサーが事故で亡くなったという話を聞いたことがある。
「まさか・・・お前が、あの息子・・・?」
そうそう駄目な家では無かったろうに、息子だけここまで落ちぶれて。
どうしてこんな事に?
母親が死んだからか。
だから昨日も死のうとしたのか。
でも今のこいつを見ていると自殺願望などは全く感じさせない。
まるで人生がとにかく楽しさを感じている、満ちている。
そんな雰囲気がする。
「お前、これからも乗っていきたいか。コイツに」
「当ったり前だろ!」
海斗の元気なサムズアップが返ってくる。
それならいいか。
「ならまず、お前の問題点だ」
カズはカートに座り、ステアを握る。
「お前のコーナーの曲がり方には問題がある。ゆっくりと傾けて侵入するのに対し、お前のは切るときに思いっきり切っちまう。そうすると緩やかに抜けられないし立ち上がりも悪い。速度をキープ出来ないで体への負担も強い。まずはそこからだな」
「ステアの切り方か。ほかには?」
「は?」
「他に問題は無いのかよ」
「お前はまずそれをクリアしろ。そこからだ」
「他に無いのかよ!」
「まだある。だがそんないっぺんに覚えられるわけねぇだろ。まずはそこからだっての」
海斗はカズの顔をぐっと見ている。
「おら、もう一回乗ってみろ」
「やだね」
海斗がそっぽを向く。
「な!なんでだよ!おめぇさっき乗るって」
「俺の問題全部教えろ。そうしないと乗ってやんねぇ」
カズは舌打ちを切った。
「今のお前にはまだ分かんねぇよ!」
「そんなの言ってみないと分からねぇだろ」
「いいか、問題点ってのはな1つ1つをゆっくり片づけていくもんだ。そうすれば着々とテクニックも付いてくもんだ」
「そんなの納得いくか」
「言うだけ無駄だ!」
海斗はそっちを向いたまま黙ってる。
まぁどうせ言うだけ言っても無駄なのはわかってる言ったところで別に減るものも無い。
「・・・ライン取りだ」
ようやく海斗が向き直る。
「ライン?」
「そうだ。お前の走りは安定してない。不規則に動き回って速度が落ちる。速度が落ちるってことはタイムも落ちる。良いタイムのために走るラインを見つけるんだ。・・・まぁこれは乗ってるやつ全員が走る最後にとことん突き詰めるものだ。より速く、よりスムーズに走るには誰もがより良いライン取りを極める。それはカートだけじゃない。すべてのレーサーに言えることだ。お前の母さんだってやってきたものだ。ラインなんてのはほんの2、3日で極められるものじゃない。何か月、時たま何年と走りこんでより速く走る。それがレースの世界だ。こればかりは俺でも教えられるようなもんじゃない。お前一人で見出すんだ」
海斗はカートを見る。
さっき走った時、エンジンは一定まで上がっていくとエンジン音が一定のまま上がらなくなっていた。
これはつまり、この車の限界の速度まで達したということだ。
このカートの限界速度が100km/h。
これはいわば絶対条件であり、それ以上もそれ以下もスピードは出せない。
坂を下るときなどは多少の流転でほんの数キロは出せるかもしれない。
問題はそれをさらに突き詰める。
つまりコーナーの抜け方やその時の車の扱い方ってことか。
「速く攻めるにはどうすればいいんだ?」
「さあな。お前が自分で考えろ」
「なんだよそれ」
「意味なんて自分で見つけるんだよ!」
「説明できないくせに!」
「んだとおら!」
海斗はムスッとした顔をしている。
このままだとまたふてくされかねない。
まぁヒントくらいはあげようか。
「アウトから攻めろ」
「はぁ?なんだよそれ」
「意味は自分で見つけろ、だ」
海斗は走りを思い出した。
車はアクセルを入れている間は速い。
スピードも出ている。
アウトから攻める。
意味は自分で見つけろ、か・・・。
それなら。
「よし、そんじゃもういっちょ行ってみろ」
カズはもう一度スターターを掛けた。
海斗はヘルメットを被る。
シートに座り、また発進した。
最初のコーナーに入るとステアをゆっくり傾けた。
普通に曲がっていく。
スピードも思っていたほど落ちない。
次を全開で坂を抜けていき、次のコーナーを全開のままゆっくりと入っていく。
自然とコースにそって曲がっていく。
シケインは右へ入り、左、そして右へ。
スピードを落とさないまま1周を周りきる。
最初のコーナーをそのまま突っ込んでみる。
ステアを切る。
これでは曲がりきれなさそうだ。
もっと切る。
まだ曲がらない。
さらに切る、あれ?
曲がらない。
前のタイヤは右に切れてるのに、曲がっていかない。
アウトへ膨らむと、縁石を超えてしまった。
「あちゃー・・・」
「コーナーリングフォースってやつだ」
「こーなーりんぐ・・・?」
「コーナーリングフォース。車は曲がり始めるとグリップ力を得るが、一定の速さを超えるとグリップ力を失う。どれだけ曲がろうと思っても車は曲がらない。Gを失い、どれだけステアを切っても車はまっすぐにしか進まない。これは自然で起こる物理的な現象だ」
「どうしたらいい?」
速度を落とす。
コーナーリング地点を見極めるなど。
方法はいくらでもあるが。
「自分で考えろ」
あえてそう言ってみる。
「な、なんでだよ!」
「お前ならすぐ分かるだろ、まぁいい。今日はこの辺にしとけ。あとは明日だ」
「えー・・・」
「時間を見ろ」
既に夕方近くになっていた。
「コースは元々今から1時間前に閉館だ」
海斗はふてくされていたが、GT-Rに戻った。
「良い子だ」
「子ども扱いするな」
「お前は子供だ」
「なめるなってんだよ」
家に戻る。
夕飯の後にソファーに横になる。
「意味は自分でみつけろ、か。でも分からないもんはわっかんねーしなぁー・・・」
猫がそばに寄ってくる。
海斗を覗き込むとニーと鳴いた。
海斗も猫を向き合ってから鳴き真似をした。
猫は爪を立てない前片足でポンポンと海斗の頬を撫でた。
「速すぎるから曲がらない・・・。だったら落とせばいいのか」
でも落とし過ぎると遅い。
アクセルを踏んでいる間は速い。
なら離せば力は伝わらない。
そのまま車を曲げて行けば速度が落ちる?
試したい。
だが今日はもう乗らない。
それに疲れた・・・。
「あんた、まだ車をよく分かってないでしょ」
声がした。
海斗は思わずカッとなった。
「は!?」
振り返ると鈴が見下ろしていた。
慌てて立ち上がる。
「てめー、どういう意味だよ!」
「そのままの意味よ。コーナーのラインどりもブレーキングのタイミングもかろうじてばっかり。それよりマシンを意のまま操る本質を分かってない」
「うるせぇうるせぇ!それ以上言ったらぶっとばすぞ!」
「あら、殴るの?男のくせに、か弱い女の子を?」
海斗はぐっとこらえるとソファーに座り込んだ。
「・・・そういうお前はできるのかよ」
「私はこのサーキットに住み込んで1年以上いるのよ。あんたなんか論外ってとこね」
くそっ、海斗は心でつぶやく。
確かに鈴の雰囲気は海斗のように初めて乗って自らの上達を満足する感じとは違う。
まさにカートを知り尽くした古参者な雰囲気だ。
でも。
「俺はフォーミュラーレーサーの息子だ。いずれお前もあいつなんかも・・・」
「関係ないわ」
「は?」
海斗は鈴を見る。
「レースだもの。自分との闘いよ。自分で成長するの。それに周りの人がどうなんて、関係ない」
海斗は黙り込んだ。
「悔しかったら、荷重移動を知る事ね」
そう言い残すと部屋に戻っていった。
夕飯の時。
相変わらず高級素材が並んだ夕食。
昨日の夜までおにぎりとスポーツドリンクだったのが一晩でここまでなる。
思わず海斗は笑った。
「何がおかしい」
カズが訊く。
「なんでもねぇよ」
「ふん。変なガキだ・・・」
「ガキって言うな!」
「ガキじゃなかったらなんだってんだ」
海斗はイーッとしかめた。
「けっ、生意気な野郎だ・・・」
暫くする。
「・・・お前、家族とか居ないのかよ」
海斗が訊く。
カズは一瞬止まって海斗を見たがやがてまた食べ続けた。
「なぁって。結婚とかしてないのかよ」
カズはただ黙っていた。
カートに乗っていて疲れるのはGの加速度による体の負担だという。
朝起きる。
左腰骨と脇腹がジンジンと痛む。
少し腫れている感じがする。
「痛てて・・・」
右も少し痛いが、コースは右コーナーが多かったので左に押し付けられるのが多かった。
「飯だー!」
下から声がかかる。
海斗が階段を下りていく。
テーブルにはもう鈴が座っていた。
海斗が脇腹と腰を擦っているのにカズが気付いた。
「どうだ?今日は乗れそうにないか?」
「の、乗るよ!乗るにきまってるだろ!」
海斗が叫ぶ。
「お前、脇腹痛いんだろ」
「そ、そんなことあるか!」
「診せてみろ」
カズが手を伸ばそうとするのを海斗が払った。
もう片方の空いた手を伸ばそうとするのをまた払った。
「お、お前なぁ・・・」
「俺に触るな!」
カズがまた手を伸ばす。
それを払おうとした海斗の手を掴んだ。
「あ!」
「遅いっ!」
もう片方でもう片方の手を外そうとするのを掴む。
「おら、遅い遅い遅い!スピード世界だぞ」
「くっ、離せ!」
「まぁまて」
カズが海斗の両手を上にあげる。
服を下から引き揚げる。
カズが思った通り海斗の脇腹には見事に大きく真っ青な腫れが大きく広がっていた。
下の腰骨辺りにも。
「うわぁ、こんなんになって」
鈴が言う。
「ま、カートに乗ってりゃ当たり前だがな。ちょっと待ってろ」
カズはテーブルを離れた。
しばらくして部屋の奥から湿布を持ってくるとテーブルに置いた。
「ほら、自分で貼れ。シートパッドでも貼っておくもんだが、チビだとふつうのシートには座りきれないだろうしな」
「チビって言うな!てかなんだよそれ」
「お前みたいにGで締め付けられるから腰骨が下手にやられるんだ。傷を無理やり押し通してもほっときゃ治るが、痛みに気が散るからな」
「どうにしろ、今日だって乗るぞ!」
「わーかったって。まずは飯。それから1、2時間あとだな」
「そんなに待てるかよ!」
「後にしないと酔うぞ。カートで酔ったらしばらくは二日酔いみたいになるぞ」
「んー・・・」
海斗は朝食を一気に平らげていく。
「ごちそうさま」
吐き捨てるように言い残すとまた上へと向かう。
「ったく、九太。お前時間あるなら洗い物でもしてけ」
「なんでだよ!」
「だから、お前暇だろ」
「お前こそどうなんだよ!」
「俺はこれからコースを見回るんだ。お前が走りたいって言うからついて行ってやるんだ。いいな?ついでに風呂の掃除と洗濯も一緒にやっとけよ」
そう言い残すと、玄関へと向かった。
鈴はキッチンに向かった。
「ほら、ボヤボヤしてないで手伝って!」
鈴が言う。
海斗はしばらくソファーでうつ伏せになっていたが、起き上がった。
「あー、クソー!」
頭をぐしゃぐしゃと掻く。
起き上がると、下のリビングのテーブル上の食器を全て運ぶ。
「ったく、なんで俺がこんなこと・・・」
鈴と並んで食器を洗う。
「そう言えばお前の名前ってカズに付けられたのか?」
「名前?」
「鈴って名前」
「まさか。親が付けたにきまってるでしょ?人の子なんだし」
「・・・ふーん」
全てを洗い切ると風呂場に向かい、手前の洗濯籠に入った洗濯物を全て洗濯機へ掻き入れていく。
「あんたの名前、ちょっと変わってるね。九太、なんて」
「アイツに付けられたんだよ。九歳だから九太って」
鈴はふふっと笑った。
「笑うな!」
「変なの。本名も無いなんて」
「うるせぇな!本名だってちゃんとあるよ!」
「なんて名前?」
「それは・・・」
言葉に迷う。
鈴が不思議そうに海斗を見ていた。
「・・・個人情報だから」
「あら、あんたみたいな子でもそんな言葉知ってるのね」
「どういう意味だよ!」
「ねぇ、二人で競争しない?カートで。それで負けたらカズさんの車を一人で洗車するの」
「やるかよ、そんなくだらねぇ」
「はっはぁー・・・」
鈴はいたずらな顔を見せる。
「な、なんだよ」
「怖いんだ。負けるのが」
「はぁ?!」
「レーサーは負けても勝っても勝負の世界よ。最初から負け腰でしかいられない人にレースの世界になんて行く資格無いわ」
海斗の中で何かが切れる感覚がした。
「いいじゃねぇか。やるよ!」
「ふふっ・・・単純な子」
「あ?!」
「何でもないー」
先発は鈴からだった。
レーススーツ姿の鈴はそのまま慣れた様子でカートに乗るとそのまま発進していく。
鈴のカートは・・・完璧だった。
安定した減速と荷重の移り、中速での速度も安定したまま周っていた。
結果的には1周目から50秒台を軽く切ったタイムを出していた
5周してピットに戻った。
「まぁまぁだな。言うだけの事はあるんじゃねぇか」
「褒めてるんだかけなされてるんだか」
「褒めてるんだよこれでも。あとはちゃんとぶち抜いてやらぁ。しっかり見てろ」
「せいぜい頑張りなさい。ゆっくり応援しててあげる」
「うるっせぇや、バーカ!」
怒鳴りながらスタートをする。
昨日の走りを思い出す。
一番はコーナーを曲がっているときだった。
つまり、アクセルを入れている間速度は速い。
だが、もちろん入れてない間は速度は上がらない。
速くない。
ならまずはここからだ。
「おーい!準備はできているぞ」
下から声がかかった。
「よっしゃ」
海斗はレーシングスーツを掴んだ。
昨日のコースのピットへ向かう。
ガレージを開けると、昨日のカートが用意されていた。
海斗はヘルメットを被った。
「いいぞ、乗れ」
海斗はまたシートにまたがって座った。
背中と腰脇に当たるクッションが何気に心地がいい。
カズがスターターを引いた。
エンジンがかかる。
「よし、行って来い」
海斗が車を出すと、ゆっくりとピットを離れていく。
昨日のコースを1周回る。
曲がれないなら、曲がらせる。
直線に入る。
アクセルを離した。
車両はそのままコーナー中盤まで突っ込んだ。
曲がり切れる。
一気にまたアクセルを入れる。
外側に膨らみ始める。
「行けっ」
左側面が縁石に乗り、そのままコースへ戻って進み続けた。
「やった!」
全開のまま坂を下っていく。
アウトから攻める。
アウト・・・?
アウトー!、という野球審判の声を思い出す。
えー、違うだろ。
坂の直線で車両は縁石に乗り上げてからのまま右へと逸れた。
次の左へのコーナーを内側へと入っていく。
「あれ?」
コーナー内側の縁石ギリギリから次へ立ち上がる。
ステア操作が楽だ。
走りも安定している気がする。
アウトから攻める、つまりこういうことか。
外側から内側へ。
そういうことなら、いっそ内側縁石を狙っていくか。
シケインを内側縁石めがけて次々と寄せながら行く。
無論アクセルは全開のままだ。
行ける。
もっと速く。
この1周は昨日のどの1周よりも速く感じた。
最初は速度を落とし過ぎず。
アウトから、インへ。
激しいGによって体が背中に押し付けられる。
身体を起こそうとしたが、動かない。
「ん?」
待てよ。
身体は下手に動かすよりも、車の動きに任せた方がいいのかもしれない。
荷重移動・・・。
―「身体を任せて。ありのままに」
薫の声がした。
そう、母との数多い中の思い出。
確か田舎町を薫とドライブに連れられていた時の話だ。
その時乗っていたのはトヨタのMR2 Gリミテッド’97だった気がする。
MR駆動というのはF1と同じなため、挙動が似ているのだという。
「窓開けていいわよ」
海斗は窓を開ける。
外の風が中へ送り込まれる。
「お母さんは普通の時も運転上手いよね」
「ありがとう。大事なのはね、体を車に預けることなの」
「車に預ける?」
「そう。車を操るのは運転している人。そしてそれに反応するのが車。反応した車に反発したりしない。自分の体をそれに預ける。それが車と一心同体になること」
「いっしんどうたい・・・」
薫が笑う。
「海斗には難しいかな。でも大切なのは操るからこそ車は動いてくれる。だからそれに身を任せることなの。身を任せて。ありのままに」
身を任せる。
起こそうとする体をまたシートにもたれた。
次の左コーナーでステアを切っていく。
身体のGは右後ろへと懸かってくる。
それに体を任せながら寄っていく。
左を切り替えし、右へ。
Gは背中を右から左へと移る。
されるがままに体が沿っていく。
シケインを抜け、最後の右を抜けていきラインを切った。
面白い。
速い。
そうか、荷重移動か!
Gに体を任せること、その気持ちの良いこと。
夢中になって走り続ける海斗。
ピットからカズが出てくる。
「おーい、九太。昼・・・」
海斗には聞こえない。
どんどんと速くなっていく感覚。
Gに体が引き寄せられる感覚。
「ったく・・・」
単純なやつだ。
単純なところから新しいものを次々と見つけてきやがる。
その度によりさらに速くなる。
海斗の走りはまさに独創的、というのが正しい。
でもそれは遅くなる速さではない。
むしろその速さは他の予想を大きく裏切り、さらに速くなっていく。
面白い。
同時に感じさせる、あいつにはおそらく才能以上の何かを持っているのかもしれない。
カートに限らない、何か別な才能だ。
まぁ今は好きなだけ走らせてやろう。
どうせあと30分もすれば自然にガス欠になる。
昼を越えて再度走り続け、夕方までの最後のベストラップタイム、それは大人の熟練者でも抜けることを苦する50秒台に乗っていた。
無言で戻ってきた海斗をピットで待っていた白いワンピースに着替えた鈴が立っていた。
「お疲れ。残念だったね。はい、タオル」
「あっ」
そうかそういえばタイムアタックだった。
そして結局超えられなかったんだ。
海斗は何も言わずにタオルを受け取った。
「あんたしっかりしてんじゃない。ライン取りが安定してるし、荷重移動もできてる。もう少しすれば負けてたわ・・・」
「慰めなんかいらねぇよ!」
「あんたねぇ・・・」
「うるせぇ!俺はいつか絶対速くなってやる。お前よりもカズよりも速くなってやる!」
「・・・ま、いいわ。とにかく約束は約束」
そういうとバケツと洗車道具を渡した。
シャッターの隣にはカズのGT-Rが止まっていた。
「あ、そうか・・・」
「何あんた、忘れてたの約束」
「そ、そんなことねぇよ。・・・でもいいや。憧れのGT-Rを間近に洗車出来るんだし」
「私は・・・私はGT-Rなんて嫌い。大っ嫌い!」
鈴は急に表情を変え、かみしめるように言った。
少し震えているようだ。
「なんだよ。お前。どうした?」
「な、なんでもないわよ!じゃ、あとよろしく」
鈴はピットを戻っていった。
次の日、カズは前のカート場へと連れた。
「ここで乗れるのか?」
「まぁ九太次第だ。今まで乗ってきた2ストロークのレーシングカートじゃない。4ストロークのレンタルカートだ。いや、今のお前なら・・・」
2人は事務室内に入った。
「カズさん!」
従業員の1人が気付く。
カズに気づいてから隣の海斗にも気付いた。
「その子って・・・」
「九太ってやつだ」
「九太?」
「コイツに今から10周タイムアタックで乗せる。サポートで3台付いてくれるか」
「それなら、丁度足立区から来てる安西さんいますよ」
安西さんはカート場で唯一30.168秒のタイムを出した人だ。
このカート場は広い全面舗装の敷地内をクラッシュパッドやタイヤバリアで仕切っているため、頻繁にコースレイアウトが変わっている。
とはいえ、ここ近くのレイアウト中ではカーブの数などからもタイムが大きく変わることはあまりなく、30秒ぽっきり行けると凄いと称えられるくらいだった。
「いいな、ご協力願ってみよう」
海斗はレーシングスーツに着替える。
「カズさん・・・」
1人が近づく。
「九太くんとやらが速いのはわかりましたが、まだあんなに小さい子でしょう?うちのレンタルカートは150cmか、140でもまだ大きいですよ。それなのにあんな小さい子を・・・」
「シートにパッドを置いて、ペダルの位置も極力近づけろ。それで問題ないだろう」
「いや、ギリギリ乗れるかもしれないですけど、満足に乗りこなせるのかどうか・・・」
カズは人差し指を差し出した。
「頼むから、言うとおりにやってくれ」
「は、はぁ」
「安心しろ。・・・あいつはやってのける」
「そうなんですかねぇ・・・」
海斗はカートに乗り込む。
3台のカートが近づく。
2台は従業員、1台は安西さんだった。
無理言って協力をしてもらうことになった。
要求が全開で煽れということだ。
とはいえ相手は子供。
煽って大丈夫なものか不安もある。
海斗がスタートする。
最初右へのヘアピンを抜け、左ヘアピン、軽く右へ曲がり、少し進むとまた右へのヘアピン。
それからしばらく直線を進み、右から左へのシケイン、その先の緩い右を抜け右から左へと抜ける。
その先は右へのきついヘアピンに入り、しばらく進んで右左右へとシケインを抜け、それからしばらく進み、大きく右へ曲がってホームストレートへ入る。
複雑なコーナーを含んだ全長390mほどのコースだった。
その間に3回ほど滑り、1回はスピンしてしまった。
「あー、あの子飛ばそうとしてる気ですか?むちゃくちゃ考えちゃって・・・止めた方がいいんじゃないですか」
「まぁ待て。お前もよく見てろ。これからだぞ。あいつが本気になる」
最後のコーナーを抜けた海斗の車はホームストレートでデフまで回ったまま最初のコーナーへ突っ込んだ。
「ああー、むちゃくちゃな・・・」
「黙ってみてろ」
海斗の車は速度をキープしたまま最初のコーナーを曲がっていった。
「あ、あらら・・・」
速度は一向に落ちないまま次のヘアピンからの右へと振り、ヘアピンを高速域のままで抜けていく。
「な、あの子・・・」
ヘアピンを抜けると次の直線をまたデフリミットまで回したままシケインに突っ込んだ。
「こいつ、・・・何者?」
海斗の後ろからサポート2台を置いたまま海斗と安西さんの2台が左へ差し掛かっていく。
シケインを抜け、ヘアピンに突っ込む。
すばやい減速から入っていく安西さんに対し、海斗の車は全開状態から突っ込んでいた。
そこからのいつなのかも分からないほどの素早くタイミングの良すぎるブレーキングと立ち上がりによって安西さんともさらに差を広げていく。
最後のシケインを抜け、緩い右を抜けてくる。
「もう来たぞ!」
「どうなってやがる・・・」
海斗の車がゴールラインを抜ける。
「タイム!」
「さ、33秒と661・・・。レディースのベストタイムの1秒差です」
「信じられない・・・。本当に怪物だ。化け物だ・・・」
周りは驚いていたが、カズは表情を変えない。
「まだやるぞ、あいつは。今日中にコースのベストラップタイムの更新用意でもしとけ」
「ま、まさか。あの安西さんだって2、3年前から通い続けて出したタイムですよ?あんな子供が、ほぼプロに近い安西さんのタイムを・・・」
だが海斗の走りは衰えることがない。
全開近い速さで突っ込む、そして素早い立ち上がり。
海斗本人はというと、ただ楽しんでいた。
限界速度ギリギリでアウトから突っ込む。
後は、身体を任せて。
ありのままに。
10周、あっという間だった。
10周、カート場の空気が凍りついた。
1.57.777
2.33.661
3.31.238
4.31.211
5.31.485
6.30.989
7.31.327
8.30.022
9.29.772
10.30.121
Best Laptime:29.772
海斗の出した最速ラップタイムはこのカート場開業以来最速だった。
2台のスタッフサポートは途中で出され、安西さんとも5秒近い差をつけていた。
事務所内も外でも周りではまだまだ小さい子供の叩きだしたタイムに呆気にとられていた。
結局、この後も海斗の疾走は留まることを知らず、いつもと同じくガス欠寸前になって戻ってきた。
A4用紙3枚分にまで渡るタイム用紙、最初の10周を除いては全てが30秒台をキープしており、そのうち30秒を切ったタイムは5つもあった。
「悪くねぇ。いつの間にかコツをつかんだもんだなぁ」
「なぁ、アイツはここで走らないのか?」
「アイツ?ああ、鈴か。アイツはずっと前にレンタルカートはもう卒業してる」
「どういう意味だ?」
「つまり次元が違うんだよ。あいつはもうレーシングカート一本だ。ま、お前もそのうち追いつける」
カズが言ったが、海斗は未だ鈴との間に多少の差があることに少々の疑問と嫉妬が残った。
「くそっ」
海斗はつぶやいた。
「教えてくれよ」
レンタルカートから家に戻ってきた海斗は夕食を終えてから上でソファーにいた鈴に問う。
「教えるって、何を?」
鈴が問い返す。
「どうやったら速くなれるんだよ・・・お前みたいに」
鈴は不思議そうに海斗を見る。
「変なの。あんたから私に物乞いするなんて」
「そ、そんなんじゃねぇ!」
海斗が言い返す。
「いい?技術なんて教わるものじゃないの。盗むものよ」
「盗むって、どうやって?」
「だから、その言葉の通りよ。盗んでみなさいよ」
そんな風に言われても・・・と海斗は悩む。
「あ」
拍子抜けした声がした。
「なんだよ」
「でも、鈍感なあんたに技術を盗むなんて、ちょっとレベル高すぎかしらね」
「ちっ、うぜぇ女・・・」
海斗がつぶやく。
「・・・でもいいや。どうせ俺はお前もカズも抜いてやるんだ・・・」
鈴はため息をついた。
「あんた二言目にはいっつもそれね。抜いてやる抜いてやるって。口で出まかせに言ってて速くなるとでも思ってるの?」
「それは・・・」
鈴は海斗を睨んだ。
「あんたみたいなのを見てるとむかっ腹が立つわ」
「な、なんだよ・・・」
「まるで私やカズさんは何もしないで速くなれた、みたいな言い草。勘違いしないで欲しいわ」
「別にそんなこと・・・」
海斗が言いかけるが鈴は立ち上がる。
「今のあんたには私に追いつくなんて100年速いわ」
そう言い捨てると自室へと入って行った。
「なんだよそれ・・・」
でも・・・。
確かに何もしないで速くなれれば一番楽だ。
だが、それは不可能だ。
でも海斗の中にある何かがすぐ鈴やカズへの不思議な意識を持たせる感覚がする。
嫉妬に近いような何か。
いつも鈴やカズがレースで何かを残す。
だが海斗は自分のなかで納得いく何かを残せていなかった。
だからかもしれない。
だから海斗の中の何かが鈴やカズに嫉妬の念を持たせるのかもしれない。
常に自分より前にいる・・・。
そんな感覚が。
速くなりたい。
誰よりも。
翌朝。
時間はまだ午前5時半ごろだった。
トイレで目覚めた海斗は下へ降りていく。
用を足してからまた部屋に戻ろうとした。
「・・・あれ」
海斗は窓から外を見た。
コースのホームストレートに鈴の姿が見えた。
駆け足でコースを走っている。
ピットに入ると腕立て伏せや車の脇で腹筋をしている。
「あ・・・」
そうだった。
やっぱり、あいつも頑張ってたんだ。
何もしないで速くなれるわけがない。
あいつが頑張ってるんだから、俺もやらないと。
海斗は心で決める。
暫くして鈴がまた駆け足でピットを走り出す。
丁度海斗が出てくると鈴と並んだ。
「あら。珍しいわね」
「うるせぇ」
海斗はただ前を見て走っていた。
「見直したわ」
「え?」
「あんたみたいなのでも考えて動くことぐらい出来るのね」
「知らねーよ」
「良い心がけよ。これで私に追いつく時間が10年くらい縮んだかもね」
「ふん、何が10年だ。いっとっけど、俺はまだ諦めてないからな。ぜってーにお前らを抜いてやる」
そう言い残すと鈴を抜いてスピードを上げた。
鈴はふふっと笑った。
「ほら、そんな無理したらすぐバテるよ」
海斗がカズの家に泊まり始めてから3か月ほどが経ち、頻繁にジュニアカートレースの小学生レベルに出場したが、カズはあまり認めたくなかった。
今の海斗のレベルは本場のプロレーシングカートとしての参加が彼のレベル的にも好ましかった。
地方のどこでも彼の速さは認められ、入賞回数が多かった。
ところがほとんどは予選からの決勝入りで決勝ではあまり抜いたりするのが見られなかった。
彼は抜き方がよく分かっていなかった。
ただ、自分の走りに没頭するあまり、理屈では分かっていてもそれを実行に移すまでの過程が無かった。
そこでカズは頻繁にF1GPなどのDVDでオーバーテイクのシーンを見せながらタイミングなどを掴ませていた。
ただカズは単純に映像を見せるのみで、海斗本人がそれを見ているだけだった。
それから海斗は決勝でもどんどんと抜いて行こうと攻める場面が多くなった。
だがその抜き方も海斗独自のやり方。
海斗本人はありきたりな抜き方には詰まらないと感じていた。
独創性を求めるのに気付いたカズはさらに少し昔のF1を引っ張り出すと、M・シューマッハやA・セナ、A・プロストなどの映像を見せた。
歴代で最も独創的で力強い走りをしていたF1レーサーといえばこの3人かもしれない。
世間、海斗の年の子供はみんなが小学校高学年になってから進学に向けて勉強を続け、私立校などを目指すには受験に向け、地元の公立には小学校を卒業した後にそのまま次の年には入学していた。
中学で思春期や反抗期を敵に迎えながら、学業とクラブを並列して行うと同時に全員がどれだけカッコよくなれるかを競っていたかもしれない。
海斗がカズの下に来て早くも5年が経った。
海斗は度々サーキットでの整理につき合わされたりした。
既に海斗はサーキットの中でも実車に乗せてもらう機会が増えていた。
だがそれもサーキットの運営の車と軽自動車のMT車ばかりであり、海斗はそれが気に入らなかった。
だがカズはドライビングの入門としてただその車に乗せ続けていたが、海斗は気に入らなかった。
海斗の乗りたい車、それは日産。
それもGT-Rの称号を受けた車。
ただ今はそれを目指してただひたすら走るだけだった。
カズの運営するサーキットは別なコースを携えていた。
海斗が今まで走ってきたコースはカートやコンパクトイベントで使われるショートコースなのに対し、元のサーキットはノーマルのロードコースだった。
いつもの通り、サーキットで運営前には一通りの整理を終えてから巡回を行う。
それを終えたら後は運営開始前まで海斗のフリーランだ。
時刻は午前8:30。
運営開始は10:00から。
「よし、いいぞ」
カズから合図が出る。
海斗は成長期も相まってレーシングスーツも2、3度着換えていた。
今日も同じ運営車両。
ホンダ ビート660も海斗には乗り飽きを感じていた。
クラッチを踏み込みエンジンを掛ける。
横にはカズのGT-Rが止まっている。
サーキット仕様、R35。
海斗を拾った車。
いずれこの車に乗りたい。
いつも横目で見ながらもコースへと出ていく。
海斗はカズの横に車を止めた。
「カズ」
「なんだ」
「俺にもいい加減乗せてくれよ。もう毎回軽自動車で飽きたんだよ」
「何に乗りたいってんだ」
「決まってんだろ!GT-Rだよ!GT-R!」
海斗は憤慨した。
「お前にはまだ早い!」
「なんで分かんだよ!」
「いいか、軽自動車とGT-Rの差ってのはな、雲泥なんだ、雲泥。おめーがあの車に乗ったら一コーナーでぶっ飛んじまうだろうが。」
「なめんじゃねぇよ!俺はカートから上がったんだぞ!」
「関係ねぇ!」
コースではもう一つのエキゾーストが鳴り響いていた。
メインのストレートを通過していく。
スカイラインGT-R R33 spec V。
鈴の車だ。
「あいつだってもうGT-Rだ。それで俺にはこのポンコツかよ!」
「いいか、今のお前にはそれで十分だ!その車だっていい車だ。MR駆動と理想的重量配分、4輪独立懸架ストラット、ホンダがF1技術から継承した多連スロットル、エンジンコントロール、小回りも効く分グリップの安定性からスポーツ技術の習得にも―」
「知るかよ!だいたいあいついつもGT-Rは嫌いって言ってたのになんで・・・」
「とにかくあいつはあいつ!お前はお前だ!ほら、行くなら行け!行かないなら戻れ!」
海斗はしばらくカズを睨んでいたがシートに肩を下した。
「くそっ」
ピットを出ていく。
カズはその後ろ姿をじっと見ていた。
カズも薄々気づいては居た。
海斗はもう身に慣れた車では窮屈すぎるのかもしれない。
ただし、ここで力の大きい車へ任せたら、甘えにもなってしまい限界を詰めれなくなってしまう。
ここはひとまず・・・。
カズは携帯を出すと連絡先からとある電話を掛けた。
「もしもし、ああ、俺だ。久しぶりなんだが、頼みたいことがあってな・・・」
「ふん。何がお前には早いだバカヤロー・・・」
海斗はアクセルを踏み込んだ。
ピットを抜ける。
ピットはホームストレートと直結し、コースへ入っていく。
最初は右へのヘアピンカーブ、そこから緩く左に入っていくとショートコース内のシケインに通じる
右左右と流し、右へ緩く振ってからショートコースのストレート、そこから右への急なヘアピンに入る。
坂を下がり、左へ。
ここまではショートコースのみでロードコースはこのまま少し直進するとまた緩く左へと曲がり、また少し直進してから270度ぐるっと回る。
そのまま直進し、短い左右と振るシケインを抜けると右へ。
ストレート前でゆっくりと右と左へと振り、ホームストレートに戻る。
17個のコーナ数。
コース全長は約3km。
このコースは名称が、オータムリンクと呼ばれている。
名称のオータムは英語のAutumnに由来しているが、その理由としてコース脇を囲むようにしてたくさんの楓の木が生えていることだ。
秋になると紅葉が色づき、コース上にはたくさんの楓の葉が落ちるようになる。
たまにその楓の葉が縁石やコース上に溜まりすぎるとそれを除けたりする。
午前のフリーランを終え、昼食を食べる。
カズと鈴、海斗の3人はいつものようにテーブルを囲んで食べていたが。
不意にカズは海斗を見た。
「九太、お前いくつになった」
海斗は一度両手を広げてから閉じ、片手で4本を立てた。
「そうだったな・・・」
カズは暫く海斗を見ていたが。
「よし。買うか」
「買うって。何を」
「お前の車だ」
海斗はカズを見た。
「マジか!」
「ただし、俺に任せろ。とっておきの最高の車を選んできてやる」
「軽じゃねぇだろうな」
「当たり前だ。お前のドライビングセンスのための車だ」
「GT-Rか?」
「お楽しみだ」
「ケチ!」
とは言ったが心の底嬉しかった。
ついに念願だったスポーツカーを手に入れられる。
鈴がGT-Rならそれ相応の車を持てるに違いない。
いや、分からないが。
でもGT-Rじゃなくてもそれなりのスポーツカーはいろいろあるはずだ。
様々なスポーツカーが頭の中をよぎる。
やはり欲しいのはスカイラインGT-R。
フルタイム4WDのアテーサーと2.6Lツインターボはたとえ古い代でもいい車だ。
いやフェアレディZか。
3LオーバーのNAエンジンでパワーも強い。
あるいはほかの車でもいい。
インプレッサstiやランエボ。
4WDターボとオフロード/オンロード問わない足回りや剛性、加速感。
きっと引けを取らないだろう。
「まてよ」
スープラなんかもいい。
3Lのツインターボエンジンは低速域でも強いトルクがある。
あるいはRX-7か。
ロータリーエンジンサイクルの強さも捨てがたい。
あるいはホンダ傑作、NSX。
VTECエンジンと高い空力性能にミッドシップ駆動を両立した最高のスポーツカー。
悩む。
でも今はとにかく期待してただその時を待つだけだ。
翌日の朝。
いつもの通りカートに乗り済ましてからピットに戻るとカズがいた。
「九太!車だ。お前の車が届いたぞ」
「マジか!」
海斗はカートを降りると同時にヘルメットを取った。
「どこだよ」
「今、コースを周ってきてる。もうじき来るぞ」
しばらくして甲高いエキゾースト音が近づいてきた。
「来たぞー、これがお前の車だ」
夢にまで見た、スポーツカー。
その姿は・・・。
1台のシルバーメタリックの車が入ってきた途端海斗の顔が唖然とした。
「見ろ。これが九太の車だ!」
そう言って海斗の目の前に止まった車。
トヨタ セリカ TRD スポーツM(ZZT231)。
「・・・これか?冗談、だろ?」
「いや、お前の車だ。極小価値のをようやく手頃で拾ってきたんだ。可愛がってやれよ」
海斗は暫く車を見ていた。
「・・・ふざけんなよ」
「なんだ?」
「ふざけんなってんだよ!」
海斗は怒鳴った。
「これは・・・スポーツカーじゃねぇじゃねぇか!」
「ああ、そうだ。俺は何もお前にスポーツカーを買ってくるとは一度も言ってないだろうが。何を勘違いしてんだ?」
「何なんだよ!期待させといて、結局買ったのがFFのデートカーかよ!ふざけんじゃねぇよ!」
「うるせぇ!何がふざけんな、だ。お前、この車の事なめてんのか?」
「当たり前だろ!GT-R乗せろ!鈴がR33GT-R、あんたがGT-R SpecV R35、なんで俺がFFのポンコツカーに乗らなきゃなんねぇんだよ!」
「ポンコツじゃねぇ!いいか、セリカは良い車だ。トヨタの代表的なライトウェイトスポーツの代表作でもあるんだ。コーナーはしっかり曲がるし、後ろを掛ければアンダーも殺せるし、踏み込むだけ曲がっていく。荷重移動の原点を突いてだな―」
「意味わかんねーんだよ!最強はGT-Rだ!こんな車に乗せるだけ納得いかねぇ」
「パワーに頼ってても良いテクニックはつかねぇんだよ。車の物理運動の元祖から身に着けていくんだ。つべこべ言わずに乗れ!」
海斗は黙り込んだ。
「分かったか!」
暫く沈黙が続いていたが、やがてカズは舌打ちをすると家に戻った。
海斗は横目でセリカを見たが、そっぽを向くと家に戻っていった。
翌朝。
2人はいつものようにオータムリンクのサーキットを走っていた。
「もう、そんなんで喧嘩したの?くだらない」
鈴が海斗の隣で言う。
「関係ねぇよ」
「考えてごらん。私たち14歳よ?14歳で車を持ってるなんて、普通考えられる?」
「だったらお前だよ」
海斗は鈴を見た。
「私が何?」
「なんでお前はR33のGT-Rなんか乗ってるんだよ。14歳で傑作スポーツカーに乗れるなんてそれこそ考えられねぇ」
「私は前から車にも乗ってたの。だからGT-Rがどんな車かも癖も分かる。カズさんもそれを分かってて私にくれたんだから」
「・・・納得いかねぇ」
海斗は暫く走っていた。
「・・・だいたいお前、なんでGT-R嫌いなのに乗ってるんだよ」
「車は良い車だから」
「それだけでわざわざ嫌いな車に乗るのか?」
「気になる?」
「当たり前だろ。前々から思ってたけど」
鈴は暫く黙って走りながら考えたがやがて海斗を見た。
「教えない」
「は?」
「可愛い女子に秘密は付き物よ」
「なんだよそれ」
海斗は軽く笑う。
2人はピットに入ると家に戻り、上のソファーへと向かった。
「あんた、車はパワーだと思ってる?」
唐突に鈴が訊いた。
「え?」
「九太!」
下から声が掛かった。
「ほら、呼んでるよ」
「知るか」
海斗はソファーでうつ伏せになった。
カズが上がってきた。
「九太」
九太はずっと黙っている。
「あの車じゃ不満か」
何の反応もしない。
「そうだろうと思って、買い直しがてらもう一台買ってある」
同じようなものならシビックやインテグラを思い出す。
「・・・テンロクだろ・・・」
「バカ。スカGだ。お前が欲しがってたろ」
「え・・・」
海斗は声を漏らした。
「興味ねぇなら、すぐにでもとっぱらっちまうぞ」
カズは階段を下りていく。
鈴は海斗を見た。
「良かったじゃない」
「へへ・・・」
海斗は軽く笑いながら黙って起き上がると家を出てピットに出た。
セリカの横には光沢の青々としたスカイラインGT-R R34 Vspec IIが止まっていた。
海斗はぐるぐると周りを周りながら見回していた。
「へへっ。やっぱりGT-Rだ・・・」
「どうだ。満足か」
海斗は何も言わないで笑っていた。
「ただし、お前には一つの条件を付ける」
海斗はカズを見た。
「条件?」
「鈴!」
カズが呼ぶ。
鈴はレーススーツで降りてきた。
「頼むぞ」
鈴は頷くと横のセリカに近づいた。
「3周、先発。鈴に抜かれないでトップを維持したままフィニッシュしろ。そうしたらこの車は完璧にお前の物だ」
「なんだそれ・・・」
「そういうことだ」
「つまりこのGT-Rでセリカとレースしろってことか?」
「ああそうだ。分かったら準備しろ」
「おい、また冗談かよ。FFの1.8LにフルタイムのアテーサーE-TS 4WDの2.6Lだぜ?これで抜かれないようにしろ?」
「本気だ。まぁ、お前の考えるGT-Rなら余裕なんだろ。なら大丈夫だ。但し、負けたら・・・」
「負けたら?」
「従来通り、お前の車はあのセリカ。そしてこのR34は鈴の次の車になる。行って来い」
海斗はセリカを見たが、またカズを見た。
「余裕だ!」
そういうと一度家に戻った。
レーススーツに着替えて出てくると念願だったBNR34GT-Rに乗り込む。
「なめやがって・・・」
2.6Lターボに1.8LのNAが?
決まってる。
直線だけでぶっちぎれる。
何よりこの雰囲気・・・。
エンジンを掛ける。
トゥルルル、ブォン・・・。
オドメーターは2万キロほどだった。
まだまだだ。
カズの合図と同時に2台はコースへと出て行った。
力強いレスポンス、足回り・・・。
今まで小型の軽で走りこんだ海斗には新鮮だった。
コースを左右に振りながら走る。
バックミラーでセリカを見る。
あのひ弱な車に抜かれる?
冗談も過ぎるぜアイツ・・・。
ホームストレートに戻る。
2台が並んだ。
「あんたとレースなんて久しぶりね」
「前はタイムアタックだったけどな。でもこれで俺もGT-Rデビューだ」
「まぁあんたにはちょっと早いんじゃない?将来の私の車なんだから。傷つけないでよ」
「馬鹿いえ。アンダー2Lのセリカなんざ軽くバックミラーから消してやら。お前も嫌いなGT-Rよりそっちに乗り換えるチャンスだぜ」
「強気ね・・・まぁあんたがどれくらい成長したか見てあげる」
「おら、そこまでだ」
カズが間に割った。
グリーンフラッグを上に構えると一気に振り下ろした。
両者とも絶妙なトラクションでの発進、だが先に出たのはR34だった。
「これだよ!」
海斗はアクセルを踏み込む。
ターボと一気に吹け上がる。
第一コーナーへ突っ込む。
3速、2速まで落として切り込んでいく。
立ち上がり、また踏み込む。
これがGT-Rの凄さか・・・。
「やっぱりGT-Rは速ぇや!」
ふとバックミラーを見る。
「あれ・・・?」
セリカがすぐ後ろでついてる。
おかしい。
ストレートの加速は抜群だし、コーナー出口も問題ないはずだ。
曲がっているときもしっかりとしたトラクションで曲がっていったはず・・・。
そのままシケインへと入って行く。
左に切り込み、右、左へと振る。
おかしい。
セリカが迫っている。
「・・・なんだよ。これ」
そしてショート手前の右コーナー。
いつの間にかセリカはピッタリと後ろに付いたまま曲がっていた。
「どうなってやがる!」
ショートストレートで少し離したも次の右ヘアピンに差し掛かると一気にその差は縮まった。
「くそ!」
ストレートでは早いのにコーナーに入った瞬間その差はほぼ0になる。
ヘアピンを抜け、少し減速してから左へ入る。
とたんにバックミラーからセリカが消えた。
と思いきや右のアウトの視界からセリカが入ってきた。
「くっ!渡すかよ!」
海斗はインに張り付いてその後を全開で言った。
その後の270R。
入口で2速まで落とすと80km/h以下でコーナーを曲がっていく。
アンダーの激しいスキール音が響く。
セリカはバックミラーのいっぱいにそのフロント面を埋めていた。
「どうなってんだよくそ!」
次の左、右のシケインもぴったりくっついたまま最終のシケインへ。
ホームストレートに入って行く。
ここまでくりゃこっちのもんだ。
海斗はアクセルを踏み込む。
セリカが徐々に離れていく。
2周目へ。
ホームストレートの差もむなしく、第一コーナーですぐさま後ろに張り付かれた。
ショートのシケイン、ストレート、ヘアピンも抜けていく。
左への緩いコーナー。
今度は少しスピードが出たままで突っ込んだ。
「耐えろ!」
すると今度はインからセリカが顔をだした。
「っ!」
暫く並走したが急にセリカは減速した。
「??」
そのまま後ろに付くとライトを点滅させた。
「くそっ!」
駄目だ。
遊ばれてる。
今のは抜こうと思えばいつでも抜ける、そんなサインだろう。
張り付かれたまま2台は3周目へ入った。
これでは遊ばれてばっかだ。
いつ抜かれるか分からない。
最初のコーナーの減速で後ろをブロックするか・・・。
海斗はバックミラーでセリカの位置を確認しながら減速を始めた。
その途端。
セリカは左をすり抜けるとそのままコーナーに突っ込んだ。
「おい!」
嘘だろ。
オーバースピードだ。
アンダーのFF。
あれじゃそのままコースを出ちまう。
車のタイヤも耐えられないはずだ
その次の瞬間。
セリカのリアから軽く白煙が上がった。
同時にフロントはコーナー内側へと向きスピードを維持したままコーナーへ突っ込んだと思えばそのままクリアしていった。
「なんだぁ、今のは!」
第一コーナーを抜けヘアピンもさっきの2周とは違う速さで突っ込んでいる。
ブレーキランプが頻繁に点滅しながらショートへと突っ込んだ。
あっという間にセリカとR34GT-Rの間には1秒弱ほどの差が広まっていた。
ショートのストレートで追う。
次のヘアピンしかない。
ブレーキ勝負だ。
またもセリカはコーナー奥でブレーキングをしている。
こっちもその気になりゃ・・・。
海斗も後に続いてブレーキを開始した。
ステアを切り込むが、曲がらない。
「やべっ!」
どアンダー。
曲がる気配がしない。
車はそのままアウトに孕むとコースと飛び出し、砂地に突っ込んだところで止まった。
セリカは次の左コーナーへ差し掛かろうとしていたがこちらに気づくといったん止まり、バックで戻ってきた。
鈴が降りるとGT-Rの横に立って腕を組んだ。
「あーあ。豪快にオーバースピードね。なんでこんな初歩的なミスを?」
「その・・・行けると思って」
鈴はふっと笑った。
「バカね・・・」
「お、お前こそ!何したんだよ!むちゃくちゃなスピードで突っ込んだり、変な時にブレーキしたり」
「分からないの?」
「わ、わかんねーよ・・・」
鈴はため息をついた。
「あんた、もう一回カートやり直したら?」
「は?!」
海斗は逆上しそうになったが鈴が遮った。
「あんたはまだ車を分かってないのよ。技術も未熟。答えも分かってない。力任せに空回るだけ。私はこういう車久々に乗ってみたけど気に入ったわ。あんたみたいな人に乗せるのはもったいないくらい。・・・でも約束は約束ね。秘訣が知りたかったら自分で探すか、もう一回ジュニアカートからでも始めることね」
鈴はセリカに戻るとまたコースを走って行った。
取り残されたR34GT-Rと海斗は唖然としたまま動かなかった。
「・・・くそっ」
「左足ブレーキだ」
カズが言う。
「左足ブレーキ?」
「お前もカート乗ってるなら分かるだろ。微妙でタイトなコーナーが続く間ならFFは基本アンダーだ。だから左足で適度にブレーキを踏み込んでアンダーを殺す。そんなもんだ」
そうか。
通りでフロントが出しゃばらないであのシケインを曲がっていけた訳だ。
でもヘアピン。
「じゃあのヘアピンはなんだよ。明らかにオーバースピードで突っ込んでたぞ。なのにフロントが急にくいって・・・」
「あれか・・・あいつもそういうの覚えてたんだな・・・」
「そういうの?」
「あれは、サイドブレーキを使ったやつだ」
「サイドを?」
「リアを一瞬ロックさせてやや外側に滑らせ、前をコーナーに向けさせることだ。そうすりゃアンダーはばっちり殺せるうえに、あとはあのライトウェイトとセリカ特有のコーナリングで曲がっていけるって感じだ」
「そんなことが・・・」
「これでお前も分かったはずだ。きっとお前のGT-Rはコーナーで十二分に煽られただろう。車はいくら高性能であっても利点もあれば弱点もある。GT-Rは確かに傑作だ。だがセリカと比べるとタイトでテクニカルな面で追いつかない所もある。レスポンスも鈍い。重量も重い。セリカは軽量でコーナーも曲がる。いくらアンダーでも物理的に勝る点はいくらでもあるんだ。このコースはそんなところだ。車の性能だけでなく全てがイコールに近い状況下で競い合う。だがそれはまだ可愛いものだ。人によってはカバーできる。それよりもう一つ肝心なものがある。これは車の性能、タイヤ、コース以上のものだ」
「肝心な・・・」
「ドライバーだ」
海斗ははっとした。
「九太の走りはまるで表面的というかな。確かに速くはなってる。だがそれも的を外しまくった走りだ。自分の頭で分かってるつもりな限界や走り、そしてそれで突っ走るだけ。それは前もって走りに自信を持てても十分な速さを突き詰められない。それに対して鈴。あいつはお前とは違う。車の限界点を見極め、それをキープしたうえで速い走りを見極めるため、あらゆる技術を駆使し、即座にベストな方法を見出す。あいつは車と対話する力があるんだ。お前にはそれが足りない」
カズは海斗を見た。
「もし逆に今の九太がセリカに乗って鈴がR34だったらどうだ。お前はさっき鈴が煽った時のような走りが出来るか?きっと無理だ。車の性能か、それもあるかもしれない。だがそれ以前にお前には車と対話する力がない。だから俺はこの車を選んだんだ。セリカが良い車なのはそんなところだ。車と対話を出来ない奴と向き合ってくれる。そして知らない事を教えてくれ、ドライバーと一緒に育つ。そんな車だ」
「だからテンロクじゃなくてわざわざこいつを?」
「そうだ。あの領域はお前にはまだ早い。きっとお前もこの車と共にしていればGT-Rよりもっと大切な何かが芽生えるはずだ。どのみちお前もいつかはGT-Rだけじゃない、世界のスーパーカーやレーシングカーを又に掛けることになるんだ」
カズは家に向かった。
「とにかくこれは条件だ。約束通り、このセリカはお前、R34は鈴に引き渡す。・・・忘れるな。車と対話するんだ」
言い残してから家へと入って行った。
ピットには海斗とセリカが残った。
海斗はもう一度セリカを見た。
GT-Rがセリカにちぎられた、これは事実だった。
納得もする以外何も方法がない。
これほど悔しい思いをしたのはいつぶりだったろう。
でも悔しすぎて何も出てこない。
憧れだったGT-Rはもしかしたら単なる自己満足だったのかもしれない。
セリカに近づいた。
スポーツカーでもないこの車。
でも本当に性能は良いのかもしれない。
運転席に乗り込んだ。
シートベルトを締め、エンジンを掛けるとピットを出た。
その後ろをカズは上から眺めていた。
6,500rpmを過ぎるとターボではないが加速力が増え、さらにエンジンが吹け上がる。
コーナー手前で減速し、ステアを切っていく。
GT-Rとは違う車の軽さ、それは身をもって感じられた。
さっきとは違うコーナリングの速さ。
さらにアクセルを踏み込んでいく。
シケインをノンブレーキで突っ込んでいく。
アンダー気味だが、安定した突っ込みがいく。
左足でブレーキを煽る。
フロントが自然と内側へと巻き込んでいく。
これが、セリカか・・・。
翌朝、鈴は起きたがいつものベッドに海斗が居ない。
ピットに出てみた。
セリカがシャッターの外で朝日を浴びていた。
その中では運転席を倒して寝ている海斗がいた。
鈴は軽くため息をついた。
海斗がセリカに乗り始めてから3ヶ月が経った。
オータムリンクの朝にはVTECとVVTL-iエンジンの咆哮が鳴り響く。
ホームストレートを2台の車が通過した。
ピットには先頭のシビック Type R(EK9)とセリカが入った。
シビックからは鈴、セリカから海斗が降りた。
鈴は横目で海斗とセリカを見た。
「なんだよ」
鈴はふっと笑う。
「なんだよそれ」
「何回抜いたっけ?」
海斗は黙った。
「・・・うるせえよ」
「負け惜しみ?」
「だいたいな先発されてスキ作らねえだろ。それでどう抜くってんだ」
「それを見つけるのがレーサーでしょ」
2人はホームストレートに並んだ。
「私たち同じコースを同じように走るよね」
「まぁな」
「同じ走る道、同じポイント、私もあんたもどれが速いラインか分かってる」
「何が言いたいんだ?」
「その、だから・・・他の所で走れたらねって思って」
「あぁ、まぁな・・・」
鈴は息をついた。
「ま、今度も私の勝ち。あんたもあんたなりに頑張りなさい」
「うっせ」
2人は車を車庫に戻すと家に戻った。
風呂では真っ暗な窓ガラスに映る自分をただ見ていた。
速くなりたい、もっと。
そればかりを考え続けた。
速くなること、それは鈴を抜くことでもある。
でも今の自分にはまだそれが無いのかもしれない。
どうしても速くならない。
方法があるはずだと思っても何かが違う。
速くなるために。
風呂から上がり、テレビの前のソファーに座り込む。
「・・・どうすれば」
海斗は呟いた。
「速くなりたいか」
カズが傍で言った。
「ああ」
「今のお前はあれでも十分速いだろう」
「まだだ。まだ、鈴を抜けない」
「へっ・・・欲の強いヤツだ」
「欲なんかじゃねえ。ただ速くなりたい」
「速くなるのはいいが、レースじゃそれだけじゃない。他も考えて、たまに立ち止まれ」
「立ち止まってどうすんだよ。ずっと走らないのか?それじゃどうしたって速くなる訳ねぇ」
「そういう意味で言ってんじゃねーよ。お前、速くなる事に拘り過ぎなんだよ」
「拘って何が悪いってんだよ!」
「速さだけがレースじゃねえっつてんだ!」
「速くなくて何がレースだよ!」
「それじゃあレースは、速いだけがレースだってのか!」
海斗は黙った。
「レースは速いだけじゃねぇ。大切なものがある。お前はそれを見失い過ぎだ!」
海斗は居てもたってもいられず自室へと駆け戻った。
残ったカズは一人でため息をついた。
翌朝、海斗はセリカに戻ると発進し、またコースに戻った。
いつになっても、変わらない。
コースも風景も。
変わらない、それは抜けない。
速さもテクニックも。
もっと速く、いつもそれを思っているのに。
車が違う?それもあるかもしれない。
でも今はそんなのじゃない。
車に頼ってばかりじゃ速くはならない。
あの時この車に乗ってからそれを知った。
性能じゃない、速さの本質。
それは、ドライバー。
最初のコーナー、ギリギリまで詰めて一気に減速する。
シフトダウン。
ブレーキを緩め一気に切り込んでいく。
傍の木から雀の群れが一気に飛び立った。
その傍を駆け抜ける。
まだ遅い。
シケインヘ突っ込む。
「まだだ・・・まだ遅い!」
海斗が怒鳴る。
左へ。
高速のまま右へと切り返す。
一気に減速する。
「まだまだ!」
左へのシケインに突っ込む。
納得できない。
まだ遅い。
アクセルを仰ぎ続ける。
海斗はカズの言葉を思い出した。
『レースは速いだけじゃねぇ。大切なものがある。お前はそれを見失い過ぎだ!』
大切なもの?
くだらねぇ、そんな綺麗事。
俺はただ・・・。
「もっと速く!」
アクセルを踏みつけ加速する。
速さが、レースだ・・・。
その途端。
右側の木から雀が低空で飛び立った。
車の横に出る。
「え・・・」
通り過ぎるか、いや間に合わない。
ぶつかる・・・。
ステアを右に切り替えす。
曲がらない。
荷重が乗って曲がらない、アンダー・・・。
海斗は雀を目で追った。
雀は車のすぐ傍を低空で飛ぶが目と鼻の先まで近づくと、側面のフロントピラーにぶつかり羽を飛ばした。
海斗は一瞬で頭の中が真っ白になった。
一気にブレーキを踏み込む。
ギュギュッとスキール音を残して車は止まった。
車を降り、後ろを見る。
雀はアスファルトの路上でじっとしていた。
海斗が近づく。
指先で突くと雀はパッと首を動かし脚と羽をばたつかせた。
良かった、死んでなかった。
海斗は一気に肩の力が抜け、その場で尻をついた。
「雀?」
鈴は海斗が箱に入れた雀を覗き込んだ。
「ああ」
「どこで?」
「5コーナー、右に入る前に」
「轢いたの?」
「・・・ぶつかって来たんだ」
「そんな言い訳はできないよ」
「・・・とにかくそれで少し弱ってるみたいで、飛べないみたいで」
「ふーん・・・」
鈴は暫く雀を見ていた。
雀は羽毛に嘴を埋めてじっとしている。
「それで、どうするの?」
「まぁ元気になるまで、見ようかなって」
「・・・何で?」
鈴の返しに海斗は鈴を見た。
「何でって」
「助かる見込みも無いのに、そのまま楽にしてあげればいいのに」
「なんでそんな事言うんだよ」
「当たり前でしょ。これだけ弱ってて助かると思う?」
「・・・なんだよそれ。そんなのおかしいだろ。そんな酷いこと―」
「何が酷いのよ!!」
鈴が怒鳴り遮った。
「どうせこんな小さい鳥、一晩で死ぬのよ。助からないって分かってるでしょ。死にかけのやつ拾って、どうせ死ぬって分かってるのに、それで目の前で死なれて、悲しむのは自分なんでしょ。分かってるのになんでそんなことするの!見て見ぬふりすれば、いいでしょ!?」
鈴は息を切らしている。
「苦しくなるのは、あんたなんだから・・・」
2人は暫く黙り込んだ。
「鈴、また賭けをしよう」
「賭け?」
「もしこの雀が明日の朝に死んだらお前は正しいと認めてやるよ。でももし元気になってまた外に飛べるようになったら、お前も俺を認めろ」
「・・・何それ」
「それまで俺はお前を認めない。俺は絶対にコイツを元気にして、またオータムリンクの森に返してみせる」
「・・・好きにすれば」
鈴は言い残すと部屋を出た。
海斗は暫く雀をじっと見ていた。
指先でつついてみる小さくて柔らかい。
こんな小さいのに生きようとしてる。
なのに・・・。
「九太!飯だ!」
声が掛かる。
「要らない」
「あぁ?なんつった、空耳か?」
海斗は上から顔を出した。
「要らねぇつってんだよ」
「要らねえわけあるか。さっさと降りて来い!」
「やだね!」
「んだとお前・・・」
「ほっときなよ、カズ」
鈴が言った。
「あ?」
「食べようと食べなかろうと、どうせ後悔するのはアイツなんだから」
カズは軽く舌打ちをしただけだった。
海斗は一晩雀についていた。
まずは食べ物をあげないと。
でも何をあげれば・・・。
海斗は下からパンくずを集めて小さい皿に盛ったのを差し出す。
雀は見るだけで何も無かった。
「何で・・・」
どうしたら・・・。
このままだと本当に・・・。
「ぬるま湯だ」
海斗が振り返った。
カズが立っていた。
「ぬるま湯に砂糖かなんか混ぜて、嘴を濡らすようにして与えろ」
「カズ・・・」
「どうせちっこいもん、そのうちすぐ死ぬ・・・」
カズは言い残すと部屋を出た。
海斗は台所からぬるま湯に砂糖を混ぜたのを持ってきた。
綿棒で嘴に水滴を垂らす。
と、雀は垂れた水を舐めるように口を動かした。
「やった・・・」
海斗はハーッと息をついた。
雀は海斗を見ると軽くチュッと鳴いた。
翌朝。
徹夜で付きっきりでいたおかげで朝は遅く起きた。
部屋に日が射す。
海斗は一度伸びをしてから、横の箱を見た。
雀を見ると目を瞑っている。
「・・・え」
まさか。
「嘘だろ、なんで・・・」
無駄なんて、そんなことが。
海斗は雀をつついた。
雀はブルッと首を振ると目を開けて体を起こした。
「あ、生きてた」
海斗を見るなりチュッと鳴いた。
海斗はまたため息をついた。
その後ろを鈴が部屋の入口から見ていた。
海斗は得意げに雀を見せた。
「どうだ!お前の言ってることも全てじゃないってな」
鈴は軽く鼻を鳴らすと部屋を出た。
海斗はもう一度雀を見た。
雀はチッと鳴きながら箱を飛び出て海斗の部屋を周っている。
海斗は一度台所へ戻った。
「おう、九太。あいつは死んだか?」
「なんでお前らはいっつもそんなんなんだよ。残念だけど、また生きてるよ」
「へっ、一晩持たせたか。お前にしちゃよくやったな」
「まだだよ。あとは飛べるようになってからまたオータムリンクの森に返すんだ」
「ま、せいぜい頑張れや。おら」
カズは傍で鳥のエサを差し出した。
「カズ・・・」
「お前なりに頑張ってんだ。状況は知らねえが、やれるだけやってみろ」
海斗はエサを受け取った。
3日ほどして雀は普通にエサを食べれるまでに回復した。
「元気そうね」
「ああ。結構元気にはなった。でもまだ飛べないみたいだけどな」
「森に返せるのはいつになるのか―」
海斗がエサを指先で押した。
雀はその指に気づくと、手の甲にピョンと乗った。
「え」
海斗は声を漏らした。
雀は海斗の手の甲で体を埋めて見せた。
海斗は目の前に上げた。
「お前・・・」
目が合う。
「鈴!コイツの名前!」
「名前?」
「ああ。ライフだ」
「ライフ?」
「そう。命のライフ」
「何それ。てか名前まで付けるって・・・」
そんなことしてると・・・。
雀はそれから10日ばかり暫くの間家にいた。
部屋から出せなかったのは猫がいるからだった。
だが飛ばなかった。
「もうこんなになるのに。何か原因じゃないの?変なぶつけ方したとか」
「フロントピラーに横からぶつかったんだよ。その時羽がちょっと散ったけど」
「それじゃない?もう元気なのに飛ばないなんて」
「さぁ、でも・・・」
そして11日目の朝だった。
「鈴!」
朝4時頃。
「んー、何?」
海斗は鈴の部屋で鈴をゆすっていた。
「起きろって、ライフが」
「ライフがなに」
「・・・動かないんだ」
カズも起きて3人は海斗の部屋に入り、箱に入った雀を見た。
雀は目を半開きにしたまま動かなかった。
カズは軽く雀を触った。
「・・・死んでる」
「そんな、嘘だろ」
「死んでるんだ。冷たくなってる。それに見ろ、箱の中で糞と尿が散ってる」
「そんな・・・」
「お前の出来ることはやった。埋めてやれ、覚えられるところにな」
カズはそう言い残すと部屋を出た。
海斗は箱の真ん中で小さく縮まった雀を見たままいた。
海斗は小さい箱に雀を入れた。
昨日まで元気だったのに、なぜ。
そもそもなぜこんなことに?
海斗はセリカに近づいた。
側面フロントピラーを見る。
そうだ、あのシケインだった。
もしあと一歩速く切り返せたら。
当たらずにすんだのかもしれない。
そうすればこんなことには・・・。
「何を考えてる」
カズがいた。
「分かってる。言わなくてもな」
カズが海斗に近づくと目の前に立った。
「お前は速さだけに拘って他のことにはお構いなしだった。でも知らぬうちに、お前の周りで消えていくものがあった」
カズは一度雀に目を落とした。
「いい気になってぶっ飛ばしてると他の命が見えなくなるだろ」
海斗はただ黙っていたが、口を開いた。
「・・・あんたは、分かってたのか」
「そんなもんだ。野生なんて人が介入すべき世界じゃない。人が手を出せば全てが崩れる。俺たちはそんな中で野生を潰して生きてるんだ。レースもそう。俺たちは常に上を目指して走る。上だけを目指して、突き進む。だがそれは同時に他のものを犠牲にしてな。俺たちはそうやって生きてるんだ」
海斗はまた黙り込んだ。
「・・・でもまぁ、1つ以外だったのがある。この雀の生きている時間だ。俺は最初、一晩の命と思っていた。普通そんなもんだ。だがお前のお蔭でここまで命を長らえることができたんだ」
「俺がもっと世話をしてあげれば・・・もっと元気になって、空に飛んだか・・・?」
カズは海斗の頭を撫でまわした。
「生き物皆、寿命がある。この雀も運命だったんだ。お前がどうこうしたわけじゃねえ」
カズは離れた。
「今は悲しんでやれ。それから、考えろ。自分で答えを見つけるんだ」
カズは部屋へと戻った。
海斗はオータムリンクのミニコースのシケイン脇に車を停めた。
小さい白い箱には雀が入っている。
ガードレールを乗り越え、木の脇の土を掘り返した。
一度箱を開けた。
雀を見る。
それから箱を戻し、中に置くと土をかぶせ、埋めた所を盛った。
「言ったじゃん」
鈴が立っていた。
「どうせ死ぬのに、そうやって無駄に悲しんで、見て見ぬフリすればいいじゃんって。苦しいのはあんたなんだよ―」
「分かってる!」
海斗が叫んだ。
「そんなの分かってるけど。でも・・・」
海斗は言葉を詰まらせた。
「だからって見て見ぬふりなんか、できるかよ。まだ生きてたんだよ。どうせ死ぬとかそんなの勝手に決めつけんなよ!分からなかっただろ!助かるかもしれないだろ。だから・・・だから、そんな事言うなよ!」
辺りは海斗の嗚咽と風によって揺れる木々の音だけが響き渡った。
鈴は目線を落とした。
「・・・ごめん」
鈴が言った。
結局駄目だったのに。
言うとおりだったのに。
でもなぜか、鈴にとって海斗にはこれ以上言う自信がなかった。
海斗は鈴を見た。
鈴はただ下を向いていた。
「ごめん」
鈴はもう一度言った。
海斗は目を拭った。
「もういいんだ」
鈴は海斗を見た。
海斗は空を仰いだ。
風が吹く。
葉っぱが空に舞う。
「賭けは、俺の勝ちだ」
「え?」
鈴が声を漏らす。
「きっと、今も、この森を飛び回ってるだろうね」
鈴も一緒に空を見た。
「そうね、きっと。あんたの勝ちよ」
鈴が答えた。
次の日、夕方。
営業を終えた後、海斗はまたセリカに乗っていた。
シケインに入る。
もし右に行けたら。
海斗は一度、シケイン奥で止まった。
違う、すぐに右に入れたら。
入れるには?
あの時の状況が頭に浮かぶ。
もしも、右に行けたら?
行ける状態だったら?
アクセル状態から・・・前荷重へ。
素早く。
アクセル、ブレーキ・・・。
もっと、もっと早く。
海斗はその日、夜までそこを動かなかった。
一つ越した次の年。
カズはベランダでタバコを吸っていた。
海斗はベッドの中のまま。
年明け、こんな時期に起こすことも無いだろう。
カズは一度戻るとまた外に出てガレージを開けた。
鈴のR34のGT-Rと海斗のセリカが並んでいる。
カズは鈴の車と海斗の車を見比べる。
暫く交互に見比べていたが、一度家に戻ってキーを持ってきた。
2台の鍵を開けるとそれぞれのボンネットを開けた。
カズはもう一度前に立って腕を組んだ。
カズはまず、鈴の車を覗いた。
オイルゲージを引っ張った。
その次に海斗のオイルゲージを引っ張るとじっと眺めながら顔をしかめた。
「九太!九太!」
カズは海斗の頭元に立った。
「おら!起きろ!」
カズは海斗の顔を数回叩いた。
海斗は目を閉じながら振り払うと布団を被った。
カズはその布団をひっぺ替えした。
「んー、なんだよ、もう・・・」
「なんだよじゃねぇ。起きろ」
「はぁ?鈴は起きてんのか?」
「今鈴は関係ねぇ。お前が関係あるんだ。さっさと起きろってんだ」
「んーもぅ、あっち行けよ・・・」
海斗はまた布団を持って被った。
カズは頭を抱えてため息をつくと、布団をひっぺ返し、腕を引っ掴んだ。
「おら!来い!」
「なぁんだよ、もうー」
カズは海斗をガレージの前まで引っ張っていくとセリカの前に立たさせた。
カズはセリカのオイルゲージを引っ張ると海斗に差し出した。
「おい。なんだこれは」
「なんだって。オイルゲージだろ」
「そうじゃねえ!お前最後にオイル交換したの何時だ」
「えー・・・2週前?3週?」
「それからどれくらい走ってる」
「5000kmくらい?」
「じゃぁ、なんなんだこのオイルは。ドッス黒くて、滑りも無い。お前みたいに毎日のようにサーキットを走ってる車じゃ、部品の消耗が速いのも分かってるはずだろが。オイル交換のやり方は教えたはずだ。なぜちゃんとやらねぇんだ」
「やるよ」
「やらねぇ」
「何がだよ」
「やらねぇんだよ、お前は」
海斗は舌打ちをした。
カズは海斗の横に立って顔を見た。
「お前・・・面倒、なのか?」
海斗は黙っている。
「面倒、っていうのは、この車にはもう飽きたって事か」
「・・・別に」
「じゃあなんだ。何か文句でもあんのか?俺に、あるいはこの車に」
「別に大した事じゃねぇけど・・・なんか、分かんねぇ」
「何が言いたい」
「別になんていうか、うまく言えねえけど。確かにセリカは良い車だよ。でも、なんていうか・・・もっと行こうと思えば行けるのにって時々思うんだよ」
カズは不思議そうな顔をして鼻を鳴らした。
「・・・まぁ良い。まずお前がやるのは、これだ。分かってるな」
「分かってるよ、ったく」
「それからもう一つ」
海斗はカズを見た。
「何」
「・・・いや、なんでもない」
「なんだよ」
「うるせ」
カズは家へと戻った。
「なんなんだよ・・・ったく」
海斗はガレージからポンプを持ってくるとセリカのエンジンルームを覗いた。
セリカの積む2ZZ-GEエンジン。
ヤマハとの共同開発で生まれたこのエンジンは、かつて同じくトヨタで開発されていた高回転、高品質のエンジン、4A-GEの後継に当たるスポーツツインカムエンジンであった。
新開発のオールアルミエンジンとして採用されたが、特別な人気を誇ったわけでもない。
海斗も気に入らないわけではなかった。
でも長らく乗っているからこそ分かってくる弱点や難点も、徐々に目立ってくる。
そしてそれが走っているうちの弊害としてゆく道を阻んでくるのだ。
もっとここまで来てほしいのに。
「おはよ」
後ろから声が掛かった。
振り返ると鈴が立っていた。
海斗は黙ってまたエンジンルームを見ていた。
「なに、オイルの交換怠ってたって?」
「別に」
鈴はオイル交換のポンプに溜まっていくオイルを見た。
「うわー、真っ黒。こんなんになるまで乗ってて気が付かなかったの?」
「そんな訳じゃねぇけど。でもなんか・・・」
「なんか・・・なに」
海斗はため息をついた。
「車が思い通りにならないっていうか」
「どういうこと?」
「本当はもっとここまで行ければ良いのにって思うのに、行ってくれない。車の性能的なのがもっと上の上まで行ければいいのに、実際はなんていうか・・・分かんねえ」
鈴がため息をついて困ったように海斗を見ると、海斗が気付いた。
海斗はしばらく考えた。
「例えば、いつも走る、第一を抜けた先のミニサーキット間のクランクだ」
「どうしたの」
「例えばコンパクトなFR、アルテッツァかロードスターなんかでもいい。しなやかで安定して追従していく。セリカはそうはいかないんだ。切り返すとフロントだけ突っ張ってる感じがして」
「ストローク感が無いってこと?」
「あー多分まぁ」
「でもセリカくらい軽いなら良いんじゃない。いつ見てても軽快に走ってるよ」
「でも縁石に乗って持ち上がった時の感じで、車が変なんだ」
「変?」
「よく分かんねえけど、なんかボディが歪むっていうか」
「なるほど」
ポンプが止まった。
「”ねじれ剛性”が厳しいってことね」
「多分、そんな感じだろうけど。前と後ろで動きが思った通りにならない」
「前後バランスが取れない」
「それからなんか車自体乗ってても悪くは無いんだけど・・・」
「・・・だけど?」
海斗は新しいオイルを出すとポンプに入れた。
「他のと比べるとサーキットを走っててももう少しエンジンの回りが良ければって思うんだ。別に絶対なパワーが欲しいって訳じゃないんだけど・・・」
鈴が向かいに回り込んだ。
「エンジンの熟成不足、領域違いでのフリクション・・・つまりロストパワー、ね」
海斗は少し笑った。
「なんか鈴って俺の言ってることの代役をしてるみたいだな」
「あんたは逆にこういうことを知らなさすぎ。まるで子供みたいな表現力ね」
「うっせな。そんなん教わってもねえし分かんねえよ」
「とにかく言いたい事は分かった。あなたの言う事は。つまり、あなたは車の限界状態だから前に進まないってことね」
「そうなのかな」
「でも車はできた状態から何も変わらないからね。言ってもしょうがない」
「なんだよ・・・詰まんねえ」
ポンプが止まった。
「車を乗り換えるとか」
鈴が言う。
海斗は鈴を見た。
「車を・・・?」
「そう。まぁ結構走ったんだろうし、この際もっと良い車に乗り換えるっていうのも手だと思うよ。多分今の九太ならもっと良い車を選んで乗っても良いかもしれない」
「良い車・・・ってどんな車だよ」
「んー・・・九太なら、回頭性とトラクションを両立した後輪駆動の車とか乗ってみると良いんじゃないかな」
「どんな車だよ」
「んー例えば、フェアレディZ、S2000、それにNSXとか」
ホンダ傑作のスポーツカー、NSXに乗るとか。
「あのなぁ、良い車に乗れたらそれだけで良い思いは出来るだろ。NSXなんて元が良い状態で自分の走りの為になるかよ」
「もちろん、そこも計算済みよ。エヘン」
海斗はポンプを片づけながらふっと笑った。
「じゃあ何で俺がそんな車に?」
「前から九太は車の加減速で前後荷重を調節するでしょ。車とタイヤの性能がそれぞれのギリギリを目指した中で前後のグリップを失わずに速く走る。FFは前が暴れたら面倒だからね。その点九太はずっとFFの車で荷重移動の変動で車の反応を分かってる。応用中の応用を知ってる。後輪駆動の方が回頭性も良いし扱いやすいと思うよ」
「んーそうか・・・」
海斗はセリカを見ていた。
「・・・ちょっと聞いてた?」
「聞いてたよ。後輪駆動の車の方が扱いやすくて荷重に反応が良いし、回頭性も優れてるってんだろ」
「それじゃ私が九太の言うのの代弁としてカズさんに言ってあげようか」
「え?」
「そうしたらきっとカズさんも納得して新しい1台でも買ってくれるよ。いや、あるいはあのカズさんだから、もしかしたらもう気づいてたりして」
新しい車、か。
確かに新しい車には憧れがある。
なぜならこの車を手に入れる前から今鈴が例に挙げた車は憧れの中の憧れだったからだ。
でも、今は・・・。
「いいよ。別に」
「えっ」
「俺が言う時は言うし」
「あんたじゃカズさんも分からないでしょ」
「そんなことねぇ。アイツなら分かる」
鈴は少し黙った。
「・・・まぁいいわ。どっちにしろ決めるのは九太自身なんだしね」
そういうと鈴は家の中へ戻った。
その日の夜。
夕食を終えた海斗は自室へと向かうところ。
「おい九太」
カズに止められた。
「あぁ?」
「話がある」
「なんだよ。オイルなら交換したぞ」
「そうじゃねえ。別な話だ」
海斗は息をつくとカズの所に来た。
「今日鈴からお前の話を聞いてな」
「話?」
「お前の新しい車についてだ」
海斗は軽く舌打ちをした。
あいつ・・・余計なことしやがって・・・。
「・・・どうした。俺は何も買ってやらないとは言ってないぞ。俺も薄々感づいてはいた。お前には物足りない所もあるんじゃないかってな。前にもお前がビートに乗ってたな。その時も俺はお前のレベルのステップアップを見込んでこそ買い与えた。今のセリカをな。そして今、お前はまた一つステップアップの段階にいるって事だ。まぁ言うてもセリカはスポーティーカーだからな。速さよりはフィーリングなどを重点にした車だ。絶対的速さを求めるための車では無いからな」
「あの車を・・・捨てるのか」
カズは海斗を見た。
「別に捨てるとは言わないがな。・・・だが同じ車ばかりではないのもレースと同じだ。最初はこの車、次にこの車、その次に、って別れに別れ、巡りに巡っていくのも車だ」
とは言うが。
あのセリカは。
海斗にとってはここまで来た全てと言っても過言ではない車だ。
長らく共にしてきた相棒。
それを・・・。
「俺は・・・手放したくない」
カズは鼻を鳴らした。
「・・・それじゃぁお前の腕は今のままだぞ。どうする」
それではこれからのレースと共に生きるとしては認められない。
でも・・・。
「・・・分かんねえ」
カズは軽く笑った。
「今度は、分からねえ、と来たか・・・」
カズは海斗を見た。
「甘ったれんじゃねえよ」
海斗はカズを見た。
「たかだか車1台にレースを掛けてんじゃねえ。レーサーはそんな世界だ。腕を磨き、上達するために何台もの車を事故って廃車にして、そうやっていくもんだ。それに手放したくねぇだのへったくれもあるか」
海斗は黙って聞いていた。
「だったら・・・」
「あぁ?」
「だったら!・・・辞めてやる」
「んだと?」
「辞めてやるよ!レーサーなんか。俺はあの車だけで十分だ!」
カズは笑った。
「・・・ったく、お前も面倒な野郎だな。・・・もう一つ方法ならある」
「方法?」
「ああ。あの車を弄りゃいい」
「あ」
海斗は声を漏らした。
「幸いなことにここには部品も設備も腐るほどある。だからあとはお前の目指すベストのセッティングを入れりゃいいんだ」
「そっか」
「お前、チューニングも考えなかったのか」
「まぁ」
「鈴はもうとうにライトなチューンに仕上げられてるぞ」
「あいつも?」
海斗が訊き返した。
「ああ。まぁアイツのGT-R、お前もお前の車だ。自分のレベルに合った車ってのを仕上げていくもんだな」
「・・・セリカをチューンすればGT-Rに勝てたりするか?」
カズは軽く笑った。
「そうだなぁ・・・2.6Lツインターボ。1.8L NA。どこまでやれるかだな」
そういうとカズは自室へと戻った。
やるなら目標を立てたい。
中途半端なものは嫌だ。
「ああ、そうだ」
カズから声が掛かった。
「弄るなら、まずはその知識からだな」
そう言い残してまた戻った。
セリカの難点、足回りも気になるが車のアグレッシブさを上げる。
それには・・・エンジンだ。
エンジンの仕組み・・・そんなの分かる訳も無い。
ただ海斗の頭にあるのは直列、V型、水平対向のピストンがそれぞれ違う方向から打ち合っている事、ただそれだけだ。
エンジンも何も分からなきゃどうすることも無い。
「九太」
カズから声が掛かるとカズは1つの本で海斗の頭を小突いて置いた。
「いってーな。んだよこれ」
本の表にはMINIの絵が描いてある。
本を開くとページに別れてミニクーパーの骨格からエンジン、パーツの1つ1つが書いてある。
「ま、一通り目通しておきゃ分かんだろ」
「なぁカズ。セリカならどれくらいまでいけると思う?」
「そりゃお前がちゃんと目標を持って行かねえとな」
「そんな言っても限界があるだろ」
「まぁそうは言ってもエンジンスワップでもすりゃいくらでも出せる」
「エンジンスワップ?」
「エンジンごと乗っ変えるんだ。多いのはホンダのVTECだな。B18、K20とか」
「つまりよその車のエンジンを積み替えるっていう事か?」
「そうだ」
「そんなのは・・・」
エンジンを変える。
「なんかそれって・・・自分の物じゃない感じがして、なんか嫌だな」
「それじゃあ、とことんエンジンを知る所からだな」
カズは立ち上がって自室に戻ろうとした。
「おい!セリカならどれくらいまでいくんだよ!」
カズは海斗を振り返って見た。
「んー・・・そうだな・・・。シビックEK9は1.6Lで185PS、インテグラDC2は1.8Lで200PS。S2000は2Lで250PS。後はお前次第だな」
カズは自室に戻った。
「なんだよ・・・」
1.8L、つまりインテグラのDC5と同じだ。
B18C型のVTECは200PSを誇る。
対してセリカはエンジン単体での出力は190PS。
「190・・・」
待てよ。
暫くして海斗は今まで乗った車を思い出す。
海斗がセリカに乗り慣れてから今まで必ずしも1台のみの車にしか乗らなかった訳じゃない。
もっとも2Lターボの4WDの車にさえ乗ったこともある。
最初など2.6LのスカイラインGT-Rさえも感じている。
対してセリカ、また海斗の乗るTRDスポーツMは排気系も含め、200PSを発生する・・・と言われている。
それにしては・・・。
何かが違う。
「・・・そうか」
表面的なパワーに対して車のアグレッシブ感と釣り合わない。
ってことは・・・。
翌日、海斗はガレージの一つに入った。
シャーシダイナモ。
これ自体を使うのは海斗も初めてだった。
オータムリンクにはローラータイプの物がある。
早速車を乗せて計測を始める。
データーが隣のパソコンの画面に折れ線グラフのようなものと一緒に出てくる。
「あれー?」
海斗は家に戻ると鈴の部屋に押し入った。
「鈴ー!」
言った途端、目の前が真っ暗になったと思いきや鼻に強烈な痛みが走った。
「いったぁ!」
「なんなの急に!勝手に入ってこないでよ!」
「いつもの事だろ?なんでそんな怒るんだよ・・・」
見ると鈴はベッドの上で下着のままでいた。
「・・・何してたんだ?」
「何でもないよ!」
慌てて服を着る。
「・・・あ!鈴、お前の車貸してくれよ」
「え?なんで」
「馬力図るから」
「はぁ?」
「いいから!」
海斗は次に鈴のGT-Rをダイナモに載せた。
データーが出てくる。
450PS、51.3kgfm。
「なんでお前のこんなにあるんだよ!」
「そんなこと言ったって、まぁマフラーとECUの書き換えくらい?でも元々でも馬力はしっかり出てたからね」
「どれくらい?」
「さぁ。図った事ないけど、あんたが乗った後に貰ってから乗り出した時は、300PS以上は出てたと思うよ」
「でも元々280PSだろ?」
「それはカタログ値の話でしょう」
「カタログ値?」
「そう。車を売る時にカタログとかに掲示されてる馬力の数値。でも実際は同じ馬力っていう事は殆どない。車のそれぞれの個体によって数値は変わるから。でももっぱらカタログ値より低いのが普通だよ」
「じゃなんでGT-Rは高いんだ?280なのに300も出てるのかよ」
「大体ターボの車なんてそんなもんよ。出力の特性で違いも出るし、一度で吸気する空気とか過給によっても違いが出るから」
海斗はため息をついた。
鈴はセリカの近くに寄った。
「あんたのはどうだったの」
海斗はセリカの実測結果のデーターを見せた。
181PS、17.6kgfm。
「ふーん。なるほどね」
「元々は200PSだろ?」
「でもまぁこんなもんじゃないの?むしろ良い方だと思うよ」
「そうかよ」
素っ気ない海斗の反応に鈴はむすっとした。
「ま、あとはあんたのぶっつけでしかない脳でどれだけエンジンを理解できるか、ね」
「うっせーな。もうあっち行ってろ」
「なによー協力してあげたのにー」
鈴はGT-Rを出した。
「あ、そういえば鈴さ」
「え?」
出し際に言う。
「さっきベッドで何してたんだ?」
言った途端鈴の顔が赤くなった。
「も、もう忘れてよ!何でもないったら」
「あー、お前顔赤いぞー。どうしたんだよ」
「う、うっさいな!次それ訊いたら殺すからね!」
そういうとガレージを飛び出してコースに入って行った。
「なんだよ・・・」
さておいて、馬力は分かった。
絶対な馬力は。
181PS。
ここからどうすれば良いのか。
エンジンで弄れるのなら・・・。
カズがセリカの2ZZ-GEエンジンの修理書とスキャンで撮った断面図を用意した。
それを持ちながら海斗は自室でエンジンの形をただ眺めていた。
「過給器」
鈴が言った。
「過給器?」
「そう。過給器」
海斗はキョトンとした顔で鈴を見ると、鈴は思い出したような顔をした。
「ああ、そうだった。今のあんたの頭じゃ過給器分かんないのよね・・・」
「分かってるくせに、嫌な女・・・」
「簡単に言えばターボよ。セリカにターボをくっつけるの」
「ターボを?」
「そう。あるいはスーパーチャージャーって選択肢もある。ゆうてもNAのエンジンには限りがあるからね」
「んー・・・でもそんなんで効率よくパワーが得られるのか?」
鈴は紙とペンを出して絵を描き始めた。
そこには茶碗一杯のごはんの絵。
「考えて。例えばあなたが茶碗で白いご飯を食べてる。傍には何もない。あなたはただ白いご飯しか食べないの。何の味気もないし、とてもずっと食べれるものでもないでしょ?でもそこに・・・」
鈴は更に傍におかずなどの絵を描きこんでいった。
「味噌汁、おかず―たとえばあなたの好きな卵焼きとか。これが一緒になればごはんはどんどん進む。ね?」
海斗は軽く頷いた。
「そういうことよ。ターボはいわゆるエンジンを補う為の部品。足りない分を更に引き出すためのものよ」
「んー・・・でもさ」
海斗は傍から自分のペンを出すとごはんをゆっくりと塗りつぶして行った。
「おかずと一緒だと、ごはんの本来の味が無くなるんじゃないか?」
「えっ?」
鈴は不思議そうに海斗を見た。
「ごはんってさ、農家の人が薬も使わずに、心を込めて作るだろ?だからおいしいご飯はお米の味とか甘味とか、そういう味が引き立つだろ。それをおかずとかと一緒にすると、せっかくの味が台無しになるじゃんか」
鈴は暫く聞いていたが軽く笑った。
「だからエンジンも同じって言いたいの?」
「んー、まぁそんな感じ」
「何それ・・・」
「だって元のエンジンが元の味なんだから。それを過給器とかでつけ込むってなんかなぁ」
「そんなこと言ったって―」
「それに」
海斗は続けて言う。
「お前が言うようにターボとかスーパーチャージャーとかの過給器って、そういう補う部品なんだろ?それってなんか、ズルしてるみたいで嫌だな」
「何言ってるの?」
「だからさ、おいしいご飯とまずいご飯があったとして、おいしいご飯はそのままでおいしいけど、まずいご飯は他のおかずとかで誤魔化して結果的においしいご飯よりもおいしくしてる、そういう感じじゃん。俺、なんかそんな感じはちょっとなぁ・・・」
鈴はまた軽く笑った。
「随分面白い事言うのね」
鈴はペンを置いた。
「いいよ別に。好きにすれば。でもね、レースにズルも誤魔化しも無い。勝つことがレースよ。そんな甘い考えしてると、どんなに上にいようといずれ底に落ちる。そんな運命になるよ」
海斗は何も言わなかった。
「王道NAチューンで決めるなら、まずは弱点から攻めていく、ってな感じだな」
「弱点?」
「セリカのエンジンの弱点だ」
「どうやって分かるんだ?」
「そりゃまぁ走りまくって壊して、壊れた部分を見て。そんで繰り返すか」
「おい、ふざけてんのか?」
カズは軽く笑った。
「ふざけてるもクソもあるか。レーサーはそんなもんだって言ったろ?ぶん回してエンジン壊しまくって、それを繰り返すんだよ。それでエンジンの特質を拾ってそれを補っていく。それがレースの世界だ」
海斗は舌打ちをしてため息をついた。
「・・・まぁ冗談だ。ここばかしはちょっとヒントというか、やろうかな?・・・というよりはもう答えに近いかもしれないがな」
カズは赤いペンを取るとエンジンの各部分に印を付けていった。
「シリンダー。中央のシリンダライナがセリカの場合アルミ製なのは知ってると思う。そのためシリンダーの摩耗や変形が多い。そのおかげで他の鋳鉄ライナーの比べてもエンジンのフリクションが大きい」
「つまりパワーの損失につながる」
「もっともセラミックコーティングのシリンダーだ。新しいブロックを作るか・・・」
「あえて鋳鉄のライナーを入れられないのか?」
海斗が言うとカズは透明な定規持って中央に当てた。
「見ろ」
海斗が覗き込む。
「ボアの大きさだ。表面上、実寸だと6mm弱。これじゃあ入れようにも入れられない」
カズは海斗の顔を窺った。
海斗は図面に目を落としたまま暫く黙っていたが、やがて思い出したように口を開いた。
「セラミックを取る」
「・・・どういうことだ?」
「ボアの中央を強化するんだろ?それならセラミック層をあえて剥がして、周りを・・・アレだ。鉄の・・・メッキで埋めるんだ」
「・・・メッキ処理か」
カズは暫く海斗を見ていた。
「なんだよ。ダメか?」
「・・・いや、良いかもな。まぁいい」
カズはまたペンでもう一つを囲った。
「あとはロッカーアームだな。高回転志向のエンジンなだけに高回転を常用している間のロッカーアームの摩耗やカムのかじりは激しいが、強化のアームを組み込めば消せるだろう」
「よし・・・あとはオイルポンプも変えるとして・・・」
これで弱点は補った。
後は・・・。
「後は・・・どうしたらいい」
「そうだな・・・」
カズは暫く考えてから海斗を見た。
「自分で考えろ」
「おい、無茶言うなよ」
海斗が呆れ声を出したのにカズが軽く笑った。
「ったく。エンジンも全ては自分で体に染みこませるんだ」
そういうとカズは立ち上がった。
「なんだよ。ここまで来て結局何もナシかよ」
「俺がここまでやってやったんだ。後はお前の乗ってる感覚と、エンジンの仕組みで相談するんだな」
「なんだよー・・・」
海斗はテーブルに頭を付けた。
カズはしばらく見ていたがやがて元に戻った。
「ったく。しゃーねぇ。もう一つだけヒントをやる。後はお前が自分で考えてやるんだ」
カズは紙を出してペンを走らせた。
「エンジンチューンには大きく分けて3つある。オーバーホール、高回転化、そして高圧縮化」
「あのエンジンをOHしてもっとパワーが出るのか?」
「何も初期に戻すだけじゃない。さっきの弱点の部品を補うのもOHチューンだ。無論それだけじゃなくストロークを上げることも一つだ」
「ストロークを上げるのか」
「ああ。そうすれば排気量が上がってトルクフルなエンジンになる。無論それにはコンロッド、ピストン、クランクシャフトまで見直しになるがな」
エンジンをそのままに排気量を上げる・・・。
「もう一つは高回転化」
「セリカの2ZZは元から高回転型エンジンなんだろ。ストロークを上げて高回転に持ち込むって、話がズレてないか」
「まぁ良いから聞け。確かにお前の言うとおりだ。だがエンジンの絶対的なパワーはトルク×回転数、つまり高出力化はいかににエンジンを高回転で回せるかにもかかってると言える。OHしたうえで高回転域での吸排気率のアップがカギを握るんだ」
海斗は納得したように僅かに頷いた。
「あとは・・・そう高圧縮化、つまりハイコンプだな。エンジン部品、ピストンからコンロッド、シリンダーまで見直して、混合気の圧縮、つまり燃焼力をさらに高めるんだ。もちろん圧縮が弱いと無駄にエネルギーが逃げてエンジンに伝わらない。かといって高め過ぎても圧縮の抵抗や異常燃焼にもなる」
カズは一通り言ってから立ち上がった。
「こんなもんだな。あとはお前が考えてやってみろ」
海斗は声を漏らすため息をついて頭を垂れた。
「エンジンの特性を思い出すんだ。それからエンジンを感じ、手を入れていく。お前なら答えが見つかる」
そういうとカズは自室へ戻った。
海斗は長らく乗っていたセリカを思い起こす。
海斗が気になったのは2つあった。
中間のトルクの無さと、ハイカム直後の谷。
それさえ超えれば一気に吹ける・・・。
海斗はもう一度エンジン図面を見た。
「・・・よっし」
海斗が声を漏らすとペンを取って図面に書き込んでいった。
翌朝。
鈴が起きてリビングに来るとテーブルの上に頭を乗せながら寝ている海斗が居た。
「あーあ・・・」
傍によって図面を手に取るとじっと見た。
3週間して海斗のセリカのエンジンが変わった。
ストローク量を割り増し、排気量を上げ、そこに鍛造のアルミピストンにメッキ処理をして入れられ、ハイコンプ化された。
早速セリカに積みなおし、翌日にシャーシダイナモに載せて計測する。
220PS、21.2kgfm。
「凄いじゃない。リッター110PS、立派なもんよ。一気にパワーが上がって、ちゃんと乗りこなせるの?」
鈴が言う。
「バカにすんな」
海斗は言うとセリカに乗り込み、コースを3周するとすぐさまピットに戻った。
「どうしたの」
「何か違う」
「違う?」
「確かにパワーもトルクも上がった感じもあるけど・・・」
「けど?」
「んー・・・なんかなぁ。バランスが変わってない。吹けるタイミングも変わらないっていうか」
「物足りないの」
「んー・・・なのかな」
「欲求不満のクセは治らないのね」
「そんなんじゃねぇって」
鈴は片手に持っていたものを見せた。
「じゃん」
「なにこれ。昔のゲームのカセットか?」
「バカ。フルコンって言ってね。これを付けてエンジンの電子管理を自分で調節するの」
「へー」
「パソコンとつなげてやればエンジンの点火時期、燃料噴射のタイミング・・・あとハイカムの切り替えポイントの繰り下げとかもできる」
「そうなのか」
「エンジンバランスって、あんたの言いたいのはパワーの吹けでしょう?だったらこれで自分のやりたいように自由に調節できるから。やってみなさいよ」
海斗はフルコンを貰った。
「なぁ。これ以外にパワーを上げる方法ってないか?」
「なにそれ。やっぱり欲求不満じゃん」
「うっせーな。もういいよ」
「冗談。あるよ。エンジンはどれもそうだけど、吸排気、つまり人と同じで空気を吸って吐く物。そしてより多くの空気を吸って、よりスムーズに空気の出を良くすれば良い」
「排気系、吸排気効率か」
「4連スロットルって聞いたことない?」
「4連スロットル?」
「そう。通称4スロって言ってね」
「空気を大きく吸うやつか?」
「ちょっと違う。元々セリカのような4気筒エンジンは1つのスロットルバルブで全部の気筒の空気を吸う量を制御してる。だから必ずしも全てが同じように吸気できない。これを改善して、空気の流れと量を均等に適切にするの。NAチューンでは王道中の王道よ。まぁ最初は扱いにくいかもしれない。なんせベストの状態を引き出すのはトータルセッティングだからね」
「4スロか」
「まぁやってみて後悔はしないと思うよ。ここまで出来たんだし」
「4スロか」
カズが言う。
「ああ。エンジンでこれ以上にパワーを得るのは無いだろうって」
「スムーズにいくのか?」
「分からない」
「分からない?」
「別に、高回転エンジンなら吸入効率を上げる4スロは良いと思う。でもスロットルは精度も大切だし、バタフライの動きも激しくなる。だから元の4AGの信頼性も高い純正が良いと思う。あとはフルコンで制御してハイカムを繋げる」
海斗の話をカズは不思議そうな顔をしながら聞いていた。
「なんだよ」
「お前、ついこの間までエンジンの図面と睨めっこしてたような感じだったのにな。いつの間にかいっぱしの口聞けるまでになって」
「・・・まぁ」
カズは一度ため息をついた。
「まぁいい。そうか4スロか。それなら速いうちやっちまおう。こっちで部品は用意しておく」
2週間してセリカに4連スロットルが詰まれた。
エンジンの吸気音が大きく変わった。
ダイナモに載せながらコンピューターを行き来する。
そして出た結果・・・。
245PS、24.4kgfm。
「まだ物足りないの?」
「まだなんか足りない。もっとやれるところがある気がする」
「エンジンも良いけど、足回りとかボディも分かってる?」
「あ、ああ」
そうだ。
パワーの上がった車は必然的にボディへの負担も大きくなる。
ボディの剛性を上げるのに最適なのは。
「フルスポット増し」
ただそれには一度ボディを骨格単位にまで降ろさなければならない。
海斗は一度カズを呼んだ。
そして紬に着替えてからガレージの中でセリカ各部パーツの分解を始めた。
モノコックのボディが剥き出しになったセリカのキャビン周りに黒ずんだ跡が見える。
「なんだこれ?修復跡か?」
「それは前のスポット打点の跡だ。元々セリカのTRDスポーツMはキャビンとピラー周りにスポット増ししてあるからな。でもこれじゃあ1140kgに250PSのエンジンのままサーキットで振り回すには弱い」
カズはまずマーカーペンを取ってフロントの骨格内部に潜り込むと、印を付けていった。
暫くしてカズが手だけだして海斗を招いた。
海斗が覗き込む。
カズは溶接保護具を渡した。
「いいか、見てろ」
カズは厚めの黒ずんだ手袋で薄く小さい丸型の鉄の輪っかを黒いマーカーの印に当てると溶接機の先端を当てた。
ジジジ・・・パチン!
大きな火花が散った。
「熱っつ!」
海斗がひっくり返った。
「何してんだ」
「・・・あれ?」
「ふざけてねえで、次からはお前がやるんだ」
「えー?」
「よく見てろ」
カズはもう一度同じく鉄を当てて溶接した。
「おら」
カズが溶接機を渡した。
海斗は同じように鉄の輪っかを当てて溶接機を当てた。
ジジジ・・・パチン!
ジジジ・・・パチン!
暫くしてカズが海斗の所に戻ってきた。
「一通り印は付けた。後は同じ手順でそいつで溶接していけ。いいな?」
海斗は保護具を取るとカズを見た。
「お前は手伝わないのかよ」
「ここまでやってやったんだ。後はお前の力で全部やれ」
そういうとカズは家へ戻って行った。
「なんだよ・・・ったく」
そういうとまた保護具を付けた。
ジジジ・・・パチン!
ジジジ・・・パチン!
もくもくとその繰り返しを続ける。
ガレージの中では溶接の音が響く。
・・・これ面白い・・・。
海斗はまた暫くの間続けていた。
ジジジ・・・パチン!
ジジジ・・・パチン!
半日続けていく。
額には汗が浮き、袖でそれを拭う。
海斗は一度骨格内部から出るとガレージの外を仰いだ。
一呼吸して空を見れば、小鳥が夏空を悠々と飛んでいた。
5日ほどして車の骨格全体のフルスポット溶接が完了した。
車を戻してから車内にロールゲージ、エンジンルームにタワーバー、トランク部のタワーバーを3点にした。
加えてブレーキはブレンボに、シートをフルバケットにしてからシフト周りもクイックに仕上げた。
海斗は一度走ってから戻ってきた。
「うん。前までの歪みがほとんど無いな。安定してる」
「んじゃ、ボディはこれで解消ってことで」
海斗は車をガレージに入れると降りた。
「後は足回りか・・・」
海斗はセリカのサスペンションをフルオリジナルの車高ダンパー調節付きのフルカスタマイズに載せ替えた。
「まずはセリカよりも他のFFのを基準にしてどこが劣ってるか、考えてみたら」
基準、たとえば・・・インテR。
あれと比べると。
まずセリカはフロントの突っ張りだ。
発生するとすればコーナーの入り口付近。
素早く向きを変えられ、一気に飛び込めるようにしたい。
「どうすれば良いと思う?」
「んー・・・前から入口に入ってタックインに近い現象を意図的に起こせば良いんだろ」
基本は荷重移動だ。
海斗はシケインと雀を思い出す。
全体の荷重を前へ送り、前輪の方向を向ける。
前から突っ込むなら・・・。
「バネを伸ばす。伸びを固めて縮めを柔らかくするんだ。ついでに後ろから一気に荷重を乗せるからノーズダイブとロールを抑えるために前の車高を下す」
セッティングをするとコースに入る。
第一コーナーへ。
ブレーキと同時にフロントが切り込まれていく。
「よしっ」
1周のみでピットに戻った。
「入口が安定してる。ただあとはクリッピングでタイヤの安定が一気に失われる感じがする」
「中間でタイヤの接地面積が減るためね。どうする?」
問題はサスペンション、よりはタイヤを効率良く使えてるかだ。
タイヤの接地面積が低い、ならその面積を広げれば良いんだ。
「ケーシング剛性」
鈴が言った。
「え?」
「タイヤはゴムよ。抵抗が掛かれば横からたわむ。それを効率よく抑えてトレッドのコンパウンドに抑えるか」
海斗はまた考えた。
「タイヤを外へ曲げるんだ」
鈴が笑った。
「正解」
「キャンバーの角度を付ける」
海斗は車を降りて再度セッティングして、再度走る。
今度は3周ほどして再び戻った。
「これでコーナー問題は解決?」
「いや、サスペンションは悪くないと思う。けど後はパワーが入ってる時の反応だ」
「パワーが入ってる時?」
「コーナーの中で前のトラクションのかかりのバランスが悪い感じがする」
「ならあとはLSDで試してみたら」
海斗はLSDの部品を眺める。
1Way、2Way、1.5Way。
「車によって選びようは違うけど」
「そうなのか?」
「うん。例えば後輪駆動や私の車なんかはアクセルのオンとオフで滑り始めてからもちゃんとパワーが掛かるように2Wayにしてる。ただ九太のは前輪駆動だからね。前ばかり力が入ったままではアンダーばかりが強くなるだけだし。おススメは1Wayね」
海斗はまず1WayのLSDで走った。
2、3周してからピットに戻る。
「どう?」
海斗は頭を傾げる。
「曲がってる時の感覚がイマイチ。コーナーリング中のトルクが細い感じ」
「じゃぁ、1.5Wayとか?」
「いや、2Wayにしてみる」
LSDを2Wayにセットしてもう一度走る。
第一コーナーから一気に減速し切り込んでいく。
「あれ?」
海斗は1周で戻ると首を横に振った。
「1.5にする」
LSDのセットを変える。
2周してからまたピットに戻った。
「まだ変だ」
海斗は一度車を降りた。
1週間してセリカにフルカスタマイズのLSDとトランスミッションが詰まれた。
カズがコントローラーを見せる。
「こっちで加速、こっちがオフだ。自分で弄ってやれ」
海斗は暫く走りながら戻り、を続けてLSDやサスペンション、トランスミッションの調節を続けた。
「2速以上からの落ち込みがある。3速からファイナルを半分以下まで切り捨ててクロスさせる」
こまめにセッティングを変え、また頭を抱えつつ考えて入力しセットし、走る。
それを毎日に続けた。
「いいね。日に日に走りが磨かれてる感じ」
「へへっ、まぁなー」
海斗は車をガレージに入れるとちょこちょこと前にしゃがんで車をまじまじと見た。
「こう見てると、ただのフツーのデートカーなんだけどなぁ。中身は別物・・・いわゆってこれを・・・猫を被ったなんちゃら?」
「それを言うなら、羊の皮を被ったオオカミ、でしょ」
「あーそうそう。それか」
「おーい、鈴・・・」
奥からカズの声が掛かった。
「ま、出来るとこはそれくらいまでだから。あとはあんたが頑張れるだけ頑張りなさい」
そういうとその場を離れようとした。
「なぁ鈴」
鈴が振り返る。
「お前のは・・・GT-Rはどこまでいくんだ?いけるとこまでもっと行くのか?」
鈴は笑みを浮かべた。
「私は狙うだけただ狙うだけよ」
そう言い残すとカズの方へ向かった。
海斗はもう一度セリカを見る。
もとはと言えば、セリカをここまで仕上がったのは海斗一人じゃない、カズだけでもなく、鈴が海斗にヒントや答えを与えたからだ。
そう考えると、鈴は海斗のまたさらに先を行っている。
鈴も、そしてそのGT-Rも。
そう思うと、心なしか劣等感のようなものがこみあげてくる。
あとは簡単なファインチューニング、マフラーやエキマニ、吸気系のチューニングくらいだろう。
エアロやスポイラー形状を変更して組み込み、空力を上げることもできる。
だがそれ以上に根本からもっと出来ることは無いのか。
海斗はまたその時、セリカの前から離れなかった。
翌日、鈴は朝起きてガレージ前に来ると、海斗はセリカのエンジンをまた分解していた。
「・・・ちょっと。何してるの?もう中身は十分でしょうが。これ以上何やってるの」
「いや、その・・・」
傍を見ると海斗はドリルに丸型の研磨のヤスリを付けてエンジンにこすり付けていた。
「何それ」
「いや、なんていうかエンジンでもっと引き出せる所が無いかな~って思って」
「それだけで?」
「いや。それで考えたんだ」
海斗はエンジンのそれぞれの部位を指した。
「例えば、ポートとか。燃焼したガスの通り道ってなめらかな方が良いだろ?だから周りを少しでも綺麗にすればフィーリングも良くなるかなって。それからもちろんここの燃焼室の所とシリンダーのヘッドも磨いて圧縮を上げる、もちろんただ圧縮を上げれば燃料の燃焼も怪しくなる。だから燃焼室の回りを削っていくんだ」
海斗は暫くエンジンを指しながら話していたが鈴の不振そうな目線に気づく。
「なんだよ。・・・俺なんか間違ってるか?」
鈴は暫く黙っていたが。
「・・・ま、いいんじゃない。どうせ何か起きてもあんたのせいなんだし」
「はぁ?なんだよそれ・・・」
「朝食出来るから後にしたら」
「んー・・・もうちょっと」
そういうと海斗はまた作業を続けた。
おかしい、と鈴は感じた。
ポートやシリンダー研磨も確かにチューニングの一つの過程だ。
でも海斗にはその事を伝えた事さえない。
なのに言う前に海斗は取りかかり始めた。
なぜあんなことが・・・。
家に入り際にもう一度海斗を見る。
相変わらず海斗は、もうちょっと、とも捉えられないほどの眼差しで作業を続けている。
まぁいっか。
それからさらに1週間して海斗のセリカは仕上がった。
吸排気とエアロにGTウィングを奢られたセリカは最初の面影を残しながらも全く違う雰囲気を醸し出していた。
翌日から海斗はまたコースをセリカで乗り始めた。
ピット脇ではカズがそれを眺めていたが、後ろから鈴が近づいた。
「どうだ調子は」
カズが訊く。
「良いよ」
鈴が答えた。
カズはまたコースを見る。
「あいつは・・・最近よく分からなくなってくる」
カズが言った。
「私も」
鈴が答える。
「前までなら分かってたんだ。あいつの事も。俺が考えている常識の中と、限界の内だった。所詮こいつならここまでいけて良い方だろうって感じでな。でも最近はよく分からなくなってきた」
1周した海斗が戻ってきた。
タイム塔を見る。
「・・・ま、でもまだまだ、って感じね」
鈴が言った。
カズが笑った。
「分からねぇぞ?アイツの事だ、もしかしたらいずれ・・・なんてな」
「そんな時が来たら、正々堂々受けて立ってやる。そして、ぶっちぎりよ」
鈴はピット脇から離れると自分の車に近づいた。
そう・・・いずれ、そんな時は・・・。
世間は中学3年。
ある意味中学の青春のピークの一つだったかもしれないが、中学3年までなると周りは本格的に受験モードへと切り替わる。
高校には誰しもが受験するものだ。
この頃になると少なからず同級生などの間でも恋愛が始まったりすると同時にクラブなどへの力入れも強くなる。
だが、受験も重要である一つである。
中には高校受験を行わない人もいるらしいが、彼らは地元や地方などの別なところで跡継ぎとなったり、あるいは中卒での仕事を始めたりなど計り知れない。
多くは高校に入学するとそれまでの限られていた決まりや縛りから解き放たれ、自分の考えと新たな仲間と共に新しい学生生活が始まる。
だが、海斗別だった。
関東大会、ツインリンクもてぎで行われるレーシングカートレースで海斗は優勝した。
表彰台下からカズが見上げていた。
「九太、お前いくつになった」
海斗はカップを胸に抱えると、最初に両手を広げてから一旦閉じ、片方を広げてからもう片方は2本の指を立てた。
「そうか。じゃぁお前は今から十七太だ」
「九太で結構だ」